曇りのち雨、ところにより...


 空から降ってきた水滴に皮膚を濡らされ、ソルは足をとめた。頭上に眼を向ければ、どんよりと暗い雲が空を完全に隠している。音もなく、雫が1粒、また1粒と落ちてきた。雨。地上に視線を戻せば、今更のように人の姿がほとんどないことに気付く。皆、早々と雨を避けて屋根の下へ避難しているのだろうか。それとも、人々が避けたのは肌に纏わり付く夏の暑さか……。それらを回避するための住居どころか、小雨を防ぐ傘さえ持たないソルは、周囲に人がいないのを良いことに――もっとも、彼は元より他人に気を使うような人物ではないが――、半ば声を出すように長い溜め息を吐いた。
(鬱陶しい……)
 どうせならもっと、嵐と呼べるくらいの激しい雨になれば良いのに。そうすれば、少しは暑さを誤魔化せるかも知れない。だが少しずつ地面の色を変えていく水滴は、その大きさも勢いも増すことなく、かといってやむこともなく、誰もいない通りを濡らしてゆく。
(……鬱陶しい……)
 そう思ってみても言ってみても、事態は何も変わらない。そんなことは百も承知の上で、ソルは溜め息を繰り返す。それは、微かな雨音さえもかき消した。
 こんなところで立ち止まっていても、それこそどうにもならない。もう行こう。そう言えばつい先程まで、何等かの理由で急いでいたような気がする。おかしい。明確な目的地はないはずなのだが……。
 足を動かしかけた時、何かを思い出しそうになった――気がした――。何故急いでいた? そもそもこの場所は……?
「ソルっ!」
 聞き慣れた声に、ソルの思考は遮られた。だがもう考える必要はなかった。今のが『答え』だ。
 ソルは舌を鳴らしながら、その姿を探す。声は雨と同じく上空から降ってきた。彼の後方にある建物に掲げられた組織のシンボルと、開け放たれたままの2階の窓に気付いた時には、すでにその中に人影はなかった。
 走り去るか否か、ソルは一瞬迷った。数秒後には先程の声の主が国際警察機構のシンボルを掲げた建物の出入り口から飛び出てきて、こう言うのだ。「今日こそ私と真剣に勝負しろ!」と。そうしてやる気は、元よりない。それはいつものことだ。だが、いつものように適当に相手をしてやる気も、今日は起きなかった。纏わり付く雨と気温が不快だ。とてもそんな気分にはなれない。だがそれを言ったら、同様の理由から走って逃げることさえ億劫だ。そして、戦う気になれない理由はもう1つあった。この天候だ。ソルが使用している封炎剣は、この程度の雨で無力化されることはない。多少は炎の勢いが落ちることはあるかも知れないが、元より『真剣な勝負』をするつもりはないのだから、問題視する必要はないことだ。それよりも、はっきりと雨天の影響を受けると思われるのは、あちらの――カイの――封雷剣だ。水は電気を通す。そんなことは説明するまでもなく多くの人間が知っている。この雨では、カイの操る雷がどこへその威力を飛散させるか分からない。本人が法衣でその身を守っていても、正義の名の下に戦う彼は、周囲へ被害が及ぶかも知れないことを良しとはしないだろう。他の法力も確か難なく使いこなしてみせる上に、剣術にも長けた男ではあるが、どちらにせよ、封雷剣の力は出し切れないと言ってしまって良いだろう。即ち、カイは100%の力を使えない。そんなカイを相手に戦うのは、酷く面倒だ。手加減するのも簡単ではない。わざと負けてやるのも、相手の力が通常以下とあっては色々と面倒臭い。
 そんなことを考えていた時間は、ほんの数秒だ。だがそのわずかな逡巡の間に、直接その姿を見たわけではないがおそらく2階の窓から自分を見付けたのであろうと思われる人物、カイ=キスクは、通へと姿を現した。職務の最中だったのだろう――職場から出てきたのだから当然と言えば当然かも知れないが――、聖騎士団の制服のまま飛び出してきた彼は、躊躇うことなく雨の中に足を踏み出した。
(仕事サボってんじゃねーよ税金ドロボーめ。ったく、めんどくせぇ……)
 異常気象ではないかと思える程のこの地域にしては珍しい高温及びじわじわと身体を湿らせていく雨と、今現れた男、どちらがより鬱陶しいだろうかと問われれば、ソルは後者だと答えていただろう。今から走る気になれず、カイの責任感の強い性格を利用して早く仕事に戻れとだけ繰り返し、なんとか追い払おうと決めて、せめてもの抵抗のように、ソルは雨に滲む景色へと眼を向けた。背中を見せ、お前なんか視界に入れてすらいないぞと態度で示す。
 濡れた足音が近付いてくる。小走りなその音がやむのとほぼ同時に、頭上でぱらぱらと雨が鳴った。しかし、やはり同時に、皮膚にあたる雫が消えていた。首から上だけで振り向くと、金髪の青年がすぐ眼の前にいた。思った通りの人物。だが、彼が手にしているのは天候によりその最大の特性を封じられた封雷剣ではなく、広げられた傘だった。視線を上げると、空を隠す雨雲が、更に隠されていた。その向こうで、水滴が弾けて先程よりも少し強くなったらしい雨の音を響かせている。
「傘も差さずに何をしているんだ」
 いつもの説教染みた口調。だが、その内容はソルが想像したものとは随分違っていた。
 ソルが何も言わないのが不満だったのだろうか。カイは整った顔を歪ませた。
「何を見ている」
 『お前こそ』と言ってやろうとしてやめた。蒼い眼は間違いなくソルの姿を映してはいたが。
「どういう風の吹き廻しだ?」
 おそらくカイが思っているであろう『自分らしいセリフ』を吐きながら、口許を歪めてみせた。
「いくらお前でも、雨にあたっていれば風邪を引くかも知れないだろう」
 「風邪? さあ、引くかねぇ?」と思ったが、黙って先を言わせてやることにした。
「本調子ではないお前と戦っても、なんの意味もない」
 カイの眼は真剣だった。相手に本気を出してもらえないのと、本気を出せない相手。そこにそれ程の違いがあるようには思えなかったが、ソルは肩をすくめるだけにとどめた。
 カイは傘を1本しか持っていなかった。1本の傘に、男2人が入るのは狭い。その片方がいくら細いからと言っても、もう片方はその分を帳消しに出来る程のガタイの持ち主だ。加えて、カイの手は彼1人で雨を凌ぐ時よりも幾分高い位置でそれを持っている。その所為で出来た隙間に降り込む雨で、白い制服の肩は濡れ始めていた。
「さっさと戻んな。てめーと遊んでる気分じゃねぇ」
 カイはむっとした表情で、しかし「そのつもりだ」と答えた。
「生憎、私も仕事中だ。それにこの雨では……」
 大人しく諦めてくれるなら、雨も悪くない。ソルはそう思った。しかしそうなると、カイはわざわざ傘を差し出すためだけに外に出てきたことになる。窓の外に偶々ソルの姿を見付けたからという理由で、仕事を中断してまで。「風邪を引くかも知れないから」と言っていた。勝ちたいと思っている相手の体調をそこまで本気で気にするなんて、お人好しを通り越して馬鹿なんじゃないだろうかと思い、それをそのまま口に出して言ってみた。
「馬鹿かお前」
 抗議される前に軽く片手を上げ、「じゃあな」と言って立ち去ろうとした。
「待て!」
 やはり気が変わって勝負しろとでも言うのかと思ったが、突きつけられたのは剣ではなく、傘の柄だった。
「そのセリフ、そのまま返させてもらうぞ。雨が降っていると言っているだろう!」
「その雨の中を、坊やは傘なしでどうやって帰るって言うんだ?」
「すぐそこだ。走れば濡れない」
 傘をソルに押し付けている所為で、すでにその金色の髪にまで水滴が付着しているというのに。自分の言葉のおかしな点には気付いていないようだ。
「いらねー」
「駄目だ」
「お前が差して帰んな」
「駄目だ」
「そんな嵩張るもん、持って歩けるかよ」
「誰が駄洒落を言えと言ったッ」
「言ってねーよ! 邪魔だっつってんだよ!」
「それなら封炎剣を返せ! そっちの方がよっぽど重いだろうが!!」
 もちろんソルにそんなことをするつもりはないと分かった上で言っているのだろう。カイは、押し付けた傘を引くつもりはないようだ。
「……ちっ」
 舌打ちをして傘を引っ手繰るように受け取ると、カイは満足そうに頷いた。
「使い終わったら捨てるからな」
「駄目だ。ちゃんと返しに来い」
「あァッ!?」
「スペアの傘が1本しかないんだ。だからそれはちゃんと返してもらうぞ。くれぐれも壊さないように」
 じゃあやっぱり要らない。ソルがそう言うよりも早く、カイは長い裾を翻して雨の中へ飛び込んで行ってしまった。「おい」と声を上げようとした時にはその姿はもうドアの向こうだ。数秒後に、頭上で窓を閉める音が聞こえた。見上げると、頭にタオルを被ったカイが、念を押すような眼でこちらを見ていた。形の良い唇が、「こ・わ・さ・な・い・よ・う・に」と動いた。
「クソガキが」
 聞こえないと分かっていながらも吐き捨てるように言って、ソルは歩き出した。こんなことになるなら、街を抜けるのに簡単だからという理由でこの道を通るんじゃあなかった。少々面倒でも、他の道を選べば良かった。そうでないなら、最初に思っていた通りに、足早に通り過ぎてしまうべきだった。「煩いのが出るかも知れないから」、そう思っていたことを、たった1粒の雨の所為で忘れてしまったのは不覚だった。そんな後悔の数々を、傘さえなければ雨が全て流し去ってくれたのだろうか。
「ったく……めんどくせぇ……」
 吐いた溜め息は、傘の中で小さな乱気流となって消えた。


2013,07,28


髪の毛がぐるんぐるんになるので雨は嫌いです。
が、相合傘ネタは好きです!
<利鳴>

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