フーナラ 全年齢


  フライングデイブレイク


 吐いた息は白かった。コートはしっかり用意してきたが手袋を忘れてきたことを今更悔やみながら、フーゴは両方の手をポケットの中へと突っ込んだ。やはり陽が落ちてからの気温は低い。特に今日は1日中天気が悪かった所為もあって、日中ですらあまり温かくはならなかった。幸いにも雨は上がっているが、地面はまだ黒く濡れている。その色が、夜の闇をより深くしているかのようだ。
 早く帰って寝よう。こんなところでぐずぐずしていても良いことなんて1つもない。そう思うフーゴの心境を否定するかのように、彼の前を歩く少年の足取りは軽やかだ。雨が上がったのが嬉しいらしく、月も星も出ていない夜空を見上げて、スキップでも始めそうな様子だ。例えば今、雪でも降り出したとしたら、フーゴはうんざりした表情を抑えることは出来ないだろうが、少年は、きっと声を上げてはしゃぎ出す。自分とは対照的な後姿を見ながら、フーゴは深く溜め息を吐いた。それが聞こえたのか、前方を行く背中がくるりと振り向いた。
「ナランチャ、君は元気ですね」
 どちらかと言えば呆れているような声で言うと、少年――ナランチャ――は子供が拗ねるように頬を膨らませた。その視線は、フーゴの両手――ただしポケットの中にあるので見えてはいない――に向いているようだ。
「なんでフーゴは元気じゃあないの?」
 尋ねられて、答えよりも先に「完全に子供だな」と思った。
「疲れてるんです」
 フーゴが簡潔に答えた。面倒臭くて適当に答えたわけではない。実際に今日はひどく忙しかった。年の終わりが近付いてくるに連れ、やらなければならないことがどんどん増えてきている。本来なら月末にやる予定の物が、色々と繰り上がってきているのが原因だろう。今日も、間もなく日付も変わろうという頃になってようやく帰路に付いたのがついさっきだ。
(ナランチャはずっと暇そうだったからな……)
 フーゴは自分の顔を覗き込んでくる幼い――実際には歳上だが――表情を軽く睨み付けた。
 ナランチャには、事務的な仕事は向いていない。彼に期待されているのは、どちらかと言えば戦力面だ。そのことはフーゴも、彼等のリーダーも、承知している。故に、与えられた――比較的簡単な――用事が済んだ時点で、彼は帰宅してもいいと言われていた。それを、何の目的があってか、「まだいる」と言って、だが他の誰かを手伝うでもなく――むしろ邪魔になるから手を出すなとフーゴに言われていた――、陽が暮れても、雨がやんでも、彼は出て行こうとしなかったのだ。やがてようやく一区切り付いたフーゴが帰る準備を始めた頃、妙に静かだと思っていたナランチャがソファで寝息を立てていることに気が付いた。リーダーにもう帰れと優しく言われて眼を覚ました彼は、寝ぼけた様子で周囲を見廻した後、やっと腰を上げて「帰る」と言った。さっきまで「まだ帰らない」と粘っていたのはなんだったのだと思わずにはいられないような切り替えだった。フーゴに続いて外に出たナランチャは、風の冷たさで完全に眼を醒ましたらしかった。疲れてさっさと休みたいフーゴとは正反対の表情だった。
 大きな欠伸が出た。口を覆うためにポケットから出した手は、あっと言う間に冷たくなった。
「ほら、さっさと帰りますよ」
 立ち止まってこちらを見ているナランチャに言い、彼が歩みを再開するのも待たずに先を急いだ。慌てたような足音が追いかけてくる。
「なあっ。なあフーゴ!」
「なんですか」
 「うるさいなぁ」と口には出さずに、フーゴは振り返りすらしなかった。
 風が冷たい。コートの襟をかき合わせると、不意にその手を掴まれた。
「な、手ぇ繋ごう?」
 覗き込んできた大きな眼に、驚いた自分の顔が映っていた。
「は? なんですって?」
「だから、手繋ごう」
「なんで」
「んー、逸れないように?」
「……意味が分かりません」
 通りには人込みどころか猫の仔すら見当たらない。こんなところでどうしたら逸れると言うのか。まさか自分には見えない人間が辺りにウヨウヨいるとでも言うのか。いや、そもそも自分達は一緒に歩いていたのだったろうか。たまたま同じタイミングで外に出て、たまたま自宅の方向が同じだというだけではなかったのか。
「いいから」
 何がいいのか説明もせず、ナランチャはフーゴの手を引き、そのまま歩き出した。さらには、
「オレ、今日フーゴの家に泊まる」
 唐突にそう宣言した。
「はぁ!?」
 フーゴは眉間にシワをよせた。だが、ナランチャはとっくにそのつもりだったらしく、気付けば発言よりも遥かに前に、彼は自宅へ向かうための曲がり角を過ぎてしまっている。
「なんでそうなるんですか」
「フーゴ疲れてんだろ? だから、オレが朝飯作ってやるよ。そしたらフーゴはギリギリまで寝てられるだろ? だから泊まるの」
 ナランチャは名案であるかのように言った。肩越しにフーゴを見た顔が得意げに笑っている。
 フーゴには、ナランチャが考えていることが全く理解出来なかった。用もないのに遅くまで仕事場に残ったり、かと思えば行き成り帰ると宣言し、今度は再び帰らない――フーゴの部屋に泊まる――と言い出す。
「どういう思考回路なんですか」
 勝手に決めるなと怒る気力も失せ、フーゴは白い息を吐いた。
 秋から冬へと向かう気温は、まだまだ下がりそうだ。だが、片方の手は、少しずつ暖かくなってきている。ポケットに入れてある方の手ではない。反対の、ナランチャの手に繋がれている方だ。彼とて手袋をしているわけでもなく、フーゴと同じ外気にその肌を晒しているはずなのに、こんなにも温もりが伝わってくるのは何故なのだろうか。
(……分からない)
 分からないことだらけだ。そう思いながら、繋がっている手にぎゅっと力を入れてみた。ナランチャは一瞬だけ虚を衝かれたような顔をした後、太陽のように眩しく笑い、フーゴの手を引いたまま駆け出した。バランスを崩しそうになりつつも、フーゴも彼に倣った。数時間早い朝陽に似た光を浴び、白い息を弾ませながら。


2013,11,27


人込みで「逸れないように手繋ごうか」はベタだなぁと思いつつ結構好きなのですが、
それをあえて人のいないところでやってみたら意味不明になりました(笑)。
<利鳴>

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