ブチャフーブチャ モブフー要素あり モブブチャ要素極僅か アニメ設定 15歳以上推奨


  I want believe.


 
 ◆
 
「面白いじゃあないか」
 そう言って、その男はフーゴを自分のテーブルへと招いた。若い男だ。おそらく二十歳前……、フーゴとは、5つも離れていないだろうと思われた。
「少し話をしないか。食事は終えてしまったようだが、お茶くらいはまだ入るだろ?」
 切り揃えられた黒い髪をさらりと揺らすような仕草でそう尋ねると、男はフーゴの返事も待たずに、まだ不満を抱えていることを隠そうともしない――しかしそれを言葉に出すつもりはないらしい――ウエイターに向かって、飲み物を2人分オーダーした。
 男の目を真っ直ぐ見ながら、フーゴはきっぱりと言った。
「さっきので分かっていると思いますけど、金ならないですよ」
 そんな物――自宅を出る時に持ち出した現金――が残っているなら、無銭飲食なんてする必要がない。男が金品を奪うつもりで声を掛けてきたのだとしたら、全くの無駄だ。
「それとも、親に連絡して身代金でも要求するつもりですか? それも、電話代が無駄になるだけだからやめておいた方がいい。支払い能力があることと支払う意思があることは、全くの別だ」
「そんなことはしないさ」
 男は苦笑いを浮かべるように言った。
「ただお前を助けたいと思っただけだ。……いや、『お前に助けてもらいたい』が正しいかも知れない」
「助ける?」
 フーゴは眉をひそめた。男から向けられた視線はあまりにも真っ直ぐで、不思議とその言葉に嘘や偽りがあるようには感じなかった。
「おっと、自己紹介がまだだったな。オレの名は、ブローノ・ブチャラティ。簡単に言うと、この辺りを縄張りにしているギャングだ」
 その男が俗に言う『堅気の人間』でないことは、彼が纏う空気がどこか異質であることや、厄介事に出くわしたウエイターが「なんとかしてくれ」と助けを求めようとしたことから薄々勘付いてはいたが、こうもあっさりと本人の口から聞かされるとは、思ってもみなかった。それこそ、学生同時の自己紹介のような、なんでもないような口調で。そのことが逆に、「彼は嘘を吐いてはいない」とフーゴに感じさせた。
「お前は?」
「……パンナコッタ・フーゴです」
「フーゴ……と、呼んでいいかな?」
「……どうぞ」
「ではフーゴ、お前の話を聞かせてくれないか」
 彼は改めて椅子を勧めてきた。自分はギャングだと名乗っておきながら、その声や表情は穏やかだとしか表現出来ない。
「……おかしな人だ」
 そう思いながらも、フーゴはその椅子に腰を下ろし、自分の生まれと、育った環境のことを喋っていた。何故そんなことをしたのかは、自分でも分からない。ごく個人的な話を他人に聞かせるなんて、こんな状況でなくとも考えられないことだと思っていたのに。「考えられない」と思っている自分と、口から言葉を発している――誰かに「聞いてもらいたい」と思っている――自分は、別の存在なのだろうか。
 だが、“話したがりの自分”であっても、大学内にある研究室で教授に“されそうになったこと”までは口にする気になれなかったらしい。幼い頃から自分でもよく分からない怒りの感情を抱え続けてきたことと、それを爆発させた結果“したこと”――4キロの百科辞典を人に向けて振り廻したこと――だけはあっさりと明かしたが、そこまでだった。
 嘘は吐いていない。全てを話していないだけだ。それ以前に、この男に何もかもを話さなければならないという義務はどこにも存在しない。そもそも“あの時のこと”は、思い出そうとするだけでも腸が煮えくり返りそうになる。今“あの時の自分”を呼び覚ましてしまえば、目の前にいるのが教授本人ではないことなんて、全くの無意味だ。怒りに呑み込まれたフーゴは、初対面の男を容赦なく“代理人”に仕立てて痛め付けようとするだろう。だからこれは、自衛ではない。いうなれば、フーゴはその男を“守ってやった”のだ。
 それでも、テーブルに置かれたお茶のカップに手を付けることもせずただ黙って話を聞いているその男の視線は、何もかもを見透かしているのではと思えるような光を秘めているように見えた。沈黙が続くと、より多くのことを読み取られてしまうような気がしてくる。居心地の悪さを覚えて、フーゴはなるべくなんでもないことのように――そう聞こえるようにと願いながら――言葉を続けた。
「……とまあ、ぼくの身の上話はこんなもんです」
 全てを語りはしなかったが、それでも少し長く喋り過ぎたかも知れない――テーブルの上のカップは、とっくに湯気を上げることをやめている――。そう思ったフーゴは、誤魔化すように視線を下げた。
「同情とかはやめてくださいよ。別に不幸だとか思ってませんし……」
 強いて言うなら、最初から幸福なんかではなかった。だから、何も変わっていない。むしろ他人との関わりをこのまま絶つことが出来るのであれば、彼は今までよりも幸せになれるのかも知れない。
 そう思ったのに、
「そうか。しかし、うん、これは運命の巡り合わせだと感じる」
 フーゴに掛けられたのは、何故か満足そうな声だった。
(運命……?)
 その言葉は頭の中で何度も反響した。
「オレのチームに入らないか」
 フーゴは思わず顔を上げていた。一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
「パンナコッタ・フーゴ、お前の知性と知識が欲しい」
 似たような言葉を掛けられたことは、この十数年の人生の中で幾度かあった。ある者は自分の功績の一部として、ある者は己の欲求を満たすための道具として、フーゴ本人の意思や感情を無視したままに、彼のことを“欲しがった”。「期待している」という言葉と共に向けられる目は、実のところフーゴではなく、その人物自身しか見ていなかった。それ等の過去は、思い出そうとするだけでも虫唾が走る。
 しかし、その男のその言葉には、他の者とは違うと感じさせる何かがあった。「この男の傍なら、もしかして……」と思える――思いたくなる――ような“何か”が。
 だが、
「ブチャラティさん……、でしたか。ギャングになるのも悪くはなさそうですが、ぼくはもう決めたんです。誰とも関わらず、ひとりで生きていくと」
「ほぉ、何故だ」
 フーゴは再び視線を逸らした。
「話したでしょう。ぼくはかっとなると、恐ろしいことをしでかしてしまう。貴方の仲間になったとして、その貴方さえ殺しかねないんです」
 “あの男”が死ななかったのは、ただ運が良かった――それとも逆に悪かった――だけのことであって、殺してしまっていたとしても、何の不思議もなかった。そして、“次”もそうなるという保証は、どこにもない。
(自殺願望者なら勝手にやってくれ。ぼくを巻き込むな。そうじゃあないと言うなら、やっぱりぼくのことは放っておいて……)
 誰とも関わらず、ひとりで生きていく。果たしてそれは、本当に「生きている」と言えるのだろうか。
(……どっちだっていい)
 それを『死』と呼ぶなら、呼べばいい。生きながらの死以外、彼に生きる術はないのだ。
 怒りと共に、全ての感情を封じ込めてしまおう。殻を作って、誰にも触れないように、誰からも触れられないように……。
 たまたま会っただけの知らない人間のことなんて、忘れてしまえ。今までに知り合った全ての人間をそうしてきたように。
(ぼくの世界には、誰もいない)
 最初から存在していないか、すでに死んでいるか、それだけの違いだ。
(もう、ここも出て行った方がいいな……)
 そろそろ“この世界”から立ち去るべきだ。“2つの世界”は決して相容れぬ物なのだから。“フーゴの世界”においてフーゴ以外の者が“存在しない者”であるのなら、“この世界”におけるフーゴもまた、“存在しない者”である。それは、死者と同義であるのかも知れない。『リビングデッド』、そんな言葉が思い浮かんだ。
「なら、本当にそうなるか試してみよう」
 宣言するような声が言った。
 フーゴは我が耳を疑った。
 ブチャラティは立ち上がり、手を差し出していた。
「オレと共に来い、フーゴ。オレがお前を生かしてやる。その獰猛な、怒りの衝動も含めてな」
 静かでありながら力強さを感じる声。わずかに笑みを浮かべた、自信に満ちた顔。ただひたすらに真っ直ぐな視線。フーゴは、空っぽの心の中でかすかな風が吹いたように思った。
「お前の才能は、埋もれさせてしまうには惜しい」
 「そんなこと出来るわけがない」と、フーゴは思った。ブチャラティはあくまでも本心からそう言っているつもりなのかも知れないが、望んだことを望んだままに出来る人間なんて、この世に一体何人存在するだろう。
 それでもフーゴは、「そんなこと出来るわけがない」と言葉にして放つことはせず、彼について行くことを選んだ。たぶん、少し疲れていたからだろう。その日の仮の宿を確保するのにも、その男について行くのが一番手っ取り早いと思った。ただそれだけが理由だ。
 そして翌朝にでもすぐ姿を消そうと思わなかったのも、それが面倒だったからに過ぎない。どうせ行くところもないのだから、表向きだけでも彼に従っていた方が楽かも。そんな打算。
 フーゴは、まだ自分が生きたがっているのか死にたがっているのかもよく分からないでいた。“答え”が出ない内は、動けない。
 それに、ブチャラティが「試したい」と言うのなら、やってみればいい。
(出来るわけがない)
 きっとすぐに思い知ることになる。その後で改めて誰にも関わらずにひとりだけで生きていく道を歩めばいい。
(それだけのことだ)

「住む場所は出来るだけ早く見付けておくつもりだ。ただ、今はちょっと立て込んでいてな……、少し時間が掛かるかも知れない。しばらくはオレの部屋で我慢してくれ」
 そう言ってブチャラティは、フーゴを自分が住むアパートへと連れて行った。それはごく普通の単身者向けの物件といった風で、言われなければ――あるいは言われても――ギャングが住んでいるとは思わなかっただろう。他の住人達は、彼のことを知っているのだろうか。もし今ここで全住人に聞こえるような大声で、「この男はギャングですよ」と叫んだら、どんな反応があるだろう。
「昨日まで寝泊りはどうしていたんだ? とりあえず、風呂にでも入るか?」
 この提案は、正直に言うと少し――あるいはだいぶ――有り難かった。所持金を節約するためにシャワーすらないような安ホテルに泊まることは、決して珍しくもなかった。
「バスルームはここだ。掃除はしてるつもりだ。シャワーの温度調整は分かりそうか? 置いてある物は好きに使って構わない。着る物とタオルは出しておこう。洗濯機も使っていい。洗剤はここだ」
 特別早口だというわけではないが口を挟む余地を与えまいとするかのように喋るブチャラティは、フーゴが「気が変わった」と言って出て行こうとするのを阻止したいのか、あるいは、この後に何か予定でもあって急いでいるのだろうか。
 「何かあったら言ってくれ」と言い残され、気付けばフーゴはぽつんと一人で立ち尽くしていた。同じ建物の中に間違いなく人は複数いるはず――外から見た時に明かりが付いている窓がいくつもあった――なのに、よほど防音がしっかりしているのか、物音ひとつ聞こえない。
「はぁ……」
 意識しないままに漏れた溜め息が誰の耳にも届くことなく消えると、それまで以上の静寂が空間を包んだ。
 この場所から、自分がどこへ行こうとしているのかがさっぱり分からない。いや、本当にどこかへ通じる道なんてあるのだろうか。やはり、今からでも出て行くのが正解なのだろうか。
 だが、無音に耐えかねるように捻った蛇口から出たお湯に指先を濡らしてみると、その温かさに抗うことは難しかった。ほんの数秒の逡巡の後、フーゴはどうとでもなれと思いながら服を脱ぎ捨てた。
 少し熱く感じるくらいのシャワーを頭から浴び、バスタブにもお湯を張って、肩までどころか首元まで浸かった。食事も入浴も、かつてはすぐ手の届くところに当たり前に存在しているものだった。それが『当たり前』ではない生活なんて――職を失ったホームレスやストリートチルドレンと呼ばれる者達のことなんて――、――もちろんそれに関する多少の知識は持っていたが、自分に関係のあることだとは――考えたこともなかった。そういった暮らしをしている者から見れば、フーゴが生まれ育った環境――ネアポリスの郊外に広大な土地を持つ裕福な家系――は天国のように思えるのかも知れない。だがフーゴにとっては、そこは恵まれた環境であると同時に彼を捕らえる牢獄も同然だった。そして彼が待っていたのは、刑期の終了ではなく、いつになるとも知らされぬままの死刑の執行だった。

 1時間ほど経っただろうかという頃になって、フーゴは浴室を出た。視線を横へと動かすと、ドアのすぐ傍にある背の低い棚の上に、新品であることが分かる寝間着とタオルが置かれているのが見えた。
(……いつの間に?)
 「着る物とタオルを出しておく」と言われたために、――少し迷ったが――脱衣所の鍵は掛けていなかった。故に、ドアの向こうの気配にはずっと注意していた……つもりだった。
(ドアを開け閉めする音は聞かなかったはずなのに……)
 シャワーの音がかき消したか、あるいはバスタブの中で少し微睡んだ瞬間があっただろうか。
 いつの間にか用意されていた寝間着は、フーゴにはサイズが大きく、手は指先まで隠れてしまうし、裾はそのまま歩けば踏み付けてしまいそうだ。おそらく、ブチャラティが自分用に購入しておいてまだ使っていなかった物なのだろう。「お前は子供だ」と小馬鹿にされているようで面白くない。ただの衣類――それも外に着て出る用の服ではなく、ただのパジャマ――のくせに、生意気な。
(お前なんて、ずたずたに引き裂くのも、火を付けて燃やしちまうのも簡単なんだぞ)
 だが着る物がなくなるのは困る。仕方なく余った袖と裾を折り上げて着ることにする。
 真新しいタオルはあまり水分を吸ってはくれず、どれだけ拭いても髪が乾くのには時間を要しそうだった。床と肩を水滴で濡らしながら、自宅にいる頃にこんな格好をしていたらおそらく母は「風邪を引いて大事な試験を受けられなくなったらどうするの」と血相を変えて叫んだだろうなと思った。が、そもそもそんな恰好でいるなんてことをしたことがないフーゴには、そんな『思い出』は存在しなかった。
 ブチャラティはリビングにいた。フーゴの姿に気付いて、彼は「あっ」と言うように口を開けた。
「すまない。ドライヤーの在り処を教えるのを忘れていたな」
「いいです。その内乾きます」
 首を振ると、余計に水滴が飛んだ。あるいは床を濡らすなと激怒されるかと思った――同時に、「不可抗力だ。むしろ非はそちらにある」と主張して言い負かす自信はあった――が、ブチャラティはそれこそ「その内乾くから構わない」と言うような顔をしていた。
「風邪は引くなよ?」
 そうとだけ言った彼の口調は、空想の中の母とはずいぶん違っていた。
 ふとテーブルの上に目を向けると、ラップを掛けた皿がいくつか置かれていた。フーゴが風呂に入っている間に、ブチャラティが食事の用意をしたのだろう。だがその量は、2人分には見えない――もっと少ない――。その視線に気付いたのか、ブチャラティは「オレはこれから出掛けてくる」と言った。
「仕事?」
 壁に掛けられた時計はすでに“夜”と称して差し支えないであろう時刻を指しているが、ギャングの“仕事”が一般的な会社員と同じ時間帯にのみ行われるということはおそらくないだろう。そう思って尋ねたのに対し、「そんなところだ」という曖昧な言葉が返ってきた。厳密に言えば違うということなのだろうか――詳しく説明するつもりはないようだ――。
「おそらく帰りは遅くなる。先に寝てろ。寝室はそっちだ。ベッドを使っていい」
 そう言いながら、彼はもう玄関を目指して歩き出している。
「ちょっと待ってください」
「どうした?」
「貴方はどこで寝るんですか」
「床で寝るさ」
 ブチャラティは、「壁の中よりは寝心地がいいだろう」と面白くもなんともない冗談を言った。
「つまり、ぼくがあんたのベッドで寝て、あんたはその横で毛布に包まって寝ると?」
「嫌か」
 どうやら顔に出ていたらしい。
「……他人が傍にいると眠れないんだ」
 実際は他人と同じ部屋で寝たことなんて物心が付いてからは一切なかったが、それは容易に想像出来た。
「なるほど、結構神経質なんだな。いや、繊細、と言った方がいいかな」
「どちらでも」
「それなら、オレはリビングで寝るとしよう。その方が夜中に出入りしても、安眠の妨害をせずに済むしな」
 ブチャラティは「ちょうどいいアイディアだ」と喜ぶような顔をした。やはり、変わった男だ。
「それじゃあ行ってくる」
 フーゴは無言で見送った。
 ドアが閉まり、辺りは静まり返る。
 頭の中で“誰か”が問うた。「出ていかないのか?」。フーゴはそれを無視した。

 ブチャラティは、真夜中をだいぶ過ぎた頃――むしろ明け方に近いかも知れない――になってから帰ってきた。その時フーゴは、リビングのソファに座って、どこを見るということもなくじっとしていた――濡れた髪は、いつの間にか完全に乾いていた――。他人が見たら、目を開けたまま眠っていると思ったかも知れない。
「起きていたのか」
 そこにいるフーゴを見て、ブチャラティは少し驚いたような顔を見せた。彼が近付いてくると、ほんのわずかにだが煙草の臭いが鼻先を掠めた。部屋からはそんな臭いはしなかったから、彼に喫煙の習慣はないらしいと思っていたが……。出先で喫煙者と一緒にいたのだろうか。
「別に、あんたを待ってた訳じゃあない……」
 ただまだ眠れそうになかっただけだと、フーゴは首を横へ振った。
「食事は口に合わなかったか?」
 テーブルの上の料理には、全く手を付けていなかった。故に“口に合う”かどうかすら確かめていない。もっと厳密に言うと、皿の中に何か入っているのかさえ、フーゴは見ようともしなかった。
「好き嫌いは多い方か?」
「他人が作った料理が嫌なんです」
「レストランでは食べてただろ」
「それを仕事にしている人と素人は別です」
 料理を作った人間――作ってくれた。頼んでもいないのに――を目の前にして言うにはずいぶんと失礼な理屈を述べるフーゴに、ブチャラティは拍子抜けするほどあっさりと「なるほどな」と頷いた。この男には、『怒』の感情はないのだろうか?
「何か買ってくるか?」
 そう尋ねられて、フーゴは再びかぶりを振る。
「要りません。もう寝ます」
「そうか」
 使って良いと言われた寝室へ向かおうとすると、ブチャラティの視線がその動きをじっと見ているのが分かった。「何か?」と尋ねるように――半ば睨み付けながら――振り向くと、ブチャラティはわずかに微笑むような表情を見せながら口を開いた。
「おやすみ。ゆっくり休め」
「……おやすみなさい」
 寝室は、ほんのわずかにだが他人のにおいがした――だが先程感じた煙草の臭いとはやはり違う――。それでも室内は余計な物が出しっ放しになっている等ということはなく、ベッドのシーツも新しさを主張するかのように真っ白だった。おそらく、フーゴが風呂に入っている間に――わざわざ――新しくしたのだろう。
 ドアには鍵が付いていた。ほとんど使われないまま放置されているのか――独り暮らしであれば施錠の必要はないかも知れない――、ツマミは少々堅かったが、フーゴの力でも廻すことが出来た。
 施錠を確認すると、フーゴはベッドに腰を下ろし、溜め息を吐いた。
(ぼくは、何をしているんだろう……)
 他人の服を着て、他人の部屋にいる。自宅を出てから過ごしたどんな場所よりも、自分とは無縁であるはずの“どこでもない”場所……。
「ぼくは誰だろう……」
 声に出して呟いてみても、答える者は誰もいなかった。

 
 ◇
 
 13歳で大学へ入学したフーゴは、誰の目にも明らかなほどに周囲から浮いていた。最初の頃に向けられていた「どうして子供がこんなところに?」と訝しむ視線が、彼が持つ高い知能への妬心に変わるまでに然程長い時間は掛からなかった。教師でさえ、一般的な学生の型に当て嵌めることが出来ない少年を、どう扱って良いのか決めあぐねているようであった。
 それでもフーゴは、構わなかった。
(ぼくは友達ごっこをしに来てるんじゃあない)
 他人と関わることに対する面倒がない方が、よっぽどありがたい。幼い頃から掛けられ続けていた周囲からの過度の期待に、彼はとっくにうんざりしていた。その代わりのように好奇の目や事実無根の中傷の言葉が向けられることは時折あったが――本人達は聞こえないようにと潜めているつもりなのかも知れなかったが、実際のところは筒抜けであった――、それによって生じる苛立ちの感情は、――これまで通り――なんとか堪えてやり過ごした。
 そんなある日、声をかけてきた男がいた。

「君がパンナコッタ・フーゴくんだね」
 穏やかな笑みを向けてきたその男は、この大学の教授だった。学生時代にスポーツでもやっていたのか、どちらかと言えばがっちりとした体格をしている。口の周りを囲むように整えられた髭からは不衛生な印象を受けることはなく、彼の威厳を表現するのに充分な効果を持っていると言えるだろう。フーゴは彼の授業を受けたことはなかったが、その姿を構内で見掛けたことは何度かあったのを覚えていた。
「我が校始まって以来の天才だと聞いているよ。会えて光栄だ」
「はぁ、それはどうも……」
 フーゴはわずかばかりの会釈を返した。目上の者に対する礼儀としては決して充分であるとは言えないそれに、しかし相手が気分を害した様子は見えなかった。
「だが、流石に慣れない環境で苦労することはあるんじゃあないかな?」
 「だからどうした」と心の中で吐き捨てるよりも先に、彼は言葉を続けた。
「困ったことや分からないことがあったら、いつでも私に言いなさい。君のような若者を教え、導くのが、私の務めだからね」
「……ありがとう、ございます」
 何故だろう。放っておいてくれて構わないと思っていたはずだったのに。
(今彼は、ぼくを気遣ってくれた……?)
 話し掛けられたら厄介だからと一定以上の距離を保とうとするのでもなく、面白半分に声を掛けてくるのでもなく、親切の押し売りをするわけでもなく、ただ柔らかな笑みを向けてきた。そんな人間には、初めて会った。
 フーゴはそれを「嬉しい」と感じていた。おそらく気を張っているつもりでいても、実際には何にも寄り掛かるまいと努めるのに疲れていたのだろう。
 彼は初めて心から尊敬出来る相手に出会えたのかも知れないと、そう思った。

 
 ◆
 
 フーゴは毛布を跳ね飛ばすような勢いで飛び起きた。もしかしたら、悲鳴を上げてすらいたかも知れない。心臓が痛いくらいに鳴っている。今この瞬間、目の前に誰かがいたら、それが何者であろうと迷わず――あるいはそれが誰か認識するより早く――殴り掛かっていただろう。
「はっ……、はぁっ……」
 肩で大きく息をする。脈に合わせてこめかみの辺りがひどく痛んだ。
「やめて、くれ……」
 フーゴは頭を押さえた。
「やめてくれ……っ」
 指先に力を込める。強く。頭蓋骨が軋んで音を立てそうなほどに、強く。
 それでも激しい動悸は治まりそうにない。
 ただの夢だ。
 フーゴは自分にそう言い聞かせようとした。
 ただの夢。
 ただの過去。
 もう過ぎ去ったこと。
 ここには存在しないもの。
 だがそれは、言い換えれば“過去に間違いなく存在したもの”だった。“今”と“未来”は――場合によっては――変えることが可能であるかも知れないが、“過去”だけはどうやっても覆すことは出来ない。
 フーゴは自分の両肩を抱くように強く押さえた。皮膚が裂ける寸前まで、爪を立てた。

 どれほどの時間そうしていただろうか。ようやく収まった衝動は、しかし決して消えてしまったわけではないということを、フーゴは知っている。いわばそれは、一時的に眠っているだけに過ぎない。何かの切っ掛けさえあれば、何度でもフーゴの内側から現れる。いつだって外へ出る機会を伺っている。
 ブチャラティの言葉が脳裏に浮かび上がった。
『オレがお前を生かしてやる。その獰猛な、怒りの衝動も含めてな』
「……出来るわけがない」
 フーゴは小さく頭を振ってから、顔を上げた。
(今、何時だろう……)
 カーテンの隙間から太陽の光が見える。夜はとっくに明けているようだ。いや、外の明るさから察すると、もう昼に近いかも知れない。
(ブチャラティは……?)
 部屋を出てリビングに向かうと、しかしそこには誰もいなかった。フーゴをここへ連れてきた男は、また出掛けたのだろう。昨夜も仕事――のようなもの――だと言っていたし、結構多忙なのかも知れない。
 フーゴはテーブルの上に、現金と銀色の鍵が置かれていることに気付いた。『足りなければオレの名前でツケておくように』とのメモもある。金額的に見て、食事以外にも必要な物があれば買い揃えろということだろうか。欲しい物なんて何もない。だが着る物くらいはあった方が良いだろう。同じ服を何日も続けて着ているわけにはいかない。それに、昨夜は何も口にしていない。流石に空腹感を覚えずにはいられなかった。
 洗面所で顔を洗った。鏡に映った少年が、光のない目でこちらを見ていた。

 必要と思われる物を買い揃えてブチャラティの住まいに戻ってきた頃には、すっかり日が沈んでいた。鍵を開けて中に入ると、先に帰っていたブチャラティが顔を見せた。
「お帰り」
 彼は、「帰ってきてくれて嬉しい」というような表情をしてみせた。
 彼の期待を裏切って、そのままどこか他の場所へ行ってしまうことは容易に出来ただろう。だが、その先をどうするかをまだ決めていない。だから戻ってきた。それに、鍵を持ったままいなくなられては困るだろうと思った。寝る場所や風呂、食事を提供してくれた者に対する最低限の礼儀として、それはいけない。そう思った。それだけだ。
「食事は?」
「済ませてきました」
「そうか」
 傍目には家族のような会話をしながら、フーゴはブチャラティの目を一度も見ようとしなかった。何も見なくて済むなら、それが一番いいのにとさえ思った。
「フーゴ」
「はい」
「明日は、何か予定があるか?」
 行く場所もない少年に、一体どんな予定があることを想定しているのだろうか。「何も」と返したフーゴに、ブチャラティは満足そうな顔をする。
「それなら、そのまま空けておいてくれるか?」
「何があるんですか?」
「組織に入るための試験を受けてもらう。“上”には話を付けてきた」
「試験……」
 試験と言えば、塾や学校で受けるそれを思い浮かべる。が、もちろんギャングになるために歴史や物理学の知識を求められるとは思えない。
「どんな試験なんですか」
「それは幹部次第だ」
 そう答えたブチャラティは少々浮かない顔をしていた。内容は分からないと言いながらも、相当な難易度が予測されるということなのだろうか。あるいは何か危険を伴うような……?
 首を傾げるフーゴを残して、ブチャラティは今夜も用事があると言って出掛けて行った。何か面倒な仕事でも抱えているのだろうか。彼の「チームを作りたい」という思いは、実はかなり切実なものなのかも知れない。
(明日の試験……)
 受かればきっと、ブチャラティは喜ぶのだろう。
(ぼくには、どうでもいいことだ)
 だから、少し早いがもう休もうと思ったのは、明日に備えたから等では決してない。

 
 ◇
 
「教授、おはようございます!」
 あの日声を掛けてくれた教授の姿を構内で見付けると、フーゴは自分から近付いて行って挨拶をするようになった。時には彼の言葉通り、授業で分からなかったことを聞きに、彼の研究室を訪ねることもあった。といってもそれは、ほとんどただの口実に過ぎない。フーゴがその気になれば、自分で調べて疑問を解決すること等、そう難しいことではなかっただろう。
「やあフーゴくん、おはよう」
 知性に溢れた微笑みが自分へと向くと、不思議と胸の奥に暖かな火が灯ったような気持ちになる。その時ばかりは、幼い頃から自身の中に潜み続けている得体の知れない怒りの感情を、完全に忘れていられるような気がした。
 教授は自分の研究室へと向かう途中だったらしい。授業のために教室へ向かっていたフーゴは、それが自然なことであるかのように彼の横を並んで歩き出した。
「ああそうだフーゴくん、約束していた資料なんだがね、すっかり勘違いしていたよ。研究室にあるとばかり思っていたのに、どうやら自宅の書斎に置き忘れてきてしまったようでね」
 研究室を訪れたフーゴに、「君の論文にちょうど良さそうな資料があるから貸してあげよう」と彼が約束してくれたのは先週のことだった。すぐその場で見付けることが出来ず、探しておいてくれるという話だったのだが……。
「そう……ですか。……それじゃあ、この次の機会にでも、お願いします」
 口ではそう返したが、落胆した顔をしてしまっていたのかも知れない。「すまないね」と言いながら、教授まで気落ちしたような表情を見せる。
「大丈夫です。提出まで、まだ時間はありますから」
 取り繕うようにそう言ったが、実際にはあまりのんびりもしていられない。そろそろ試験へ向けての準備も始めなくてはいけない頃だ。
(別の資料も、探しておいた方がいいかな……。でも大学の図書室にはちょうどいい物がなかったから……)
 いっそ国立図書館を利用出来たら良いのだが、ローマもフィレンツェもここネアポリスからでは距離がある。しかもフーゴは、まだそれらの施設を利用出来る年齢にはなっていない。
(年齢での制限なんて、なんの意味があるんだ)
 理不尽な怒りがじわりと胸の中に広がろうとした、その時、
「もし君さえ良かったら、私のうちまで取りに来るかい?」
「……いいんですか?」
 教授はくすりと笑った。思わず喜びの表情を浮かべたのが、あまりにも露骨だったのでおかしかったのだろう。
「実は、妻に君のことを話したら、一度会ってみたいと言われてね。是非とも手料理を振る舞いたいと言うんだが、どうかな」
 彼が左手の薬指にシンプルでありながら高額そうな指輪をしている――即ち既婚者である――ことは、早くから気付いていた。相手はどんな人なのだろうと考えてみたこともあったが、夫の口から聞いただけで良く知りもしない学生――しかも普通の大学生とは違って13歳のほんの子供だ――に興味を持つなんて、きっと夫と同じで、弱い立場にいる者を放って置けないタイプなのだろう。
 フーゴの母親は、あまり家庭的な人ではなかった。息子を塾へ通わせ、本を買い与え、良い成績を取らせることこそが自分の役目であると信じているような人間で、料理をするなんてことは非常に稀だった。
 フーゴが知り得なかった“暖かい家庭”が、そこにはあるのかも知れない。それは充分フーゴの興味を引くものだった。

 
 ◆
 
「大丈夫かフーゴ?」
「最悪の気分です」
 ブチャラティの問いに、フーゴは眉間にしわを寄せながら地を這うような声で答えた。
 テーブルの上には、ビニールの袋で梱包された売場にあるままの状態のビスコッティと、コーヒーマシンが作ったカプチーノが乗っている。それになかなか手を付けようとしないフーゴの顔を、ブチャラティは何度も覗き込もうとした。本人は気遣っているつもりなのかも知れないが、正直言って、鬱陶しかった。殴り飛ばして排除しようとしなかったのは、単に起きたばかりで力が出そうにないからという理由でしかない。
「悪い夢でも見たか?」
「ええ。最悪です」
 昨日に引き続き、今朝の目覚めも最悪だった。何故思い出したくもないことばかりが頭の中に浮かんでくるのか。それが寝ている間のこととなれば、意志の力で払い退けようとすることはますます難しい。何も知らずに呑気に笑っている夢の中の自分を殴り飛ばしてしまえないことが、フーゴには何よりも歯痒かった。
 余計なことを考えずにいるためには、他のことを考えていれば良いはずだ。だが今のフーゴには、なすべきことが何もない。意識を向ける対象が存在しないのだ。このままではいけない。そんな状況を打開するためにも、正式にギャングの一員となるのは「あり」だと思えた。きっとそうなれば、いかにも多忙そうなブチャラティの手伝いで手一杯になり、今ここにないもののことなんて考えていられなくなるだろう。彼はそんな風に思い始めて――期待し始めて――いた。
「試験は大丈夫です。どこへ行けばいいのか教えてください。必ず合格してみせます」
 フーゴはそう宣言すると、袋から出したビスコッティを噛み砕いた。急なやる気を見せたフーゴに、ブチャラティはわずかに首を傾げつつも、「頑張れ」と激励の言葉を掛けて微笑んだ。

 朝食を終えると、自分も出掛けるというブチャラティと一緒に外へ出た。何も知らない者から見たら、同じ部屋から出てきた自分達はどういう関係に見えるのだろう――兄弟と思うにはあまりにも似ていないだろう――。そんなことを考えながら、フーゴが先に通りへ出ようとすると、後ろから何かに気付いたようなブチャラティの声が聞こえた。
「あ」
 フーゴは振り向いて首を傾げた。
「なんです?」
「すまないが、鍵を掛けてくれるか。預けたままだったな?」
 確かに、うっかり返すのを忘れていた鍵は、フーゴのズボンのポケットに入ったままだった。
「これは合鍵じゃあないんですか? 自分で持ってないんですか?」
「置いてきてしまったようだ」
「なら、返します。いや、そうでなくても、返さないと」
 差し出した銀色の鍵を、しかしブチャラティは首を振って受け取ろうとしない。
「いや、それはお前が持っていてくれ。帰りは別になるから。おそらくお前の方が早い」
 フーゴがそのまま姿を消すことを、この男は全く考えていないらしい。信頼されていると言うよりは、どこか抜けているんじゃあないだろうかと思えてくる。
 フーゴがドアの施錠を終え、再び鍵をポケットにしまうのを見届けてから、ブチャラティは歩き出した。大きな通りに差し掛かったところで、彼は「それじゃあ、頑張って」と改めて告げた。角を曲がって消えていく背中を見送り、フーゴも教えられた場所を目指して歩き出した。

「どうだった?」
 ブチャラティから「昼は一緒に食べよう」と電話で呼び出され、フーゴは近くのレストランのテーブルについていた。子供ひとりで入れるような店ではないことは一目瞭然であったが、ブチャラティの名前を出すと、何ひとつ詮索されることなく奥の個室へと案内された。少し遅れてやってきたブチャラティは、オーダーを済ませるや否や、身を乗り出すように尋ねてきた。「どうだった?」と。まるで受験生の子を持つ親のようだ。
「面倒だから手っ取り早く済ませようとか言って、いきなり刺されました」
 そう答えたフーゴの声は、我ながら不機嫌さを隠そうともしていなかった。それはそうだろう。試験を受けろと言われて訪ねて行った先は刑務所で、そこにいた大男――ポルポという名は彼本人は一切名乗らず、事前にブチャラティから聞いていなければ今も知らないままだったかも知れない――に問答無用で矢を突き立てられたのだから。
 状況を解するよりも先に、間違いなく貫かれたはずの胸の傷は消えていた。何が起こったのか、全く理解出来なかった――そうでなければ「何をするんだ」と激高していただろう――。
 ポルポは忌々しげに吐き捨てるように「合格か」と呟いた切り、後のことは全てブチャラティに聞けとだけ言ってフーゴを早々と追い出した。
「ポルポめ……」
 フーゴから話を聞いたブチャラティは、こめかみの辺りを指で押さえながら眉をひそめた。
「まさかそこまでとは……。すまない、ここ最近機嫌が悪いようなんだ」
「その原因は貴方に?」
 そう尋ねると、少しむっとしたような視線が返ってきた。声には出さぬままに「何故そう思った」と尋ね返されたように思ったので、フーゴは簡潔に答えてみせた。
「そうでもなければ、貴方が謝る必要はないでしょう? 部下がしたことならともかく、ポルポは貴方の上司だ」
「察しが良過ぎて可愛くないな」
 ブチャラティはやれやれと溜め息を吐いた。アタリだったか。
「もしかして、その不機嫌の原因はぼくですか? 貴方がぼくを仲間に入れることを彼に提案した。それに対して、彼は不機嫌になっている。つまり、ぼくを仲間に入れることに、反対しているのでは?」
「そう思った理由は?」
「今度のは勘です」
「お前が気にする必要はない」
 否定はされなかった。
 ポルポがフーゴを歓迎していないことは明らかだった――充分に仕事が出来る年齢ではないとでも思われたのだろうか――。おそらくあの男は、ブチャラティのことを気に入っているのだろう。そんな相手が連れてきたフーゴを、無碍に追い返すことは出来ず、だからと言って笑顔で迎える気にもなれなかったと、そんなところか。上司の立場であるにも拘わらず有無を言わさず申し入れを却下することが出来ないだなんて、両者はどのような力関係になっているのだろう。
「とりあえず、入団は許可されたんだな?」
「ええ。不満そうではありましたが。入団の証だというバッジも受け取りました」
 投げて寄越されたそれを、拾い上げる時にわずかな躊躇いを覚えた。だがそれは、今更道を踏み外すことへ対する恐怖心等からではない。正式に組織の一員となるからには、勝手な行動を取ることは許されないだろう。もちろん、何も告げずに姿を消すことも、これからは出来なくなる。かつて言っていた「ひとりで生きていく」ことを選ぶのは、今後難しくなるに違いない。難しいどころか、不可能でさえあるかも知れない。その結果、未来に何が待っているのか……。フーゴにはそれが分からなかった。結局は「本当にそれで良いのか」と自問する間もなく、「早く出ていけ」と追い立てられ、そのまま勢いでバッジを拾ってしまったわけだが……。
「常に身に付けている必要はない。それを使って組織の一員であることを証明する機会は、まずないと言える。そんなことをするまでもなく、お前のことは組織内にあっと言う間に広まると思っていいだろう」
 そういうものかと納得して、フーゴはそのバッジをとりあえずポケットにしまっておくことにした。再び顔を上げると、真剣な眼差しがこちらを向いていた。
「それで、矢に刺されて生き延びた……、つまり、スタンド使いになったんだな?」
「スタンド……?」
 いつの間にか空気がぴんと張り詰めていた。
「どんなスタンドだ?」
「あれは、スタンド……というんですか?」
 矢に刺された直後、フーゴは目の前に“何か”を見た。それは、人の形に似た、人ではないものだった。その肌は金属やプラスチックのような無機物を彷彿とさせる質感でありながら、ギラリと光る瞳は獰猛な獣のようであった。明らかに異様な、見た者を本能的に恐怖させる、そんな空気を纏うそれは、一言で形容すれば、『化け物』。
「じっくり見ている時間はありませんでした。ポルポから、さっさと出ていかなければ殺すと言わんばかりの形相で睨まれていたので。それに、気付いたら消えていました。詳しいことは、全部ブチャラティに聞くように言われています」
「簡単に説明すると、“それ”は精神エネルギーが形となったものだ。超能力……と言い変えてもいいだろう。スタンドは、1人に付き1体。それぞれ異なった能力を持つ。スタンドのヴィジョンはスタンド使いにしか見ることが出来ないし、スタンドに触れられるのはスタンドだけだ。スタンドが傷付けられれば、本体もダメージを負う。ポルポが持っていた矢は、スタンド使いを生み出す道具だ。だが、誰もがスタンド使いになれるわけではない。矢に“選ばれなかった”者は、死ぬ」
 通い慣れた駅までの道順を伝えるように、ブチャラティは淀みなく説明した。今までに何人もの『スタンド使い』に同じ説明をしてきたのか、あるいは、フーゴが『スタンド使い』になって帰ってくることを予想して、準備をしていたのだろうか。
「今ここに“出せる”か? “呼んで”みろ。お前の『スタンド』を」
 「どうやって」と尋ねる間もなく、すでに“それ”はフーゴの背後に現れていた。凶悪としか言いようのない顔をしたそれは、確かにフーゴの意思で存在しているようだ。間違いなく、“自分の中”から現れたのだと直感的に分かった。同時に、それが危険な存在であるということも。ひと度その力を揮えば、恐ろしいことが起こるという予感がする。
(こんなものが自分の中にいるなんて……)
 だが、納得も出来た。物心付いた頃からずっと存在していた“得体の知れない怒り”がこのような形となって現れたのだとしたら、大いに頷ける。ブチャラティはそれを「精神エネルギー」と言った。つまり、これはフーゴの心を映した“鏡”なのだ。全てを……、自分自身すら壊してしまいたいと、それだけを願う殺意の化身。
(お前だったのか。ずっとぼくの中にいたのは……)
 フーゴはそれを、『パープル・ヘイズ』と名付けた。

 
 ◇
 
「どうかしら? 口に合うといいんだけど……」
 そう言ってフーゴの反応を待つ女性は、左手の薬指に教授がしている物と同じデザインの――シンプルな――指輪をしていた。
 授業が終わったその日の午後、フーゴは教授の自宅に招かれていた。突然のことに驚きを隠せないのはフーゴばかりで、教授夫人――想像していたよりもだいぶ若いようだ――はそんな様子を微塵も見せはしなかった。
 振る舞われた料理はどれも手が込んでいて、これにもフーゴは驚いた。「美味しいです」と答えたのは決してお世辞等ではなく、母親があまり家庭的な人ではないので手料理が珍しい、なんて話を抜きにしても、本心からの言葉だった。
「とっても美味しいです。レストランで食べる料理みたいだ」
「まあ、本当に? 良かったわ」
 朗らかな笑みを見せる夫人の隣で、教授はワイングラスを傾けている。その光景を見たフーゴは、なんて素晴らしい夫婦なんだろうと思った。2人の間に子供はいないようだったが、世の人々が思い描く『理想的な家庭』に、それ以外で欠けているものはおそらく何もないだろう。もしもフーゴが無邪気なだけの子供であったら、「この家の子になりたい」なんてセリフを、いとも簡単に口にしていたかも知れない。
「貴方に会えて本当に嬉しいわ。この人ったら、最近はいつも貴方の話ばかりするのよ」
「滅多に出会えないほどの優秀な若者に会えたので、つい嬉しくてね」
「大切にしている資料を貸してあげようだなんて、ずいぶんと熱心なのね」
「彼のような若者を教え導くのが、私の務めだからね」
 フーゴは思わずくすりと笑った。教授のその言葉は、前にも聞いたことがある。口癖だろうか。あるいは、彼の座右の銘なのかも知れない。“学び”を望む者に、そのチャンスを与える。なんて素晴らしい精神なのだろう。
「大学ではどんな勉強をしているの? きっと難しいんでしょう?」
「そうとも。だから今はそんなことなんて忘れさせてあげなさい。ゆっくり寛いでいいんだよ」
「まあ、わたしったら、ごめんなさいね。そうよね、勉強のことばかり考えているなんて、疲れてしまうわね」
「学問には休息も重要さ」
 両親の口からは天地が引っ繰り返っても出てこないであろう言葉を聞きながら、フーゴは温かい毛布に包まれているような気分になった。こんな穏やかな時間が存在するなんてことは、思い描いてみたことすらなかった。
「さあ、たくさん食べてね。デザートもあるのよ」
「はい。ありがとうございます」
「礼儀正しいし、本当にいい子だわ。聞いていた通り」
 教授が日常的に自分のことを話して聞かせているのかと思うと、わずかに顔が熱くなった。一体どんな風に聞かせているのだろう。
「こんな子が訪ねて来てくれるなんて、貴方が資料を忘れて行ったことに感謝しないといけないわ。ああでも、それがなくてもまたいつでも遊びに来てくれて構わないのよ? ね? 是非また来て頂戴ね?」
 そう何度も世話になるわけにはいかない。そう思いつつも、フーゴは笑顔で「是非」と返していた。

 
 ◆
 
「そういえば、ぼくの部屋はどうなりました?」
 朝食の席でそう尋ねると、ブチャラティはコルネットを口に運びながら訝しげな顔をした。彼が口の中の物を飲み込むまで、フーゴはじっと待った。
「あの部屋では不満か?」
「そうではなくて」
 首を傾げるブチャラティに、フーゴは短く溜め息を吐いた。
「部屋を探してくれると言ったのは貴方でしょう? いつまでも貴方のベッドを奪っているわけにはいきません」
 組織への入団を許可されたその日から、すでに数日が経過していた。フーゴは相変わらずブチャラティの部屋に居候をしている状態である。せめて同居人として家賃を支払おうにも、金はまだブチャラティに渡された――フーゴはそれを「借りているだけだ」と解釈している――以外に一銭も持っていない。代わりのように食事の準備くらいはと申し出ると――料理はほとんどしたことがなかったが、ちゃんとしたレシピを手に入れてその通りにやれば大抵の物は作れそうだ――、ブチャラティは嬉しそうな顔をした。だがそれだって半分は自分で消費する分だ。食費も、当然のようにブチャラティが負担している。
「なかなか手が空かなくてな。いい部屋を見付けられないでいる」
 相変わらずブチャラティが多忙そうにしていることは知っていた。フーゴが仲間になったからといって、すぐに仕事を半分寄越せと言えるわけではない。むしろ『新人の教育』等のやらなければいけないことは増えてしまっているようだ。それを知っていながら、「早く住むところを見付けてくれ」とはもちろん言えない。それは充分承知してはいるのだが……。
「ちなみにどんな部屋をお探しで?」
「交通の便が良くて、近くに飲食店がたくさんあるところがいいな。広過ぎても掃除が大変だろうが、あまりにも狭いのも考え物だな。セキュリティはしっかりしているに越したことはない。それから日当たりも……」
 フーゴは再び――今度は先程よりも長く――溜め息を吐いた。
「ぼくと貴方、どちらかが狭いソファで眠らなければならないんだとしたら、それは体格的にぼくの方でしょう?」
「そうか、狭いか。あれでも奮発して買った方だったんだがな」
「そういう話をしてるんじゃあありません」
 確かに、独り暮らしの部屋に置くにしては大きい方かも知れないが。
 これまでのフーゴは、ただの行き場もなく保護された子供であったかも知れない。だが、今はもう、彼も組織の一員である――仕事だって覚え始めている――。ブチャラティはフーゴの上司の立場に当たる。そんな相手に、いつまでも甘えているわけにはいかない。
「オレはどこでも眠れるから、気にする必要はないんだぞ」
「そういう問題じゃあない」
 この数日間、フーゴは仕事を覚えるために1日の大半をブチャラティの傍で過ごした。“護衛”の依頼がある店や、その“集金”に廻る順番、縄張り内の見廻り、資料の作成や整理、組織内のルール等、やらなければならないこと、覚える必要があることは、たくさんあった。それでも、記憶力の面で言えば、フーゴにとって難しいことでは決してなかった。その所為なのだろうか。忙しくなれば余計なことを考えずに済むのではと思ったのに、まだ“忙しさ”が足りないと言うかのように、悪夢のような記憶は、フーゴの頭から消えようとはしない。むしろ、過去から離れようとすればするほど、逃がすまいと手を伸ばしてくる。そう思えてならなかった。
 新しい環境がストレスになっているのか。いや、住み慣れた自宅になんか――可能不可能はとりあえず置いておいて――帰ったら、それこそ発狂しかねない。ならば彼が安穏の時を過ごせる場所は、この世界中のどこにもないのか……。
 彼ははっきりと自覚していた。小さな苛立ちが少しずつ重なって、自分の中で大きく育っていこうとしていることを。このままでは、再び誰かを傷付けることになるだろう。その時に一番近くにいる人間は、ブチャラティである可能性が高い。
『貴方の仲間になったとして、その貴方さえ殺しかねないんです』
 以前ブチャラティに言った言葉は、今この時の方が現実味を帯びているように思える。彼へ対する感謝の気持ちは、今なら『ある』とはっきり分かる。だが同時に、毎日顔を合わせる中で、些細な苛立ちを覚えることも、否定出来ない。
 今だってそうだ。フーゴが何を言っても、ブチャラティは「気にすることはない」、「大丈夫だ」としか言わない。小さな子供と接するかのように柔らかな態度で、しかし最後には何も聞き入れてはくれない。欲しい物――例えば本だとか服だとかCDだとか――があると言えば、きっと買い与えてはくれるだろう。だがフーゴが真に望んでいるのは、そんなものではない。
(……じゃあ、ぼくは何を望んでいるんだろう)
 心から欲しいと願うもの。それは……、
(何?)
 分からない。
 コーヒーカップの中の液体に映った自分の顔は、どんな答えも差し出してはくれなかった。

 結局部屋の話は、「出来るだけ早くなんとかする」という、なんの保証もない言葉で終わってしまった。鳴り響いた電話によって、ブチャラティが早々と出掛けてしまったためだ。電話の主は、おそらく幹部のポルポだろう。コーヒーを半分近くも残したままで飛び出て行くような人間が、いつ部屋探しなんてするつもりなんだか……。
 ブチャラティは毎日のようにフーゴに仕事を教えていたが、絶対に彼を同行させないケースが幾度かあった。理由はだいたい察しが付く。「フーゴにはまだ早い」、そんなことを考えているのだろう。ギャングの世界に身を投じていても、結局は子供の扱いからは逃れられぬのだ。ポルポからの呼び出しもその類のものだったようで、フーゴは“待機”を命じられた。今日は空いた時間でスタンドの“研究”――フーゴのそれがどんな能力を持っているのか、もっと詳しく知っておく必要があるとブチャラティは言った――をしようと話していたのに。
 食事の後片付けを済ませてしまうと、やれることが何もなくなってしまった。ひとりで『スタンドの研究』をするのも悪くないかと思ったが、ブチャラティは危険があるかも知れないと考えているようで、「オレがいないところでは絶対にスタンドを出すな」と強く念を押していた。おそらくそれは、単なる杞憂では終わらないだろう。フーゴには、予感があった。スタンドの拳に付いた6つのカプセル。あれを破壊した時……、それは、フーゴが抱えている殺意が形を持って放たれる時である。
 見るつもりもなしにテレビを付けると、小動物の虐待が相次いでいるとのニュースが流れた。マイクを持ったリポーターは、頭部を刃物で切断された猫や犬の死骸が、数日前から立て続けに発見されていると伝えている。その背景に映っているのは、どうやらローマよりまだ北に位置する町の景色だ。発見された動物の状態から同一人物によるものだと見られていること、警察が近隣の住人に注意を促していることを伝えた後、画面には見事と言いたくなるほどの白髪の男が現れた。『犯罪心理学の専門家』とのテロップが付けられたその男は、発見された死骸が、段々大きな動物のものになってきていることを指摘した。
「この手の犯罪はどんどんエスカレートしていく傾向にあります」
 男は言った。
 最初の“獲物”は昆虫や野ネズミ等の小さな生き物だったようだ。だがそれは、いつしか仔犬や猫へと変わっていった。一番最近発見されたものは、中型の犬――首輪らしき物が一緒に見付かっていることから、飼い犬だったらしいことが伺えた――だったようだ。いずれ殺意の対象は同種、即ち、人間へと及ぶ可能性がある。まず狙われるのは小さく弱い子供だろう。
「一日も早い解決を望みます」
 リポーターがそう言い残し、改めて近隣住民への注意を促した後に、画面は切り替わり、番組は次の話題へと移っていった。
 小さく弱い子供の次は、大人が狙われるようになるのだろうか。フーゴはぼんやりとそんなことを考えた。
(犯人にそこまでの度胸があれば、そうなるかも知れないな)
 そこまでいったら、逆に今テレビに映っていたような年配者はターゲットから外れるかも知れない。自分と同じかそれ以上に強い者を殺めることに何らかの“理由”を見出したその人物は、ただ待っているだけでも死が傍にあるような者は狙わないだろう。
(ぼくの場合は、どうだろう……)
 フーゴの“衝動”の対象は、最初から人間だった。刃物を振り下ろす妄想の相手は、実の親であったことすらある。最初から人間へと向いていた殺意は、次はどこへ向かうのだろう。
 人を超えた何か?
 それとも、世界そのものか。
 ……なんだか話の規模が大きくなってきた。
「馬鹿馬鹿しい」
 フーゴは思わず笑った。

 
 ◇
 
「婦人会……?」
 以前の訪問時よりも華やかに着飾った夫人の姿を見ながら、フーゴは伝えられた言葉を繰り返した。
 教授から「食事に」と招かれるのは、これで4度目だった。「よく来たね。さあ中へ」と促されるフーゴと入れ違いのように玄関へ向かう教授夫人は、「今日はこれから出掛けなくちゃいけなくて……」と少し残念そうな笑みを見せた。
「ごめんなさいね。お料理は作ってあるんだけど、充分なおもてなしが出来なくて……」
「とんでもないです。ぼくの方こそすみません。そんな時にお邪魔してしまって……」
 フーゴが自分から「行きたい」と申し出たわけではないが、教授の方から誘ってくれることに甘えて、少し遠慮を欠いていたのかも知れない。そう思って表情を曇らせていると、相変わらずの笑顔で教授は言った。
「君が気にする必要はない。妻も、自分の意思で楽しんで行っているんだからね。無理矢理駆り出されているような言い方はやめなさい。友人達との集まりと、彼との食事、両方を満喫しようなんて、贅沢過ぎて罰があたるよ。さあ、後は私がやっておくから、早く行ってきなさい。友達が待ってるんだろう?」
「そんなことを言って、この子を独り占めするつもりなんでしょう? もしかしてわざとわたしが約束をしている日を選んだの? もうっ、狡いんだから」
「ははは、なんの話かな?」
 愉快そうに笑う2つの声に、フーゴは小さく安堵の息を吐く。
「それじゃあ、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます。行ってらっしゃい」
 ドアが閉まると、教授は以前と同じ部屋へとフーゴを案内した。夫人の不在によって、元々広い部屋は更に広く見える。
 キッチンに置かれた料理を運ぼうとする教授に手伝いを申し出ると、彼は少し迷ったような素振りを見せつつも「それじゃあ頼むよ」と言ってくれた。彼の後に続いて食器を運んでいると、「『平凡な父子』とはこういうものなのだろうか」なんて考えが浮かぶ。それが伝わったのか、声を掛けたわけでもないのに振り向いた教授は、にこやかな表情を見せた。その視線に込められたものが、『我が子に向ける父親』のそれと“まるで違っている”ことに、フーゴは微塵も気付いていなかった。

 食事を粗方終えた頃、フーゴは急に目蓋が重たくなってきたように感じた。掛けられた声に対する返事がどんどん曖昧になってきていることに、教授もすぐに気付いたようだ。
「どうかしたかい? 少し眠くなったかな?」
「……そう、かも知れません」
「疲れているのかな? 少し勉強のし過ぎかも知れないな」
 手の甲で両目をごしごしと擦ってみても、眠気は一向に覚めそうにない。教授の言う通り、少し疲れているのだろうか。確かに、授業や試験の準備は忙しくないと言えば嘘になる。周りの学生達と比べて、学力面では少しも劣るつもりはないが、やはり体力的な面でとなると、話は別であると認めざるを得ないこともある。それでも、教授の助力のお陰もあって、無理をしているということは決してないと思っていたのに……。
(……駄目だ。このままでは、教授に迷惑を掛けてしまうかも知れない)
 一方的に辞するのは失礼に値すると思いつつも、フーゴは立ち上がった。
「すみません、そろそろお暇させていただきます。今日はどうも、ありがとうございました」
 だが、大きな手がフーゴの腕を掴んだ。左手の薬指の指輪が肌に当たる感触があった。
「まあまあ」
 宥めるような声で教授が言う。
「まだいいじゃあないか。ゆっくりしていきたまえ」
「でも……」
「なんだったら、そこのソファで少し休んでいるといい」
 フーゴは初めて違和感を覚えた。いつも穏やかである教授の声の様子が、どこか違う。そして不意に、思い出していた。アクセサリで着飾った教授夫人が、今日だけはいつもしていたはずの結婚指輪をしていなかったことを。
「……教授?」
「その年齢で大学内でやっていくのは大変だろう? 君の才能を妬んでいる者も多い。何かの拍子にトラブルにでもなれば危険だ。だが私が後ろ盾となってやれれば、安全は保障出来る。君はきっともっと自由に過ごせるようになる」
 「だから」と言うように顔が近付いてくる。アルコールと香水が混ざり合ったにおいに、フーゴは顔をしかめた。同時に、頭の中で警告音が鳴る。
(この、人は……っ)
 次第次第に荒くなっていく呼吸が、今にも触れてきそうだ。腕を掴んだ手は生暖かく、汗で湿っていて不快だった。フーゴはそれを振り解いた。
「し、失礼しますっ!」
 「待ちなさい」というような声を背中で聞いた気がする。だがフーゴは振り向くことなく、その場から逃げ去った。
(夫人の指輪……)
 おそらく今頃彼女が会っている相手というのは夫以外の男だろう。教授はそれを把握している。そして夫人もまた、自分が不在の間に夫が連れ込んだ学生を相手に何をしようとしているのかを承知しているに違いない。『幸せな夫婦』の姿は、ただの偽りでしかなかった。
 フーゴは弱冠13歳である。それでも、何をされそうになったのかは理解していた。異性ではなく同性、大人ではなく子供、そういった相手に性的興奮を覚える者がいるとは知っていたが、自分がその対象として見られるとは……。しかもあの男は、大学教授という自分の立場を利用して近付いてきた。
 忘れかけていた感情が、一気に押し寄せてくる。その激しい怒りの半分は、軽率に他人を信頼した自身へと向いていた。 
 自宅へ帰り着いたフーゴは、トイレで胃の中の物を全て吐き出した。

 
 ◆
 
 いつの間にか眠っていたようだ。ブチャラティが奮発して買ったつもりだと言っていたソファは、フーゴでも足が少々はみ出ていた。大人が眠るとなると、やはり窮屈だろう。
 窓の外はまだ明るかった。ブチャラティは戻ってきていないらしい。眠ってしまっていた時間は、精々十数分程度だろうか。短いはずのその時間が、フーゴにはひどく長く感じられた。
 どす黒いものが、彼の全身を覆っていた。もしくは、その内側を満たしていた。何かを壊さずにはいられないという衝動。テレビで見た、ローマより北の、行ったこともない町で小動物を痛め付けているという人間も、あるいはこんな気持ちなのかも知れない。
 気付けはフーゴはどこかの裏路地にいた。ごく限られた時間帯にしか日が差さないビルの隙間のようなその場所で、目に付いたのは1人の男だった。それは、ひと目で重度の薬物中毒者だと分かる風貌をしていた。頬が痩せこけ、歪な笑みを浮かべているような表情。瞳孔が開いた目は、落ち着きなく視線を彷徨わせている。
 その男はフーゴに気付くと、人のものとも思えないような意味不明な言葉を叫びながら襲い掛かってきた。手にはナイフを持っている。
 フーゴと男の間に、ひとつの“影”が現れた。だが、男には“それ”が見えてはいない。
 男はナイフを振り下ろした。それは、フーゴに掠りもせずに弧を描いた。だが、今のは間違いなくフーゴへ対する『攻撃』だ。
(パープル・ヘイズ……)
 心の中で呼び掛けると、“影”が動いた。獣のような咆哮を上げ、男の腕を掴む。
「ぐげぇッ。ぐ、ぎゃあァ!?」
 唾を飛ばしながら喚く男の手から、ナイフが落ちる。フーゴはそれを、ゆっくりとした動作で拾い上げた。
「こんな物が、ぼくに当たると思ったのか?」
 男は見えない何かから逃れようともがいていた。必死の形相は、ひどく歪んで醜かった。
「どうせ生きてる意味なんてないんだろう? だったら、お前には『実験』に付き合ってもらうことにする」
 フーゴは、明日には記憶の片隅にも残っていないであろう男の顔をひたと見据えた。
「やれ」
 フーゴの命令に応えて、パープル・ヘイズは拳を振り抜いた。骨が砕ける音に混ざって、“カプセル”が割れる軽い音が鳴る。
 一瞬、紫色の煙のような物が噴き出たように見えた。かと思うと、男が悲鳴を上げた。
「ぎゃああああアアアァァァッ!?」
 男の肉体は早くも崩壊を始めていた。裂けた皮膚の内側から腐るように、グロテスクな傷が見る見る内に拡がってゆく。
「これは……、ウイルス?」
 今まで漠然とした“予感”でしかなかったそれが、パズルのピースがぴたりと当てはまるように“形”を得た。
「殺人ウイルス……。これがぼくの“能力”……」
 フーゴはパープル・ヘイズを自身の“中”へと返した。それでも“感染”は止まらないようだ。男はあっと言う間に動かなくなっった。地面に崩れ落ちたそれは、ただの肉塊へと姿を変えていた。あまりにもあっけない“死”。フーゴはそれを、じっと見ていた。

「おいっ、何をしている!?」
 不意に飛んできた声に、後ろから手を掴まれた。その正体を確認しようとするよりも早く、咄嗟に振り解こうとすると、握ったままでいたナイフが肉を切る感触が手の平に伝わった。赤い雫が、視界にぱっと飛び散る。
「フーゴ!」
 フーゴの名を呼んだのは、ブチャラティだった。彼は血の気が引いたような蒼い顔をしていた。
「……何か?」
 フーゴはゆっくりと尋ねた。
「“それ”は、お前のスタンドが……?」
 いつから見ていたのだろう。もっと早く声を掛けなかったところを見ると、彼はその力を恐れたのだろうか。
「正当防衛です。向こうから襲い掛かってきた。相手は凶器を持っていた。抵抗しなければこちらが殺されていたおそれがあります。ましてやこの男は麻薬の常習者であったと思われます。野放しにすればぼくのみならず、他の人間をも傷付けた可能性が大いにあります。ぼくを責めますか? 何故殺したと? 自分の身を守ることも許されないんですか? それなら、何故もっと早く“排除”しておいてくれなかったんですか? 貴方はこの街を守っているんじゃあなかったんですか? 貴方がもっと早く“対処”しておいてくれればこんなことには――」
 フーゴの声を遮るように、赤い雫を滴らせたままのブチャラティの手が伸びてきた。それはフーゴの肩に触れ、そのまま強い力で抱き寄せた。
 不快だと思っていたはずの他人の体温に包まれ、しかしフーゴはただ茫然としていた。
「無事で良かった」
 溜め息を吐くような声が、耳元で言った。思ってもみなかった言葉だった。
「怪我は?」
「……いいえ、ぼくは何も」
 怪我をしているのは、むしろブチャラティの方だ。フーゴが手にしたナイフは、ブチャラティの左手首の少し上辺りを切り裂いたようだ。手に伝わった感触からして、決して浅くはなかっただろう。もう少し内側の位置だったら、動脈を傷付けていたかも知れない。
「この辺りには、以前から危険人物がうろついているとの情報があったんだ。ずっと探していたんだが……、いや、言い訳でしかないな。お前の言う通りだ。すまなかった。もっと早く対応しておくべきだった」
「どうして、ここへ……?」
「家に戻ったらお前がいなかった。なんとなく胸騒ぎがして、探し廻っていたんだ。通行人に聞いたら、『見慣れない少年がこの辺りを通った』、と。この辺りはお前くらいの年齢の者はほとんど来ないからな、それで覚えていたそうだ。詳しく聞くと、特徴がお前に似てた」
 どうやらフーゴは、無意識の内に遠くまで出てきていたらしい。ブチャラティが帰宅して再び外に出るほどの時間が経っていたとは、全く自覚していなかった。そういえば、周囲の景色には全く見覚えがない。
「それから」
「まだあるんですか」
「お前のスタンドのことも、少し心配していた。スタンドは、稀にではあるが本体に害を及ぼすこともあると聞く。精神が不安定な状態で使えば、暴走する恐れもある」
 “不安定”……。なるほど、そういう風に見えていたのか。
「危険があるかも知れないからと、話していなかったオレの判断ミスだな。部下を守れないようでは、チームリーダーとして失格だ」
 ブチャラティはフーゴの肩を抱き止めていた腕をようやく離し、顔を上げて自虐的に微笑んだ。
「……そうですね」
 つい今し方離れたばかりの胸に、フーゴは再び頭を預けた。精神のエネルギーを使った影響なのか、それとも思いの外歩き廻っていた所為なのか、少し疲れたようだ。
「ぼく達はチームです。チーム内で情報を共有して不安な要素や問題点があればきちんと報告すべきなのは、どんな組織でも同じことだと思います。違いますか?」
 ブチャラティはくすりと笑った。
「お前はやっぱり可愛くないな」
 ほんの数メートルしか離れていない地面には、建物の隙間から差し込む日光に照らされた“人間だったもの”が転がっている。それに加えて、辺りには血の臭いが充満している。だというのに、フーゴの心は不思議と穏やかだった。

 信じてみたいと思った。
 その人のことを。

 
 ◇
 
「フーゴくん、こんな時間まで何をやっているのかね。水臭いなぁ。分からないところがあったら、いつでも私に聞きにおいでと言っただろう」
 舐めるような視線。
「君のような若者を教え導くのが、私の務めだからねぇ。どうだい? また私の家で食事しながら……」
 纏わり付く声。
「まあ待ちなさい。次の試験の内容を教えてあげてもいいんだがねぇ。さあ肩の力を抜いて……。大丈夫、優しくするから……」
 貼り付く体温。
 全ては何かの間違いだったと、そう思いたかったのに……。
 湧き起こる衝動のままに、フーゴは動いた。
 誰かの悲鳴を聞いたような気がした。
 あるいはそれは、自分の口から出たものだったのかも知れない。
 手にした分厚い本が血液を吸って重みを増しているように思ったのは錯覚に過ぎないにしても、それが真っ赤に染まっていることは紛れもない事実だった。
 フーゴはその手を、何度も振り下ろした。
 その怒りが向かう先は、崩れた顔面で何か叫んでいるらしい男と、その男を短い時間とはいえ尊敬し、信じていた自分自身。
 全てが許し難く、全てを消してしまいたいと思った。
 呪詛の言葉を吐きながら、何度も手を振り下ろす。
 何度も。
 何度でも。

 
 ◆
 
 飛び起きると、すでに夜は明けていた。カーテンを締め忘れていたらしい窓からは、燦々と陽光が降り注いでいる。それでもフーゴは、自分がどこにいるのかを理解するのに数秒の時を要した。もしかしたらこれは、まだ夢の中なのでは。いや、今まで現実だと思っていた時間の方が、逃避のために作り出した幻だったのではないか……。
 悲鳴を上げていたかも知れない。痛むほどに喉が渇いている。手には本の重みと、肉を潰す感触が残っているような気がした。
 何かが煩く鳴っている。ひどく耳障りなそれは、自分の呼吸と心臓の音だった。
「煩い……」
 フーゴは「なんのため」とは考えないままにふらりと立ち上がった。ただ全てを止めたいと、そう思った。
「フーゴ! 大丈夫か!? 何があった!?」
 ドアを叩く音と共に、ブチャラティの声が響いた。やはり叫んでいたようだ。それがブチャラティを呼んでしまったのか。
「フーゴ!!」
(黙って……)
「返事をしろ!!」
「黙れ……」
 音を立てる全てのものへの憎悪が止まらない。窓の外からかすかに聞こえてくる車の音や、通行人の声、鳥の鳴き声ですら、全てが憎い。
「煩い、煩い、煩い、煩いッ! 黙っててくれよッ!!」
 いつの間にか、すぐ傍に人影があった。紫色をした、異形の姿。6つあるカプセルの1つは、昨日割れた時のまま元に戻ってはいないようだ。
「パープル・ヘイズ……。なんで勝手に……」
 元より不気味であったパープル・ヘイズのその顔は、悍ましいと形容したくなるほどまでに怒りの形相に歪んでいた。
 何か、様子が変だ。まるで目の前に敵がいるかのように、今正に攻撃を繰り出そうとしているかのように、その拳は戦慄いている。
 フーゴは自身のスタンドに、意思を送ろうとした。が、それは分厚い壁に阻まれるかのような感覚があった。“届かない”。パープル・ヘイズは、フーゴの命令を受け付けない状態にある。
(これが、“暴走”……!?)
 咄嗟にその場から逃げ出そうとしたが、スタンドと本体が離れていられる距離には限度があると言われていたことを思い出す。それに、1つしかない出入口との間には、立ちはだかるように“それ”がいる。
 獣のような咆哮が響いた。
(まずい!)
 “止められない”と、直感的に悟った。
「フーゴ!?」
 異変を感じたブチャラティの声に、さらなる焦りが混ざって聞こえた。その直後に、ドアに大きなジッパーが現れた。
「スティッキー・フィンガース!!」
 ジッパーを開いて、サイボーグのような姿をしたスタンドのヴィジョンが現れる。ブチャラティのスタンドだ。今彼が叫んだ、それが名前なのだろう。
(なんだ、鍵なんて、なんの意味もないんじゃあないか……)
 ブチャラティは、パープル・ヘイズが暴走状態にあることにすぐに気付いたらしい。だが、“それ”はもう動き出していた。
 空を切る音を聞いた気がした。
 フーゴは咄嗟に両腕を顔の前に上げていた。その直後、左の腕に熱に似た痛みが走った。
 カプセルに小さな亀裂が入る。フーゴはそれを肉眼で見たわけではなく、感覚で悟った。
 紫色の細い筋のような煙が上がる。それは傷口からフーゴの体内に入り込んだに違いない。この瞬間、「ウイルスは自分自身にも効くのだろうか」との疑問の答えを得た。それと同時に、他の疑問の解答も。
(そうか、分かった)
 『殺意が“次”に向かう先』。次第次第に対象を人に近いものへと変えてゆく、その衝動が行き着く場所。そこにいるのは、
(ぼく自身だ)
 だからこのウイルスは、フーゴ本人にも有効なのだ。
 カプセルの亀裂は小さく、漏れ出たウイルスはごく少量だ。小動物なら数秒で葬り去るだろうが、人間相手だと時間が掛かるかも知れない。
 きっとこの力にはまだ先がある。今はまだ、じわじわと肉体を蝕んでいくことしか出来ないが、成長すれば、より強い力で命を奪うことが出来るだろう。
 だがこのままでいれば、『成長』を目にすることはなさそうだ。それより早く、終わりはくる。時間が掛かるにしても、“結末”は揺るがないと確信出来た。
 自分が消えれば、“世界”も消える。
 馬鹿みたいに規模の大きな話だと思ったが、あながち間違ってもいなかったか。
「フーゴ!」
 ブチャラティが叫んだ。
「今助ける! スティッキー・フィンガース!!」
 ブチャラティの声に応えて彼のスタンドが再び動く。直後に、ウイルスに感染した箇所の肉が抉られたのが分かった。血が噴き出る。強烈な痛みに、フーゴは思わず膝を折った。だが体内にウイルスが残っていないことが直感で分かった。
「しっかりしろ!」
 フーゴは駆け寄ってこようとするブチャラティを睨みながら、ふらふらと立ち上がった。
「余計な、ことを……」
「なんだと?」
 ブチャラティは眉をひそめた。
「やっぱりどこへも逃げられない。過去は、どこまでだって追い掛けてくる。もう生きている意味なんてない。それなら自分の手で、終わらせてやる」
「フーゴ!」
「邪魔はしないでください。ウイルスのカプセルはまだ4つも残っている。その1つであんたを消して、残りの3つでやり直せばいいだけのことだ」
「やめるんだ」
 ブチャラティは距離を縮めてきた。そこはすでに充分パープル・ヘイズの射程距離内だ。
「スタンドを戻すんだ、フーゴ」
「怖いですか?」
 フーゴは唇を歪めるように笑った。
「ぼくが怖い?」
 しかしブチャラティは首を横へ振った。
「それはお前じゃあないのか」
「なっ……」
 フーゴは目を見開いた。
「お前の方こそ、怖がっているんじゃあないのか?」
 また1歩、ブチャラティは近付いてきた。
「……来ないで」
「何をそんなに怯えている」
「そんなことっ……」
 ブチャラティはパープル・ヘイズに触れようとするかのように手を伸ばした。その手に、昨日フーゴが切り付けた時の傷を塞いだジッパーがまだ付いているのが見えた。
「来るなッ!」
 フーゴは今もナイフを持っているかのように、右手を突き付けた。
「ぼくに触るな!! ぼくを救えもしないくせに!!」
 自分の言葉で初めて気付いた。
(ぼくは……)
 救われたかったのか。「不幸ではない」なんて言っていたのに。
 気付いていなかっただけで……、気付きたくなかっただけで、彼はそれを望んでいた。
「……ぼくが間違ってた」
 目の奥が熱い。だがそこから流れて出る泪はなかった。フーゴは泣き方を知らなかった。そんなものは、誰からも教わってこなかった。
「少しでもあんたを信じようとしたのが間違いだった」
 信じたいと思ったことが。
「やっぱり、誰とも関わるべきじゃあなかった」
「フーゴ!」
 ブチャラティが叫ぶようにフーゴの名を呼ぶ。
「何が望みだ。言ってみろ。オレはお前の望みを叶えてやりたいと思っている」
「そんなの嘘だ」
 フーゴは唇に不敵な笑みを乗せてみせた。
「どうせ口先だけだ」
「そんなことはない!」
「望み? 叶える? それじゃあ、セックスしたいって言ったら、させてくれるんですか?」
 誰かが言っていた。破壊の欲求は、性的な欲求に近しいものだと。
(つまりあの教授は、ぼくを破壊したかったんだろうか……)
 知識だけだが知っている。あの時、あの男が、何をしようとしてきたのかを。
 それが愛情の上での行為ではなく、ただ欲求を満たすためだけのものであったことも、分かっている。
 それは愛ではない。
 誰も自分を愛さない。
 子供の口からそんな言葉が出てくることが、よほど意外だったのか、ブチャラティは虚を突かれたような顔をしている。
(ほら、出来もしないくせに)
 そう言い捨てようとした時だった。ブチャラティの顔から、表情が消えた。そして、彼は言う。
「お前がそうしたいなら、すればいい」
「……は?」
 フーゴは我が耳を疑った。ブチャラティは真っ直ぐ視線を向けてきている。彼が何を考えているのか、読み取ることが出来ない。
「お前がやりたいようにすればいい」
 視線を外さぬまま、ブチャラティはベッドに腰掛けた。
(馬鹿な……)
 フーゴがその場に釘付けられたように動けずにいると、首を傾げるような仕草が向けられた。
「自分からは出来ないのか?」
「ッ……!」
 頭の中で小さな火花が散ったように思った。フーゴはブチャラティの胸倉に掴みかかり、そのまま彼を押し倒した。ベッドが軋んだ音を立てる。それでもブチャラティは、眉ひとつ動かさない。激しく抵抗でもされれば、逆に勢いでやれるかも知れないのに。
「何をされるか分かってるんですか? あんたが“下”でと言ってるんですよ?」
「お前が好きな方でいい」
 彼はあまりにも無抵抗だった。まるでフーゴの存在等、最初からそこにないかのように。その目は間違いなくフーゴへと向いているのに、彼の瞳には何も映っていない。
「貴方はぼくのことをどう思っているんですか? 可哀想な子供だとでも思ってますか? それとも」
 それとも、
「ぼくを愛してくれますか?」
 ブチャラティは答えなかった。それが答えだとフーゴは思った。即ち、「No」。
「……なんでだよ」
 フーゴの声は震えていた。
「もっと軽蔑しろよ」
 いつの間にかパープル・ヘイズは消えていた。すでにフーゴが攻撃の意思を持っていない証拠だと言えるだろう。
「お前なんて要らないって言えよ!」
「それがお前の望みか?」
 抑揚を欠いたその声は、フーゴの心臓を真っ直ぐに貫いた。
「……違う」
 フーゴはブチャラティの胸の上に崩れ落ちるように頭を垂れた。
「違う。違うんです。ぼくは……」
 誰かを傷付けたかった。
 自分がそうされたのと同じように。
 その痛みを知ってもらいたかった。
 それが身勝手な願いだと知っていながら。
 だが本当に壊してしまいたいのは自分自身だった。
 同時に、救いを切望してもいる。
 ひどく歪な矛盾した心。
 ブチャラティはフーゴの肩をそっと押し戻しながら起き上がった。フーゴは彼の顔を見ることが出来なかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
 やっぱり、この男は優しい。だから上辺だけの愛を口にしたりしない。
(この人はぼくを愛してはいない)
 フーゴにとっても、この男はその対象ではない。
 それでも、
(ぼくには必要だ)
 本物の愛情を向けられる存在が。
 それは同時に、本物の愛情を向けてくれる存在でもなくてはいけない。
 『運命の相手』なんて言葉を使えば、途端に空々しくなってしまうが。
 何かに縋らずにはいられない。
 そうでなければ生きていけない。
 だがその相手はブチャラティではない。
(そんな相手、いるわけがない。猫でも拾った方がましだ)
 フーゴが餌を与えなければあっさり死んでしまうような、ちっぽけな命。辛うじて近いと呼べるものは、そのくらいしかないかも知れない。
「フーゴ」
 俯くフーゴの顔を、ブチャラティがそっと覗き込んでくる。
「フーゴ、手を貸せ」
「……手?」
「傷の手当を」
 ウイルスの感染を食い止めるために肉を抉り取った腕からは、静かに血が流れ続けていた。白いシーツに零れた血は、ランダムに配置されたドット模様のようだ。
 ブチャラティはフーゴの傷を見て眉をひそめた。医者がそんな目で患者を見たら、「手遅れだとでも言うのか」と騒がれていただろう。
「ジッパーで塞ごう。すまない。咄嗟のことで、加減が分からなかった。もう少し浅い傷で済ませられれば良かったんだが……」
「いいんです」
 フーゴは首を振った。
「いいんです……」
 ブチャラティのスタンドが現れ、フーゴの傷にそっと触れた。その手が離れると、痛みは相変わらずそこにあるが、醜い傷口は大型のジッパーで塞がっていた。
「ブチャラティ」
「うん?」
「貴方は、誰かを愛したことはありますか?」
 ブチャラティは2度3度と瞬きを繰り返し、わずかに溜め息を吐くように答えた。
「両親のことは愛していた……いや、今も変わらない……つもりだ」
「そう」
 つまり血の繋がらない他人に対しては、そのような感情を抱いたことはないということなのだろうか。だが、
「ぼくにはそれすらなかった。両親はぼくを愛していなかったし、ぼくも両親を愛してはいなかった」
 きっと今後も、そんな人間は現れないのだろう。心の中だけで呟いたはずのその声が聞こえたかのように、ブチャラティは異論を口にした。
「そうかな」
 彼は首を傾げていた。
「まだ出会っていないだけという可能性もある」
「気休めは要りません」
 フーゴは少しむっとした表情をした。が、それはすぐにどこかへ消える。
「でも、そんな相手がいたらいいなと思います」
 不思議とそんな言葉を口にしていた。そんなこと、願っても無駄だと思いながら。
「ところで」
「うん?」
「さっきの、嫌だとは思わなかったんですか?」
「……さっきの?」
 ブチャラティの反応が一瞬遅かった。どうやら欠伸を噛み殺していたようだ。よくそんな呑気にしていられるなと、フーゴは少し驚いた。
「“上”ならともかく“下”ですよ?」
「性別云々よりもそっちが先なんだな」
「ぼくなら絶対に嫌です」
 だから同じように、ブチャラティも真っ向から拒絶すると思ったのに。
 ふと視線を移動させると、ブチャラティは手に付いた血をシーツで拭っていた。
「ちょっと……」
「ん?」
「どこで拭いてるんですか」
「どうせ洗うか、洗っても落ちなければ捨てるかする物だからな」
 確かにすでに血が付いてしまってはいたが、さらに汚れを増やすとは……。「合理的だろ?」と言うように、ブチャラティは微笑んだ。やっぱりおかしな人だ。
「もしかして慣れている?」
「何を?」
「“さっき”の」
 洗濯の話なわけがないだろうに。
「“慣れ”か。その言葉はちょっと傷付くな」
 そう言ったブチャラティは、全然傷付いていないような顔をしていた。おどけているようにすら見える。
「じゃあ、未経験ではない、くらいで?」
 例えば煙草の臭いがする誰かとか――きっとそこにも“愛”はないのだろう――。
「そうだな。そのくらいにしておこう」
「ぼくなら耐えられない」
「自分が嫌なことを人にするのは感心しないな」
 ギャングのくせに、子供の躾のようなことを言う。
「自分が嫌だと思うことじゃあないと、嫌がらせにならないじゃあないですか」
「なるほど」
 納得してしまったらしい。それでいいのか。
「ぼくはまた“あんな思い”をするくらいなら、誰かを傷付ける方がいい」
 その結果、“誰か”から嫌悪されることになっても、それは仕方がないことだ。
「きっと逆の考え方をする人間はいる」
 ブチャラティは血を拭き取った手を満足そうな顔で眺めながら言った。
「自分が“やられる”側の方がいいって?」
「さっきと表現が違わないか?」
「自分よりも他人を傷付けなくない、と?」
「自分よりお前を守りたい、と」
「ぼくを?」
「ああ」
 フーゴは否定の言葉を放とうとした。だが、実際に口から出てきたのは、別の言葉だった。
「そうかな……。そんなやつ、いるかな……」
 「きっといるさ」なんて、安っぽいドラマのようなセリフを言われたら、フーゴは改めて「いるわけがない」と否定していたかも知れない。だがブチャラティはそうは言わなかった。それは彼が本心からそう言っていることの証明に思えた。こんな人間がいる――今目の前に間違いなく、いる――のだから、彼が言うような人も、どこかにはいるのでは……。フーゴはそう思い始めていた。だが、素直にそれを認めることは、なんだか気恥ずかしい。子供っぽい意地だと思いながら、少し揶揄するような口調で返す。
「それは元々“そっち側”の人間という意味ではなく?」
「“それ”はまた別の話になるな」
「……もしかして、ぼく達は今すーっごく恥ずかしい会話をしていますか?」
「かもな」
 ブチャラティはくつくつと笑った。
「忘れよう」
 そんなことで済むかと思いつつ、その方がいいような気がしてきた。
「今日のことは、いつか“今”を“過去”だと笑えるようになるまで、黙っていることにしよう」
 そんな日がくるとは思えない。即ち、その“沈黙”は永遠に続くだろう。それは却って好都合だ。フーゴは「分かりました」と頷いた。
 不意に、空気をゆっくりとかき混ぜるように、ブチャラティの右手が動いた。かと思うと、それは思い留まったかのようにぴたりと止まった。フーゴが「なんだろう?」と首を傾げていると、
「人に触れられるのは嫌いか?」
「ええ、嫌いです」
 フーゴは躊躇うでもなくきっぱりと答えた。
「……でも、どうしてもと言うなら、一度くらいは許可するかも知れません」
 我ながら偉そうな口を利く。だがブチャラティはわずかに微笑んだ。
「そうか。じゃあ、『どうしても』」
「……どうぞ」
 覚悟を決めるようにじっとしていると、頭を撫でられた。その手は温かかった。
「勝手に部屋に入って悪かった」
「なんの話です?」
「さっきの」
 ブチャラティはドアの方を顎で指すような仕草をした。
「ああ、あれですか」
 鍵の掛かったドアを、ブチャラティがスタンド能力で難なく入ってきたことを思い出す――鍵を他人に預けてそのまま忘れてしまうのは、そんな方法での入退室を日頃からしているからなのだろうか――。振り向いてみても、ドアに貼り付けられていた大きなジッパーは、今はもう消えていた。
「元々は貴方の部屋ですが」
「それでも」
「……貴方が吸血鬼じゃあなくて良かった」
「吸血鬼?」
「知りませんか? 吸血鬼は許可がないと建物や部屋に入れないんです」
「そうか」
「貴方が部屋に入れないでいたら、もう少しで事故物件になってましたね。そうじゃあなくても、スタンドがなかったら貴方は、ドアを壊していたかも知れない」
「それは困るな」
「そうでしょ」
 幸いにも、ベッドの上とカーペットが血塗れになっただけで済んだ。これなら、この部屋を出て他所へ引っ越すことになっても、建物の管理をしている会社――あるいは個人――に清掃代や修理費等の余計な金を支払わずに済むだろう。
「だから、ごく当たり前の対応だったと思います。謝る必要なんてない」
 素直に「ありがとう」と言えばいいのに。
 だが、その言葉は口に出さずにいても、通じているのかも知れない。
「ブチャラティ」
 今度はフーゴの方から話を振る。今日の自分は、いつもよりだいぶお喋りであるようだ。
「今でもぼくを自分のチームへ置いておくつもりですか?」
「ああ、そのつもりだが?」
「こんなことをしでかしたのに?」
「何かしたか? 何もされていないぜ?」
 早速「忘れた」と言うのか。
「今後、ぼくはまた貴方を傷付けようとするかも知れません。いえ、むしろ予告です。ぼくは貴方に手を上げる。確実に」
「いいさ。そうしたければすればいい」
「本当におかしな人だ」
 フーゴが呆れたように言うと、ブチャラティはまたしても笑った。
「よく言われる」

 だいぶ遅くなった朝食を胃の中に納め終えると、ようやく気持ちが落ち着いてきたように思えた。それどころか、気が緩み過ぎたのか、フーゴの口からは大きな欠伸が出た。
「眠いか」
「……少し」
「ちゃんと眠れてないんだろう」
 そうかも知れない。
「待ってろ、今シーツを取り換えてくる」
 そう言うと、ブチャラティはもう寝室へ向かおうとしている。
「待ってください。今から寝ろって?」
「ああ」
「もう朝ですが」
 むしろどちらかといえば昼に近い。
「今日はオフだ」
「初耳です」
「今決めた」
「適当な」
 それならシーツくらい自分でと申し出る。だが、フーゴの左腕は力を入れるとまだズキズキと痛んだ。そして、「だから言っただろう」と言うブチャラティの手だって、負傷したのはつい昨日のことだ。数分間「でも」と「しかし」の攻防を繰り広げた後、結局2人で協力してやることになった。
 シーツの端を引っ張りながら、フーゴは尋ねた。
「ブチャラティも、今日はオフなんですか?」
「お前がそうしてそうして欲しいと言うのなら」
 そんなに適当で大丈夫なのだろうかと心配になってくる。この男が自分の上司なのだと思うと、それはなおさらだ。まだ短い日数しか一緒にいないが、それでも、「案外抜けてるんだな」と思うようなことも幾度かあった。誰か、サポートしてやれるような人間が傍にいた方が良いのかも知れない。そんな存在に、自分がなれたら……。あるいは、そんな人物が現れるまでの間だけでも、その“代理”を務められれば……。
(まずは、体調面の管理から……かな)
 おそらく寝不足なのはブチャラティも同じだ――それだけ面倒を掛けたという自覚はある――。さっきも欠伸をしていたではないか。
「やっぱりベッドは貴方に返します。今日からちゃんと部屋で寝てください」
「お前は?」
「部屋が見付かるまではソファで」
 ブチャラティは不満そうにしかめっ面をした。
「ぼくは貴方の部下です。客人じゃあない。『下っ端は床で寝ろ』くらい、言ってみせたらどうですか」
「お前の中の上司像が分からん」
「目上の者は敬うようにと教わりました」
「大人には子供を守る義務がある」
「そんなこと言って、貴方だってまだ十代ですよね?」
「さっきと言ってることが矛盾してないか?」
「してません。貴方の年齢がいくつであれ、ぼくより上であることは確かなんですから」
「よくそんなに次々と言葉が出てくるもんだな」
「ぼくはそこを買われたのでは?」
 反論の言葉を紡ぐ速度が追い付かなくなったのか、ブチャラティはやれやれと言うように溜め息を吐いた。きっとまた、「可愛くないやつだ」とでも思っているのだろう。「可愛くありたい」なんて微塵も思っていないフーゴには、それで何の問題もない。
「じゃあ、そういうわけでこのベッドと部屋はお返しします」
 不満そうな顔をする――しかし言い返す言葉の準備がまだ出来ていない――ブチャラティに、フーゴは小さな声で「でも」と続けた。
「でも……、今だけ一緒に寝てもいいですか」
 言葉の意味を考えるように、ブチャラティは瞬きを繰り返した。
「あ、別に、おかしな意味ではなく。何もしません。その……、今日は少し寒いので……」
 フーゴが慌てたように言い加えると、ブチャラティは「何も言ってないのに」と言うように笑った。そして、
「もちろん構わない」
 その言葉に、フーゴは無意識の内に溜め息を吐いていた。怯えるように強張っていた肩から、力が抜ける。
 ブチャラティは『理想の父親』――それとも案外母親だろうか――と名付けたくなるような微笑みを見せた。
「言っただろ、お前の望みを叶えてやりたいと」

 
 ◇
 

 
 ◆
 
 フーゴはゆっくりと目を開けた。自分がどこにいるのかを理解するのに、数秒の時を要した。もしかしたらこれは、まだ夢の中なのでは……。そんなことを思っていると、
「フーゴ」
 呼び掛ける声に視線を向けると、意識を手放す前までは背中合わせの形でベッドにいたはずの人物が、ドアの傍に立っていた。
「ブチャラティ……」
「そろそろ起こそうかと思っていたところだ。オレもついさっき起きた」
「朝?」
「いや、むしろ夕方かな」
 そんなに眠ってしまったとは。本当に仕事に支障はなかったのだろうかと少し心配になる。
 フーゴは目を擦りながら起き上がった。まだ少し頭がぼんやりしている。
「夢を見ました」
 前振りのない言葉に、ブチャラティは訝しんだ様子もなく、「どんな?」と尋ねてきた。少し考えてから、フーゴはかぶりを振った。
「分からない」
 この数日間見続けたそれとは違い、今日の夢はわずかな余韻のみを残して消えてしまったようだ。それでも、少なくとも捨ててきた過去の夢でなかったことだけは確かだと言えた。いや、むしろその反対……。
「何か拾う夢……」
「拾う?」
「なんだろう」
 フーゴは何もない空間に向かって両手を差し伸べた。まるでそこに、向い合せに座る誰かがいるかのように。
「……猫かな?」
「ずいぶんでかくないか。トラやライオンの間違いじゃあないだろうな」
「動物園から脱走した動物がいないか調べますか?」
「いや、いい。今から動物が飼える部屋を探し直すか?」
 それが言葉を持たない動物だとしても、誰かが自分の帰りを待っていてくれるのならと考えるのは少し楽しかった。だが、それも傷付けてしまうのではないかと思うと怖い。
 そう、怖い。
 今度はそれを素直に認められた。
「ただの夢ですから」
 フーゴは再び首を振った。本当に大型の肉食獣を連れて帰ってきたとしたら彼がどんな反応をするのかはちょっと見てみたいと思ったが、出来ないことはしないでおくのが賢明だろう。
「そうか」
 ブチャラティは頷きを返した。
「気が変わったらいつでも言うといい」
「はい」
 とりあえず今は、もう少し“このまま”で生きてみよう。そうしている内に、ブチャラティのような“変わり者”にまた出会えるかも知れない。


2020,02,10


くじ引きで作ったコンビメインで1本書こうぜ!! ってなってブチャラティとフーゴ引き当てました。
フーゴの過去設定は時々触れる等の形で書いてきたのですが、当作品はそれの集大成的なものになったと思います。
いつか書いてみたいと思っていたことはだいたい書けた気がしてます。
満足です。
<利鳴>

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