教えてもらった「ありがとう」。


 “声”が聞こえた。
 聞こえないはずの“声”だった。
 人に聞くと、「聞こえない」と誰もが口をそろえて言うのが聞こえた。
 それは“聞いてはいけない声”だった。
 だから彼も言った。
 「聞こえない」と。
 しかしそれは聞こえている証拠だった。
 聞こえない“声”は、そもそも「聞こえない」と認識することもないはずだからだ。
 だから“それ”は彼には聞こえていた。
 “何か”が見えた。
 見えないはずの“何か”だった。
 人に聞くと、「見ない」と誰もが口をそろえて眉を顰めるのが見えた。
 それは“見てはいけないもの”だった。
 だから彼も首を振った。
 「見えない」と。
 しかしそれは見えている証拠だった。
 見えない“もの”は、そもそも「見えない」と認識することもないはずだからだ。
 だから“それ”は彼には見えていた。
 “それら”が本当に存在するとすれば、それは彼の頭の中以外にはない。
 彼は自分の中にいる“何か”に向って、「お前なんて見えてないし、声も聞こえないんだぜ」と言った。
 存在しないはずの“何か”は日に日に大きくなっていった。
 そして、彼の内側にも外側にも、存在するのは誰にも認識されない“何か”だけになった。
 その“何か”は彼を侵食し、やがて彼は完全に“何か”に飲み込まれた。
 もう「自分」が分からない――。

 彼は悲鳴を上げながら眼を覚まし、飛び起きた。
 カチカチと、硬いもの同士がぶつかり合うような音が聞こえた。その音は、実在する音だ。彼の口の中から聞こえている。歯の根が合わずに、そんな音を立てていた。
 彼は震えていた。口許だけではない。全身が震えていた。自分の肩を押さえ込もうとした指先もまた、彼の意思を無視して振動している。とまらない。
(これは……禁断症状? 馬鹿な……。オレはもう……)
 原因不明の震えは、恐怖と手を取り合ってより大きく彼の身体を揺さぶった。
 再び悲鳴を上げようとした咽喉でさえ、ぎくんぎくんと痙攣していた。息が出来ない。
「ア……ッ……!!」
「チップ!」
 発狂する寸前で、声をかけられた。実在する声だった。
「しっかりしろ。落ち着いて、息しろ」
 その声は何度も「落ち着け」と繰り返した。その声に合わせて肩を上下させていると、彼は次第に呼吸を取り戻していた。
「っ……は……。はぁ……。は……」
「チップ、大丈夫か?」
「…………あんじ?」
 彼はようやくそこにいる人物が誰なのかを認識した。彼が少しの落ち着きを取り戻したのを見て、闇慈は微笑んでみせた。
 辺りを見廻すと、そこは見たこともない部屋だった。一瞬恐怖が戻ってくるように思えたが、彼の肩を抑えた闇慈の手がそれを阻止してくれた。
 装飾品の類のない、質素な部屋だった。その部屋の壁際に置かれたベッドに、彼は寝かされていたらしい。反対側のドアが開け放たれている。どうやら闇慈はそこから入ってきたようだ。ドアを閉める間もなく彼の異変に気付き、駆け寄ってきたのだろう。
「どこだ……ここ……」
「覚えてないのか?」
 闇慈の問いに、チップの心臓は再び鼓動を早めた。覚えていない。なぜこんな場所にいるのか……。ここがどこなのかさえ知らない。記憶がない。記憶が正常ではない。
(オレは……異常? コワレテイル……?)
 闇慈はチップから一旦離れ、ドアを閉めてから戻ってきた。ベッドのわきに置かれた小さな机の上から水が入った容器を取ると、「飲むか?」と尋ねてチップに渡した。チップがそれに口を付けずにいると、溜め息を吐くような仕草をした。かと思うと、動揺を消しきれずにいるチップの頭に、押さえるように手をやった。「いきなりなにを――」と思う間もなく、闇慈は顔を近付けてくる。
「!?」
 思わず瞑った目蓋の向こうで、闇慈の気配がより一層接近する。いや、これは接近なんてものではない。接触だ。実際に、闇慈はチップの銀色の前髪を手でかき上げ、そこに自分の額を触れさせていた。
 チップは眼から入ってくる情報と一緒に、酸素の供給まで遮断していたらしい。闇慈が離れた時には、息苦しくなっていた。
「ふむ」
 闇慈は納得したように頷いた。
「なっ……なん……、なにす……っ!?」
 慌てて押さえた額は、熱かった。
「お前さん、対戦中にいきなりぶっ倒れたんだぜ」
「た、倒れた?」
 鸚鵡返しに言うと、闇慈は「そう」と答えた。
「すごい熱だったんだぞ。意識も戻らないし。仕方なくここへ運んだって訳だ」
 闇慈は「有り難く思え」と言ってチップの顔を指差した。
「ここって……」
「近くにあったボロ宿」
「熱……?」
「まだ下がりきってはいない。無理はしない方がいいぜ」
 息を吐きながら額を拭うと、汗で拳がぬるついた。それを熱さからくるものだと思ったのか、闇慈は1つしかない小さな窓を開け放った。
「どうせまた滝に打たれるとか無茶したんだろ。そりゃあ風邪だって引くよな」
 チップからは、闇慈の背中しか見えなかった。闇慈は窓から身を乗り出し、外の様子を窺っているようだ。鍛え上げられた日に焼けた背中は、振り向きもせずに言った。
「あれだけ熱があれば、おかしな夢だって見る」
「夢……?」
 そうだ。夢を見ていた。先程の悲鳴を、おそらく闇慈も聞いたのだろう。それで『夢を見た』などと……。だがあれはただの夢ではなかった。実在しないものではない。少なくとも、過去には確かに存在した、現実だ。すでに断ち切れたと思っていた過去。救われたと思っていた今でも、完全に消してしまうことは出来ない。
 チップは自分の拳に視線を落としながら、長く息を吐いた。もうその手は震えてはいない。だが、またいつ制御を失うかと思うと怖かった。
(師匠……、オレは……)
 まだ捕らわれたままなのだろうか。あの忌まわしき過去に……。
「さて、と……」
 闇慈が両腕を上げて伸びをしていた。その声は、少々不自然に大きかった。
「なんか食うか? 腹減ってるか?」
 闇慈は肩越しに振り返ったようだが、長い袖がちょうど顔の横でそれを隠していた。表情は見えない。
「……いや……。今はいい」
「そうか。もう少し寝てるか?」
「ああ……」
 正確に言えば、なにもしたくなかった。なにも……。だが呼吸までやめてしまえば死んでしまう。それに一番近いのは、やはり眠ることだろう。もっとも、ゆっくり眠れる気は微塵もしなかったが。生憎、睡眠薬の類は今は持ち合わせていない。
「了解。じゃあ、オレは隣の部屋にいるからな。なにかあったら呼べよ」
 どうやら闇慈もこの宿に部屋を取っているらしい。緊急事態でも起こらなければ、おそらく絶対に立ち寄ることもなさそうな粗末なこの宿に。なぜそんなことをするのか。まさかまだ動けない自分のために……?
 顔を上げようとすると、髪に大きな手が触れてきた。ほほ同時に、額にこつりとなにかが触れる。先程熱を測られた――らしい――体勢と全く同じだ。違うのは、前髪が降ろされたままなことくらいか。閉ざされた瞼を縁取る黒い睫が見えた。
「大丈夫」
 それはかつて、チップがこの世界で一番尊敬する男、今は亡き師匠にかけられたのと同じ言葉だった。
「ちゃんと治るまで診ててやるよ。まだ対戦も途中だしな」
 子供をあやすように、ぽんぽんと背中を叩かれた。触れられた額が熱かった。まだ残っている熱の所為だろうか。
 音もなく離れた闇慈は、ドアの前まで行くと、もう1度「なにかあったら呼べ」と言った。
「あ、闇慈っ!」
「ん?」
 振り向いた顔で、メガネのレンズがきらりと光った。開けたままの窓から日光が入ってきている。朝陽なのか夕陽なのか、眠っていた時間の自覚がないチップには分からなかった。
「どうした?」
 闇慈は首を傾げた。
「その……、悪かったな。……めーわくかけて……」
 なぜか視線を合わせることが出来ないまま、チップは小さな声で言った。ふっと笑うような闇慈の息が聞こえた。
「『ありがとう』」
「?」
「もう教えた言葉だったと思ったけどな。感謝の言葉は、日本語では『ありがとう』だ」
「あ……」
 彼は思い出した。闇慈に、また日本語を教えてくれとしつこく迫っていたことを。それに対して闇慈は、「オレと勝負してお前さんが勝ったら教えてやるよ」と応じたのだった。
(でもあの時、なんでか足がふらふらして……)
 すでに熱を出していたのだろう。そして倒れた。
 熱に浮かされ、一時的に忘れていただけで、彼の記憶は正常に機能していた。「しっかりしろ」と呼びかける闇慈の声まで、はっきりと思い出していた。
「あ……、ありが、とう…………」
 少し照れ臭く思いながら、改めて教わったばかりの言葉を口にしてみた。闇慈は「よし」と頷いて笑った。


2013,04,21


闇チっていいと思う!
チップはあの変な言葉遣いの所為で面白キャラのように見てしまうことがあるのですが、
よく考えると実は過去が結構アレですよね。
なんでもないように振舞ってるけど、最初の頃は色々大変だったんだろうなぁと思います。
そして以前は師匠が、今は戦友たちが支えになってあげてるといいなぁ。
<利鳴>

【戻】


inserted by FC2 system