仗助&早人 全年齢


  1999年8月、


 セミが鳴いている。早人は初めてそのことに気付いた。本当は昨日も、そのもっと前も、夏を告げるその声は響いていたのかも知れない。が、早人がそれに気付いたのはこのタイミングが初めてだった。長い悪夢を見ているかのような日々の中で、彼は季節すら忘れてしまっていたようだ。逆に言うと、ようやく周囲の小さな変化に気付けるだけの余裕を持てるようになったということか。まだ、全てを受け入れたと言うには程遠い。それでも、彼の中にある時計は、ゆっくりと、確実に時を刻み出している。
 眩しい真夏の空を見上げながら、早人は「大丈夫」と声に出して呟いてみた。セミの大合唱にかき消されてしまう程度の小さな声でしかなかったが、言葉にして言うことで、それは力を持った“真実”になった。そんな気がした。
 早人は玄関を出た。その足取りは自分でも意外に思うほどに軽やかだった。
(トラック……、そろそろ来るはずなんだけど……)
 通りの向こうにその姿が見えはしないかと目を凝らしていると、全く予想していなかった声を後ろからかけられた。
「よう、早人」
 振り向くと、背の高い若者がそこにいた。逆光ですぐには顔を判別出来なかったが、それでも特徴的な髪型のシルエットがそれが誰であるのかを教えてくれていた。
「仗助さん!」
 早人が東方仗助と……いや、あの一件に関わった人物と会うのは、あれ以来、初めてのことだった。きっと、彼等なりに気を使って、会わずにいてくれたのだろう。同じ町に住んでいるとはいえ、年齢も離れている彼等は、本来なら――どこかですれ違う程度のことはあっても――知り合うことはなかったであろう相手だ。改めて、自分の住む環境を非日常が襲ったのだと実感した。
「こんにちは、仗助さん」
 頭を下げると、仗助は軽く手を上げた。あの時彼が負った傷は、もうだいぶ治ってきているようだ――少なくとも見える範囲に大きな傷痕はないようだ――。にも関わらず、彼の動作はなんだかぎこちなかった。ぎりぎりまで……、もしかしたらこの瞬間もまだ、早人に会うことを躊躇っているのかも知れない。言葉を探すように、彼の視線が動いた。
「……引っ越すんだってな」
 彼は早人の自宅――手続きの関係であと数日間はそういうことになっている――を眺めていた。外からでは見えないが、家の中ではすでに引っ越し業者の到着を待ちながら家財道具の梱包を始めている。昨日までの間にもう運び出された物もある。それを知っているということは、仗助は早人が想像も出来ないような特殊な情報網でも持っているのか。あるいは、いずれそうなるであろうことを予想していたのかも知れない。
「ママは、パパが帰ってくるかも知れないからって、ここを離れることには反対だったんです。でもやっぱり、お金のこととか、色々大変みたいで」
 残念ながら、早人にはまだ母の望みを叶えてやるだけの力がない。自分がもっと大人だったら……。せめて、仗助と同じ高校生だったら、働きに出ることも可能だったかも知れないのに。同年代の子供達と比べれば、自分には随分と多くの知識が身に付いていると思っていた。それでも彼は、まだ小さな子供でしかなかった。そのことを、嫌と言うほど実感させられ、それならいっそのこと無力な子供の立場に甘えて、「ここを離れたくない」「パパを返して」と泣き叫んでみようかと思ったこともあった。だがそれがいかに無意味なことであるかは、誰に諭されるでもなく、本当は分かっていたのだ。その行為が母の傷を余計に深い物にしてしまうということも。だから彼は、子供でいることよりも――子供であることは否定出来ない事実だが――、少しでも大人へと近付いてゆける存在を目指そうと決めた。あの時心の中で宣言した言葉を、もう一度強く意識した。
(ぼくがママを守る)
「それで、S市にいるおじいちゃんのところに行くことにしたんです。おじいちゃんも、ぜひおいでって、言ってくれて」
「そっか」
 仗助は表情を緩めようとしたようだった。しかし、その目の中ではまだ“なにか”がわだかまっているようだった。もしかしたら、彼にも一般的に「普通」と呼ばれるような家庭とはどこか違った事情でもあるのだろうか。
「S市ってことは、学校は?」
 仗助は早人の疑問を押し退けるように質問した。尋ねられるのが嫌だったというよりも、今のお前は余計なことを気にしてなんていなくていいんだと言われたような気がした。それも、彼の優しさの一種なのだろう。
「ぶどうヶ丘小にはおじいちゃんの家からは通えないんで、転校します。2学期からは、向こうの学校に」
「そうか」
 早人は、仗助がその後になんと続けようとしたのかが“見えた”気がした――(おかしいな。もう時間は戻ったりしていないはずなのに)――。たぶん彼の唇は「さみしくなるな」と動く。早人は先廻りしてその声を遮った。
「ぼく、ちゃんと友達って呼べるような友達は、いなかったんです。ぼくはなんのために生まれてきたんだろう……、生まれてくることを望まれていたんだろうかって、ずっと思ってたから。本当にここにいていいのかなって思ったら、なんか、周りにも馴染めなくて」
 仗助が口を開く前にと、早人は続けた。
「でもぼくは、ママを守った。ぼくひとりの力じゃあなかったけど、それでも。ぼくはこのために生まれてきたんだって、今は思えるんです」
 “意味”を見付けられたから、もう大丈夫。早人の言葉は、いつの間にか仗助に聞かせるためのものではなく、自身に強く信じさせるためのものになっていた。さっきと同じだ。言葉にすることで、真実へと昇華させる。特別な能力を持たない小学生にでも、強く信じればそれは出来ると、彼は感じた。
 早人は笑ってみせた。百パーセントの笑顔とは流石にいかない。それでも笑える。だから、大丈夫。
 仗助の唇から、ふっと息が洩れるような音がした。
「かっこいいこと言いやがって」
 「お前本当に小学生かよ」と笑いながら、仗助は早人の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。大きくて、温かい手だ。
「今度はちゃんと、友達作ります。仗助さんと億泰さんみたいに、大親友って呼べるような。……出来ると思います?」
 顔を覗き込むように首を傾げると、仗助は呆れたような笑みを浮かべた。
「なんでそこでいきなりしおらしくなるんだよ。お前、自分がどんなことやったか忘れたか? 殺人鬼と戦ったんだぜ? 自分から爆弾に突っ込んで行きもした。それと比べたら、友達作るなんてチョロいだろ」
 それが出来たのは、自分ひとりの力ではない。仗助達がいたからこそ、可能だったのだ。だから、早人は“それ”も「出来る」と思った。仗助が一点の疑いもなく断言しているのだから、きっとそうなのだろう。早人は彼を信じた。
「ありがとうございます。仗助さん」
 再び頭を下げた視界の隅で、こちらへ向かって走ってくるトラックの姿が見えた。いよいよここを離れる時がきたようだ。
「元気でな」
「はい」
 仗助はトラックに道を譲るように早人から離れた。早人は、母の手伝いをしなければと家の中へ戻ろうとした。その背中に、
「なんかあったらいつでも呼べよ! おれんちの電話番号は知ってんだろ」
 振り向くと、力強い笑顔がこちらを向いていた。早人はそれに負けないように声を出した。
「はい!」


2017,8,24


本当は吉良が家賃先払いしてるんで、夏の間にあの母子が杜王町を離れるってことはないでしょうが。
仗助がそうしたみたいに、早人も恩人の髪型真似るようになったら可愛いなって思います。
早人よ、イケメンに育て。5〜6年後が楽しみです(笑)。
<利鳴>

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