仗露 全年齢


  Vague


「えっと、初めまして……ですか?」
 顔を見るなりそんな馬鹿な発言をした東方仗助を思い切り睨みながら、露伴は短く「違う」とだけ返して舌打ちをした。
 「仗助の記憶がスタンド攻撃によって奪われた」。そう電話してきたのは、友人である広瀬康一だった。聞けば仗助と康一が同じ学校に通う虹村億泰も加えた3人で帰り道を歩いていると、突然怪しげな外国人の男が現れて攻撃してきたのだという。
「怪しげな外国人?」
 露伴は眉をひそめながら不機嫌――それとも不愉快――を全面的に押し出したような声で言った。
「見慣れないものを目にした時、人は基本的に『怪しい』と感じるものだぜ。昔から全国各地に散らばっている妖怪伝説の類なんかも、その正体は当時はまだ見慣れていなかった肌の色や顔付き、体格の違う外国人だった……、なんて説もあるくらいだ。まあ、ぼくは妖怪の存在自体を否定するつもりはないから、中には本物もいたかも知れないが。とにかく、『怪しい』なんて特徴は、全く特徴になっていないってことさ」
『す、すみません、露伴先生……。でもあっと言う間のことで、顔はほとんど見えなかったんです』
 恐縮した様子が受話器越しにでもはっきりと伝わってきて、露伴はやれやれと言うように溜め息を吐いた。一体何をいらついているんだ。康一のことではない。自分自身のことだ。そう、彼はいらついていた。何かに対して。いつもなら仕事を理由に無視することもある電話になんの気紛れからか出ることに決めたのは他ならぬ自分だというのに、妙な屁理屈まで並べてとげとげした声を康一にぶつけているというこの状況。突然のことに巻き込まれたらしい康一こそいらだちを抱えていてもおかしくないというのに、露伴の方がそれを隠そうともしないなんて。きっと康一は、電話機の前で戸惑っていることだろう。
 露伴は小さく頭を振った。
「いや、すまない。君を責めてどうにかなることじゃあないな。続けてくれ」
 「どうして仗助の一大事(暫定)を自分に知らせてくるのか」、「突然攻撃されるなんて、あいつは何をやったんだ」、「記憶を奪われたとは、具体的にはどんな様子なのか」、「それ以外に負傷はないのか」等、一度にいくつもの質問が浮かんだが、先に康一に一通り喋らせた方が良いと判断して、露伴はぐっと言葉を呑み込んだ。
『スタンド使いの男は、億泰くんが追ってくれています。そいつを倒せば、仗助くんの記憶も戻ってくるんじゃあないかと思うんですけど……』
 康一の声には、そうであってくれと祈るような響きが含まれていた。ふと、その後ろでいくつかの音が鳴っていることに、露伴は気付いた。複数の人間が立てる足音。スピーカー越しに誰かを呼び出しているような女の声。康一の自宅から掛けてきているのではないようだ。少し騒がしい。人が大勢いるような場所……。駅か、いや、それとも……、
(病院の待合室?)
「康一くん、今どこから電話してきてるんだ」
『ぶどうヶ丘総合病院です。攻撃された時に倒れて、頭を打ったようなので、それで一応検査と治療を。でも、記憶がなくなった原因はそれじゃあなくて、やっぱりスタンド攻撃なんだと思います。あっと言う間の出来事だったけど、仗助くんの頭から黒いテープのような物が引っ張り出されたのが見えたんです。ビデオテープの中身みたいな物でした。きっとあれが仗助くんの記憶だったんですよ。そっちに気を取られて、本体の顔をはっきり見られなくて……』
「今からそっちに行く」
 康一の言葉を半ば強引に遮って、露伴は一方的に宣言するように言った。康一が電話してきた理由も、最終的にはそれを望んでのことなのだろう。だったら、詳しい話は直接会って聞いた方が早い。
 受話器を置いた露伴は、車のキーを掴んで外に出た。タクシーを呼ぶことも考えたが、待つ時間が惜しい。仗助と康一、場合によっては億泰も乗せて移動する必要が生じるかも知れないことを考えれば、バイクは使えない。自分の車が一番だ――もっとも、彼の車に4人も乗るのは間違いなく窮屈だろうが――。
 運転席に座り、ギアをローに入れながら、露伴は小さく舌打ちをした。これから車のハンドルを握ろうという時にいらだっているのは危ないと感じながらも。
(おいおい岸辺露伴。落ち着けよ。何がそんなに気に食わないんだ)
 2度、3度と深呼吸をしながら、露伴はゆっくりとブレーキペダルから足を離した。
 いらだちの理由は分からない。だが何が切っ掛けでそうなったのかは明白だ。仕事が行き詰まっていたとか、そういうことではない――それはむしろ至って順調だと断言出来るくらいである。現に今週の分の作業はもうほとんど終わっている――。康一に『仗助が記憶を奪われた』と聞かされたその時。それはそこから始まった。『記憶喪失』。覚えていないということ。おそらくは、
(ぼくのことも……)
 人のことを一方的に忘れるなんて、ずいぶんと勝手ではないか。だから文句を言いに行くのだ。心配しているわけではない。断じて。
 心の中で何度もそう繰り返しながら、露伴は車を走らせた。

 事故を起こすこともなく無事に辿りつけた病院の待合室に駆け込むと、院内では走らないでと注意する看護師よりも先に、康一が声を掛けてきた。わざわざ出迎えに来てくれたのか。そう言うと康一は、「先生ったら、病室の番号を言う前に切っちゃうんですもん」と唇の端を歪めるように笑ってみせた。それを見た露伴は、どうやら仗助の容態はそれほど悪いわけではないようだと思った。検査と治療をと言ってはいたが、記憶がないこと以外の異変は見付からなかったのだろう。そのことは、康一が処置室等ではなく、『病室』と言ったことからも推察出来た。それならば、億泰が追っているというスタンド使いを倒すことが出来れば、全て解決すると――それ以上の問題は起きていないと――今は信じよう。
「こっちです」
 康一の案内で、仗助がいる病室へと向かった。そこは4人部屋であるようだったが、ベッドは2台が空になっていて、もう1台にも荷物は置かれているが、誰もいなかった。おそらく、検査やリハビリ――あるいはただのトイレ――に行っているのだろう。
 仗助はベッドの上に上半身を起こした状態でいた。そして露伴の顔を見て放った第一声が、「初めましてですか?」だった。
 予想は充分していたはずだった。が、綺麗さっぱり忘れられているということが――それもたったひと言で――明らかになると、無性に腹が立ってきた。
「仗助くん、この人は岸辺露伴先生だよ」
「先生?」
「漫画家の先生だよ」
 仗助は康一の言葉に「へぇ」と感心したような声を出した。厄介事の中心人物だというのに、呑気なその表情。露伴のいらだちはさらに大きくなる。
「それで、医者はなんて?」
 本人に聞くよりも早いだろうと判断した露伴は、康一に向かって尋ねた。
「転んで頭を打ったとしか説明出来なかったので、その時の衝撃で一時的に記憶が飛んでいるんだろうって。念のため検査もしたけど、脳に異常はないから、時間が経てば元に戻るんじゃあないかって……」
 おそらくそれは、「時間が経って自然に解決してくれるのを待つ以外出来ない」と同意なのだろう。ネガティブに考えれば、時間が経っても改善が見られない場合、医者にはどうすることも出来ないとも取れる。
「様子見……ってことか」
「はい」
「仗助の親には?」
「スタンドの説明が出来ないので、連絡はまだ……。敵を捕まえられれば大事にはしないで済むかも知れないので、ギリギリまで伏せておいた方がいいかと思って……」
「なるほど。それでぼくを呼び付けたってわけか」
 すでに他界している祖父母と、今はまだ職場にいるであろう母親を除けば、彼等が知る仗助の親類は、今はアメリカにいる父親のジョセフ・ジョースターとその孫――つまり仗助の甥――の空条承太郎しかいない。そちらの2人はスタンドに関しての知識を持っている――むしろスタンドについて露伴達が把握していることの大部分は彼等から教わったことだ――という点では有り難いが、駆け付けてもらうどころか、すぐに連絡が付くかどうかも危うい。となれば、今のところは保護者とはまだ連絡が付かないということにでもしておいて、代わりに対応出来る大人として露伴を呼ぶことにした方が良いと判断したということか――同じ高校生の康一や億泰では病院側が保護者の代理としては見てくれないだろう――。まったく、仗助の記憶が戻ったら、人を気易く使いやがってと文句を言いたいところだ――その選択をしたのは康一であると理解した上で――。
「まあいいだろう」
 恩を売っておく。とでも思っておくことにしよう。それに、人の記憶をテープに変えて抜き取るというスタンド能力には、純粋に興味がある。“本”と“テープ”という媒体の違いこそあれど、その能力は露伴のヘブンズ・ドアーに似ていると言えるだろう。おそらく康一もそう思って、露伴が自分の能力をヒントに、何か改善策を思い付けないかと期待している面もあるに違いない。ならば、
「とりあえず、手っ取り早く“読ませてもらう”ぜ」
 露伴はペンを取り出し、その先を仗助へと向けた。これから何が起こるのか理解していないらしい仗助は、きょとんとした顔をしている。いつもなら対象の許可なくその能力を使用することに対して否定的な様子を見せる康一も、今はそれをすべき時だと考えているようで、じっと露伴の挙動を見守っている。
「ヘブンズ・ドアー!」
 露伴の呼び掛けに応えて、帽子を被った少年のような“ヴィジョン”が出現する。それはあっと言う間に仗助を“本”の形に変えた。

  気が付くと知らない場所にいた。

 それが最初のページの記述だった。

  ここはどこだろう?
  オレは誰だろう?
  何も分からない。
  何も知らない。

「確かに、直前までのことを完全に忘れているらしいな。これより前のページは存在しない。攻撃されたということ自体認識していないようだ」
 偶然その場に同じスタンド使いである康一と億泰がいたから良かったが、そうでなければ今頃どこでどうなっていたかも分からない。そのままふらふらとどこかへ彷徨い出てしまうか、あるいは敵の追撃を受けていたか……。これは思いの外危険だ。そんなスタンド能力を持つ相手を敵に廻したのだとしたら、なかなかに――思った以上に――厄介かも知れない。億泰はひとりで勝てるだろうか。あるいは今頃、彼もすでに……。
 露伴は“ページ”に意識を戻した。

  目が覚めて最初に見たのはコウイチだ。
  オレの学校の友達らしい。
  いいやつそうな顔をしている。
  コウイチが言うには、オレは記憶をスタンドツカイに取られたらしい。
  スタンドツカイってなんだろう。
  スタンドツカイはオクヤスクンが追い掛けてくれてるらしい。
  オクヤスクンってなんだろう。
  オレの名前を、コウイチが教えてくれた。
  『ヒガシカタジョウスケ』。
  どういう字だろう。
  あんまり難しい字じゃないといいけど。
  コウイチは誰かをここへ呼ぼうとしているらしい。
  オレの知り合いみたいだけど、きっとオレには分からないんだろう。
  その人のチカラで助けてもらえるかも知れないとコウイチが言った。
  チカラってなんだろう。

 露伴は再びペンを構え、ページの余白――他の人間と比べると明らかに広い――に文字を書き込もうとした。が、
「あっ」
 露伴の手元を覗き込んでいた康一が声を上げた。
「書き込みが、出来ない……」
 ペンのインクは防水加工が施されているかのように、完全に弾かれていた。何度試みても、わずかな線でも引くことが出来ない。
「デジタルで言うところの読み取り専用か。厄介だな」
 露伴はスタンドを解除し、仗助から離れた。仗助は「何が起こったんだ?」というような顔をしている。おそらく、露伴のスタンドは見えてもいなかったのだろう。本当に厄介なことになってきた。
「億泰が上手くやることを祈るしかないかもな」
 だが“あの”仗助に不意打ちを食らわせるとは、相手もかなりの手練れであるかも知れない。億泰ひとりで対処出来るだろうか。今まで彼等は、仗助の“傷を治す能力”に頼るような戦法を取ってきたことが多々あった。記憶と共にスタンドの概念すら失っているらしい今の仗助には、その役割は果たせない。
「億泰くん、大丈夫かな……」
 同じことを考えていたのか、不安そうな表情で康一が言う。彼は自分の腕時計に目を向けていた。仗助が攻撃を受けてからどれだけ経っているのかは分からないが、1時間程度ということはまずないだろう。
「先生、ぼく、億泰くんのところに行ってきます。ひとりじゃあ大変かも知れないから……。仗助くんのこと、お願いしてもいいですか?」
 露伴は小さく溜め息を吐いた。
「まあ、仕方ないだろうな」
「ありがとうございます!」
 勢い良く頭を下げると、康一は「仗助くん、また後でね」とだけ言い残して病室を出て行った。廊下の向こうから、今度こそ「院内は走らないでください!」と叫ぶ声が聞こえた。
「さて、どうするかな……」
 露伴は今一度記憶を失くした仗助へと視線を向けた。己のことすら分からないという状況に不安を抱えているのではと思ったが、意外にも、彼は呑気な顔をしている。
「お前、自分の状況が分かっているのか?」
「一応そのつもりだけど……」
 仗助は首を傾げた。
「オレ、なんか悪いやつに記憶を取られちゃったんでしょう? だからなんにも覚えてない。でも、康一とオクヤスくんがなんとかしてくれるっていうから、それなら、待ってればいいなって」
 彼は「何か間違っていますか?」というような顔を見せた。
 康一がどんな風に説明をしたのかは知らないが、誰かも分からない相手の話を、こうもあっさり受け入れるなんて。これが全くの素の状態の仗助だということなのか。あるいは、不安も恐怖も、生まれながらに持っているものではなく、記憶――つまり経験――から発生するものであり、今の仗助にはないというのか……。
 露伴がそんなことを考えていると、仗助がおずおずと口を開いた。
「あの、えっと、露伴……さん?」
 鳥肌が立った。
「やめろ。気色悪い」
「気色悪い? えーっとじゃあ、露伴先生? あ、岸辺先生? 岸辺さん?」
「やめろっ。……露伴でいい」
 仗助が露伴のことを「露伴先生」と呼ぶことはあるが、それは彼が何か企んでいて猫を被っている時か、それとも露伴と関わりたくなくてわざと他人行儀な態度を取っている時等、あまり喜ばしい状況ではない場合が多い。どうせそこに年上の者に対する――空条承太郎に向けるような――敬意や尊敬の念は込められていないのだ。それならいっそのこと、呼び捨ての方が良い。苗字で呼ばれることには元々あまり慣れていない――何故か仕事の関係者も下の名前に『先生』を付けて呼んでくることがほとんどだ――。
「それと、億泰のことをくん付けするのもやめろ。康一くんの真似をするんじゃあない」
「あ、じゃあ、その人も呼び捨て? オクヤスってどういう字?」
「うるさいなぁ。後で本人にでも聞けよ」
「康一に聞いておけば良かったなぁ。康一、いいやつですね。背は小さいけど、なんか頼れるって感じがする。それに、すごい親切。色々教えてくれました。オクヤスの字は聞くの忘れたけど」
 康一の人柄について否定するつもりはないが、今はそんなことを語り合っている場合ではない。
「仗助。お前、いつまでもここにいるつもりか?」
 今度は仗助は、先程よりもわずかに困ったような表情で首を斜めにした。どうやら、感情という概念までを失くしてしまったわけではないようだ。
「ここって、病院なんですよね? オレ、どこも悪くないって言われたんで、ずっといるのは違うんじゃないかって思ってます」
 「でも……」と続けかけて、仗助は口を噤んだ。ここを出て、どこへ行けば良いのか分からない。その言葉を呑み込んだのだろう。ここにずっといるわけにはいかないと思うのと同じように、誰かに助けてくれと縋って迷惑を掛けることも躊躇っているといったところか。人の手を煩わせたくないという感情は、不安や恐怖とは別のところで作られているのだろうか。
「ぼくは康一くんに君を頼むと言われている。君がずっとここにいたら、ぼくまでここを離れられない」
「あ、そうか。そうなっちゃうのか……」
 仗助が再び悩むような表情を見せたのは一瞬だった。
「帰るぞ」
 露伴の言葉に、少年は笑顔を輝かせた。
「はい!」
 ベッドから飛び出した仗助――ぴんぴんしている。本当にどこも悪くないようだ――を連れて病室を出ようとすると、カルテらしき物を持った医者らしき人物と鉢合わせになった。
「東方さん、どこへ行くんですか」
 30代後半から40代前半といった頃の男は、慌てたようにそう言った後、視線を露伴の方へ向けた。いかにも怪訝そうな目をしている。
「仗助の担当医か?」
「どなたですか? 私の患者をどこへやろうというんですか」
「『私の』?」
 なんとなく、カチンときた。一方仗助は、「あ、東方ってオレかぁ」等と呑気なことを言っている。
「まあ、こちらから探す手間が省けたのは良かった」
 露伴は眉をひそめる男にペン先を向けた。
「ヘブンズ・ドアー」
 彼は本にした男のページに、『東方仗助は検査結果に異常がなかったために即日の退院を許可した』と書き込んだ。
「行くぞ」
「へ? あ、はい。えっと、お邪魔しました?」
「普通、『お世話になりました』だろ」
「ああ、そっか。お世話になりましたぁー」
 2人はなんの用事で病室まで来たんだっけと首を傾げている医者の横を通って、駐車場にある露伴の車へと向かった。

「お邪魔します」
 軽やかな声でそう言ってから、仗助は露伴の自宅へと足を踏み入れた。
「どうして自分の家ではないと分かる?」
 露伴は眉をひそめた。
 仗助を彼の自宅へ送っていくことは考えた。だが、母親が早く帰ってくる可能性がないとは言えない以上、露伴の家で大人しくさせておく方が良いだろうと判断した。そのことを、露伴は仗助に説明していない。
「だって、『岸辺』って書いてあったでしょ?」
 仗助はそう言いながら、家の前にある表札の方を指差した。その表情は、まるで無邪気な子供のようだ。彼は露伴の車の助手席――左ハンドルなので一般的な車とは逆の位置だが――に座って流れる景色を見ている間も、ずっとそんな様子だった。端的に言うと、どこかはしゃいでいるような、そんな顔。
「オレ、記憶はないんですけど、病院は病院だって分かったんです。この服が学生が着る物だってこととかも。……ちょっと変わったデザインだけど、これ、そうですよね? そういうのは忘れてないみたいで。そもそも言葉も分かるし。不思議ですよね。でも、こんな車に乗ったのは、たぶん本当に初めてですよ。かっこいい車ですね。それに高そう。ちょっと狭いけど、きっとそういうデザインなんですよね」
 本来の仗助であれば「なんでこんな狭いスポーツカーなんて乗ってるんだよ」と文句を言っていたかも知れない。今の仗助は、ひと言で言うと素直過ぎる。見る物全てに対して関心を抱き、目を輝かせ、人の言うことはなんでも信じる。こんな状態で敵意を持つ者とでも遭遇すれば、どんなことになるか分かったものではない。
 露伴は仗助にリビングのソファに座っているようにと指示した。そして許可なく外へ出るなと――書き込みは行わず言葉だけで――命じた。仗助はやはりあっさりと「分かりました」と応じた。
「で、本当に何も思い出せないのか」
「うーん、さっきも言ったけど、物の名前とかはちゃんと分かるんですよ。これはソファ。これはテーブル。あってるでしょう? 文字も読めた。計算も出来る……と思います。難しいのでなければ。他にも、頭の中に“なにか”があるような気はするんです」
「なにか?」
「はい。でも、なんかもやもやしてて、はっきり見えない感じで」
 そうしていれば“それ”が見えてくるというわけでもないだろうに、仗助はしきりに首を傾げている。何か“切っ掛け”があれば引き出すことが出来る記憶が残っているのだろうか。
「とりあえず、もう1度“読んで”おくか」
 先程はじっくり読んでいる暇がなかった。改めて読んだところで、解決の糸口になるような物が見付かるとは正直あまり期待していないが。
「よむ?」
 案の定、仗助はその意味を解していないようだ。
「康一くんから聞いていないか? ぼくのスタンド、ヘブンズ・ドアーは、人や動物を“本”にしてその記憶や経験を“読む”ことが出来る」
 すでに今の状態の仗助に対してその力を断りなく使っていることは伏せておく。
「スタンドって、康一が言ってた“スタンド使い”のスタンドですか?」
「分かり易く言うと、超能力みたいなものだ」
「それは康一が少し言ってました。よく分からなかったけど。えっとじゃあ、露伴のスタンドは、オレの頭の中を見られる……ってことですか?」
「そうだ。ただし、記憶を奪われた後の状態の、な」
 仗助はなるほどと頷いた。そして、
「なんか緊張します」
「は?」
 露伴が眉をひそめると、仗助は何故か照れたように頬をかいた。
「今から、また“見る”んですよね? なんていうか、女の人が医者の前で服を脱ぐ時って、こんな感覚かなって思って。必要だってのは分かってるんだけど、ちょっと恥ずかしいような」
「記憶喪失のくせにおかしな例えは思い付くんだな。服を脱ぐ必要はないが、じっとしてろ」
「はい」
 背筋を伸ばして妙に良い姿勢を取る仗助を、露伴は再び本に変えた。病院でさっと目を通しただけの箇所とその先を、改めて読んでいく。

  電話をしに行っていたコウイチが戻ってきた。
  コウイチは『康一』という字を書くらしい。
  健康のコウに、漢数字のイチ。
  康一(呼び捨てでいいと言われた)がそう説明してくれた。
  オレの字は『東方仗助』。
  これも康一が、紙に書いて教えてくれた。
  難しい字じゃなくてラッキー。
  康一は今のオレがどうなっているのかを改めて教えてくれた。
  普通の人にはない『スタンド』という『力』を使う『スタンド使い』。
  オレの記憶がないのは、そいつの仕業らしい。
  友達のオクヤスくんがオレの記憶を取り戻しに行ってくれているけど、少し時間が掛かるかも知れないそうだ。
  康一はオレも『スタンド』を使えるのだと言った。
  でも、オレはそれを忘れてしまった。
  どうやって使うのかも分からない。
  康一はオレの『スタンド』は強くてかっこいいと言った。
  それなら、忘れてしまって残念だ。
  オレも見てみたかった。
  記憶が戻れば、きっとまた使えるようになるんだろうけど(だからオクヤスくん、頑張って!)。

 本来の仗助から受ける印象よりも文体が幼いように感じるのは、情報源のほとんどが康一との会話によるものであることが原因だろう。もし状況の説明をしたのが億泰だったら、きっとこうはなっていなかったに違いない。
 露伴は先のページへと目をやった。
 状況の説明が終わると、これといった話題がなくなってしまったのか、康一はしばし学校のこと等を話して聞かせていたようだ。そうしながら、何か覚えていることはないか探っていたのだろう。それでいて当たり障りのないことばかり――「大切な人のことを忘れてしまった」等とショックを受けないような、軽い内容ばかり――を選んでいたようだ。今日は午前中で授業が終わりだったことや、最近学食のメニューが新しくなったこと等の雑談――といっても、仗助はほぼ一方的に聞いていただけだったらしい――が続いた他は、彼の記憶に変化はなく、新しく記された人物の存在も、露伴が書き込みを行った医者――それも、『どこも悪くないと説明をしにきた病院の先生』程度の描写のみで、彼に対して仗助が特記するほどの感情を向けた様子はない――くらいなものだった。

  しばらくすると、康一がさっき言っていた『知り合いの人』を迎えにいってきた。
  この人の名前は『岸辺露伴』。
  康一は「先生」と呼んでいるけど、教師や医者ではないらしい。
  変わったピアスをしている人だ(それともイヤリング?)
  露伴が近付いてきて、一瞬意識がなくなった気がする。
  何かされた?
  また記憶がなくなったんだろうか。
  でもオレは東方仗助で、近くにいるのは康一と露伴。
  それは覚えている。
  オレは今どうなっているんだろう?

 先程見たのはこの辺りまでか。その時と比べると、記憶の記述は着実に増えているようだが、やはり今日の下校時より前のことは何も書かれていない。そして、やはり新たに書き込みを行うことも出来なかった。『思い出す』とでも書いてその通りになってくれれば手っ取り早いのに。

  なんだかよく分からないけど、とにかく病院を出ることになったみたいだ。
  康一はどこかへ行ってしまったけど(「また後で」と言っていたから、また会える?)、露伴が一緒にいてくれるみたいだから良かった。
  でも、露伴は最初に会った時からずっとちょっと怖い顔をしている。
  オレ、嫌われてるのかな?
  オレって嫌われるようなやつだったのかな。

 自分の第一印象はあまり良いものではなかったようだ、と露伴は思った。だが“本当の初対面”の時と比べれば、遙かにマシだと言えるだろう。今の仗助は露伴にそのご自慢の髪の毛を馬鹿にされてキレたことも――そういえば、今は髪型への執着はどうなっているんだろう。記憶がなくても、貶されれば反射的にキレるんだろうか……。試してみるつもりはないが――、その結果として露伴を休載に追いやったこともまるで覚えていない。
 虫眼鏡まで持ってきてページの細部までチェックしてみたが、この状況を打破出来そうなことも、面白いと言えるようなものも、何も見付けられなかった――その代わり虫眼鏡を手にしたのを切っ掛けに、仗助とのサイコロ勝負とその後自宅に火が付いた時のことを思い出して少々腹が立った――。やはり本体を捕まえる以外ないのか。
 虫眼鏡をきちっと棚の引き出しにしまい、ヘブンズ・ドアーの能力を解除すると、仗助は落ち着かない様子で視線をあちこちへと彷徨わせた。
「何か、その……、変なこと書いてありましたか?」
 どんなことが書いてあれば、彼の言う『変なこと』に該当するのかは知らないが、「今の君は本にして読むまでもなく充分変だと思うけどね」と言ってやった。仗助はやはりそれを間に受けたようで、「そうかぁ。オレって変なのかぁ」と、憤慨するでもなく呟いている。全く、調子が狂う。
 とりあえず今は康一と億泰がどうにかしてくれるのを待つ他ないようだ。ただ待つよりは加勢しに行きたいところだが、何も出来ない仗助をひとりにしておくことも、連れて行くことも出来ない。実に退屈だ。
「露伴」
 仗助は――彼がそんなことをするのかは知らないが――授業中に発言をするように手を挙げた――今ばかりは「先生」と呼んだ方が合っていそうだなと思った――。
「なんだ」
「お腹空きました」
「子供か……」
 自我を持ってから数時間程度しか経っていないようなものだと考えると、むしろ驚くべき成長速度だと思うべきなのだろうか。
「何か食べさせろって? 図々しいやつだな」
「“記憶が戻ったオレ”に請求してください。康一が言ってたんです。オレ、今日は午前中で学校終わりだったから、昼食べてないんだって」
 そういえばそんなようなことが“書いて”あった。
「食事も取らずに走り廻らされているのか。可哀想に、康一くん」
「康一だけ? オレはともかく、オクヤスは?」
「変な時間に食ったら、夕食に影響するぜ」
「オレ今日家に帰って晩飯食べられるのかな。そもそも家ってどこ?」
「ったく……」
 仕方なく紅茶をいれてやることにした――「それで我慢しろ」と言ったら、仗助は「それでいいです」と言った――。台所までついてこようとするのをじっとしていろと制して、ポットと大振りのカップを2つ用意する。数分後、褐色の液体を入れたカップを持って戻ると、仗助は大人しくソファの端に座っていた。その姿は、「まて」と命じられた大きな仔犬を彷彿とさせた。
 ふと思い付いて、露伴はカップの傍に砂糖とミルクを置いてみた。仗助は迷った風でもなくその両方を紅茶に入れた。出された物は使うものだと思っているのか、それとも元からの習慣が残っているのか……。どちらにしても、露伴に判断出来ることではなかった。
「あ、美味しい」
 紅茶を啜った仗助は、ぱっと表情を明るくさせてそう言った。
「露伴、これ美味しいですっ」
「そりゃあ良かった」
 露伴はL字のソファの――仗助がいるのとは――反対側の端に座り、「君がぼくの家で紅茶を飲んでるなんて、かなり特殊な事態なんだぜ」という台詞を紅茶で喉の奥へ流し込んだ。

 空は暗くなり始めていた。康一達からはまだ何の連絡もない。そろそろ仗助の母親へなんと説明――あるいは言い訳――するかを考えなければ……。露伴がそう思い始めた頃、仗助はこの状況にすっかり慣れたのか、あるいは飽きてしまったのか、最初の畏まったような姿勢は完全に消え、今はソファの上に半分崩れている。
「ろはーん。暇なんですけどぉ」
「うるさいな。大人しくしてろよ」
「してますよぉ。露伴んちってゲームないの? オレ、覚えてないけどゲームの達人だった気がしてきた」
「それは気の所為だ」
「オレの趣味ってなんだったんだろう」
「さあ?」
 少なくとも漫画は読まないやつだった。今なら勧められれば読むだろうか。露伴がそう考えていると、仗助は斜めになっていた体を起こし、じっと視線を向けてきた。
「なんだよ」
 露伴は仗助を軽く睨んだ。
「質問してもいいですか?」
 それ自体がすでに質問だ。露伴が駄目だと言わずにいると、仗助は身を乗り出すように姿勢を変えた。
「露伴って、オレのなんですか?」
 そう尋ねた顔は、妙に真剣であるように見えた。仗助が記憶を失くして以降、初めて見せる表情だったかも知れない。
 露伴が質問の意図を考えていると、仗助は待ち切れないとでも言うようにさらに口を開く。
「康一とオクヤスは同じ学校の友達だって聞いたけど、露伴は? 露伴も友達ですか? けど、年離れてますよね? 3つくらい? 4つ? 学校の先輩とかですか?」
 その疑問はむしろもっと早くに思い付いていても良いくらいだっただろう。仗助の目には、露伴の態度は康一のそれと比べると友好的とは言い難いものに映っているに違いない。それなのに自宅において、お茶もいれてくれた。どういう関係の人間なのだろうと思うのは普通のことだ。
 露伴はとっくに空になっているカップを持ち上げながら、抑揚の乏しい声で言った。
「恋人」
「えっ!?」
 仗助はひっくり返ったような声を上げて、目を見開いた。
「って言ったら、どうするんだ?」
 にやりと口角を上げてみせる。仗助は数秒の間の後に、怒っているのか笑おうとしているのかよく分からない顔をした。
「えっ、へっ? あ、じょ、冗談っ?」
「当たり前だろ、バーカ。なんでぼくが君なんかと」
 露伴はカップを持ってすたすたと台所へ移動した。それを、文句を言いながら仗助が追い掛けてくる――先程勝手に動くなと言ったことは、もう時候になっているらしい――。
「ひどいっ。びっくりするじゃあないですか、もうっ」
 仗助は露伴を真似るように両手で自分が使ったカップを持ってきていた。シンクに置くように指示すると、大人しく従った。
「他には?」
「へ?」
 蛇口に手を伸ばして水を出しながら、まだ背後にいる仗助に尋ねる。顔は見えなくても、困惑した様子は伝わってきた。
「他……って?」
「どう思ったって聞いているんだ。『ひどい』。『びっくりした』。その他の感想は? ぼくは漫画家だからね。色んな人間の感情を知りたいんだよ」
「へぇ、そういうもんなんですか」
 やはり仗助は素直に信じた。「謝れ」とでも言ってきそうだと思った露伴が適当なことを言ってそれを回避しようとしているとは微塵も気付いていない。ちらりと表情を伺うと、彼は何故か妙にそわそわと落ち着かない態度をしていた。
(……なんだ?)
 様子がおかしい。
 仗助は歯切れの悪い口調で言った。
「えっと、さっきも言ったけど、びっくりしました」
「それはもう聞いた。他にないなら……」
 「あっちへ行っていろ」と言いかけたところで、仗助は「あと」と続けた。
「……嫌じゃないっていうか、少し、嬉しかったような……」
 露伴は無意識の内にカップを洗う手をとめていた。
(聞くんじゃあなかった)
 仗助らしくない仗助なんて、見ても楽しくもなんともない。照れたように視線を逸らす姿なんてものは、その代表格。気持ち悪いだけだ。だというのに、露伴の両の耳はしっかりと仗助の声に集中している。何故だ。
「オレ、自分がどんなやつだったのかも覚えてないけど、たぶん、露伴のことは嫌いじゃなかったと思うんです。もし本当に露伴が恋人だったら、きっと“オレ”は嬉しいって思うと思います」
 なんだこの状況は。本来の仗助ではない仗助から、仗助が露伴のことをどう思っているかを聞かされる……? それは元の仗助の意に反しているのか? いないのか? いや、そもそもどこまでが真実だ。ああ、なんだかややこしくなってきた。
 だが露伴は、ひとつ気になっていることがあったのを思い出していた。一度白紙に戻された仗助の記憶を読んだ時のことだ。その時はかすかな違和感の正体には気付かなかった。だが、たった今分かった。そこに記された自分の名前……。

  この人の名前は『岸辺露伴』。

 仗助は、康一に教わるまで『コウイチ』という名前がどのような字で書かれるのかを知らずにいた。そのため、その表記は音のみを表すカタカナになっていた。億泰の名前や、自分の名前ですらそうだった。にも拘わらず、露伴の名前は初めから――表札を見る前から――『岸辺露伴』と正しく書かれていた。康一が教えたとはどこにも書いていないのに、だ。どこにでも良くあるありふれた名前ではない。手当たり次第に送りつけているとしか思えないような広告の類なんかは、宛名を『岸部』と間違えていることも多いくらいだ。それを、記憶がないはずの仗助は一発で正しい漢字で“書いて”みせた。
「頭の中にあるのにはっきり見えないもの……。それって、露伴なのかも知れないです」
 仗助の記憶の奥底で消えずに残ったもの。それが、
(……ぼく……だって?)
 それは何を意味するのか。
 不意に、仗助は手を伸ばした。それが肩越しに振り返ったままの自分の体のすぐ横を通っていき、露伴は無意識の内にびくりと肩をはねさせた。いつの間にか彼は露伴のすぐ傍に立っていた。仗助があと1歩足を前へ踏み出すか、露伴があと1歩体を横へ移動させるかすれば、2人の体が触れ合うほどの距離に。
「露伴……」
 仗助の声は露伴の耳のすぐ横――の少し上――を通った。くすぐったさに似た感覚に、露伴は肩を強ばらせる。
「水が」
 伸びた仗助の手は、蛇口を捻って出しっぱなしになっていた水を止めた。なんだ、それがしたかったのかと露伴が思ったのとほぼ同時に、唇に柔らかいものが触れてきた。「ちゅ」と小さく音が鳴る。蛇口を閉める音とは別に。
 水の音が止んでしんと静まり返った空間に、状況を解せずいつも通りのテンポで脈を打つ自分の心臓の音だけが聞こえる。
「……は?」
 数回の心音を聞いた後にやっと口から出た音は、少々間が抜けて聞こえた。
「そういう雰囲気かなと思って。……違いましたか?」
 仗助は首の後ろをかきながら言った。頬がわずかに赤く染まって見える。
「……嫌だったらごめんなさい。謝ります。……でもオレは、したいと思ったんです。なんで、とか、分からないけど」
 仗助の記憶が戻ったら、今のことが書かれたページはどうなるのだろう。そのまま残るのか、それとも、本来なら存在しなかったはずのページとして、無に帰るのか。どちらであっても、通常の状態に戻るのであれば、露伴が書き込んで改竄することは出来るだろう。そう。どうせ消える――消せる――。ならば、今ここで「何をするんだ」と声を荒らげる必要はない――そうする意味はない――と言えるかも知れない。そのタイミングは、もうとっくに逃してしまっていることだし。
(そうだ。これは、誰の記憶にも残らない……)
 今度は、露伴の方から――少し踵を浮かせた体勢を取って――キスをした。その理由を問われれば、たぶん彼は「好奇心で」と答えるだろう――あるいは、呪いを解くのは口付けであると昔から相場が決まっているからと茶化すのでも良いかも知れない――。だがその問答も、どこにも残らない出来事の一部だ。
 ゆっくりと離れた唇が、何かの言葉を紡ごうとわずかに動く。だがその直後、全くの不意に、仗助の体がぐらりと傾いた。露伴はとっさに手を伸ばそうとしたが、間に合わず――間に合っていたところで、露伴の力で180センチ以上もあるその体を支えることは出来なかっただろうが――、仗助はそのまま崩れ落ちるように床に膝を付いた。
「仗助っ! おいっ、どうした!?」
「なん、だ……? なんか……、すっげぇ、眠い……」
「仗助っ!」
 呼び掛ける露伴の声を邪魔しようというかのように、電話のベルが鳴り出した。
「くそっ、こんな時にっ……」
 無視をしようと思ったが、ふと気付いて顔を上げる。
「もしかして……」
 露伴はその場に仗助を残し、電話機へと走った。受話器を耳に当てると、康一の弾んだような声が聞こえてきた。
『先生! やりました! 今、スタンド能力を解除させたところです!』
 前振りも何もないその言葉は、ゆっくりと露伴の中に浸透していった。
「そう……か。じゃあ、仗助は元に戻ったんだなっ?」
 もちろんそれを確かめるための電話だろう。露伴は「少し待っていてくれ」と断ってから受話器を伏せて置いた。台所へ戻ると、仗助は胎児のように体を丸めて眠っていた。その表情は穏やかだ。おそらく、今正に記憶の書き換えが行われているのだろう。この数時間の内に作られた新たな記述が消え、本来のページが戻ってくる。露伴はそんな光景をイメージした。きっと目が覚めたら、そこにいるのはいつも通りの東方仗助だ。
『露伴先生、仗助くん、どうでした?』
 電話口に戻ると、康一が尋ねてきた。その後ろで億泰が「どうなったんだよ」とわめいているのもかすかに聞こえる。
「眠っているよ。台所の床でね。データの書き換え中は操作不可能ってところじゃあないかな」
『記憶が戻ってきたかどうかって、確かめられませんか?』
「少なくとも、君が言っていたテープのような物が飛んできたりはしなかったな。確認は本人が目を覚まさないと無理じゃあないかと思うね」
『そうですか……』
 本当は、眠っている人間でも本にすることは出来るかも知れない。だが開いたページに、もし自分の名前があったら……。それがどんな風に書かれているのか――“本来”の仗助が自分をどう思っていたのか――、露伴は知りたくないと思った。知らずにいれば、存在しないのと同じことだ。知らないままでいれば、何かを変えずにいられる。友達でも、先輩後輩でも、ましてや恋人でもない。良くも悪くも、2人はそんな関係のままでいるのが平穏なのだろう――時々衝突することはあるが――。

 康一と億泰が露伴の家へとやってきた時――タクシーを使ったらしい――、仗助はまだ目を覚ましていなかった。16年分の記憶を“書き直す”のに、思ったよりも時間が掛かっているようだ。
 「床は酷くないか」と言う億泰に、「ぼくひとりで運べるわけないだろう」と露伴が言い返しながら手を貸して、2人掛かりで仗助をソファへと移動させた。それからさらに1時間も経ってから、彼はようやく目を覚ました。
「仗助くん!」
「仗助! オレが分かるか、おいっ!?」
 飛びつかんばかりの勢いの康一と億泰を、露伴は少し距離を取った場所から見ていた。仗助は呑気に欠伸をしてから返事をした。
「よう、億泰。康一も。何騒いでんだよ。ってか、ここどこだ? オレ何してたんだっけ?」
 起き上がった仗助は、不思議そうな顔で周囲を見廻している。
「覚えてないの?」
「学校出た記憶はあるんだけど、その後どうしたんだっけ? ここどこだ?」
「露伴先生の家だよ」
「えっ、なんで?」
 どうやらスタンド攻撃の影響を受けていた間のことは、忘れているらしい。露伴は心の中で「“消す”手間が省けたな」と呟きながら、組んだ腕の下で隠すようにして持っていたペンを胸ポケットにそっと戻した。
 その後仗助は康一の――本日二度目の――説明によって、何が起こっていたのかを把握した。聞かされること全てが初耳であるらしい仗助は、そのひとつひとつにいちいち驚きの声――「マジかよ」「本当に?」「嘘だろ?」――を上げていた。
「ぜんっぜん覚えてねーわ」
「お前、別人みたいになってたんだぜ」
「うんうん。大変だったんだからぁ」
「記憶ないってこえぇー。で、そのスタンド使いはどうしたんだ? なんの目的でオレの記憶を取ったんだよ」
「あ、それはまだ聞いてない」
「仗助が目ぇ覚まして記憶が戻ってんの確かめてからの方がいいと思ってよ」
「今そいつどこにいるんだよ」
「玄関の前。この家の。逃げねーようにロープでふん縛ってあるぜ」
「おい。ヒトんちの敷地内におかしなものを放置するんじゃあないぞ」
 今すぐどっかにやってこいと言いたいところだが、すでに1時間はその状態で放置されていたことになるはずだ。近隣の住人に見られていない幸運を祈るしかないか……。
「露伴先生も、どうもでした。覚えてないけど、お世話になっちゃったみたいで」
 仗助は露伴の顔を見ると、軽い様子でぺこぺこと頭を下げた。どうも真面目さが感じられない。世話になった自覚――記憶――がないのだから無理もないのかも知れないが、
(やっぱりムカツクやつだ)
 記憶喪失中の仗助の方が、まだ可愛げがあると言えなくもなかったかも知れない。
「んじゃあ、あとは犯人を問いつめるだけってことだな」
 可愛げ等ひとつもないセリフを口にしながら、仗助は準備運動をするように両腕を高々と伸ばした。
「ぼくはそろそろ帰るよ。すっかり暗くなっちゃった」
「オレも。犯人のことはおめーに任せるわ。腹減ってそれどころじゃあねーし」
「結局お昼食べそびれたね」
「マジか」
「おめーのために走り廻ってやったんだからな! 今度なんか奢れよ仗助!」
「へいへい。今度な」
 帰ることに決めたらしい2人と一緒に外へ向かって歩き出した仗助は、不意に足を止めてくるりと振り向いた。
「露伴先生にもお礼しないとっスね」
「いらない。さっさと帰れ」
「遠慮しないで。まあ、今あんまり金は持ってないけど。あ、絵のモデルになってあげましょーか? カッコイイ仗助くんがモデルだなんて、さぞかし絵になるだろうなぁ」
「いらない」
「それともアシスタントとか? 漫画ってどうやって描くのか知らないけど」
「たぶん、露伴先生ひとりで描いた方が早いと思うよ」
「それ以前に、いらない」
「じゃあ家政夫とか? 食器でも洗いましょうか」
「それはさっきもうやった」
「じゃあ今度はオレが先生に紅茶いれてあげますよ」
「いらないと言っているだろ! さっさと――」
 帰れ。そう言おうとした露伴は、しかしその場に凍り付いた。
「……おい」
「はい?」
 仗助はにこにこと微笑んでいる。
「今お前なんて言った!?」
 「紅茶を」と言った。「今度はオレが先生に」と。露伴が仗助に紅茶をいれてやったことは、これまでに一度しかない。その記憶は、消えたのではなかったのか。
「お前まさか覚え――」
 露伴は咄嗟に手を伸ばしていた。それから逃れるように、仗助はさっと踵を返した。わざとらしく大きな声で「さぁて、犯人の顔見に行ってくるかぁ」等と言っている。
(おい、まさか、冗談だろ!?)
 自分がしたこと――忘れることに決めていたこと――を思い返して、露伴は蒼褪めた。誰の記憶にも残らない前提であったからこそ、普通ならありえない“あんなこと”をしてみる気にもなったというのに。もし仗助の記憶が、今も残っているのだとしたら……。
「ヘブンズ――」
「それじゃあ露伴先生っ、お邪魔しましたぁ!」
 半ば叫ぶように言うや否や、両隣にいた康一と億泰を突き飛ばさんばかりの勢いで、仗助は外へと飛び出していった。ドアの向こうから聞こえてきた「おっと、お前が犯人だな!」という声は、心なしか弾んでいるように響いた。
「……なんだあいつ?」
「さぁ……?」
 残された2人は何を考えているのかさっぱり分からないというような顔をしている。
 露伴は頭をフル回転させた。今すべき最良の行動はなんだ。すぐに追って行って、ヘブンズ・ドアーで仗助に書き込みをすることは可能か。いや、元々仗助には“波長”の問題で露伴の能力が効きにくい。無防備な状態ならともかく、本にされてたまるかと身構えている時であればなおさらだろう。それよりも、一度は仗助の記憶を奪うことに成功している“犯人”に、もう一度その能力を使わせた方が良いか。
(『仗助の今日1日分の記憶を奪う』と書き込んで操れば……!)
 相手を仗助がぶちのめしてしまう前に。
「それだあァっ!!」
 ペンを構えた露伴は、叫びながら走り出した。
「露伴先生まで……」
「……なんだあいつ等?」
「さぁ……?」


2020,02,24


捕まえた犯人が実は日本人の女で、外国人の男って言ってたのはなんだったんだ!? いやぁ、人間の記憶って曖昧なもんですねテヘペロ☆ ってオチが書けなかったので後書きに書いちゃいます。テヘペロ☆
<利鳴>

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