フーナラ 全年齢


  Cravatta Velo


 事務所内に、全身を映せるような大きな鏡はない。一番近いとすれば、建物の共有スペースにあるトイレの鏡がそれに該当するだろうか。だがそれだって上半身しか映らない。ギリギリまで離れても、爪先までを映すのは不可能だ。
 しかしナランチャは、今の自分の格好に心配は一切していなかった。鏡に映る姿を見る自分の目よりも、もっと厳しい“監視”の目がそこにあり、その人物が何も言ってこないということは、背中からシャツが出ていたり、裾が捲れていたりなんてことはないのだろう。
 だが、服装に問題がないことと、それに不満がないことはイコールではない。着慣れない堅苦しい服に、溜め息さえも喉に詰まりそうだ。「仕事なんだから」と自らを奮い立たせようとするも、間に合わせで買った靴の所為で、早くも足が痛くなってきている――もうワンサイズ上の物があれば良かったのだが、大きさと金額を天秤にかけた結果、今の物になった――。
 そもそも今回の仕事に、ナランチャはあまり乗り気ではなかった。ひとことで言えば、「つまらなさそう」。リーダーも「おそらく何も起こらないだろうが」と言っていた。加えて、身形ばかりが立派で、やたらと偉そうに振舞う大人が、彼は昔から好きではなかった。
「せーじかサマがギャングに護衛の依頼すんのってさ、それってどーなの?」
 服装の最終チェックをしているらしい視線の主、フーゴに向かって愚痴を零すように尋ねると、「気持ちは分かる」と言いたげな、だが「仕事は仕事だ」と言うような表情が返ってきた。
「表向きは秘書の身内の知り合いの知り合い……の知り合い……だったかな? に、雑用のスタッフが足りないから、誰か手伝ってくれる人はいないかと頼んだことになっているそうです。バイト代は出すから、と。そういう話です」
「知り合いの知り合い……完全にアカの他人じゃん」
「ええ。だから万が一のことがあっても、ギャングだとは思わなかったで通す。いや、むしろぼく達はギャングではないということにしておかないといけない」
「つまり、バレるなってことね」
 ナランチャは溜め息を吐いた。やっぱり、上辺だけを必死に取り繕った大人は好きになれそうにない。
「一応こちらとしても、下手な条例を通されると色々やり難くなることがあるので、それで“協力”することになってる」
「下手な条例通したいようなやつ等からの護衛ってことね」
「そういうこと」
 一応無関係な話ではないということか。そうでなくても、リーダーが引き受けてきた仕事を拒否する権利はナランチャにはないが。
「対立してるやつ等直接なんとかした方が早くない?」
 物騒なことを言うなとでも咎められるかと思ったが、
「そっちはそっちで別のチームを動かすそうです」
「マジかぁ。オレもそっちが良かったぁ」
 さっさと行ってさっさと終わらせてこよう、と言いたいところだが、ナランチャには意味があるのかもよく分からないお偉いさん方の集会は、会食を含めて2時間もあると事前にしっかり決められているのが辛いところだ。
 せめてこんな格好でなければ……。だがそれも、「きちんとした服装で」との指示がしっかりと出ている所為で、反故にするわけにはいかない。政治家としてはそうでなければ困るのかも知れないが、依頼主としてはしっかりし過ぎている相手も色々と面倒臭い。
「それにしても、なんでスーツにネクタイってこんなに窮屈なんだよ、もぉー」
 ナランチャが手足を通しているのは、上下とも黒に限りなく近い色をした真新しいスーツだ。いつも身に付けているバンダナをしていない髪も黒いために、全身真っ黒と言ってしまえるような姿だ。
「辛気臭いなぁ」
 「葬式じゃあないんだから」とぼやくと、「だから流石にネクタイはネイビーでしょ」とフーゴに突っ込まれる。そう言った彼は、ナランチャのと似たような色の――いつもの服と違って穴は空いていない――スーツに、暗めの緑色に白いラインが入ったネクタイをしている。確かに黒その物ではないが、色彩的にはやはり暗いと言わざるを得ない。
「よく普段からこんな物してられるよな」
 ネクタイの結び目のあたりに指を差し入れて少しでも空気の通り道を作るようにしながら言うと、肩をすくめるような仕草が返ってくる。
「普段はもう少し緩く結んでますけど」
「そっか、襟がないから」
「でも今も別に苦しいとは思いません」
 確かに、フーゴは涼しい顔をしている。
「えー、なんでぇ?」
「シャツもスーツも、サイズは合わせてるはずでしょ。それに、普段の君の服だって、首周りは詰まってるじゃあないですか。気持ちの問題ですよ」
「そーだけどぉ」
 あるいは、自分が好きで選んだわけではない服を“無理矢理着せられている”ような感覚が我慢出来ないのだろうか。とにかく、落ち着かない。許されるのならここで留守番していたいくらいだ。
 フーゴは駄々を捏ねる子供に呆れるような顔をしている。ナランチャよりも2つ――1年と数ヶ月――年下のクセに。
「そんなに嫌なら、胸元が大きく開いてて、ついでに裾も広がってるドレスの方が良かった?」
「う……」
 そういう返し方は少しずるい。そもそも本気でスーツの着用を逃れられるとは、ナランチャだって思っていないのに。こんなの、出発まで少しあいてしまった時間を潰すための下らない愚痴じゃあないか。
「ドレスって、そんなホテルスタッフふつーいないだろ」
 客にならいるかも知れないが、今回ナランチャ――達――が扮するのは、極一般的なホテルの従業員と決まっている――故にスーツでと指定された――。
「珍しく正論ですね」
「なんだよ、珍しくって」
「じゃあ、メイド服がいい?」
「それも変だろ」
 変でなくてももちろん御免だが。
「じゃあ文句言わないで」
 ぴしゃりと締め切るように言われてしまい、こうなってはもう何も言えない。壁に凭れかかりながら、ナランチャは幾度目かの溜め息を吐いた。
 それぞれの持ち場について、他のメンバー達の目が届かないようになったら、ネクタイと襟のボタンは外してしまおうか。そんなことを考えていたことは、一瞬で見抜かれたらしい。たちまち睨むような目が向けられる。かと思うと、一瞬で伸びてきた手が、せっかく着けたネクタイを解き、さらには襟元のボタンまで外してしまった。
「へっ?」
 しなくて良い……ということではないだろう。フーゴの顔が、怖いから。
「フーゴ?」
 なにを、と尋ねようとすると、その『怖い顔』が一気に近付いてきた。反射的に後退しようとするも、ナランチャの背中はすでに壁に接している。
 フーゴは何も言わないまま、ナランチャの襟元に顔を埋めるように、首筋にキスをした。
「うわっ!?」
 触れるだけのキスではない。かなり強く吸われている。ヴァンパイア映画――ナランチャは映画はほとんど見ないが――の吸血シーンさながらだ。
「ちょっ、フーゴっ!?」
 一気に顔が熱くなった。引き剥がそうとするも、フーゴの体はびくともしない。
「フーゴってば! なにしてっ……、いたッ!?」
 噛まれた。本当に吸血鬼か。出血まではしていないと思いたいが。
 数秒後、ようやく離れたフーゴは、満足そうにナランチャの首筋を眺めた。
「これで着崩せないな」
「何してくれんだよ、このやろー……」
 鏡はないが、絶対に跡が残っていると確信出来る。スーツ姿ならまず見えることはない――ただし、きちんと一番上のボタンまでとめていることが前提――だろうが、普段着でもそう言えるかは微妙なところだ。誰かに見られたら、虫に刺されたとでも言うか。いや、歯型まで残っていたら、その言い訳はかなり苦しい。
「続きがしてほしかったら、仕事の後にしてください。そろそろ出発の時間です」
「んなこと言ってねー! バカかお前はっ! 頭いいくせにバカ!!」
「そう、それは残念」
「え?」
 左腕の時計に視線を向けているフーゴの顔は、ナランチャからはよく見えなかった。フーゴの目にも、訝しげに首を傾けるナランチャの顔は見えていなかっただろう。彼はさっさと外へ通じるドアへと向かった。
「行きますよ」
「あ、うん」
 何を言われたのか、どういう意味だったのか、考えながら歩き出すと、不慣れな靴に足が縺れて転びそうになった。
「あ、待ってフーゴ!」
「何? 続き?」
「ちげー! ネクタイ! せっかく着けてたのに、お前が解いちまったんだぞ!」
「せっかく着けたのにって、ぼくが結んでやったんですけど」
「だってオレ結び方分かんないもん」
「偉そうに言うな」
 やれやれと溜め息を吐いて、フーゴはナランチャの首に改めてネクタイを結んだ。何度見ても、何がどうなってこの形になるのか良く分からない。ナランチャが首を傾げていると、仕上げのように、今度は唇にキスをされた。
「はい、出来た」
「お前やっぱりバカ」
「失礼だな。ほら、行きますよ」
 本当に『続き』がしたくなったらどうしてくれるんだと心の中で喚きながら、ナランチャはフーゴに続いて外を目指した。


2019,12,07


ネクタイ締めながら行ってらっしゃいのちゅーは男のロマンだよね!
でもナランチャには出来そうもないから、仕方なく自分からやるフーゴ(リバではない!)。
フーゴ、16歳で私服がスーツってすげぇなと思ったけど、それ以前にスーツのデザインがすごいんだったよあの子は(笑)。
タイトルは造語です。
<利鳴>

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