康一と億泰 全年齢


  1年B組のヒロセコウイチという男


 机の上に鞄を降ろしたのとほぼ同時に、広瀬康一の口からは大きな欠伸が出た。すでに登校してきている者はまだあまり多くはないようで、教室内の人影は疎らだ。そのお陰で、顎が外れんばかりの大口が誰かに目撃された様子はなかった。入学式からはまだほんのひと月足らず。クラスメイトの顔と名前が一致するかどうかも相手によっては怪しいような、そんな状態で、『広瀬康一という男は、体は小さいのに欠伸だけはやたらとデカい』とのイメージでも定着されてしまっては不本意だ。そうはならなかったことに安堵すると、また欠伸が出そうになった。が、今度はなんとか堪えた。目尻に溜まった泪を拭っていると、不意に廊下から声を掛けられた。
「よぉ、康一」
 振り向くと、廊下から顔を覗かせている東方仗助の姿があった。その頬には白いガーゼが貼られているようだ。彼が「自分の傷は治せない」と言っていたのを思い出しながら、康一は無意識の内に自分の喉元に手をやっていた。
「仗助くん。おはよう」
 軽く手を振ると、似たような仕草が返ってきた。が、同じクラスであるにも拘らず、仗助は教室の中へ入ってこようとしない。何かあるのだろうか。康一がそう思っていると、
「今、ちょっといいか?」
 そう言って彼は自分の背後を指差すような仕草を見せた。しかし180センチはあろうかという体躯に隠れて、その指が向いている先に何があるのかまでは見えない。「どうしたの」と尋ねながら、康一は小走りに――よく「廊下を走ってはいけません」と言うが、ここは教室の中なのだから別に構わないだろうなんてどうでも良いようなことを考えながら――近付いて行った。
「お前に話があるんだとよ」
 そう言いながら、仗助は道を譲るように廊下の端に寄った。それによってやっと康一の目に入ったのは、仗助とはまた違ったデザインの――だが誰がどう見ても――不良ファッションに身を包んだ男だった。康一はその男の名前を知っている。
「に、虹村億泰……」
 思わず喉がごくりと音を立てた。
「よう、広瀬康一。この間は世話になったな」
 仗助ほどとまではいかなくとも、康一から見ればその男も充分に長身だ。それに加えて、睨み付けるような目付き。威圧感を覚えずにはいられない。強い力によって気道を塞がれる苦しさが蘇ってきたのは錯覚だとしても、康一の心臓は常時のそれよりも遥かに鼓動を早めた。
 虹村億泰の兄、虹村形兆は死んだ。そのことに関して、康一に直接的な責任はない。だがもし、あの日康一が彼等と関わっていなければ、少なくとも何かが変わっていた可能性はある。
 虹村形兆を殺した犯人はまだ見付かっていない。虹村億泰は怒りや悔しさをぶつける先を求めてやってきたのだろうか。
 康一は思わず助けを求めるような目を仗助へと向けた。が、仗助は両手を制服のズボンのポケットに突っこんだまま動こうとしない。彼が『スタンド』と呼んだ不思議な力を使う様子もないままだ。虹村億泰の気持ちを理解し、それで気が済むのであれば一発くらい殴られてやれとでも言うのか。
 教室の中には少ないが何人かのクラスメイトがいたはずだ。今正に教室へと向かってきている者もいるだろう。「誰か助けて」と声を上げてみようか。だが仮に誰かが駆け付けてきてくれたとしても、虹村億泰と彼を見守るような位置にいる仗助の姿を見てその足を止めずにいる勇気がある者がどれだけいるだろうか。厄介事に巻き込まれるのはごめんだと、立ち去ってしまう可能性の方が高いのでは……。それでも、教師を呼びに行ってくれる者くらいはいるのではと期待しても良いだろうか。……いや、この2人の前では教師ですら逃げ出すかも知れない。
 自分も逃げたい。そう思った康一の目の前に、虹村億泰が立ち塞がる。
「あ、あの……」
「ケジメはきっちり付けねーとよぉ、オレの気が済まないもんでよぉ」
「ちょ、ちょっと待ってよッ! ケジメって……ッ!!」
 その後になんと続けようとしたのか、康一は自分でも分からなかった。「あれは自分には関係ない」? それとも謝罪の言葉? どちらにせよ、それを遮るように虹村億泰が吠えた。
「ごちゃごちゃうるせぇ!!」
 康一はとっさに両腕で自身を守る構えを取った。拳が飛んでくる。そう思った。だが、
「すまなかった!!」
 虹村億泰の手は左右どちらも両の膝と共に床へと付けられていた。それだけにとどまらず、彼は額までもを床へと――地面に頭突きでもするかのような勢いで――擦り付けた。平穏な人生を送っている者であればすることも目撃することもなかなかないであろう、土下座の姿勢だ。
「えっ、ええっ!?」
 状況が理解出来ずに、再び視線を仗助へ向けた。が、彼は成り行きをじっと見守るかのように、何も――虹村億泰を止めることも、説明することも――してはくれなかった。
 向けられている視線は今や仗助のものだけではなくなっていた。何事かと、教室や廊下の先から顔を覗かせている者がいる。しかも少しずつ増えていっているようだ。虹村億泰はそんなことには全く気付いていないようだ。
「オレ達兄弟の所為で危険な目に合わせちまった。だからよぉ、兄貴の分までオレが謝るぜ! この通りだ!! 許してくれッ!!」
 虹村億泰は再び頭を下げた。勢いが付き過ぎたらしく、額と床の間でゴンと鈍い音が響いた。
「ちょっ、やめてやめて! 怪我なんてもう残ってないから! 治してもらったからっ!」
「そういう問題じゃあねえんだよ!!」
 謝罪を受けているのは自分の方だ。なのに、どうして怒鳴られているのだろうか。これは本当に謝罪か? いや、本人にとっては間違いなくそうなのだろう。そしておそらく、彼にとってはどうしてもやらねばならないことなのだろう。
「と、とりあえず頭上げてよ。もう気にしてないから」
「……許してくれるってのか?」
「もちろんだよ」
 虹村億泰の表情が驚きのそれに変わる――額が少し赤くなっている――。その少し後ろには、仗助の微笑みがある。「だから言っただろ?」と言っているようにも見える。康一にではなく、虹村億泰に対して。
 康一が虹村億泰の腕を引いて立ち上がらせようとすると、仗助はやっと手を貸してくれた。再び高い位置から向けられるようになった目に向かって、康一は微笑みかけた。
「これからよろしくね。えっと、億泰くん」
 康一は彼のことを名前で呼んだ。ぽかんと開いた口が、さらに大きく開かれたように見えた。それも、笑みの形に。
「億泰くん、今ここにいるってことは、転校してきたんだよね?」
 そうではないのに校舎内に入り込んできているんだとしたらなかなかに問題だ。が、仗助が「クラスは違うけどな」と言ってくれたので、その心配はなくなった。
「そっか。でも、何か困ったことがあったら、いつでも来てよ。転校してきたばっかりで、色々分からないこともあるでしょう?」
「って言っても、オレ達も入学したばっかりだけどなー」
 仗助がおどけるように言った。つられて、康一も笑った。
「そうだった。じゃ、一緒だね。よろしく」
 康一が右手を差し出すと、億泰は強い力で握り返してきた。彼はそのまま腕を上下にぶんぶんと振った。
「おう、よろしく頼むぜ!」
 強面だと思っていたが、笑うとなかなかどうして愛嬌がある。意外と上手くやっていけそうな気がした。それと同時に、なんとかして彼の兄の仇を見付け出してやりたいと思った。
(一緒に頑張ろう、億泰くん!)
 握った手に、そんな気持ちを込めた。
 その後、1年B組の広瀬康一という男が不良の転校生を早速舎弟にしたという噂は、その日の午後には他学年にまで広まった。


2023,10,29


康一くんに普通の友達がいるのかどうかちょっと心配になります(笑)。
<利鳴>

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