君がくれたページ


 中途半端な時間の所為か、ホテルのラウンジにいる客はまばらで、こげ茶色のテーブルには空席の方が多かった。そんな状況にも関わらず眼の前の椅子に座った男が誰なのか――そんな無作法なことをする人物の見当は最初から付いているとでも言うように――、顔を上げて確かめてみることもせず、クラピカは視線を手元の本に向けたままだ。彼の前に置かれたカップからは既に湯気が消えているようだが、中の液体はその大半が残っている。
「何読んでるんだ?」
 もう少しくらいなにかリアクションをしてくれてもいいじゃないかと思いながら、レオリオは尋ねた。するとクラピカは「仕方がないな」と言うように、しかし実際には無言で、本の背表紙に書かれているタイトルを見せてきた。どうせ凡人には理解し難いやたらと難しい本でも読んでいるのだろうと思ったレオリオは、予想外に見覚えのある文字の並びを眼にしていた。
「あ。それ、オレも読んだことあるぜ!」
 そう言うと、クラピカはようやく興味を示したように、視線を上げた。
「それ、主人公のセリフが良いんだよな! 特にラストの! ほら、敵と一緒に火山の火口に飛び込ん……」
 一気に喋ってから、その本の開かれているページがまだ序盤の位置であることに気が付いた。しまったと口を噤むと、しかしクラピカはくすくすと笑っている。
「大丈夫。初めて読む本ではないよ」
 ようやく口を開いた彼の声は、午後の陽射しによく似合う、穏やかな響きを持っていた。
「そ、そうか。良かった」
 レオリオはふうと息を吐いて、オーダーを取りに来たウエイターに「コーヒー」と告げた。
「でもなんか意外だな」
 再び本に視線を落としかけたクラピカは「何がだ」と尋ねながら首を斜めにした。金色の髪がさらりと揺れる。
「いや、お前が読む本ってもっと小難しくてそれでいて実用性のあるものばっかりなのかと」
「フィクションだろうがエンターテイメントだろうが、学べるものは存在するよ」
 レオリオのコーヒーが運ばれてきたのにタイミングを合わせたように、クラピカは自分のカップを口許へ運んだ。
 レオリオは、カップにかかるクラピカの白い指から、テーブルの上に伏せられた本へと視線を移した。改めて見ると、何度も読み返されていることを証明するように、それのページはだいぶ傷んでいるようだ。表紙の色も随分と褪せている。相当年季が入っているように見えた。もしかしたら子供の頃から――つまり、彼の同胞が虐殺される以前から――所有している物なのだろうか。その思い付きを、レオリオは口にはせずに、胸の中にしまっておくことにした。
 そんな短い会話をした小一時間後、レオリオはホテルの近くにある本屋へと足を運んでいた。はっきりと何をするつもりなのか決めていたわけではない。ちょっとした暇潰しのようなものだ。それでも気が付くと『その本』を探して本棚の間を移動していた。
 目的の物は、他の本に混ざってひっそりとそこに存在していた。どうやら改装版が出ていたらしく、自分が知っている外観とは違っていたために見付けるのに少々時間がかかった。久しぶりに会った友人が、すっかり成長して大人になっていた。そんな気分だった。少し迷ったあと、棚から2冊引き抜いてレジへと持って行った。
 本屋を出ると、レオリオはホテルに戻り、自分の部屋によってからクラピカの部屋を訪ねた。廊下に立ったまま「この本」と言って先程の本を見せる。2冊購入した内の1冊は今し方自分の部屋に置いてきた。今彼が手にしているのは、もう1冊の方だ。クラピカは「それが?」と首を傾げた。
「お前にやるよ」
 人に贈るつもりなら、簡単な包装くらいしてもらうべきだっただろうか。そんなレオリオの心境とは無関係に、クラピカは怪訝そうな顔をした。
「その本なら、もう持っている」
 何故知っているはずのことをわざわざ言わされなければならないのか。そんなことを言うように、クラピカは眉を顰めた。もちろん、レオリオは知っている。
「でも、もうだいぶ古くなってるみたいだっただろ」
 「だから」と言って本を差し出す。しかしクラピカはそれを受け取ろうとはしなかった。彼の手は、片方が身体の横に、もう片方が、まるでいつでも不愉快な訪問者を追い出せるようにと言うかの如く、ドアノブに固定されたままだ。
「『だから』? そんなぼろぼろになった物は処分してしまえと、そう言いたいのか?」
 クラピカの表情には、怒りの色が現れ始めていた。
「この本は、私にとってただの本じゃない」
「だろうと思ったさ。だからあんなにぼろぼろになるまで持ち歩いて何度も読み返してるんだろ」
 レオリオは頷くように言った。
「でも流石にもう限界が近いって感じだっただろ。それ以上使ってたら破れちまいかねない。だから」
 改めて買ってきたばかりの本を差し出した。
「読む時はこっちを使えよ。そっちは大事に持っていればいいだろ」
 クラピカは密な睫に縁取られた眼を大きく開いていた。その表情を一言で表すなら、「驚き」に類する以外の言葉はない。
「ほら」
 押し付けるように本を渡すと、クラピカはゆっくりと両手を動かした。彼の手が離れたドアが自然と閉まりそうになり、彼に代わってレオリオが片手でそれを押さえた。
 おずおずと差し出された手に本の重みが移ったのを確かめてから、レオリオは手を離した。見開かれたクラピカの眼は、本の表紙に釘付けになったように動かない。
 リアクションは薄いが、とにかく受け取ってはもらえたようなのだから、そろそろ立ち去ろうか。そう思って踵を返しかけたレオリオの耳に、ふっと息を吐く音が届いた。視線を戻すと、クラピカはわずかに微笑んでいた。
「この本は……」
 クラピカはレオリオが渡した本を、自分の胸に押し当てるように両手で持っていた。
「故郷から持ち出せた唯一の本なんだ」
 クラピカは過去を懐かしむように、静かに両眼を閉じた。それを邪魔することは酷く躊躇われ、レオリオは黙って彼の姿を見詰めていた。
「父の書斎にはたくさんの本があって、いつかそれを全て読むのが幼い頃の私の夢だった」
 辛い――どうしたって苦しい――過去を思い出させてしまったのかと、レオリオは内心焦っていた。だが、開かれた瞳から、微笑みは消えていなかった。
「……ありがとう」
 クラピカはそう告げた。彼が言いそうな他の言葉――例えば「礼を言う」「感謝する」あるいは「すまない」など――ではなく、単純で素直な「ありがとう」というセリフを口にしたのは、彼が幼い頃へと記憶を遡っているためであろうか。いつもより少々子供っぽく見える顔を眺めていると、レオリオの視線に気が付いてその頬がぱっとわずかに赤らんだ。からかってやろうかとも思ったが、今見たものを記憶の1ページに留めておくために、余計なことは言わないでおくことにした。ドアを押さえていた手を軽く上げて、「じゃあな」と告げ、今度こそ踵を返す。ドアが閉まる直前に聞こえたのは、いつもの少し生意気そうなクラピカの声だった。
「……ったく……。もう1冊買ってこなければいけなくなったではないか」
 レオリオが振り向いた時にはもうドアは閉まり、自分以外には誰もいない廊下は静寂に支配されていた。
「もう1冊……?」
 「観賞用と保存用と布教用」そんな言葉を思い浮かべながら、しかしどうもしっくりこないなと首を傾げて、レオリオは自分の部屋へと戻って行った。


2012,09,06


思い出アイテムって残しておくとキリがないんですけどもね。
わたしは結構なんでもかんでも捨てられずに残してしまうタイプです。
大好きな人から貰ったちょっと可愛いお菓子のパッケージとかは何かの入れ物にするわけでもないのに捨てられない!
<利鳴>

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