フー→ナラ 全年齢 ややブチャ←ナラ風


  幻想崇拝


 事務所のドアを開けたナランチャは、ぼくに挨拶の言葉を聞かせるのよりも先に、室内を見廻して簡潔な質問を投げてよこした。
「ブチャラティは?」
 首を傾げるナランチャに、ぼくは何も聞こえなかったフリをした。作りかけの資料から視線も上げずに「おはようございます」と言ってやると彼は、ようやくドアを閉めてこちらへ近付いてきた。
「おはよう。なあ、ブチャラティは?」
 よほどブチャラティに会いたかったらしい。「いませんよ」と事実だけを教えてやると、彼は「そう……」と露骨につまらなさそうな顔をした。
「……あれ? アバッキオとミスタは?」
 姿の見えない残り2人のことをようやく思い出したらしいナランチャは、改めて辺りを見廻した。このブチャラティとの扱いの違いを、アバッキオはともかく、ミスタが知ったら怒り出しそうだ。……あとで実際に怒らせてみようか。
「アバッキオはもう仕事に出てる。ミスタはまだ来てない。それより、どうしてその2人はセットの扱いなんだ?」
「ん?」
 質問の意味が分からなかったらしく、ナランチャは間の抜けた顔を斜めにした。「どうしてブチャラティだけ他の2人のようにひとまとめにしなかったんだ」――その方が質問の回数が少なくて済むのに――と聞きなおしても、おそらく首の角度が左右逆になるだけだろう。いっそ「ぼくと2人だけだとそんなに不満なのか」と尋ねてやろうかとも思ったが、いつまでも手元の資料が完成しないのは困るのでやめておいた。
「ブチャラティなら、今日は来ない」
 ぼくがそう言うと、近くの椅子を引いていた――もちろん座ろうとしていたのだろう――ナランチャは、ぴたりと動きをとめた。
「……なんで?」
「風邪引いたって連絡が」
 よくある欠席理由を聞いた途端、ナランチャは驚愕の事実を聞かされたような顔をした。「お前の部屋が火事だぞ」と聞かされたとしたら――それを嘘だと決め付けて鼻で笑った場合を除けば――、ああいう表情になるのかも知れない。
「風邪って、ブチャラティがっ?」
 ナランチャはぼくが使っているテーブルに、勢い良く手をついた。その振動で、ぼくの右手にあるペンの先がぼくの意思とは無関係な線を走らせた。身を乗り出しているナランチャを睨みつけてやると、彼はようやく謝罪の言葉を口にした。
「で、あの……、ブチャラティは……」
 完全にやる気を殺がれたぼくは――始めたばかりだったのに――、未完成の資料をテーブルの隅に避けて、肘をついた手の上に顎を乗せた。
「さっき、少し熱があるから今日は1日休むって電話がありました。その時に指示を受けてアバッキオはもう出かけていった。これで満足?」
「熱って……大丈夫なのかっ?」
「アバッキオが帰りによってみるって言ってたけど」
 アバッキオが信用出来ないというのではないだろうが――むしろその件は全く耳に入っていなかったのかも知れない――、ナランチャは不安そうな表情を変えようとしない。
「なあっ、見に行った方がいいかなっ?」
 返答よりも先に、ぼくの口からは溜め息が出た。
 ただの風邪。たかが風邪で、こいつは何をそんなに心配しているのだろうか。そのくらい、誰が――ブチャラティが――引いたって、不思議でもなんでもない。しかも自分で休むことを連絡して、指示まで残しているくらいだ。42度の高熱が出て、生死の境を彷徨っているというわけではない。普通の人間なら、「そうか、じゃあ仕方ないな」で済ませてしまう程度のことだろう。
(……まあ、アバッキオも少々大袈裟に心配していたけど)
 彼の場合は例外だ。ミスタなら間違いなく「へえ、あとで様子でも見に行ってやるか」で済ませるだろう。ナランチャのようにオロオロしてみせることは絶対にない。……だろう。
「見に行くって、行ってどうするんです? 本当に眺めてくるだけ? 君に病人の看病なんて出来るんですか?」
「あ……。う……、でも……」
「何をすればいいか分かってるの? 看病をされた経験は? 風邪を引いたことがある?」
 返事の代わりに、ナランチャは首を傾げる。悩むような質問でもないだろうに。
「ナントカは風邪引かない」
「ナントカ?」
「ナンデモ」
 初めてナランチャに会った時、彼は眼を患っていて、病院で手当てを受けさせてやった。適切な治療で眼はすぐに良くなったが、その時の経験は今は活きてこないだろう。症状がまるで違う。
 ナランチャは「困った」顔を通り越して、泣き出しそうな子供のようだった。
「そんなに心配?」
「だって、今までこんなことなかったし……」
 それはあくまでもナランチャが知っている範囲での話だ。本人がそうとは言わなかっただけで、実は風邪気味だったこともあったのかも知れないし、休みの日の間に治してしまったことだってあったのかも知れない。ナランチャが遡れるのはせいぜい1年程度で、ブチャラティが子供の頃のことも知るはずがない。もちろんぼくだってそんなことは知りはしないが、これだけは断言出来る。
(彼は『完璧』なんかじゃあない)
 『完璧』で『絶対』の『ヒーロー』は、ナランチャの中にしかいない。『スタンド』という特殊な能力を持ってはいるが――彼以外にも、ぼくだってナランチャだって持っている――それ以外は極普通の人間だ。たしかに彼は尊敬に値する人物だと、このぼくだって思ってはいるが、しかしナランチャのように盲信するようなことはない。ブチャラティは完璧な存在なんかではない。だから当たり前のように風邪を引くことだってあるし――、
(好き嫌いだってする)
「風邪を引いた時は」
「え?」
「自分で料理をするのは大変だし、買い物に出るのだって簡単じゃあないでしょう?」
 その時のぼくの口調は、露骨に変化していた。それまでの明らかな不機嫌さが消えて、未就学児を相手にする大人のような優しい声になっていたと、自分でも思う。すでにぼくの性格――スイッチを切り替えるように突然態度が変化する――を把握しているナランチャが必要以上に不信感を抱いた様子はなかった。あるとしたら、またいきなりキレるのではないかという少々の警戒心くらいだろう。
 ナランチャは「よく分からないけどそうなのか」と言うように頷いた。
「じゃあ、何か食べる物買ってったらいいのか?」
「でもそもそも食欲がなくなってるかも」
「じゃあ……」
「果物なら、食べられるかもね。水分だって取れるし」
「くだもの?」
 ぼくは頷いた。
「リンゴなんてどう? お見舞いの定番」
 ブチャラティのリンゴ嫌いを、ナランチャが知っていたら、ぼくのくだらない思い付きはあっさりと砕け散ることになっていた。しかし、彼は表情をぱっと明るくさせた。
「そっか分かった! リンゴな!」
 果物好きなナランチャは、それを嫌う人間がいるだなんて微塵も思っていないようだ。実際ぼくだってなぜブチャラティがそれを嫌うのか、その理由までは知らない。あえて嫌うような味でもないのにと思うが、そもそも好き嫌いなんて、理屈ではないものなのだろう。とにかくブチャラティはナランチャに自分の好き嫌いを聞かせたことはなかったようだ。あるいはナランチャが忘れているのかも知れない。ぼくが記憶していたのだって、たまたまだ。
「あのさ、オレ、行ってきてもいいかな」
「どうぞ」
 ぼくは笑顔でナランチャを送り出してやった。ナランチャは「グラッツェ」と言いながらぼくではない人物に向けた微笑を残してさっさとドアの向こうへ消えた。彼の崇拝する幻想が間もなく砕け散るとも知らないで。

 昼前になって戻ってきたナランチャに、「どうだった?」と尋ねてやった。部下があくまでも好意で持ってきた見舞いの品を、「嫌いだから」と突っぱねる『ヒーロー』に、少しでも彼が幻滅……いや、現実を知るといい。そんなことを思いながら。しかし、
「うん」
 彼は頷いた。頷きながら、笑った。
「1日休めば大丈夫だって言ってた。感染ったらいけないからって、あんまり長くはいさせてくれなかったけど」
「……リンゴは?」
「ん?」
「リンゴ。持って行ったの?」
 もしかしてナランチャがぼくの助言を無視したのだろうかと思ったのだが――
「うん。持ってったぜ。切ってやったら、半分くらいは食べてくれた」
「半分……も?」
 「リンゴと豆だけは駄目なんだ」と、眉間にしわを寄せていたあのブチャラティが……。まさか風邪で味覚がおかしくなっているとでも言うのだろうか。それにしたって……。信じられない。
 ナランチャの左手の指には、絆創膏が何枚も貼られていた。自分で貼ったのか、まさか病人に嫌いな物を食べさせて尚且つ傷の手当てまでさせて来たんじゃあないだろうな……。
「オレ、メシ食いに行ってくるけど、フーゴは?」
 満足したような顔で尋ねられて、ぼくの眼は一瞬眩しさを感じた。
「フーゴ?」
「ぼくは……あとでいいです。留守番してます」
「なんか買ってくる?」
「じゃあ……お願いします。適当に……、君に任せます」
「分かった」
 またしても、ナランチャはさっさと出て行ってしまった。ぼくの気持ちなんかは全て置き去りにして。
 ナランチャは、ブチャラティに何かぼくのことを話しているだろうか。「フーゴがリンゴにしろって」。そんなことを言っているといいと思った。そしてブチャラティがぼくに自分の好き嫌いを教えたことがあると、覚えているともっといい。自分を慕ってくれる部下にはそのことを無理に隠しておきながら、あとでぼくに文句を言ってくるような卑怯な性格なら、ぼくは心置きなく彼の『完璧』を否定できるのだから。
 そんなことを考えているぼくは、自分が卑怯者であることを――『完璧』な人間ではないことを――否定する気は全くない。


2012,08,18


※残ったリンゴはあとからブチャラティの家に行ったアバッキオが美味しく頂きました。
だいぶ前に日記で「アホな部下にリンゴ食わされて嫌と言えない優しき幹部」について語ったところ、Aさん(お名前出していいか分からなかったのでイニシャルで)がそれをイラスト化してくださったことがありました。
自分ではAさんの素敵に不憫(笑)なブチャラティを越えることは出来ないなと思ったので、嫉妬に燃えるフーゴにスポットをあてて書いてみました。
ブチャラティがナランチャをどうこうすることはないと分かっていながらもナランチャがブチャラティブチャラティ言ってるのは気にいらない。
そんなフーゴも好きです。
<利鳴>

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