フーナラ 全年齢


  I'm fine


 いつもの調子で「ただいま」と言って、ナランチャは事務所のドアを開けた。数秒間、いつものように「お帰りなさい」と返してくれる声を待ったが、それはどこからも発せられはしなかった。小さく舌打ちをし、彼は後ろ手でドアを閉めた。
 「誰もいないなんてつまらない」。そう心の中で吐き捨てたナランチャは、しかし数秒後にはそれが事実ではなかったことを知った。室内を見廻すと、来客用のソファで眠っている男がいることに気付いた。
「なんだ。帰ってたんじゃん」
 ナランチャの声にも眼を覚ますことなく寝息を立て続けているのはフーゴだった。ナランチャがその顔を見るのは、3日と半日振りのことである。彼等のリーダーであるブチャラティを介さずに、“上”から直接の指示でフーゴが任務に出掛けて行ったのが今から約80時間前。それ以降ナランチャは、平均すると2〜3時間に1度の頻度で「フーゴいつ帰ってくんのかなぁ」と誰にともなく呟いていた――その内の数回はブチャラティが相手をしてくれたが――。
 やっと帰ってきたのか。遅かったじゃあないか。そんなに難しい仕事だったの? 連絡くらいくれたって――。彼が帰ってきたら、言ってやろうと思っていたことはたくさんあった。聞いてもらいたいことも。与えられた仕事を――極簡単なものではあったが――完璧にこなせたこと。フーゴに出題されていた算数の宿題をちゃんと――ブチャラティに助言を求めた箇所も、“極一部”よりは多くあったが――終わらせておいたこと。近くのカフェに新しいメニューが出来たこと。ここ2〜3日の間、何故か――全く不思議なことに――なんとも言い難いような退屈感に、襲われていたというよりは付き纏われていたこと。他にも、たくさん。しかしフーゴはそれ等を拒むように――少なくともナランチャにはそう感じられた――目蓋を閉ざしている。おそらく、疲れているのだろう。ナランチャがやってきたことに気付かないほどに。ここはそっと寝かせておいてやるべきに違いない。しかしナランチャは、おもしろくなかった。何かが。いっそ起こしてしまおうか。そんなに疲れているのなら、さっさと自分の住まいに帰れとでも言って。
 「どうしようかな」と逡巡していると、隣室へと続くドアが小さな音を立てた。反射的に振り向くと、そこにいたのはブチャラティだった。
「ああ、帰っていたのか。ご苦労だったな、ナランチャ。頼んでいた仕事は順調に済んだか?」
 フーゴが眠っていることを承知しているらしく、ブチャラティはやや控えめな声量で言った。もしかしたら、彼がソファでの仮眠を許した……いや、勧めたのかも知れない。
「うん。ちゃんと片付けてきた。問題はないよ」
「そうか。良くやった」
 そう言って微笑みながら、ブチャラティは外へと通じるドアへ向かった。どこかへ行くのかと尋ねると、彼は答える代わりに小さく手招きをした。「なに?」と首を傾げている間に、彼はそのままドアの向こうに姿を消してしまった。ナランチャは慌てて追いかけた。
 外に出てすぐのところで、ブチャラティはにこやかな顔で立っていた。
「ほんの5分前までは起きていたようだったんだがな」
 ブチャラティの視線はナランチャの背後へと向いている。つられて振り向いてみても、閉じたドアがあるだけで、当然その先の様子は何も見えない。だが、今のセリフがフーゴのことを言っているのであろうことは、充分理解出来た。
「その時は、少し不機嫌そうでもあった」
 ブチャラティはくすりと笑いながら続けた。何がそんなにおもしろいのだろうか。
「まあ、疲れているんだろうな」
 だからくだらないことで話しかけるなと、そう言いたいのだろうかとナランチャは思った。確かに、彼がしたい話なんてくだらないことばかりだ。どうしてそれをフーゴに聞かせたいと思ったのか、自分でも不思議なほどに。それでも、もう3日以上、フーゴとの会話はなかったのだ。まだ我慢しろと言うのか。ナランチャは無意識の内にわずかに頬を膨らませていた。
「ナランチャ」
「ん?」
「命令だ」
 ブチャラティは片眼を瞑って笑ってみせた。
「ねぎらってやれ」
 ナランチャがぽかんとしていると、ブチャラティは「今日の仕事の報告書は明日の夕方までに提出するように。オレは出かけてくる。アバッキオも今日は戻らない予定だから、帰る時は戸締りを忘れないように」と、質問する隙を与えることなく言い、さっさと通りを歩いて行ってしまった。
 ナランチャが事務所内に戻ると、フーゴは上半身を起こして、長い前髪をかき上げているところだった。
「あ、起きた?」
「今起きた」
「えっと、おかえり」
「お帰り」
「ん? ああそっか。ただいま」
「ただいま」
 小さく欠伸をすると、フーゴはふうと息を吐いた。ブチャラティは機嫌が悪いようだったと言っていたが、ナランチャの眼にはそうは映らなかった。あるいは、一眠りして落ち着いたのだろうか。
「なに?」
「へ?」
 気が付くと、ナランチャはフーゴの顔をまじまじと見詰めていた。3日も会っていなかったのだから、少しじっくり見るくらい構わないじゃあないかと弁解のように思いつつも、彼は慌てて話題を探した。おかしい。ついさっきまで、話したいことがいっぱいあると思っていたはずだったではないか。わざわざ探さなければいけないなんて、一体どういうことだ。
「えっと、仕事、終わったの?」
「じゃあないと帰ってこられないな」
 もちろんそうだろう。そんなことが聞きたいのではない。
 ナランチャはフーゴが座っていえるソファに近付いた。
「ブチャラティが、フーゴが疲れてるからねぎらってやれって」
「へえ」
「ねぎらうって、どういうこと?」
「君の誕生日いつだっけ?」
「へ?」
「辞書買ってあげる」
「えー、嬉しくない」
 意味が分からないなら自分で調べろと言われていることは、ナランチャにも理解出来た。だが、今すぐに手に取れる場所にそれが出来る物はない。フーゴは、仕方ないなと言うように肩を竦めた。
「そもそも、『ねぎらう』っていう言葉は、普通は目上の人間から、下の人間に対して使うものだ」
「うん?」
「だから、君がぼくに対して使うのは、間違い」
「ええーっ?」
「ブチャラティが言うのは問題ないけどね」
「なんでだよぉ。オレの方が年上なのに」
「ぼくよりも後に組織に入ったでしょ」
「そうだけどぉ……。って言うか、そういうのを聞きたいんじゃあないんだって。結局何をどうしたらいいんだよ」
 こんな話がしたかったんじゃあないのに。ナランチャは拗ねたように唇を尖らせた。それを見て、フーゴの表情がわずかに変化した。笑っているように見える。やはり、不機嫌なようには思えなかった。
「ねぎらうっていうのは、いたわるとか、大切に扱うとか、そういうこと」
「それも良く分かんないなー。励ませってこと? 元気付けるとか?」
「少し違うけど、それでもいいや」
「えーっと、じゃあ肩でも揉む? あ、お茶いれてこようか」
 これは名案に違いない。そう思ったナランチャは、早速それを実行に移そうとした。踵を返しかけた彼の耳に、穏やかな声が届いた。
「じゃあ、キスして」
「は?」
 ナランチャは眉を顰めた。
「“ねぎらって”くれるんでしょう?」
 フーゴは微笑んでいた。さっきは「言葉の使い方が違う」なんて言っていたくせに。
「……それでねぎらったことになんの?」
「うん」
 フーゴはあっさりと答えた。
 本当かよと思いながら、ナランチャはフーゴに1歩近付いた。フーゴの眼は真っ直ぐナランチャの方を向いている。どうやら、冗談を言ってからかっているつもりではないらしい。いつもは自分よりも高い位置にある視線が、今はフーゴがソファに座っている所為でだいぶ低くから向けられている。なんだか変な感じだ。
 ナランチャが更に近付くと、フーゴは眼を閉じた。「お前それ本気で言ってんの?」と尋ねるタイミングを見失って、ナランチャはそのまま唇を重ねた。「こいつ、ひょっとして寝ぼけてんのかな」と思いながら、数秒間じっとしていた。しかし、どちらかともなくゆっくりと離れると、フーゴはちゃんと眼を開けた。眠ってしまってはいない。
「こんなんで本当に元気になんの?」
「それって下ネタ?」
「なっ……」
 ナランチャの表情が引き攣った。それを見て、フーゴは笑っている。
「お前ッ、本当は馬鹿なんじゃあねーのッ!?」
「冗談ですって」
 そう言いながら、笑うのをやめない。どうやらナランチャが思った――心配した――よりも、フーゴは元気――もちろん下ネタ的な意味は除いて――らしい。
「こんなところで寝てるから、帰る気力もないくらい疲れてんのかと思ったのに」
 心配して損した。
「ああ、それは半分不貞寝」
「なにそれ」
「君の誕生日いつ?」
「それはもう聞いたし、そーゆーことを聞いてるんじゃあないって!」
 ナランチャは少々声を荒らげた。
「だって、やっと帰ってこられたのに、君がいないんだもの」
 その言葉は、ナランチャの心臓のリズムを変えるスイッチになっていたらしい。見慣れぬ上目遣いも、あるいはその役割を手伝っているかも知れない。
「そんなの……」
 それは、こちらのセリフだ。ロクな説明もなく、気付けばフーゴは出掛けて行った後だった。そして帰ってきたかと思えば、のん気に寝息を立てている。フーゴが悪いわけではない。それは理解している。同じように、自分に非がないことも承知している。だからこそ、どこにもぶつけられない苛立ちを持て余してしまっているのだ。
(オレだって、フーゴに会いたかったのに)
 それが出来ないのが、ひどく不満だった。
 だがナランチャの口は、心の声とは別のことを言っていた。
「オレだって仕事行ってたんだぜ。遊んでたわけじゃあない」
 弁解めいた口調。どうして今日の自分は素直ではないのだろう。3日振りだから、甘え方を忘れてしまったのだろうか。
「そう、お疲れ様」
 フーゴはそう言うと、ようやくソファから立ち上がった。向けられる視線は見慣れたやや上からのものに変わる。それでも、ナランチャの心臓の鼓動は、速度を緩めない。まるで、「まだ終わりじゃあないぞ」と言っているかのようだ。
 「じゃあ」と言いながら、フーゴが1歩近付いてきた。かと思うと、伸びてきた手がナランチャの顎に触れた。視線を上げたナランチャは、フーゴの眼の中に自分の姿が映っているのを見た。
「“ねぎらって”あげようか?」
 その意味を考えるよりも、返事をするよりも早く、誰かにどちらか一方の背中を少し押されただけで触れるほど、2人の間にある距離は少なくなっていた。拒否させる気はないようだ。もっとも、拒否する気もないのだが。
 ナランチャが眼を閉じると、柔らかい感触が唇に与えられた。これでおあいこだ。3日も会えずにいたのも、その後すれ違ってしまったことも、どちらが悪いということはない。やはり、おあいこだ。強いて言えば、単純にタイミングが良くなかっただけのことなのだろう。
(もういいや)
 ごちゃごちゃと考えるのを、ナランチャはやめた。考えたところで過ぎた時間がどうにかなるわけではない。自分らしくもない。それよりも、そう、フーゴには言いたいこと、聞いて欲しいことが、たくさんあったのだ。
「フーゴ」
「なに?」
「好き」
 フーゴはくすりと笑った。
「ぼくも好きです」


2015,10,22


最初に考えていた以上にバカップルになってびっくりしています。
なんかわたしが書く話って、寝てる(or眠い)人が多い気がしますね。
仕事中とか移動中に眠いよーでも寝るわけにはいかないよー寝ないためにも妄想をするのだー。とか思いながらネタ考えているからなのかな。
<利鳴>

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