仗露 全年齢
Remarkable
鏡の中には“いつも通り”の自分の姿があった。「よし」と呟きながら、東方仗助はすっかり自分の体温が移っているブラシを洗面所の棚に置いた。“いつも通り”、すなわち、ばっちりだ。
思った通りに髪をセット出来た朝は気持ちが良い。面倒な用事だって、鼻歌でも唄いながら軽くこなせてしまえそうだ。そんなことを思いながら再び顔を上げると、さっきまではなかったはずの顔が鏡に映っていた。
「うおっ」
鏡越しに仗助を睨む2つの目。それは、苛立ちを全面に押し出した岸辺露伴のものだった。
「なんだよ、びっくりするぜ」
仗助が振り向くと、露伴は鏡の中の仗助に目を向けるのをやめ、直接睨んできた。
「どっから湧いて出たんだよ。ホラー映画かよ」
「ここは僕の家だ。僕がどこから湧こうが勝手だろ」
「湧くこと自体は否定しないのかよ……」
「さっきからいたのにお前が自分の姿に見取れて気付かなかっただけだ」
「ええー?」
露伴はいかにも機嫌が悪そうな表情を変えようとしない。日常的ににこやかな顔をしているタイプでもないが。
「はて、自分は何かしただろうか」と仗助は首を傾げる。3秒考えても何も思い浮かばない。そういう時は面と向かって尋ねてしまうのが最も手っ取り早い。
「何かありました?」
すると露伴はこれ以上縮めれば意味のある単語の形を作るのでさえ困難であるだろうというほど短い言葉で返してきた。
「長い」
露伴の睨み付ける先が、仗助の顔から頭部へと移っている。
「セットするのにどれだけ時間をかけるつもりなんだお前は」
髪が伸びていると言われたのかと思ったが、そうではないようだ。
「回を増す毎に長くなってる」
「ええー、そぉですかぁ?」
自覚は全くない。むしろ今日なんてスムーズに終わった方だ――と思う――。
「あれですよ、ほら、恋人のだらしない姿なんて、露伴先生だって見たくないでしょ?」
「人のベッドでパンツも履かずに寝てたやつが言ってもなぁ」
揶揄するような口調で言うが、その目は全く笑っていない。
「洗面所、使うんスか?」
自分が使いたいのに塞さいでいると文句を言いたいのかと思った。が、そもそも一定以上の時間がかかることは分かっていたので、先に譲ったはずだった。露伴の髪型はすでにいつも通りの状態である――彼も櫛を通しただけで済まないであろうヘアスタイルをしている――。
案の定、首を横へ振る仕草が返ってきた。
「この僕がわざわざ作ってやった朝食が冷めていくのが気に入らん」
「なるほど」
「要らないならいい」
「要ります」
さっさと洗面所を出て行く背中に、仗助も続いた。
露伴が“わざわざ”作ってくれた食事は、まだちゃんと温かさを保っていた。齧り付くとさくっと音がするクロワッサン、これぞ完璧な見本と言いたくなるような具合の焼き目が付いた卵とベーコン、小さなガラスのボウルに盛られた瑞々しいサラダ、蜂蜜らしき物がかかったヨーグルト、それからコーヒー。どれも量はそれほどではないが、その分品数は多い。複雑な調理はされていないが、それでも真似しろと言われれば多くの者が朝から面倒だと眉をひそめそうなくらいの手間暇はかかっていることが見て取れる。自分に対して手間をかける必要はないと言うつもりで「こんなに?」と聞いたら、「食べ盛りだろう」と――少々突っ慳貪な口調で――返されたことがあった。「毎日やってるわけじゃあない」と言い訳めいた口調で続いたので、ますます「自分のために」と感動しそうになっていたら、「残したらもう二度と作らないからな」と余計な一言が飛んできた。それ以来、仗助は素直に「美味いっス」と言いながら残さず食べている。
「聞いてもいいか」
食事の手を一時的にとめて、露伴が尋ねた。
「ふぁい?」
「口に物を入れたまま喋るな」
「はなしはへはほはへんへぇれほ」
「黙れ」
仗助は肩を竦めながらもそれに従った。「ちゃんと聞いてますよ」という意思表示のつもりで、視線は真っ直ぐ露伴へと向ける。
「その頭」
露伴はレタスが刺さったフォークを持ったままの手で仗助の頭部を指差した。それはそれで行儀が悪いし、人を指差すのもマナー違反だろうと言ってやりたいところだが、まだ口の中は空になっていない。
露伴は構わず言葉を続ける。
「誰が貶してもキレるのか」
意味を尋ねようとしたが、まだクロワッサンを飲み込み切れていない。それを見破ったのか、露半は「一度に詰め込みすぎなんじゃあないのか」と呆れた声で言ってから、「例えば康一くん」と例を上げた。
仗助は口の中の物をコーヒーで流し込み、ようやく飲み干した。
「康一は人のこと貶したりなんてしないでしょ」
聞かれたことの答えにはなっていないが、異論はないようだ。
「じゃあ家族は」
質問が続いたので、仗助は卵を口へ運ぶのをやめ、フォークを皿の上に置いた。
「おふくろも“あの人”には感謝してますもん」
幼き日の仗助を助けてくれた学生服の少年のことだ。
「そもそもガキの頃に自分で髪の毛セットなんて出来ませんよ」
「じゃあ昔は母親が?」
「そ」
“あの人”と同じ髪型にするにはどうやれば良いのか。調べてくれたのは母と当時はまだ存命だった祖父だった。
「おふくろとじーちゃんは理解者」
「なるほど、美的センスは遺伝か」
「存在自体最近知ったきょうだいなんかは分かんないですけどね。まあ、脊椎反射みたいなもんなんで、正直誰が相手でも危ないかも知れないっスね」
「ふーん」
露伴はコーヒーを口に運んだ。
「それは……」
カップの中でわずかに声が反響する。
「例えば、“恋人”でも?」
カップの陰から探るような視線が向けられている。それを見て、仗助は「珍しいな」と思った。何事に対しても自信を失わない露伴が、仗助の気持ちを気にするような素振りを見せるなんて。
仗助の方こそ、淡々とした露伴の態度に、もしかして自分は「どうでもいい」存在だと思われているのではと不安に思ったことがあったくらいだ。だが、どうやらそれは要らぬ心配であったようだ。そのことが分かって、仗助は嬉しく思った。同時に、気持ちを伝えるのが足りていなかったのだろうかと反省もした。
そして、一瞬返答に困った。嘘は吐きたくない――露伴には以前散々「お前は嘘吐きだ」と食ってかかられたことがあった――。
「自信は、ないかも知れませんね」
これでもまだ“逃げている”なと思いながら、仗助は首筋をかいた。
そもそも相手を認識してキレているわけではないのだ。さっきも言ったが、ほとんど反射に近いもので、コントロールしようと思って出来るものではないのだ――と言ってコントロールする努力をそもそも放棄している――。露伴だって、「漫画なんて」と否定されれば当然怒るだろう。いくら親しい間柄であるとは言っても、いや、「特別」と呼べる関係であるからこそ、お互いの大切なものは尊重し合う必要があるはずだ。「あんたになら何をどう言われてもいい」なんて言葉を躊躇いもなく吐けるほど、そしてそれを信じるほど、彼等は夢見る子供ではない。
「でも」
仗助は再びフォークを取りながら言った。
「恋人のこと悪く言うやつがいたら、同じくらいキレる自信ならありますよ」
髪の毛をばっちりセット出来て満足した時以上の笑みを見せると、露伴はそれをじっと見返した。
そして、
「へえ」
ふいっと視線が逸らされた。
「勝手な感情に振り廻されて、大変だな、君の“恋人”とかいうやつも」
「えっ、先生のことじゃあないんスか!?」
思わずフォークを握ったまま立ち上がり、テーブルの対面にいる露伴に向って身を乗り出した。
「恋人?」
露伴は眉をひそめた。
「誰が誰の」
「先生がおれの! そんで、おれが先生の!」
「発情した犬の間違いじゃあないのか? 人の体を好き勝手しやがって」
露伴が首を傾げるような仕草をすると、それまで襟の中に隠れていた首筋がわずかに見えた。そこには前の晩に仗助が付けた“しるし”が薄っすらと残っている。
「返す言葉もございません。わん」
「おすわり」を命じられた犬のように、仗助は椅子に座り直した。
2019,06,30
仗露が書きたいという気持ちだけでペンを走らせた。
山もオチも意味もないけど気にしない。
<利鳴>