フーゴ中心 全年齢


  c-o-r-d-a


 誰かに呼ばれたような気がして、パンナコッタ・フーゴはどこを目指していたわけでもない足を止めた。しかし周囲を見廻してみても、見知った者の姿はおろか、大きな通りから外れたその場所に、人通り自体が全くなかった。
(気の所為……か?)
 首を傾げながらも歩みを再開しようとすると、今度こそはっきりと、それは耳に届いた。小さく甲高いその声は、「ミャーオ」と鳴いた。
「猫……?」
 どこから? と視線を廻らせて、頭上からだと気付く。姿は全く見えないが、傍に建つ雑居ビルの、どうやら張り出した窓の上に、その生き物はいるようだ。
 なんでそんなところに、と思ったのと、もしかして下りられないのでは、と思ったのは、ほとんど同時だった。
 道の反対側まで目一杯離れてから見上げると、オレンジ色の毛並みの長い尻尾だけが辛うじて見えた。3階建ての建物の、2階の窓の庇の上。一体どうやってそんなところに上ったのか。近くには跳び移れるような木もないというのに。
 建物の入り口には、内装工事のための休業を知らせると共に、関係者以外の立ち入りを禁ずる旨の張り紙がしてあった。試しにドアノブに触れてみたが、しっかり施錠されている。
(どうする……?)
 そう考えてフーゴは、いつの間にか自分がその猫を助けるつもりでいることに気付いた。自分はそんなに親切な人間だっただろうか。
(……仕方ないじゃあないか。気付いちまったんだから)
 今更気付かなかったフリをするのも、寝覚めが悪そうだ。誰にともなくそう言い訳をして、フーゴは小さく頭を振った。
 だが問題は、どうやって猫を地面に下ろすか、だ。手を伸ばしても届かないことは、試してみるまでもなく明白だ。
(スタンドを使っても、たぶん無理だ……)
 フーゴのスタンドの射程距離は、およそ5メートル。猫がいる位置は、それよりわずかに高いだろう。いくらスタンドが重力等の影響を受けない存在だといっても、そもそも届かないのでは何も出来ない。仮に届いたとして、姿の見えぬ者に触れられた驚きで暴れた猫が、今いる場所から落下するだけならまだ幸いな方――運が良ければ地面に到達する前に体勢を立て直して、怪我なく着地出来るかも知れない――。危惧しなければいけないのは、何かの拍子にスタンドの拳に付いたウイルスのカプセルを割ってしまう可能性だ。そうなれば、まず助からないだろう。猫は死ぬ。
(……でも、そうだ、上からだったら?)
 駄目で元々。フーゴは建物の裏に廻った。案の定そこには、非常用の階段が伸びていた。だが残念なことに、階段と猫がいる窓は離れている。そもそも向いている方角が違う。おそらく無駄だろうと思いながら2階部分まで上り、非常ドアに手を掛けたがこちらもやはり開かない。建物の中から救うというのは、無理であるようだ。
(いっそドアを壊すか……)
 出来なくはないだろう。だが警備システムが作動するかも知れない。
(待てよ、屋上からなら……)
 フーゴは視線をさらに上へと向けた。非常階段は屋上まで続いており、その先にはフーゴでも跨いで越えられそうな低い柵の戸が付いているだけだった。建物の中へと入るドアはやはり施錠されているだろうが、猫がいる窓の真上には行くことが出来る。地面からよりは、辛うじて近いはずだ。
 階段を駆け上がり、戸を越える。がしゃんと音がしたが、誰の耳にも届かなかったようだ。転落防止の効果があるとは思えない申し訳程度の高さの柵に駆け寄り、身を乗り出して下を見ると、
「……いた!」
 見えた。オレンジ色の長い尻尾。怯えるように踞るその体は小さく、まだほんの仔猫だ。フーゴに気付いているのかいないのか、再びミャオと鳴いた声は弱々しい。長い間その場所で動けずにいたのか、体力を消耗しているようだ。すぐにでも助けてやらないと、いつその狭い足場から転がり落ちてしまうか分からない。
 だが、多少距離は近くなった――射程距離内まで近付けた――とはいえ、無差別に命を奪うウイルスを持つ我がスタンドを近付けさせるわけにはいかないという状況は、何ひとつ変わっていない。その姿を直接視界に捉えることによって、ますます見なかったフリをし辛くなっただけだ。
(何か方法は……)
 足元へと目をやると、とぐろを巻く蛇のように、丸く束になったナイロン製と思われるロープが落ちて――それとも置かれて、か――いた。資材を束ねるのにでも使われていたのだろうか。ざっと見たところ、切断に繋がりそうな損傷は見られない。これなら、自分の体重を支えることが出来るはず……。
 屋上に設けられた柵は、むしろ頼りない。少し強く揺さ振っただけでも、折れるか根本から外れるかしてしまいそうだ。ここにロープを結び付けることは出来ない。他にも、フーゴの体を吊り下げられるような強度をもった物は見当たらない。となればあとは、“自分でロープを掴んでいる”しかない。
(……出来るだろうか)
 “こいつ”に、と視線を向けた先に、スタンドのヴィジョンが現れる。人に似た人ではないその存在は、今は完全に自分の意思で制御出来ている。屋上にスタンドを残し、ロープの片方をしっかりと持たせる。本体であるフーゴはロープの反対側を自分の体に結び、宙吊りになって猫がいる窓まで下りて行く。スタンドに力は問題なくあるから、重さに堪え切れないということはないだろう。5メートルまでなら離れることが出来る。この状況でコントロールを失う恐れは、まずないはずだ。
 なのに、
(自分のスタンドだってのに……)
 心から信用することが出来ない。それは『自信のなさ』と言い換えることも出来るだろう。“何かを助ける”。そんなことが、自分に出来るのか。こんな、“奪う”能力しか持たない自分に。
(くそっ……)
 フーゴは拳を強く握った。
「やるしかないだろ!」
 彼はロープを自分の胴に廻し、結び目を作った。その状態で柵の外に出て、スタンドとロープに自分の体重を預ける。
「いいか、絶対に離すなよ!」
 感情なんて持っているのかどうかも定かではないスタンドが、わずかに心配そうな顔をしているように見えた。それでもその手は、しっかりとロープを掴んでいる。
 慎重に、壁に足を付いて少しずつ下りて行く。ここが大きな通りに面していたら、あっと言う間に人が集まってきていただろう。そしてスタンドを見ることが出来ない彼等は、空中に浮いた人間の姿に気付き、パニックを起こしていたかも知れない。
 ぎりぎり5メートル。フーゴの手はなんとか猫の体に触れることが出来た。猫はフーゴを害のないものと見ているのか――それとももう暴れる体力もないのか――、大人しく腕の中に収まってくれた。
 フーゴはふうと息を吐いた。
「お前、本当に小さいな」
 それでも確かな温もりがそこにあった。
 片手で猫を抱いたまま自力でロープをよじ上ることは困難だろう。何か猫を入れられる袋のような物でもあれば良かったが、今ここにない物のことをどうこう言っていても仕方がない。フーゴは自身のスタンドに命じた。
「パープル・ヘイズ! ゆっくり引き上げるんだ!」
 返事はない。フーゴのパープル・ヘイズは元々言葉を操るタイプのスタンドではない。それでもぐいっと上に引っ張られる感覚がロープから伝わってきた。
 その時、
「フーゴ! そんなところで何をしている!?」
 突然叫ぶような声を掛けられ、びくんと全身が跳ねた。
「うわッ!?」
 危うく――スタンドの、ではなく、自分の――手が滑りかけた。――本体の方は――手を離してしまったとしても結んだロープが体に食い込むだけで落下はしないだろうが、どこにも固定出来ていない猫は話が別だ。フーゴが離せば、わざわざ屋上まで上ってからこんなところまで下りてきている意味は無に帰す。
 地上へと視線を向けると、そこにいたのはブローノ・ブチャラティ――フーゴの上司にあたる人物――だった。数時間前に見た時はのほほんとしていた顔が、今は驚きのそれになっている。だが、驚いたのはフーゴの方だって同じだ。
「ちょっ……、危ないじゃあないですかッ!」
 危ないことをしているのは他ならぬ自分だ。それを棚に上げて、当たり散らすように言った。
「説明だったら後にしてください!」
 今は腕の中の猫とスタンドの操作に集中した方がいいだろう。フーゴは地面から視線を逸らせた。
「続けろ、パープル・ヘイズ!」
 フーゴと猫は再びゆっくりと上昇していく。
 スタンドで自分の体を引き上げるのに、掛かった時間は何分もなかっただろう。だが危険を伴うその状況は、フーゴには何倍もの長い時間に感じられた。
 壁をよじ上り、手を伸ばして先に猫を安定した場所へとやる。自分の体も引き上げようとすると、3つの手が現れて、その内2つがふらふらとどこかへ行こうとしている猫を抱き上げた。顔をあげると、ブチャラティのスタンド、スティッキー・フィンガースが、3つ目の手を差し伸べていた。
「無茶をするやつだ」
 猫を抱いたブチャラティが、呆れたような笑みを浮かべながら言った。彼はすぐ隣に殺人ウイルスを持つパープル・ヘイズがいることを一切気に掛けていないかのようだ。
 スティッキー・フィンガースに手を引かれ、フーゴが屋上へと這い上がっても、ブチャラティは「後にしろ」と言った説明を求めてこなかった。何をしようとしていたのかは、凡そ見当が付いているのだろう。彼は体に結び付けたロープを解き終えたフーゴの腕に猫を移動させながら言った。
「ずいぶん無茶をしたな。オレならジッパーで腕を伸ばせるのに」
 確かに、ブチャラティならこれほどアクロバティックな救出劇を演じてみせる必要はなかっただろう。
「もう少し頼ったらどうだ?」
 「オレはお前の先輩だぞ」と、ブチャラティはおどけたような調子で言った。
 ブチャラティに限らず、誰かを呼ぶということを、フーゴは考えもしなかった。我ながら抜けている。猫だって助けを呼べるというのに。猫に気付いたのが一般人であれば、ビルの管理者に連絡をする等していたのだろう。一般的ではない世界に身を投じた結果、一般的な思考回路まで失ってしまうのは良いことだとは言えない。
「あ、待ってください。それを言うなら、ジッパーで壁を上ってきて、手伝ってくれても良かったのでは?」
 フーゴの言葉に、ブチャラティは2度3度と瞬きを繰り返した。そして、
「……その手があったか」
 それを思い付かなかったとは、ブチャラティも動転していたのだろうか。そう思うと、少しおかしかった。
 非常階段を使って無事に地上に下りると、猫はフーゴの腕からするりと抜け出て、そのままどこかへ走り去っていった。猫なのに、脱兎のごとくという言葉がぴったりなほどのスピードで。
「恩知らずめ」
 やれやれと溜め息を吐いたフーゴは、しかし満足していた。もう危険な場所に猫はいない。そうと確信出来るだけで、充分だった。

 その翌日、危険な目に遭った場所には近付きたがらないかも知れないから、この辺りにはもう現れない可能性もあるなと思っていた猫の姿を、フーゴはゴミ捨て場であっさりと目撃した。どうやら残飯を漁っているようだ。何か食べられるような物があるのだろうか。そう考えながら通り過ぎようとしたところで、食べられない物が混ざっているかも知れない方が問題だと気付いた。
(猫が食べられない物……。チョコとか、たまねぎ、海鮮類にも確か……。あとはなんだろう……。っていうか、残飯だぞ。普通に腐ってるかも……)
 やめろと言って通じるはずはないだろう。それに、まだ小さな仔猫に狩りをするだけの能力も足りているとは思えない。昨日ロープで宙吊りになるという選択をするまでに掛かったのよりは短い時間で、フーゴは猫用の缶詰を買ってくることを決めた。
 フーゴが戻ってきた時、猫はまだ同じ場所にいた。まさか待っていたということはないだろう。あるいは首尾良く食べられる物を手に――もとい、腹に――入れることに成功して、食後の昼寝でもしていたのだろうかとも思ったが、フーゴが缶を空けて近くに置くと、猫はすぐさま飛び付いた。
 もっと警戒されるかと思った。お前はそれでも野良猫か等と言いながらも、フーゴの表情は緩んでいた――本人はそのことに気付いていない――。
 そんな日々は、数日続いた。

 いつもの場所に猫の死骸を見付けた時、フーゴはブチャラティと共にアジトへと向かっていた。フーゴの視線の先にあるものに気付いたブチャラティは、無言のままそれに近付いて行った。フーゴは、そうしろと言われたわけでもないのに、彼に続いた。
 周囲は、今にも雨が降り出しそうな天候の所為で薄暗い。そんな場所に横たわる小さな体は、しゃがみ込み、手を伸ばして触れてみると、すでに冷たく、烏か何かにでもやられたのか、片目を抉られた無残な姿をしていた。
「こいつ、どんくさかったから……」
 今の自分の感情に「悲しい」という言葉が当てはまるのか、フーゴにはよく分からなかった。1日か2日に1回程度、少し離れたところに缶詰を置いてやるだけの関係。自分の部屋へ連れて帰るつもりがない――生き物を飼うなんて自分には無理だと、試すまでもなく分かっている――からには、それ以上近付くべきではないと思っていた。頭を撫でたことも、数えるほどしかない。もちろん名前を付けたりなんかもしていない。それでも、体の中心にぽっかりと穴が空いたような感覚だけはあった。これが「悲しみ」と呼ばれるものなのだろうか。そんなものは、誰からも教わってこなかった。
「埋めてやろう」
 立ち上がったフーゴと入れ違うように地面に膝をついたブチャラティが言った。彼はフーゴがその小さな生き物に時折食べ物を与えていたことを承知していたようだ。
「埋めるって言っても、どこへ?」
 抑揚のない声でフーゴは尋ねた。
「日の当たる公園とかかな」
「公共の場にはまずいでしょう」
「そうか?」
 小さな子供も行き来するような場所に、動物の死骸なんて。穴を掘る時点でアウトかも知れない。
「なあに、オレにはスタンドがある」
 言うや否や、ブチャラティのスタンドが現れる。スティッキー・フィンガースは猫を抱き上げ、近くにある公園へと移動し始めた。フーゴは今度も黙ってついて行く。
 幸いにも、公園には誰もいなかった。天気の所為だろうか。濃いグレーに近い色をした雲はなくなるどころか、時折小さな雨粒をまき散らし始めている。
 公園の隅に、晴れてさえいれば日光浴でも出来そうな場所を見付ける。いつもなら煩わしく思う雨粒だが、今ばかりは邪魔者を遠ざけてくれていると思っておこう。ブチャラティは地面にジッパーで穴を空け、そこに猫をそっと下ろした。
「便利な能力ですね」
「オレもそう思う」
「ブチャラティに感謝しろよ」
 返事をするはずのない抜け殻に向かってフーゴがそう言うと、ブチャラティが首を傾げるように視線を向けてきた。
「助けたのはお前だろう?」
 それには答えず、
「死んだら、どこに行くんでしょうね」
 フーゴはそれを知らない。世界中の多くの人間がそれを解明しようとしているが、まだ誰も正しい答えを掴むことは出来ていないということを知っている。
「また、会えるでしょうか……」
「だといいな」
 もし本当にそれが叶うとしたら……、
(今度は、もう少しくらい近くに行ってみてもいいだろうか……)


2020,03,27


ブチャラティ&フーゴで過去設定を書いた時にちょっと雰囲気が違うかなと思って没にしたアイディアの再利用です。
暗くなっちゃったけど、まだチームがこの2人だけだった頃は明るい感じでもなかったんじゃあないかななんて思っています。
<利鳴>

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