フーナラ 全年齢 アバブチャ要素ごくわずか


  nei tuoi occhi


「降ってきたな」
 呟くような声にフーゴが顔を上げると、窓の外を眺めているブチャラティの背中が見えた。彼の視線が向かう先にあるのは、通りを行き来する人々の姿ではなく、どんよりと暗い空であるようだ。耳を澄ませてみるも、雨音は聞こえない。だが確かに、細かな水滴が町並みにノイズを描き出しているのが見える。
「傘、持って行きますか?」
 少し前に、事務所内の片付けをしていて誰の物とも分からない雨傘を見付けた。いつからそこに放置されていたのかは不明だ。おそらく持ち主もその存在を覚えてはいないだろう。傘の方だって、自分の主の顔を忘れてしまっているに違いない。いや、自身が雨を防ぐための道具であることすら、失念してしまっているかも知れないくらいだ。広げてみると、夜空のような色をしたそれは、多少埃を被ってはいたものの、新品に限りなく近い状態であることが分かった。どこも破損していない。処分してしまうのは勿体無く感じ、事務所の置き傘とすることで彼――それとも彼女――の存在意義を取り戻させてやることにした。が、よほどの大雨でもない限り、「面倒だから」と言って、誰も彼――それとも彼女――を外へ連れ出し仕事をさせてやろうとする者はいなかった。今回も、今正に出掛けようとしていたブチャラティは、少し考えるような表情を見せた後で首を横へ振った。
「いや、大した雨じゃあない。このくらいなら大丈夫だ」
「車だしな」
 割り込むように低い声を発したのは、リーダーの用心棒兼運転手を務めることになっているアバッキオだ。彼は案外邪魔になるくせに意外と雨を防げない道具なんかがブチャラティの片手を塞ぐのは我慢ならんとでも言わんばかりの不機嫌面をしている。
「雲があるのはこの辺りだけのようだな。たぶん通り雨だ。大して濡れないさ」
「貴方がいいならそれでいいですけど」
 そんなことを言っておいて、帰ってきた時に真新しい傘の本数を増やしてきていたら、「ほら見ろ」とでも言ってやろう。そう思いながら、フーゴは書類が入った封筒のみをブチャラティに手渡した。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。気を付けて」
 2人分の背中を見送ったフーゴは、何を見るというつもりもなく、先程ブチャラティがそうしていたように、窓の外へ目を向けた。
 視線を地上へと降ろすと、事務所の入り口前にはすでに車が停めてあった。しばらくすると、ブチャラティとアバッキオが現れ、急ぐ様子もなく車に近付いて行く。果たして書類が入った封筒は濡れずに済んでいるのだろうか。
 雨は少しだけ強くなっているように見えた。そうでなければ、フーゴが見送っていないかと、ブチャラティは2階の窓を見上げてみたかも知れない――天候がどうであるかに限らず、アバッキオはしないだろう――。2人が車に乗り込み、数秒後にエンジンが掛かる。そろそろ発車するだろうかと思ったその時、ひとりの少年が彼等に駆け寄って行くのが見えた。窓ガラス越しで音は聞こえないが、ぱたぱたと軽快な足音が聞こえてきそうな足取りだ。
「ナランチャ」
 ほぼいつも通りの時間に現れた少年の名を、フーゴは無自覚のままに呟いていた。その表情がわずかに笑みの形になっていることも、彼は自覚していない。
 ナランチャは車の横に立ち、車内に向かって手を振っているようだ。「行ってらっしゃい」「あんまりかっ飛ばすなよ」そんな声が聞こえてきそうだ。走り出す車に向かって、彼は手を振り続けた。その動きがようやく止まったかと思うと、幼さを残した顔が不意にこちら――フーゴがいる窓――を見上げた。視線が合ったと感じた直後、ナランチャの右手が再び大きく振られる。その動きが合図であったかのように、フーゴの胸の奥に小さな火が灯された。心地良い温かさに全身が満たされる。
 窓を開けて声を掛けようかと逡巡したのはほんの一瞬のことだった。フーゴが結論を出すよりも早く、ナランチャの姿は事務所の入り口へと消える。直後に聞こえてきた階段を駆け上がる足音は先程想像したままの軽やかさで、数秒後に開け放たれたドアからも、明るい声が飛び込んできた。
「おっはよう!」
「おはようございます。雨、大丈夫でした?」
 フーゴはそう尋ねながら、表向きは2歳年上の後輩、実際にはそれプラス恋人関係である者の側へと近付いて行った。
「少しだけ濡れたけど、大丈夫!」
 そう答えたナランチャの髪や服には、彼の宣言通り小さな水滴が無数に付着している。
「風邪引きますよ」
 「いくら君でも」とは心の中だけで付け足して、フーゴは乾いたタオルを差し出した。それを受け取ったナランチャの頬に付着した雨粒が涙のように見え、一瞬どきりとした。誰がどう見ても笑顔であると判断出来るような表情がそこになかったら、もっと動転していただろう。
「ブチャラティに留守よろしくって言われたんだけど、オレ今日はずっと待機?」
 ナランチャは濡れた顔と髪をタオルで乱雑に拭きながら、わずかに首を傾げるような仕草を見せた。どうやら、自分のスケジュールを把握してはいないようだ。事務所にいる誰かに聞けばすぐに教えてもらえるから、とでも思っているのだろう。急な予定が入って誰もいなかったらどうするんだと思いながらも、フーゴは手帳を確認するまでもなく記憶している予定をナランチャに教えた――こうやって甘やかすのがいけないのだと、本当は分かっているのだが……――。
「そうですね。ナランチャは今日、何も入ってませんね」
 いつものナランチャであれば「つまらない」とでも言い出しそうだが、今日は天気の所為なのか、その言葉を口にするつもりはないようだ。
「フーゴも? 一緒? それとも、フーゴはどっか行くまでの間の待機?」
「いいえ。ぼくも今日はずっと中です」
 その答えに、ナランチャは「やったぁ」と声を上げた。
(……『やったぁ』?)
 フーゴが首を傾げると、
「じゃあ、なにするっ?」
「なにって、遊びに来てるんじゃあないんですよ」
 「なにしようか!」と返せたら……と、少しだけ思った。が、ナランチャのような性格のメンバーがもうひとりいたりしたら、このチームはおそらく崩壊する――運良くそこまでの事態にはならなかったとしても、絶対に誰かが苦労することになる。その“誰か”とは、未来のフーゴである可能性が非常に高い――。ブチャラティが近い内に新たにチームに加えようとしているという男が、どうかまともで、上からの指示を即座に理解出来て、仕事中に遊びに行こうなんて言い出さなくて、スケジュール管理が出来る人材でありますように……。
(ついでに数字への関心があったりして、事務的な仕事も出来るともっといい)
 が、よくよく考えれば、そんな“出来た”人材が真っ当な道を外れてギャングになったりするだろうかという疑問も湧いてくる。
「フーゴ?」
 ナランチャが訝しげな顔でフーゴの名を呼んだ。
「どしたの」
「なんでもありません。それよりも、はい、これ」
 フーゴは机の引き出しから取り出したノートを手渡した。
「なにこれ」
「なにこれじゃあない。仕事がないなら、君は勉強」
「ええええええっ」
 ナランチャは露骨に不満そうな顔をした。
「文句言わない」
 一般的とは言い難い生い立ちの所為で、ナランチャの学力はお世辞にも高いとは言えない。そんな彼に勉強を教え、あわよくばデスクワークも任せられるようになれば……なんてことは、元来の素質と一般的とは言い難い生い立ちの所為もあって同年代の少年達よりも高い学力を有するフーゴは、微塵も思ってはいない。これはナランチャの方から言い出したことだ。「小学校も満足に行っていなかったから」と。彼が劣等感を捨て去りたいと望むのであれば、フーゴはそれを手伝うだけだ。そのために、時には厳しく接することも厭わない所存である。
「予定よりも1週間も遅れてるんですよ」
 それは仕事が立て続けに舞い込んできたためであって、ナランチャには非はないのだが、少しも遅れを取り戻せていないのは、ナランチャの集中力が長続きしない所為である。百パーセント。
「待機は休みじゃあないんですからね」
「そんなこと言ったら、勉強だってギャングの仕事じゃあないじゃん……」
「口答えしない。ギャングにも教養は必要です」
 それ以上は反論の言葉を思い付けなかったのか、ナランチャは小さな子供のように頬を膨らませた。
「ちぇー。せっかくフーゴを独り占め出来ると思ったのに」
 小さな呟きであったはずのその声は、フーゴの耳には拡声器を使ったかのように響いた。
 「わざわざそんなこと――独り占め――をしなくても、最初から全部君のものですよ」なんて言葉が、躊躇いなく言えたら……。
(言えるか!)
 甘ったるい幻想と現実のギャップに、フーゴは頭を壁に打ち付けたくなった。
(そもそも、なんてセリフをさらっと吐いてくれてるんだこいつは!)
 心臓に悪い。
 平静を装おうとして視線を逸らせていると、またしても怪訝な様子をしたナランチャが顔を覗き込んできた。睫毛の1本1本までがはっきりと見えるような距離に、フーゴの心臓は早鐘を打つ。
(近い近い近い近いッ!)
 近過ぎる。今誰かに背後から押されたとしたら――あるいは地震でもきたら――接触を回避することが不可能であるほどに。
「フーゴ? どしたの?」
 ナランチャの大きな瞳に、狼狽えた自分の顔が映っているのが見えた。その自分の目にはナランチャの顔が映っているのだろうが、流石にそこまでは見えない。
 後ろに下がって距離を取りたいと思うのに、今動けば足が縺れて無様に転倒してしまいそうだ。そんなことには全く気付いていないナランチャは、離れるどころか視線を外すことすらしてくれそうにない。
「フーゴ?」
「なっ、なんでもありませんっ!」
 転倒はしなかったが、すでに充分無様だ。もっとクールに、「君のものだ」なんて、そんなセリフを堂々と口に出来るようになれたらいいのに。そんなことは、夢のまた夢だ。
(それが無理なら、せめて笑顔でいられたら……)
 いつも眩しい表情を見せる、ナランチャのように。
(……今は笑ってないけど)
 今の彼は、無表情に近い顔のまま、じっとフーゴのことを見ている。
「……いつまでそうしてるの」
 「近いってば」と、心の中で吐く。
「んー?」
 ナランチャは首を傾げた。まだ少し濡れたままの黒い髪が揺れる。
「キスする雰囲気かなぁって、思ったんだけど」
「なっ……」
 どこがだ。
「ばっ……、馬鹿なこと言ってないで、さっさと座れ! 鉛筆持て!」
 フーゴは照れを誤魔化すために声を張り上げた。
「ちぇー」
 ナランチャはようやくフーゴから離れた。そうするのがあと少し遅かったら、心臓の爆音を聞かれていたかも知れない。
「オレが勉強してる間、フーゴはなにすんの?」
「書類の整理」
 今度は予想通り、「うわー、つまんない」等と言いながら、ナランチャは打ち合わせ用の――ということになっている――テーブルへと移動した。“渋々”という表現がぴったりな様子で椅子を引いて座るのを見届けてから、フーゴも仕事に取り掛かろうとデスクに近付く。
「え、フーゴどこ行くのっ?」
「だから、仕事するんですよ」
 そう言ってデスクを指差す。それは、ナランチャがいるテーブルからは少々離れている。顔を上げればお互いの姿は目に入る程度ではあるが、一般的に「一緒にいる」と言われるような距離ではないだろう。
「見ててくんないのぉー?」
 子供か。
「もう一通り教えたところだから、自力でやってみてください。テストみたいなもんですよ」
「ええええ……」
 ナランチャは今日一番の不満そうな顔を見せた。
「せめて見ててよぉ」
「我儘言うな! ぼくだって忙しいんだぞッ!」
 語調を強めると、フーゴの言葉通り、ナランチャはもう我儘を“言おう”とはしなかった。その代わり、百パーセントのしょげた顔がそこに現れた。
(うっ……)
 身勝手な要望を通そうとしているのは完全にナランチャの方だ。それだというのに、
(なんでぼくが罪悪感を持たなきゃならないんだっ……)
 ここで折れてしまえば、後になって「また甘やかしてしまった」と悔やむことになるのだろう。必要な時には心を鬼にして厳しく接すると、もう何度も決意したではないか――何度も決意し直しているということは、何度もしくじっているということに他ならない――。
「じゃあ、とりあえず1時間!」
 フーゴは右手の人差し指を立てながら宣言するように声を上げた。
「1時間、静かに集中しててください! その間にぼくも出来るだけ終わらせるから!」
 ゴールが見えていればナランチャもやり易いはずだ。そう思ったフーゴであったが、ナランチャは相変わらずの不満顔だ。1時間では長いというのか。だが30分では仕事はいくらも終わりそうにない。これでもこちらは精一杯の譲歩のつもりだ。これで駄目だと言われてしまえば、
(正直そろそろ殴りたい)
 苛立ちが蓄積されてきているのを自覚しながら、フーゴは痛みに耐えるように強く拳を握った。果たして、いつまでそれを人や物に向けて振り下ろさずにいられるだろうか。
「あ、じゃあ!」
 ナランチャは突然何かを閃いたような顔をした。不意のことに、フーゴの拳はわずかに緩んだ。
「1時間頑張ったら、ごほーびちょーだい!」
 先程までのが見間違えだったのではないかと思えるような笑顔だ。ナランチャの表情は、実にころころと良く変わる。まるでこの時期の空模様だ。それでいて天候よりも予測が困難であるに違いない。
 いくつも見せる様々な表情の中で、一番好きだと感じるのは、やはり眩しいくらいの笑顔である。それが自分に向けられているだけで、痛いほどに胸が高鳴る。
(なんて言ってる場合じゃあない!)
 残念ながら、そろそろ本当にマズいと言えるくらいに仕事がたまっているのが現実である。
「くだらないこと言ってないで、さっさとノート開いて! 1時間経って進んでなかったら、今度こそ殴りますからねっ」
「はぁーい」
 しつこく文句を言われるかと思ったが、返ってきたナランチャの声は明るく軽やかだった。もしかして、拒否しなかったことにより“ご褒美”の件は了承したことになってしまっているのだろうか。ちらりと横目で見たナランチャの表情は笑顔のままで、どうやらそういうことになってしまっているようだと分かった。フーゴは溜め息を吐いた。
(とにかく、ぼくもさっさと終わらせよう……)
 もたもたしていては、また邪魔が入るかも知れない。そう思っていつも使っているデスクに着き、ペンを手に取った時、
「あのさ!」
(早速!!)
 思わずペンをへし折りそうになった。
「なんですか」
 睨み付けながら立ち上がると、ペンを放り出したナランチャが駆け寄ってくるところだった。予想よりも近い位置にあるその姿に、視界はほぼ埋められる。
(だからっ、なんで君はすぐに近付いてくるんだッ)
 咄嗟のことに、突っ込みの言葉は声に出せずにフーゴの頭の中だけで響いた。
「頭金!」
 ナランチャは両手を差し出すような仕草をしながらそう言った。
「……はい?」
「それとも手付金? あ、内金? んん? どう違うの?」
「……説明したら理解出来る?」
「いや、いい」
 ナランチャは気分を害した風でもなく首を横へ振った。
「名前はなんでもいいや。とにかく、ご褒美の一部を先にちょーだい!」
 九九を言うのにも未だに苦労しているというのに、そういう要らんことは思い付くのか。しかも、自分から1時間頑張ったらと言ったのに、もう飽きてしまっているではないか。
「ご褒美って言われても、今なにも持ってませんよ」
「じゃあ、先にもらう分は物じゃあなくってもいい」
「は?」
 ナランチャが言わんとしていることが理解出来ず、フーゴは首を傾げた。すると、その動きを真似るように顔を傾けながら、ナランチャはずいと距離を縮めてくる。
「キスしよ」
「はぁっ!?」
「そしたらフーゴも仕事頑張れるかもだし」
 ナランチャはさも名案であるかのように言った。
「ぼっ、ぼくはそんな現金じゃあっ……」
 言い掛けてから、提案自体を拒む言葉ではないことに気付いた。
「しないの?」
 大きな瞳が真っ直ぐに向けられる。
 たぶん、これはただの口実なのだろう。さっきからずっと、彼は“そうしたい”と思っていたに違いない。それをフーゴがなかなか察しない――フーゴは頭は良くても、恋愛事に関する経験値は多くないと認めざるを得ない――ものだから、おかしな理由をこじ付けて強行しようとしている。無茶苦茶なと思いつつも、流石にここまでされて拒否したら、今後……いや、今この瞬間からでも、どの面下げて「自分はナランチャの恋人だ」なんて言えるというのか――元より第三者へ向けて宣言したことはないが――。
「……じゃあ、する」
 誰も見ていないからと、自分に言い訳する。もし誰かが見ていたら、ナランチャはこんな馬鹿なことは言い出さなかっただろうか。
 肩に手を置くと、ナランチャは目を閉じた。そのまま彼は動かない。あくまでも自分は“ご褒美”を“もらう”立場でいるらしい。フーゴの方から動かなければ、この状態は永遠に続くだろう。
 フーゴは意を決して、唇を重ね合わせた。柔らかい感触。温かい体温。触れたまま、ナランチャの唇が笑みの形に動いた気がした。
 もっと深く繋がりたいという願望が体の中から湧き上がってくる。が、“頭金”でこれ以上というのは、やり過ぎであるように思える。勉強も仕事もいつまで経っても始められないなんてことにもなりかねない。ナランチャから離れるのに、フーゴは接触する時以上の強い意志を必要とした。
 フーゴが次の言葉を考え付くより先に、ナランチャが口を開いた。
「なにその溜め息」
「え?」
 溜め息なんて吐いていない――普通に息を吐いただけだ――と弁解しようとすると、ナランチャは頬を丸く膨らませた。憤慨しているというよりは、揶揄するような顔だ。そのお陰で、どうやら茶化されているのだとすぐに気付けた。
「キスした後で溜め息ってヒドくねぇ?」
「してませんっ、そんなことっ」
「そぉかなぁ? なんか不満そうだったけど」
「違いますってば!」
「じゃあ、満足ぅ?」
「茶化すな!」
 ナランチャはくすくすと笑った。
「でも、なんか考えてただろ」
「それは……」
「なに?」
 真っ直ぐ向けられた視線が、誤魔化すことを許してくれそうにない。そう悟ったフーゴは、今度こそ溜め息を吐いた。
「なんていうか……、恋愛……なんて、もっと簡単だと思ってたんですよ」
「……どゆこと?」
「頭悪そうな連中が、愛だの恋だのと、浮かれているのを見たことがあって……。そんな連中でも出来るくらいなんだから、難解なものであるはずがない。そう思ってました。甘くて、ふわふわしてて、そこら中に溢れ返ってて、取るに足りない、ただそれだけのもので……」
 大したことないと――同時に然程意味のあることでもないと、くだらないとすら――思っていた。それなのに、今はこんなに振り廻されている。
「……思ったより難しかったってこと?」
「そういうことになるかな」
 難しいというより、答えがあるのかどうかすら分からない。子供の頃からたくさんの本を読んできたが、それを判断出来るような知識は全く身に付いていない。フーゴにとって、そんなものは初めてだった。誰も正解を教えてはくれなかった。それはおそらく、誰も正解を見付けられていないからなのだろうと今は思う。この世界における永遠の謎なのではないかとすら思える。
「フーゴにも難しいことってあるんだ」
 ナランチャは心底意外だというような顔で言った。どうやらフーゴは、ずいぶんと高い評価をされていたらしい。それが誤りだったと発覚しても、ナランチャが落胆した様子ではないのは救いだと言えるだろう。
「そりゃあありますよ。……恋愛なんて、ひとりじゃあ出来ないし」
「じゃあ、一緒に全部見よう」
 またさらっとそういうことを。
(ああもうっ、どうしてこいつはッ……!!)
 どうして、人が言いたくても言えないことを数倍の破壊力にして口に出来てしまうのだろう。
 フーゴが頭を抱えて喚きたい気持ちでいることには気付かず、ナランチャは両腕を頭の上へ上げて大きく伸びをした。
「さて、残りのご褒美が掛かってるし、そろそろやるかぁ」
 やはり“ご褒美”は確約されたことになっているようだ――頭金の支払いに応じてしまったので、それは仕方のないことかも知れない――。それにしても、“残り”とは一体何になるのだろうか。先程の口振りだと、今度は形のある“物”になるのか――そういえば、新しいCDプレイヤーが欲しいとか言っていたことがあった気がするが……――。もはや強奪に近い。
「っていうか、勉強教えてくれって言い出したのは君の方でしょう。ぼくはそれに付き合ってやってるのに、なんでぼくが君にご褒美あげなきゃなんないんですか」
「え、じゃあおれがフーゴにご褒美あげる方?」
「褒美というより、この場合は謝礼では?」
 もちろん冗談のつもりで言ったのに、ナランチャは妙に納得したような顔で「そっかぁ」等と呟いている。
「じゃあ、なにがいい? スフレ? ムース? シフォンケーキ?」
 本当に出す気か。
(っていうか、前払い分はキスだったのに、“残り”は食い物なのか)
 後払い分も同じもの――あるいはその“先”――の方が……と言いたいところだが、うっかり「それでいいぜ!」なんて言われたら、もう仕事には集中出来ない。フーゴは胸の中に浮かんできた言葉をぐっと呑み込んだ。
「それ、自分が食べたいだけじゃあないの?」
「バレた?」
 ナランチャは舌を出して笑った。その表情は反則だとフーゴは思った。呑み込んだはずの言葉が、咽喉の奥から逆流してきそうだ。
「さっきフーゴが甘くてふわふわとか言うからさぁー」
「ぼくの所為ですか」
 「ちゃんと勉強出来たら買ってきてあげる」なんて言いたくなる。が、我慢だ。あまり甘やかすわけにはいかない。実際に買ってきてやるとしても、言うのはノルマを達成し終えてからで良いはずだ。
「フーゴはなに食べたい? まとめて買ってきてやるぜ」
(あれ、ナランチャが買いに行く流れになりそうだ)
 あるいは勉強を早く切り上げるための口実か。それよりは、終わったら一緒に買いに行こうとでも言っておいた方が良いだろうか。
(でも事務所の留守番が……)
 一瞬の逡巡の後に、
(……まあ、少し出るくらいならいいだろう)
 浮かれてる自覚は、はっきり言って思い切りある。
(ぼくってこんなんだっけ……)
 ナランチャを好きになってから、自分が思っていたのと違う自分を何度も見ている。たぶん、普段は影になってしまっている部分まで、照らし出されているのだろう。彼の眩しいその笑顔に。
「フーゴ? なににするか、滅茶苦茶悩んでる?」
 ナランチャが顔を覗き込んできた。またこれ以上近付かれたら、またキスをしたくなってしまう。いい加減に仕事に取り掛からないと、本当にまずい。フーゴは断腸の思いでデスクへと視線を動かした。
「じゃあ、ブラウニーがいいです。ビターでずっしりしてるやつ」
「甘くないしふわふわでもないな」
 「ひねくれてんなー」とナランチャは笑った。
「笑いたきゃ笑ってください」
「ヤケクソかよ」
「えーえー、そーですよ」
 それは、百パーセントの真実ではない。
 ケーキを食べるということは、もう決定事項であるようだ。長く留守にしているわけにはいかないから、テイクアウトしてきて事務所内で食べることになるだろう。それなら、1つのケーキを半分ずつ分け合っても、行儀が悪いと苦情を言ってくる者はいないはずだ。ならば、全く違う種類の物を楽しめる方が、ナランチャは喜びそうだと思った。
(でも……)
 そのことは、まだ言わないでおく。そろそろ本当に、今度こそ本当に、仕事――と勉強――をやってしまわなければ。
 いつの間にか止んでいた雨が、その時になって再び降り出さないでいてくれると良いのだが。


2020,11,10


あみだで選んだ曲をテーマにして1作品書こうぜの企画です。
可愛い受け視点の曲ですね! とか言ってたのにヘタレ攻め視点になった(笑)。
1本しかない置き傘は2人がケーキを買いに行く時に使うかも知れないので、アバブチャの相合傘チャンスを逃してごめんね!
<利鳴>

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