アバブチャ 全年齢 ミスジョル、フーナラ要素有り


  I'veTrainedByYourHand


 家族と一緒にいる時にテレビをつけたら、たまたま濃厚なラヴシーンが映し出されて空気が気まずくなる。という経験をしたことがある者は、おそらくそう少なくはないだろう。アバッキオの今の心境は、それに少々近かった。が、彼の目の前にあるのはテレビの画面ではない。そもそもここは彼の自宅ではないし、家族がいるわけもない。
 事務所のドアを開けた途端に視界に飛び込んできたのは、お互いの肩と背中に腕を廻し、今正に唇を重ねようとしている2人の男――“男女”ではない――の姿だった。
 その空間にいる3人の動きがほぼ同時に止まる。視線は2対1。口は「あ」の形に開いたままだが、声は出ていない。
 実に気まずい。それに、いつまでもそんなものを眺めていたくもない。が、今入ってきたばかりのドアから慌てて出て行くのもどうだろうと思う。そんなことをすれば、まるで自分が悪いことをしたみたいではないか。どう考えても悪いのは、人が出入りする時間帯であるにも関わらず事務所なんかでいちゃつこうとして――いや、実際にいちゃついて――いるミスタとジョルノの2人だというのに。
 時間が止まったかのような沈黙は、数秒続いた。かと思うと、照らし合わせたかのように全く同じタイミングでミスタとジョルノは何事もなかったかのように――アバッキオなんて存在していないかのように――“再開”しようとした。
「続けんなッ!!」
 アバッキオはミスタ――の方がわずかに近い位置にいたので――の背中を蹴り飛ばした。ぎゃあと声を上げながら、2人は崩れ落ち――ジョルノは巻き込まれるように尻餅をついただけだったが、ミスタの側頭部からは少々派手な音がした――、やっと離れた。
「いったぁ……。何するんですか。乱暴だなぁ……」
 立ち上がるのよりも先に睨むような視線を向けてきたのはジョルノだ――ミスタはまだ倒れている――。
「テメー等、人を無視しやがって」
「構って欲しいんですか? 混ざりたいんですか?」
「ふざけんなッ!」
「ぼくだってごめんです」
 ふんと鼻を鳴らすように顔を背けると、ジョルノは立ち上がって服に付いた埃をぱたぱたと払い落とした。ミスタも、手で頭を押さえながらようやく上体を起こす――無事だったようだ――。子供が見たら間違いなく泣き出すであろう形相で睨み付けてやっても、2人が狼狽える様子はまるでない。
「そもそも、見なかったフリをするのが紳士ってものですよ」
 ジョルノは肩にかかった髪の束を後ろに跳ね除けながら、「自分には全く非はないのに」とでも言いたげな目を向けてきた。
「お前が紳士を語るんじゃあねぇ。どの口が言ってやがる」
 「そういうのは人目を憚るのが大人のマナーってやつだぜ」と言い返してやると、ジョルノは肩を竦めるような仕草をしてみせた。
「ぼくまだ未成年ですし」
「オレまだ18だし」
 ミスタまでそんなことを言い出した。
「18は成人だろうがッ」
「国によっちゃあまだガキだって」
 そうだった。子供とは総じて、都合のいい時――あるいは悪い時――ばかり子供振る生き物だった。
 アバッキオは溜め息を吐いた。
「ってか、別にいいだろ、キスくらい」
 今度はミスタのターンであるようだ。アバッキオに負けないくらいの溜め息と、しらけた視線でそう言った。ジョルノは合いの手を入れるように「そうですよ」と頷いている。
「なにもその先までここでしようってんじゃあないんだからよぉ」
「そうですよ」
 ここ以外ならやるつもりだと言っているも同然ではないか。
「この程度のこと、誰でもやってるって」
「そーですよ」
 段々イライラしてきた。
「ったく、最近のガキは……」
 先程よりも深い溜め息を吐く。それを見て、ジョルノは揶揄するようにその表情を歪めた。
「えー? なんですか、もしかして自分が相手にされないからって、僻んでるんですかぁ? ヤダー」
 抑揚のないわざとらしい声に、アバッキオの中で何かが切れた。
「テメー等っ……」
「あ、怒った」
「図星?」
「散れッ!!」
 吠えるように怒鳴り付けると、ミスタとジョルノはこれまたわざとらしい悲鳴――「わーわー」「きゃーきゃー」――を上げながら出て行った。

 書類の整理を終えてから帰ると言うブチャラティを手伝って、アバッキオも事務所に残った。自分も手伝おうかと申し出る者はあった――主にフーゴ――が、2人もいれば充分だからと、ブチャラティは他のメンバー達をさっさと帰してしまった。自分だけはその場に残されたという事実に、頼りにされているのか、あるいは“使い易い”と思われているのかと、アバッキオは首を傾げる。が、どちらであったとしても、彼が取る行動は変わらない。すなわち、異論があるはずはない。むしろ他の者達へ対する優越感――選ばれたような気持ち――すらあった。
 2人で黙々と仕事を片付けてゆくのは、日中出くわしたミスタとジョルノの“ラヴシーン”や、その数時間後に起こったフーゴとナランチャの殴り合い――原因は知らないがおそらくくだらない理由なのだろう――と比べると、嘘のように静かで、穏やかな時間であるとさえ言えただろう。ペンを走らせる音と、紙を捲る音、時折交わされる短い言葉――仕事内容の確認のためのものが主――以外、耳に届くものはほとんど何もない。
 そんな空間に漂う、コーヒーの香り。作業を始める前に、リーダー自らわざわざいれてくれたものだ。飲み干してしまうのが惜しくて、ひと口分だけ残してある。それを見たブチャラティが、わずかに笑う。これ以上のものを望めば罰が当たるだろうと思えるほどの時間だ。
 だが、と、ふと思う。この平穏とも呼びたくなる時間と空間は、いつ破られるとも知れぬ危うさの許に存在している。裏社会に属している彼等の身には、いつ何が起こっても不思議ではない。等という重い話を別にしても、日中の事務所は少々賑やか過ぎる。小学校じゃああるまいし。とは思うが、今はすでに帰宅しているであろう残りの4人の平均年齢――17を切る――を考えれば、学生ではあってもおかしくない――実際、ジョルノは学校に籍を残したままでいるらしい――。だがせめて、もう少し……、
(オレの束の間の平穏くらいは残しやがれっ!)
 ただのワガママである。それも、誰かに聞かせれば大人なんだからそのくらい……と呆れられそうなレベルの。結局ブチャラティの周りには子供しかいないのか。
「ブチャラティ」
 作業がひと段落した頃を見計らって声を掛けてみた。ブチャラティは書類の束を大きめのクリップで纏めながら、顔を上げた。
「どうした?」
「……“あいつ等”のことだが」
「あいつら?」
 もちろん、ここにはいない4人の仲間達のことだ。
 ブチャラティが首を傾げると、すっかり暮れた窓の外の空よりも深い黒色の髪がさらりと揺れた。
「なんて言うか……だな、もう少し“躾け”られねーのか」
「しつけ?」
 そう言われても、ブチャラティの中にピンとくるものはないようだ。彼の心が広いのか――アバッキオがそれの真逆なのか――それとも10代4人組がリーダーの前では自由過ぎる振る舞いを控えているのか……。いや、昼間のフーゴとナランチャの殴り合いの現場にはブチャラティもいたか……。にも関わらず、彼は「何かあったか?」と再度首を斜めにする。戦いの場にその身を置いている時のような鋭さは、何故か今の彼には存在していないようだ。それが、自分同様、この時を気を張る必要のない穏やかな時間だと感じて――くれて――いるということの証明なのだとしたら嬉しいが。同時に、端から見て、ガキ共の教育も出来ないリーダー自身もまだまだ未熟者だなと軽く扱われてしまいやしないかと心配にもなる。しかし平穏を信じ切っているような彼に、メンバー達の日頃の“素行”を“告げ口”するのもどうかと思ってしまった。それは、自らの“平穏”をも破るような行為に思えたし、特に今日のミスタとジョルノのことをありのままに喋るのも気が引ける。
「その、なんて言うかだな……」
 適切な言葉を探し出せずにいるアバッキオを見て、ブチャラティは余程深刻な話なのかと身構えるように真剣な表情をした。アバッキオは慌ててそれを否定する。
「そうじゃあない。マジな顔するな」
「軽く出来る話なのか?」
「どちらかと言えば、くだらない」
 考えようとする方が間違っているのだろうか。ブチャラティのように、気にしなければ気にならないのか。
(……段々面倒になってきた)
 この話はなかったことにしてしまうかと思い始めた時、
「じゃあ、その話をすることにするか」
「……ん?」
 今度はアバッキオが首を傾げる。
「ここが片付いたら、お前のアパートに行こうかと思っていたんだ」
 「もちろんお前が良ければだが」と付け足したセリフは、アバッキオにはほぼ聞こえていなかった。彼は知らず知らずの内に拳を強く握っていた――ガッツポーズを取るように――。ブチャラティがそれに気付いた様子はない――幸いにも――。
「この間の依頼人を覚えているか? あの仕事は、確かお前が担当してたな? お前の働きに、よっぽど満足したらしい。報酬とは別に、礼にと言って酒を送ってきたよ。当然、権利はお前にある。外国のちょっと珍しい酒だと言っていた。度数が高いようだから、他のやつ等にはちょっとどうかなと思ってな」
 ブチャラティは人差し指を唇に当てる仕草をしながら、悪戯っぽく笑った。
 イタリアでは、16歳から酒が飲める。だがジョルノは、まだギリギリ15歳だったはずだ――それにあの男には東洋人の血が半分混ざっている。あまりアルコールに強くない可能性がある――。フーゴだって、誕生日がきてから半年も経っていない――せいぜい2、3ヶ月か――。そしてミスタは、自分から「子供みたいなものだ」と言っていたではないか。となれば、当然その彼と彼より年下の者達にも参加させるわけにはいかない。
 一方アバッキオは、とっくに酒が飲める年齢である。しかもどちらかと言えば強い方だと自負している。それにその仕事をした張本人だ。そんな複数の理由から、ブチャラティは自分にも声を掛けてくれたのだろうが、“それだけではない理由”を、アバッキオは密かに期待した。独り占めすることに気が引けて、それならアバッキオ“で”いいかと思ったのではなく、アバッキオ“が”いいと思ってくれたのだとしたら……。
 ブチャラティは「駄目か?」と尋ねた。アバッキオは今夜から明日にかけての予定を思い出そうとすることすらなく、即答した。
「駄目じゃあない」
「ベネ」
 ブチャラティの表情がぱっと明るくなったような気がした。
 残りの書類をさっさと片付けて、2人は事務所を後にした。日中の気温はだいぶ温かい季節ではあるが、陽が沈んでからは少し風が冷たい。が、アバッキオにはそれが心地良いくらいだった。「少し落ち着け」と諭してくれているようですらあった。

 幸いにも部屋はつい先日片付けたばかりの状態を保っていた。早速ブチャラティをリビングに招き、グラスを2つ、テーブルの上に置く。「オレがやる」と言ってブチャラティの手から取り上げた酒の瓶には、異国の言葉で書かれたラベルが貼られていた。アバッキオにはそれを読むことは出来なかったが、おそらく度数を表しているのであろう数字は、ワインのそれよりも高いパーセントだった。
「それで、なんだった? 『躾け』?」
 早速グラスに酒を注ごうとするのをとめるように、ブチャラティが口を開く。大して気にも留めていないような顔をしながら、彼は部下達の声を聞き流しはしない。それを、アバッキオは自分のことであるかのように誇らしく思った。彼を未熟なリーダーだなんて思う者がいたら、その者こそ正しく物事を見ることの出来ぬ青二才なのだろう。
「酒が入る前にしてしまった方がいい話なら……」
「いや、いい。その話はもう忘れてくれ。本当にくだらないことなんだ」
 そんなくだらないことで、せっかくの時間を無駄にはしたくない。
 ブチャラティは束の間訝しげな表情をしていたが、
「いいんだな?」
「ああ」
「分かった」
 そう言うと、寛ぐように背凭れに体を預けた。
「じゃあ、これはただの飲み会だな?」
「ああ」
 参加者が2人しかいないが、アバッキオはブチャラティさえいるのなら、他の誰も必要ない。
 ブチャラティが納得したように頷くのを見てから、アバッキオは酒を注いだ。2つのグラスが透明な液体で満たされるのを待ってから、ブチャラティがその片方を手に取った。アバッキオもそれに倣う。どちらからともなく、グラスを触れ合わせ、口元へと運ぶ。
「お、結構強いな」
「嫌いじゃあないな。わりといける」
 もうひと口飲んでから、ブチャラティは「うん」と頷いた。
「でもやっぱりあいつ等には無理かもな」
 確かに、きつ過ぎると文句を言いそうな顔がいくつか浮かんだ。
「ジョルノはまだ飲めない年齢だったか」
「ナランチャがセーフってのが、ちょっと信じらんねーな」
「本人が聞いたら怒るぞ。でも、数年後には飲酒可能年齢が18からに引き上げられそうな気がするな。2007年くらいから」
「なんだそれ。予言か。もう酔っ払ってんのか」
「国によっては度数によってOKな年齢が違うらしいな」
「面倒臭そうだな」
「イギリス……だったか? ビールは16からで、ワインは18からだそうだ。ジョルノはどっちもアウトで、フーゴとナランチャだと、ビールは飲めてもワインは駄目なんだな。可哀想に」
 早くもアルコールが廻ってきたのか、こんなどうでも良いような話で、ブチャラティは楽しそうだ。それとも、アルコールなんて無関係に、仲間達のことを考えるのが楽しいのだろうか。
「アメリカは確か、21からだったな。ここがアメリカなら、オレはアウトってわけだ」
 アバッキオは、ここがアメリカではなくて良かったと思った。共に酒を飲める相手がいないとは、なんともつまらない。こうして自分のアパートに2人でいることもなかったかも知れないわけか。
「そんなに強いのか、アメリカの酒は」
「そういうことじゃあないとは思うが」
 ブチャラティの誕生日がきたら――彼が21歳になったら――、一緒にアメリカに行こうと誘ってみたら、どんな顔をされるだろうか。「わざわざ酒を飲みに行くのか」と笑うかも知れない。「お前はもう21なんだから、行きたいならすぐに行けばいいんじゃあないか?」なんて不思議そうな顔をされるかも知れない。「イタリアのワインが一番いい」、それも言いそうな言葉だ。が、もっと容易に想像出来るのは、「あいつ等をおいて遊びに行くのは悪い」だ。ブチャラティなら、「最年少者のジョルノが21になるのを待って、皆で行こう」くらい言い出しかねない――なんだそれは、慰安旅行か――。6年も待ってられるか。それなら、今飲む。アバッキオは再びグラスを口元へと運んだ。
「ふふ」
「ん?」
「想像出来ないな」
「あ?」
「21歳のナランチャ」
 自分の発言が余程面白かったのか、ブチャラティはくつくつと笑っている。
「あんたやっぱり酔ってねーか」
 彼も特別酒に弱いタイプではなかったと思ったが、普段飲み慣れていない物を飲んで、酔いが廻るのが思いの他早いのか。
 笑い上戸かと思いたくなるほどに笑っているブチャラティを見て、アバッキオは改めて平和だと感じる。彼と出会えたこと、彼と一緒にいられること、彼の笑顔を独り占めに出来ること、その全てが。
 そして同時に、“それ”だけでは満足出来ない自分もいる。
「なあ」
 アバッキオはグラスを置き、テーブルに手をついて身を乗り出した。
 ブチャラティの瞳がこちらを向く。
「オレといるのに、他のやつ等の話ばっかりするのか?」
 言葉の意味を考えるように、ブチャラティは瞬きを繰り返す。「はて」と首を傾げながら、彼はグラスを取ろうとした。その手を、アバッキオは抑えるように捕まえた。
「分かってんだろ」
 少し睨みながらそう言うと、ブチャラティはくすりと笑った。
(こいつ、分かっててボケてやがる。ずいぶんと余裕じゃあねーか)
 一方アバッキオは、あまり長くこの状態に耐えていられそうにない。どうでも良いような会話。平穏な何もない時間。ただ綺麗なだけの笑顔。それだけでは、足りない。もっと彼が欲しい。昼間のミスタとジョルノに“あてられた”か? いやいや、あんな子供に。それとも不慣れな酒の所為? いや、それも違う――まだそんなに飲んでいない――。それ等は全て関係ない。周りの人間も、出来事も、全部。ただブチャラティのことを愛しく思う。それだけだ。
「泊まっていけるんだろ?」
 先程から時計は見ていない。だがおそらくすでに夜中近い時刻にはなっているだろう。それでもブチャラティは、今からでも帰ると言うだろうか……。いや、返事は聞かずともたぶんすでに分かっていた。「お前の部屋に行ってもいいか」と聞いてきた時から。それとも、他の仲間達を早々と帰してしまった時からだろうか。
「むしろこの時間に帰れって、ひどくないか? 酒も入ってるし、雨も降ってきたし」
 そう言われたが、雨音は聞こえなかった。ブチャラティには聞こえているのか、それとも……? とりあえず、天候を確認するために外の様子を見に行くつもりはない。窓を開けようとすれば、捕まえたままの手を離す必要がある。ブチャラティのスタンド能力を使えば、手だけ持ったままでも移動出来るが、万が一窓の外に人がいて見られでもしたら、殺人事件だと騒がれて通報されてしまう――馬鹿言え、手首くらい切り落としてもそんなに簡単には死なねーと言ったところで、意味はないだろう――。それに、手だけ手に入れても全く嬉しくない。そんな性癖はアバッキオにはない。
「ひどい?」
 アバッキオはブチャラティの言葉を繰り返した。
「それは部下としてか?」
 雨の中へ上司を追いやる部下は、確かにひどいだろう。間違いなく――アバッキオに組織と対立する立場の警察であったという過去がなくても――出世しない。傘を貸してやったとしてもだ。
 ブチャラティは答える。
「むしろ人として」
「……恋人として?」
「ふふっ」
 テーブルに乗り上げるように更に身を乗り出して、笑った唇を口付けで塞いだ。拒む仕草は一切なかった。
「酒の味しかしねー」
「確かに」
 ブチャラティは再び笑う。
「酔った勢いで抱く気か?」
 揶揄するような口調に、アバッキオは「ああ」と返した。ブチャラティはそのままの表情で言う。
「わりとサイテーだな」
 今更そんなことを気にするような仲じゃあないだろと言う代わりに、
「オレはギャングだからな。紳士じゃあない」
 腕を引いて立ち上がらせ、再び口付ける。触れ合っている時間は、先程のそれよりも長かった。少しずつ呼吸が不規則になってゆく。舌を差し入れると、やはり拒まれることはなかった。直接触れた息が熱い。
 2人の間にあるテーブルが邪魔だなと思った。上に何も乗っていなければ、蹴散らしてしまうのに。いや、邪魔なのは酒の入ったグラスや瓶だけではない。お互いの肉体すらも、隔たりにしか感じない。同じひとつになりたい。その欲求が、次第次第に高まってゆく。
 その想いが伝わったのだろうか。呼吸の音に混ざって、囁くような声が言う。
「……はぁ……、アバッキオ、シャワー……」
「ん、先行ってこい」
 気力を振り絞るような気持ちで彼等は離れた。少し紅潮した頬を隠すように、ブチャラティは横を向く。バスルームの場所とその辺にあるタオルと着る物を適当に使ってくれて構わないというセリフは、もう言わなくても彼はすっかり把握している。
 リビングを出て行く背中を見送って、アバッキオは心の中でガッツポーズを取った。久々に与えられた“機会”に、そうせずにはいられなかった。
 “久々”なのには理由がある。しばらくの間イレギュラーな依頼が多く続いて多忙だったことが大きな例だが、後輩――ブチャラティにとっては部下――が増えたこともそのひとつだろう。子供が近くにいることが多くなったとあっては、迂闊に抱き合うことも出来ない。人の目が多いと、色々不自由だ。実際、アバッキオはそんな現場に今日出くわしたばかりだ――立場は逆だったが――。だが少人数のままだと、それはそれでひとり当たりの仕事量が多くて時間的な余裕が持ち辛くなってしまうのだろうから、どちらが良いとは一概には言い難い。難しいものだ。
 部屋の中は静かだった。賑やかなのも時と場所と場合によっては良いのだろうが、やはり落ち着けるのはこちらだなとアバッキオは思った。だが、静か過ぎるのもまた問題かも知れない。ともすればバスルームからシャワーの音が聞こえてはこないかと、無自覚の内に意識を向けてしまっている。
 ぶんぶんと頭を振り、テレビのリモコンに手を伸ばした。電源を入れると、過去に何度か見たことのあるアクション映画が映った。面白いかと問われれば、微妙と答えるような内容だったが、静けさを打ち消すには不足ない。加えて、いきなり濃厚なラヴシーンが映し出されることもなかったはずだ。
 派手さを重視して過剰演出になっているのか、銃声が大き過ぎて嘘臭いなと思いながら画面を見るともなしに視界に入れていると、しばらくしてブチャラティがバスルームから出てきた。アバッキオが貸した寝間着は彼には少し大きいようで、丈が余っている。普段は丁寧に編み込まれている髪は下ろされ、髪飾りも付いていない。初めて見る姿ではないが、見慣れているとも――まだ――言い難い。
 今すぐ触れたいのを堪え、アバッキオもシャワーを浴びてくることにした。すれ違い様に石鹸の匂いが鼻先を掠めた。バスルームに置いてある物をそのまま使っているはずなのだから、それはいつも嗅いでいる匂いと同じはずだ。なのに、ブチャラティが纏っていると、不思議ともっといい匂いに感じる。その髪に顔を埋めたくなるのをやはり我慢して、先に寝室へ行っていてくれと言うと、無言の頷きが返ってくる。シャワーを浴びた所為か、アルコールの所為か――あるいは別の要因からか――、彼の頬は少し赤くなっていた。

 少し落ち着こうと思い、水に近い温度のシャワーを浴びた。眠気や酔いならそれである程度は覚めるのかも知れないが、高まる期待は消えるどころかわずかに薄れることすらなかった。それでも、余裕のない格好悪い姿は見せたくない。故に、あまりにもさっさと出て行くのは躊躇われた。平均的なシャワーの時間というのは、どのくらいだろうか。ブチャラティが入っている時間を計っておけば良かったか。
 平均より少し早いかも知れない時間でバスルームを出た。戸締りと消灯を確認しながら寝室へと向かう。本当はリビングのテーブルに置きっぱなしになっているブチャラティの携帯電話の電源も切ってしまいたかったが、流石にそれはまずいだろうか。もしそれが鳴り出したとして、非常識な時間に掛けてきた相手が仲間達――10代4人――の誰かなら、一昨日掛け直しやがれと怒鳴り付けてやるところだが、組織の幹部の誰かからならそうはいかない。電源を切っていたなんてことになれば、後でどうなるか……。少し迷ったが、結局触れずにいることにした。良く考えれば、寝室から離れたリビングにあるのなら、電源が入っていようがいまいが大差ない。そしてそこに置き忘れたのはアバッキオではなくブチャラティだ。上司のやることに文句をつけるのは良くない。それに彼等はイタリア人だ。こんな時間まで仕事のことを気に掛けているのは、らしくない。
 寝室の明かりは落とされていた。が、ベッドサイドの電気スタンドが最小の光を放っていた。それに照らされて、ブチャラティがベッドにいるのが見える。シルクの寝間着が光を受けて、暗がりの中に浮かび上がっているかのようだ。ドアを閉めて、近付いてゆく。一歩毎に愛しい者の顔がはっきりと見えるようになってくる。彼は……、
「……寝てやがる……」
 アバッキオはその場に崩れ落ちた。
 おそらく酒の所為だろう。彼はアバッキオよりいくらか多く飲んでいたようでもあった。しかしこの仕打ちはそれこそ“ひどい”のではないか。いっそのことおか……いやいや起こそうか。そう思って覗き込んだ寝顔は、いかにも気持ち良さそうだった。少し大きめの枕を抱え込むようにしながら、穏やかな寝息を立てている。
 アバッキオはギャングだ。紳士ではない。それでも平穏な眠りを妨げることは出来なかった。「可哀想だ」なんて言葉を使えば、仲間達は笑いそうだが。
 結局アバッキオは、ソファで眠ることにした。かなり狭いが、仕方ない。完全に無防備な状態のブチャラティと同じベッドにいて、何もせずにいられる自信はない。
(躾けられてんのはオレかよ……)
 肩を落としながら、真っ暗な廊下をリビングへと戻った。

 どのくらいの時間が経ったのかは分からない。ぼんやりと浮上した意識で、まだ夜は明けていないようだと思った。目蓋を開けなくてもそれが分かるほどに、世界はまだ闇と静寂に包まれている。
 結局あの後、すぐには寝付くことが出来なくて、残っていた酒をひとりでほとんど飲み干し、ようやく眠気を手に入れることが出来た。使ったグラスはほったらかしのままだが、ここは自分の部屋だ。誰にも迷惑は掛からないし、文句も言わせない。
 再び眠ることにする。というか、起きるべき時間であったとしても、起きられそうにはなかった。頭が重い。流石に飲み過ぎたか。明日――日付的にはもう“今日”である可能性が高い――は二日酔いかも知れないと思っていると、部屋の中を誰かが歩いている気配がした。目が覚めたのも、おそらくその所為だろう。ブチャラティがトイレにでも起きてきたのかも知れない。アバッキオが寝ていることに気付いたのか、明かりもつけず、物音を立てないようにと注意を払いながら近付いてくるのが分かった。なんでこんなところで寝てるんだとでも聞かれたら、お前の所為だよと言い返してやるところなのだが。
 掛けられる声はなかった。その代わりのように、額に何か柔らかい物が触れた。それがなんなのか、アバッキオには分からなかった。考えようとするよりも早く、彼の意識は眠りに呑まれていた。

 再び目が覚めた時、今度は部屋の中は明るかった。カーテンが開けられている。
 少し頭が痛いなと思いながら起き上がると、狭いソファで寝た所為か、背中もだいぶ痛かった。
「起きたか」
 明瞭な声に顔を上げると、ブチャラティが立っていた。
「おはよう」
「……おう」
 どうやら客人の目覚めは快適だったようだ。それは良かった。何しろアバッキオが寝心地に拘って長時間悩み抜いてから購入したベッドだ。それはそれは心地良い眠りだったことだろうソファなんかとは違ってその何百倍も。
「ひどい顔をしているな」
「おかげさんで」
 真面目なのかボケているのか分からぬ顔のブチャラティを少し睨みながら、アバッキオは立ち上がった。大きく欠伸をしたところで、リビングいっぱいにコーヒーの香りが漂っていることにようやく気付いた――思った以上に頭の回転が残念なことになっていたようだ――。それからパンが焼ける匂いも。
「食べられそうか? それとも、二日酔いの薬の方がいいか?」
 普段の朝食はコーヒーだけで済ませてしまうことも多いが、せっかくブチャラティが用意してくれたのだからと素直にテーブルについた。ブチャラティは満足そうに頷いた。うん、躾がしっかり行き届いている。
 目の前に置かれたコーヒーカップに手を伸ばすのよりも先に、再び欠伸が出た。正面に座ったブチャラティが、顔を覗き込んでくる。
「眠そうだな」
「あんたは元気そうだな」
「ああ、良く眠れたよ。ありがとう」
 自分が家主をソファへ追いやったことは理解しているようだ。感謝の言葉と笑顔に免じて、文句は言わずにいることにする。
「でも実はいつ寝たのか記憶がない」
「寝る瞬間を自覚出来るやつなんてなかなかいないと思うぜ」
「そうじゃあなくて、ベッドに入ったのがいつなのかも分からない」
「……は?」
「着替えた記憶すらないんだが、オレ、風呂借りたのか?」
 それすら覚えていないとなると、かなり早い時点からということになる。その前の会話は? もしかしてキスをしたことも? 「なにそれ」と言われるのが怖くて、アバッキオは何も聞けなかった。そしてその理由――質問出来ないわけ――を、口にクロワッサンが入っている所為にした。

 身支度を済ませ、2人はそろって外へ出た。朝陽が眩しい。本当に昨夜は雨だったのだろうか。地面は完全に乾いているようだが。
「一度帰って、着替えてくる」
 そう言うと、ブチャラティは事務所とは逆方向へ爪先を向けた。
「先に行っていてくれ」
「分かった」
 「じゃあ」と軽く手を上げ、背を向けようとすると、ブチャラティは独り言のようにぽつりと呟いた。
「次は着替えを持ってくるかな」
「……つぎ?」
 その機会が2度とないと思っていたわけではない。が、明確に“ある”とも考えていなかった。ブチャラティがすでにそれを考えているとも。
 彼はくすりと笑うと、踵を返して通りの向こうへ歩いて行ってしまった。
 “次”について詳しく! と問い詰めたかったが、今は我慢しよう。それが大人ってもんだ。そう思おう。詳しい話なんて始めて、“次”を“今”にしたくなってもまずい。
(とりあえず今日の仕事をさっさと片付けて……)
 早ければ、今夜にでも。そう思うと、自然と足取りが軽くなっていた。
 手を伸ばして、事務所のドアを開ける。
 視界に飛び込んできたのは、お互いの肩と背中に腕を廻し、今正に唇を重ねようとしている2人の男――“男女”ではない――の姿だった。フーゴとナランチャの視線が、同時にこちらを向く。
「あ……」
 家族と一緒にいる時にテレビをつけたら、たまたま濃厚なラヴシーンが映し出されて空気が気まずくなる。という経験をしたことがある者は、おそらくそう少なくはないだろう。アバッキオの今の心境は、それに少々近かった。
「今度はテメー等かッ!!」
 アバッキオが怒鳴ると、2人はわーわーきゃーきゃーと声を上げながら逃げて行った。


2018,01,26


年下達に振り回され気味なアバッキオが好きです!!(笑)
<利鳴>

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