Perfume of...


 何に反応したのか、最初は自分でも分からなかった。分からぬまま、そして気付かぬままに歩みをとめ、振り返って視線を後方へと向けていた。その眼が探していたのは何だったのだろうか。ふわりと髪を靡かせた風の中に、彼はその答えを見付けた。
「クラピカ、どうした」
 背後――元は進行方向――から聞こえた名を呼ぶ声にはっとし、我に返るのに要した時間は長くはなかったはずだ。振り向いた先で、バショウとセンリツが訝しげな顔をしている。今は仕事の最中であったことを思い出し、クラピカは慌てて2人に追い付いた。
「どうかしたのか」
「すまない。なんでもない」
 「それならいいが」と歩みを再開したバショウの視線よりも、センリツのそれはもう少し長くクラピカに向けられていたようだ。おそらく、一瞬にして速度を上げた心音は、彼女にも聞かれてしまったことだろう。それでも彼女は何も尋ねてこなかった。まさか聞くまでもなくその原因――クラピカが思わず足をとめてしまった理由――まで分かっているとでも言うのだろうか。
 2人の後ろを歩きながら、クラピカは再度背後の景色を窺い見た。そこにあるのはごく普通の風景だけだ。行き交う人の顔と背中。見慣れたものばかりだが、見知ったものは1つもない。記憶のスイッチを押すように『それ』を運んできた風も、すでにやんでいた。
(……偶然だ)
 そう、たまたま『同じもの』が近くを通った。それだけだ。『そのもの』ではない。それでも――
(同じ……匂い……)
 香水の匂いだった。

 「数キロメートルくらい先にいても分かるよね」。オーデコロンの匂いに対して、そんなことを言った少年がいた。そして彼はそれが事実であることを示すように、その匂いを辿ってみせた。そんな芸当が出来るのは訓練された犬か、そう言った張本人くらいだろうという意見は今も変わらないが、確かに他で嗅いだことのない変わった匂いだったと記憶している。だが、――おそらく正規のルートで一般に流通している――ごく普通の香水でしかないはずだ。はっきりと自覚出来るほどの体温の上昇、心拍数の増加をもたらすような作用があるのはおかしい。さらに――本人にとっては――おかしなことに、クラピカは希少ともいえる休みをつぶして、香水の販売店に足を運んでいた。普段は意識していないが――いや、意識していないからこそ、だろうか――、人の記憶と嗅覚は、思っていた以上に繋がりが強いらしい。街中で一瞬すれ違っただけの匂いは、いい加減で皮肉屋に見せてその実人一倍人情家な青年の姿を数日間に渡ってクラピカの脳裏に留めて離さなかった。
(……迷惑だ)
 何度となくそう呟きながら、ではなぜこんな店に来ているのかと――誰かに――問われれば、返答に困って口を噤むしかない。彼自身、自分の行動を理解し切れていないのだ。今分かるのは、先日街ですれ違った、そしてあの男が着けていたのと同じ香水を探しているということ、それだけだった。
 その香水の名称は分からない。どのようなパッケージなのかも全く知らない。自分が嗅いだ匂いを他人に説明するのも難しく、また、そこまで必死になって探したいのかと思われるのもなんだか癪だ。結局1つ1つサンプルの容器に鼻を近付けていくしかそれを探す術はなく、クラピカはすでにいくつもの商品を試していた。その個数が増えていくにつれて、段々嗅覚が麻痺してきている気がする。これでは目的のものがあったとしても、気付かず通り過ぎてしまうのではないだろうか。そもそもこの店にあるのかも決まっていないのだ。意外とあれが手作りの品だったりしたら、こんな苦労は何の意味もない。
(手作り? 誰が? あの男が?)
 あるいは誰かからの贈り物だろうか。手作りの香水を男に贈るとしたら、その人物の性別はどちらだろう。いや待て。一般で売られていないものなら、先日同じ匂いとすれ違ったことの説明が付かない。すれ違った人物が贈り主か、実は本人だったというのなら別だが。
(段々馬鹿馬鹿しくなってきたな……)
 今嗅いだものと、さっき嗅いだものの違いが全く分からない。そもそもこの店全体に、すでに複数の香水の匂いが混ざって充満しているのだ。それすらも慣れてしまってきているが、おそらく今の自分は相当香水臭いだろう。帰ったらすぐに着替えた方がいいかも知れない。いや、髪にも匂いは付いているに違いない。着替えるだけでは駄目だ。「なんだその臭いは」と聞いてくる人間と遭遇してしまう前に、シャワーを浴びる必要がある。
(どうしてこんな面倒なことを……)
 何故こんなことをしているのだろうか。私は犬か。いや、犬にこの店内の臭いはきついだろう。いつの間にか匂いに集中することが難しくなり、そんなことばかりを考えていた。一体誰の所為で貴重な休みをこんなところでつぶしているのだろうか。元はと言えば……
(全部あいつが悪い!)
 その直後だった。頭の中に鮮やかすぎるほどにはっきりと、その顔が――笑顔が――浮かび上がった。手の中にある小瓶からは、温かい――匂いに温度があるはずはないのだが、何故かそう形容したくなった――香りが確かに感じられた。
「これか……」
 眼を閉じて再度吸い込んでみたその香りは、探していたものに間違いなかった。「気付かず過ぎてしまうのでは……」という心配は完全に杞憂に終わった。その証拠に、濃い色の付いたレンズの向こうで笑う男の顔がはっきりと思い浮かぶ。そして、街中でたまたま同じ匂いを嗅いだあの時と同じように――いや、それ以上に――、脈が早まっているのが分かる。自分のものではない体温がそこにあるかのように温かさを感じる。なんらかの作用がある、非合法な成分が含まれているのではないだろうかと半ば冗談に思った。
「お決まりですかぁ?」
 突然かけられた声に、クラピカはサンプルの容器を取り落としそうになった。つい先程まで浸っていた思い出の映像と現実がぐちゃぐちゃに混ざり合い、混乱し、いきなり声をかけるなと文句を言いそうになったが、ここが店で、相手が店員で、自分が一応客であるのだから、わざわざカウンターから出てきた若者を責めるのは筋違いだろう。
「お決まりですか?」
 店員は愛想のいい顔で再度尋ねてきた。片手でクラピカが持っている瓶を指している。
「あ……、その……」
 クラピカは思わずうろたえ、返答が遅れた。そもそも見付かるかも分からなかったものだ。購入するつもりも、しないつもりもないままだった。全てが未定。しかしあれだけ熱心に――少なくとも他人の眼にはそう見えたことだろう――探していたものをついに見付けた風なのに、誰が「あるならそれでいいんだ」と立ち去ると思うだろうか。店員は手を伸ばして陳列棚から該当の商品を取り上げた。それは、黒っぽいラベルが貼られた、細身の瓶だった。
「ちょっと変わった匂いでしょう? なかなか入荷しないんですよ。あ、もしかして、彼氏にプレゼントとかですかぁ?」
「は?」
 クラピカがしかめっ面をするよりも早く、店員は「お包みしますね」と微笑んで、彼に背を向ける位置にある机の上で勝手に作業を始めた。どうやら女に間違われたようだ。
(誰が……いやそれよりも、誰が彼氏だッ!?)
 クラピカの心境はさて置き、店員の眼には女が1人で男物の香水を探しているように見えたのであれば、プレゼント用だと思うのは普通のことかも知れない。
 それにしても、いつの間にか購入することに決まってしまったではないか。押しの強い店員だ。見方次第では営業熱心だと言えなくもないかも知れないが、これではいつか苦情がきてもおかしくない。
(……いつか?)
 つまり、『今』をその時にする――「勝手に話を進めるな。私はそんなものは買わない」と言う――つもりは、クラピカにはないようだ。タイミングを逃してしまった。それだけだろうか。
 数分後、彼は小さな紙袋を手に店を出た。その袋の中には、結局購入してしまった例の香水が入っている。プレゼント用に、蒼い袋に入れられて、黄色いリボンまでかけられている。
(どうしろというんだ、こんなもの……)
 もともと自分で使いたいと思って探したものではないのだ。探したくて、居ても立ってもいられなかった。だから探しただけだ。見付けられたらどうするのか、――普段は冷静に物事を考えるクラピカにしては珍しく――まだ考えていなかったのに……。
 おそらく、自分で使ってもこの香りは似合わないだろう。店員が他の可能性を一切排除してプレゼント用だと判断したのも、それが理由の1つかも知れない。誰かにやってしまうというのも考えたが、「なぜ」と問われた時の返答に困るのと、香水を使う趣味を持った人物が思い浮かばないことからこれも却下となった。それ以前に、この香りが似合いそうな人物が思い付かない。出会った時にすでにそれを纏っていたあの男、レオリオ以外には。クラピカの中で、その香りは完全に「レオリオの匂い」として記憶されてしまっているようだ。
(……本当に、迷惑だ)
 本人の代わりに香水の袋を睨み付け、クラピカは一先ず帰路に着いた。


2011,04,04


今更感ひしひしですが、最近ようやく録画していたアニメを見たので。
H×H小説書くのは中学生の時以来で、どう書いていいのかよく分かりませんでした。
でもまた書きたいと思っています。
レオリオ好き。クラピカ好き。ってかレオクラ好きー!
レオリオの香水ネタなんて探したら掃いて捨てる程ありそうだと思って、探さないでおくことにしました。
人がつけてる香水の匂いと容器から直接嗅いだ匂いは本当は違うはずなのですが、その辺は大目に見ていただけると幸いです。
香水にはまってみたいのですが、1本使い切るまでに結構時間がかかるなぁと思ったらなかなか2本目を買えません。
1本使い切るまでは他の匂いに浮気しちゃ駄目ってことですか?
<利鳴>

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