露康 全年齢


  あまねくおもいで


 露伴は「寒い」と心の中だけで呟いた。一緒に歩いている相手もいないのに声を出せば、それはただの独り言になってしまう。それ以上に、その声すらしんしんと降り積もる雪に吸い取られてしまうのではないかと思った。辺りは、白一色で覆い尽くされている。普段の町より、ずっと静かだ。
 昨日の夕方から降り出した雪は、日の出と共に――日光に照らされて消滅する吸血鬼のように――溶けてしまうだろうと思っていたのに、太陽が高くなってきた今も残っている。それどころか、現在進行形で降り続いている。予報によれば、この天候は明日いっぱいまで続くそうだ。
 呑み込んだ言葉の代わりのように、吐いた息は真っ白に曇った。
(そうか。杜王町の冬は、寒いんだったな……)
 買い物に行く予定をなかったことにしてしまおうかなと思う程度には寒い。東京よりも北に位置しているのだから、当然と言えば当然だ。大雪が降って道路が通行不可能になってしまうことだってある。
 露伴が今の――この町の――住居へ引っ越してきたのは、今年の2月だった。その頃も充分『冬』と呼べる季節ではあったはずだが、荷物の片付けや仕事に追われている内に、気付けば次の季節がやってきていたように思う。十数年前の大雪の時は、すでに今の実家があるS市に引っ越していた。あの時は、あちらもだいぶ雪が深かったなと覚えているように思ってはいるが、あるいはそれは後から伝聞によって得ただけの情報なのかも知れない。
 子供の頃のことは、実はあまり覚えていない。杉本家と交流があったというのも、それこそ人から聞かされた以上の記憶はない。それが自分の過去なのだと“納得”はしているが、“思い出した”とは言い難い。どこか他人事のように感じている部分が残っているような感覚だ。
 おそらくは、親しい者が殺害されたことによるショックで、自ら記憶を封じてしまったのだろう。今の彼なら信じられないことだ。経験は何物にも代えられない宝だ。が、当時の――幼い――露伴には耐えられない出来事だったのだろう。
 子供の頃の記憶といえば、今より当然若い両親の顔――少し心配したような表情が多いように思うのは気の所為だろうか――や、初めて買ってもらったクレヨンで絵を描くのが大好きだったこと。覚えているのは、そのくらいだ。やはり、封じ込めてしまった記憶の方が多いようだ。
 この町での冬の思い出は、ほとんどない。
 事実に反するとは分かっていても、自分という存在が酷く稀薄であるように感じてしまった。あるいは、この肉体の中は、空洞なのではないかと……。
「あ、露伴先生」
 不意の声に顔を上げた。白い空気の向こうにいたのは、広瀬康一だった。首に巻いたイニシャル入りの毛糸のマフラーは少し長過ぎるようで――手作りだろうか――、その両端を持て余すように手で押さえながら、彼は笑顔を見せた。
「やあ、康一くん。今日は塾かい?」
「いえ、今から公園で、仗助くん達と雪合戦するんです」
 そう答えると、彼は少し照れ臭いような顔をしてみせた。
「億泰くんが本格的に積もってる雪はあんまり見たことがないからってはしゃいじゃって」
 その時の様子を思い出したのか、彼はくすっと笑った。
「でも、毎年降るけど、降り始めはぼくもなんかテンション上がっちゃうんですよね。子供っぽいですよね」
 露伴はそれを否定する気は起きなかったが、同時に悪いことではないとも思った。
「この寒いのに元気だね」
「ああそうか。先生も去年までは東京だったんでしたっけ」
「子供の頃はこっちだったけどね」
 その時の記憶はほとんどないがとは、黙っておく。
 康一は歩み出し掛けた足を再び止めた。
「良かったら、一緒に行きませんか?」
 「何か、ネタにでもなったら……」と、康一は言い訳をするように言い足した。
 露伴は、「このクソ寒いのに」と思った。が、ふと、寒さが和らいでいることに気付いた。雪はまだ降り続いているにも関わらず。風がやんだか? それとも、康一の笑顔が太陽のように温かいから?
 逡巡した時間は、ほんのわずかだった。仗助と億泰に会うのは面倒だなと思いながらも、露伴は頷きを返していた。
 この町での冬の思い出は、ほとんどない。それなら、新しく作れば良い。そう思ったのかも知れない。
「いいよ。行こう」
 買い物は、また後日でも構わないだろう。
 露伴は康一と並んで歩き出した。その背中に、エコーズが貼り付けた『ぽかぽか』の文字があることには気付かないまま。


2017,12,10


タイトル思い付かないよーって騒いでいたら、セツさんが付けてくれました!
ありがとう! それしか言う言葉が見付からない!!
<利鳴>

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