億仗 全年齢


  The Hands


 食べ終えたばかりのパンの袋をぐしゃぐしゃと音を立てて丸めながら、仗助は決して短くはない――それでいて小さくもない――溜め息を吐いた。
「仗助くん、どうしたの?」
 弁当箱の蓋を閉めながら、康一が顔を覗き込んでくる。その隣――仗助の斜め向かい――にいる億泰は、まだその口の中にハムサンドを詰め込んだままではあるが、康一と似たような表情をしている。
「お腹でも痛いの?」
「いや、そーゆーんじゃあねーよ」
 ちゃんと飯も食ってただろ? とおどけてみせようとしたが、上手く出来なかった。眉間と口元を少し歪ませたような顔に、康一はますます訝しげな表情を向けてくる。
「売り切れちまってたもんはしょーがねーだろ。おれだって本当は食いたかったぜ、カツサンド。それをこーしてハムサンドで我慢してんだからよぉ」
 口の中の物を飲み下した億泰は、どうやら仗助が昼食の内容に不満があって浮かない顔をしていると思ったようだ。彼らしい思考に、今度はもう少しだけ自然な笑みを見せることが出来た。
「そーゆーのでもねーから」
 「じゃあ?」というように、2組の目が向けられる。「何でもない」と言ったら、まあ、自分なら信じないだろうと、仗助は机の上に頬杖をつきながら口を開いた。
「じじいがよ、今度アメリカに遊びに来いって」
 仗助がそう言うと、億泰と康一は顔を見合わせた。「それの何が問題なんだろう」とでも言いたげだ。
 離れて暮らしている父親が我が子へ向ける言葉としては、確かにそれはおかしなものではないだろう。親子の間には複雑な事情がありはしたが、それはもう過去のこととしていつまでも気にしていなければいけないことではなくなっている。少なくとも仗助はそう思っているし、億泰と康一もそう考えているはずだ。では何が問題か……。いや、本当は“問題”なんてないのだろう。そんなものは、仗助が心の中に勝手に作り出しただけの存在にすぎない。
「おめー等2人も誘って、春休みでも利用して。だとよ。飛行機代も、宿泊費も、全部出してくれるって」
「ええっ、すごいや!」
「太っ腹ァ!」
 2人の表情が途端に明るくなる。やはり、いらぬ“問題”を生み出しているのは、仗助ひとりだけのようだ。億泰に至っては、すでに自由の女神像を見上げているような顔をしている。そんな様子を見せられては、「おれは行かない」とはいよいよ言い出せない。それでも表情には出てしまっていたようで、再度顔を覗き込まれる。
「……仗助くん、ジョースターさんに会いたくないの?」
「そうじゃあねーよ」
 否定の言葉はこの数分間だけでもう3度目だ。
 繰り返しになるが、生まれて16年目にして初めて顔を合わせた父へ対するわだかまりは、もうすっかりなくなっている。今ではあの男の血が自分にも流れているということを誇れそうな気さえしている。
 少し前に、父の妻――仗助からだと、どういう関係の呼び名になるのだろうか――と電話で話をする機会があった。いきなり罵詈雑言を浴びせられる覚悟すらしていたというのに、その女性は「貴方に罪はない」ときっぱり言い切った。かといって、仗助の母を責める風でもなかった。おそらくその時にはもう彼女の中でも“それ”はひとつの区切りが付いた“過去”になっていたのだろう。仗助はその人を、純粋に「いい人だな」と思うことが出来た。機会があるのなら――そして先方がそう思ってくれるなら――会ってみてもいいかも知れない、とも。
 だから、“それ”も“問題”ではない。そもそも父は、仗助を無理に自宅へ招きたいようでもなかった。行きたい場所があるならどこへ行っても良いし、好きなところに泊まれば良いと。自分は息子の元気な顔をちらとでも見られれば、それで良いのだとすら言っていた――ただし“妹”への土産は要求したがっているようだったが――。単純に息子とその友人へプレゼントをしたいようだ。少し早い――あるいはだいぶ遅い――誕生日の贈り物に。とでも考えているのかも知れない。
 それ等の気持ち全てを、わずかにでも疎ましく思いはしなかった。
「じゃあ何が不満なんだよ」
 今度は億泰が尋ねる。
「素直に甘えればいいじゃあねーか」
 甘え方がいまいちよく分からないということはあるかも知れない。それでもきっと、彼等と3人で旅行となれば、余計なことを考えている間もなく楽しく時間は過ぎてゆくのだろう。だが、
「水を差すようだけどよ、お前が旅行なんて行ったら、その間親父さんはどうするんだよ」
 億泰の家庭環境に遠慮して……というのとは少し違う。だが考えないままには、なんの計画も立てられないだろう。億泰は今初めてそのことに気付いたようで、「あ」と口を開けた。
「そうかぁ。あー……、一日くらいなんとかなんねーかなぁ? 親父独りでも」
「一日でアメリカまで行って帰ってくるつもりかよ」
「ああ、そうか」
 完全に素のリアクションに、仗助は少しだけ笑った。
「でも、最近は独りで散歩に出てることもあるって言ってなかった? 億泰くんが学校に行ってる間も大丈夫みたいだし、なんとか出来るんじゃあないかな。食事のこととかだったら、ぼく、母さんに頼んでみるよ」
 身を乗り出すように早口で言う康一は、なんとかして“問題”をクリアして、3人で遊びに行きたいと真剣に考えているようだ。それが、自身だけのためではないことは、尋ねるまでもなく充分解る。
「2年生になったら修学旅行もあるんだし、億泰くんが一度も家を空けないなんて無理があるよ。ねえ、交代で見てもらえるように、色んな人に頼んでみようよ。由花子さんとか、露伴先生とか」
「いや、あいつ等が聞くの、康一の頼みだけだから……」
「つーか、人に頼むなら、おれの家の方が近いぜ。平日でも、夜様子を見に行くくらいならおふくろに頼める」
 早い話が、「なんとかなる」ということだ。自分から振っておいて、結局自分で解決案を出してしまった。
「さあ、他にはなにっ?」
 康一はもう、仗助が下らないことで決断を躊躇っていることを見抜いているかのような目をしていた。「なんでもこい」とでも言いたげだ。こんなところで彼の“頼りがい”を見ることになるとは。そろそろ、誤魔化すのは難しくなってきたか。
「旅行とか、ほとんど行ったことねーんだよ、おれ」
 家庭環境を考えると、無理もないだろう。生まれる前から父はいなかったし、祖母も早くに他界している。母と祖父はもちろん仕事をしていた。遠出すると言っても、なんとか休日を合わせて海か山かテーマパークか、精々一泊が限界だった。
「おれだってねーぜ。だからこそこの機会に行ってみよーぜ、なあ! 海外旅行してみてーって、言ってたじゃあねーか!」
 仗助がそう言ったのは拾い物の宝くじが当選した時だったか。あの時億泰は貯金すると言っていたが、本当は――家庭の事情が許せば――彼にもそんな夢があったのかも知れない。
「おれ、飛行機って乗ったことねーんだぁ。兄貴のヘリが実物大で乗れたらなぁって思ってたんだよなー」
「それ、ガキの頃の話じゃあなくて、結構最近だよな……?」
「あんなでっかくて重い鉄の塊が空飛ぶなんてよぉ、すげーよなぁ。なんで落ちないんだ? むしろ落ちる方が自然じゃあねーか?」
「やめろよ」
 意識しないままに、仗助は強い口調で億泰の言葉を切り捨てていた。しまったと思ったが、遅かった。
「仗助君、もしかして飛行機怖いの?」
「うっ……」
 口篭ったのが答えのようなものだった。幸いにも、2人は馬鹿にしたような態度は取らなかった。が、呆れたような態度はしっかり取られた。
「なんだぁ、そんなことかぁ」
「お前のスタンドなら、飛行機に穴空いても直せるじゃあねーか」
「馬鹿言え! 部品が離れ過ぎてたら直せねーんだよッ。飛行機は高速で飛んでるし、部品は真っ逆さまに落ちてってるんだぜ!」
「ちょっと2人共! 怖い話やめてよっ」
「承太郎さんから聞いたんだ。じじいは過去に4回も飛行機が墜落したんだって。おれ、そんなやつの息子だぜ!?」
 その血を誇りたいとは言ったが、それとこれとは別の問題なのだ。世の中がなんでも理屈で片付けば、誰も苦労しないとまでは言わないが、苦労する人間は間違いなく一定数は減るだろう。
「っていうか、ジョースターさん、4回も落ちて無事だったんだ……」
「逆にすげぇな」
 さらには車や船、潜水艦まで駄目にしたことがあるらしい。そんな不運が遺伝するなんて非科学的だが、それこそ理屈ではないのだ。
「じゃあ船で行けばいいんじゃあねーか? そういえばジョースターさんは行きも帰りも船だったよな」
「うーん、でも、船だと時間がかかるよ。春休みそんなに長くないし、それにぼく、船酔いが心配だなぁ」
「そうだよなぁ。それにどうせ修学旅行の時は飛行機乗らねーとなんねーんじゃあねーの? お前だけ新幹線かぁ?」
 揶揄するように言うと、億泰は笑った。
「なぁ、行こうぜ! 楽しそうじゃあねーか。乗り物の中でも飛行機の安全性は世界一ィィィィって言うしよぉ」
 こんなにはしゃいでいる姿を見ると、行きたい――連れて行ってやりたい――と思う気持ちは強まってくる。が、あと一歩踏み出すための“なにか”が、仗助には必要だった。何も本気で落ちると信じているわけではないのだ。信頼する甥辺りにでも「じじいと一緒じゃあなければ大丈夫だから来い」とでも言ってもらえたら、それが『踏み出すための“何か”』になるだろうか。
 仗助が腕を組んで唸り声を上げていると、
「分かった分かった。そんなに怖いんなら、手ぇ繋いでてやるからよ!」
「……はぁ!?」
 おちょくられているのかと思ったが、億泰の表情は邪気のない笑顔だった。
「それになんの意味があるんだよっ」
 仗助は言い返す。が、「おれの右手に任せろって」と言いながら、億泰は仗助の手をぱっと取った。もちろん、スタンドの手で、ではない。
 手の平全体から、体温が伝わってきた。その温度と、億泰の笑みに、不思議と和んだような気がした。仗助はふっと息を吐くように笑った。
「それでも落ちる時は落ちるだろうがよ」
「でも、離れてく部品を引き寄せることは出来るんじゃあねぇ? それならおめーのクレイジー・ダイヤモンドで直せるじゃあねーか」
「とか言って、うっかり部品毎削り取るなよ?」
「あとは康一のエコーズがありゃあ、衝撃やなんかにも耐えられるよな」
「っていうか2人共、落ちる前提で話するのやめてよ、もぉ……」
 笑顔になった仗助の代わりのように、今度は康一が蒼い顔をしていた。どうやら飛行機に乗る時は、億泰を真ん中に座らせて、両隣の2人の手を握っていてもらうのが良さそうだ――片方はもちろん左手になってしまうが――。


2018,02,27


両手なのでタイトルは複数形にしました。
<利鳴>

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