フーナラ 全年齢


  その鼓動で教えて


 何かが聞こえたわけではない。何かに触れられたわけでもない。それでもナランチャは目を覚ました。と言っても、開いた2つの目は何も見ることが出来なかった。周囲にあるのは闇ばかり。彼は、一瞬自分がどこにいるのかを認識出来ず、パニックになりかけた。心臓が鼓動を速める。そのくせ、妙な寒さを感じる。ここはどこ? いや、そもそも“場所”なんて存在していないのでは……? “ある”と思っていた“世界”は彼が勝手に作り出した夢でしかなかったのでは……。夜中に目が覚めると、時折そんな思考が湧き上がってくることがある。何もない、光さえ存在しない世界に“自分”はひとりぼっちでいるのではないか、と。いや、それ以前に、“自分”は本当に“いる”のか? 言い知れぬ不安に駆られ、呼吸さえ上手く出来ない。悲鳴を上げそうになった夜が、一体何度あっただろう。実際には喘ぐように息をするだけで精一杯で、その喉からはわずかな声ですら出やしなかったが。
 だが、今は違う。すぐ隣で眠っている自分の物ではない体温。それが、今いる場所と彼の存在を、間違いない物として教えてくれている。手を伸ばせばすぐに触れることが出来た。こちらを向いている胸に顔を埋めると、静かな鼓動が伝わってくる。それを聞いていると、少しずつだが気持ちが落ち着いてきた。「大丈夫」と声に出さずに呟いた時には、パニックの影さえ破片も残っていなかった。
 改めて目を開ければ、周囲は黒一色で塗り潰されて等いなかった。それはカーテン越しの月明かりに照らされ、闇と呼ぶにはずいぶんと貧相だ。うっすらと見えているのは、見慣れた室内の風景だ。本棚や机、クローゼットのシルエット。しかしそれ等は全てナランチャの所有物ではない。
 音だって、ちゃんと聞こえている。心臓の音に、小さな寝息。この部屋の主は、静かな眠りの中にいるようだ。それを妨害してしまわないように、ナランチャはそっと上体を起こした。壁にかけられているはずの時計は見えない。真っ暗ではないとはいえ、文字盤の数字を指し示す細い針を探すことは困難であるようだ。だがそのこと自体が、夜明けまではまだ時間があることを教えてくれていた。今はそれだけ分かれば充分だ。
 もう一度目蓋を閉じる前に手洗いに行こうと思い、出来るだけ振動を与えないようにと注意を払いながらベッドを出ようとする。が、足を床へ降ろし、腰を浮かせようとすると、強い力で手首を掴まれた。ナランチャは思わず肩を撥ねさせながら振り向いた。
「……フーゴ?」
 寝惚けているのだろうか。そう思って彼の顔を見ようとするも、部屋の中にある家具同様、それはほぼ影のようにしか見えない。が、聞こえてきた声は、思いの他はっきりとしていた。
「どこに行くの」
 疑問文の形をしているのに、妙に抑揚に欠けるその声は、暗がりの中真っ直ぐにナランチャへと届いた。
「トイレ、に」
 短く答えると、やはり――もっと――短く、「そう」と返ってきた。その声からは一瞬遅れて、手が離れる。ナランチャは今度こそベッドから降りた。
 廊下は部屋の中よりもさらに暗かった。寝ている者もいないしと、ナランチャは電気のスイッチを入れた。眩しさに慣れるまで、しばしその場でじっとしている。ようやく両目共開けていられるようになるのを待ってから、用を足しに行った。
 部屋に戻ると、ベッドサイドに置かれた電気スタンドが光を放っていた。それを点けた張本人であろうフーゴは、ベッドの上に起き上がっていて、眉間にしわを寄せて明かりとは逆の方へ顔を向けている。ナランチャはベッドの横へと移動しながら、壁の時計を見た。だいたい予想通りの時刻だ。まさかこんな時間にもう起きようとしているのではないだろうなと思ってフーゴの表情を窺うと、彼は髪をかき上げながら「なに?」と不機嫌そうに尋ねた。
「なんでもない。まだ寝てるよな?」
「うん」
 その返事とは反対に、フーゴは立ち上がった。なんだろうと思っていると、「どうぞ」と言うような手振りでベッドの奥へと促された。
「あれ、オレが奥?」
 別に位置を決めているつもりは普段からなかった。だからこそ、フーゴがわざわざ起き上がってまでナランチャに奥へ行けと言う理由が分からない。元々はフーゴの方が壁側に寝ていたのだから、そのままでいても良かったのに。眩しそうな顔をしながら電気まで点けて……。
 首を傾げながらも、きっと寝る体勢を変えたいけど壁の方を向いていると圧迫感があって嫌だから、だとか、そんな理由があるのだろうと納得することにして、ナランチャは大人しくベッドの奥側へと這い上がった。それを見届けるように間を置いてから、フーゴは明かりを消した。明るさに慣れてしまった目には、先程までよりもより暗く感じる。それでもすぐに隣へ潜り込んできた温度に、またしても彼の存在は繋ぎ止められる。
 目を瞑ろうとすると、フーゴが体をすり寄せてきた。もう一度ベッドから出て行こうとしてもそれはさせないぞと言うように。悪夢に目を覚ました小さな子供が母親に縋るように。暗くて彼の表情は全く見えない。月は雲に隠れてしまったのかも知れない。だから、これはただの勘だ。
「フーゴ……」
 彼にも、あるのだろうか。ひとりで夜中に目を覚まし、どうしようもない不安に押し潰されそうになることが。無性に傍に誰かいて欲しいと願ってしまうことが。そうだ、しかもフーゴはおそらく暗闇を嫌っている。と言っても、普段の彼なら、この程度の暗さはどうということはないだろう。だが精神的に不安定になっている時は話が別だ。光に弱い彼の“能力”。逆に言えば、闇の中では彼自身でさえ危険に晒されなかねないその力。闇の中で目を覚ます。予告も予感もなく訪れる感情。もし今このタイミングで力のコントロールを失ってしまったら……? 不安はますます肥大する。あるいはフーゴには実際に『叫ぶ』こともあるのかも知れない。
 ナランチャは手を伸ばした。フーゴの寝間着の胸元をぎゅっと掴む。今の思い付きを尋ねてみようとして、やめた。ただの勘だ。根拠はないのだ。代わりに別の質問を口にする。
「今日、泊まっていってもいい?」
 返事があるまで数秒の間があった。暗さに目が慣れていたら、きっと訝しげな顔が見えただろう。
「もう泊まってるだろ」
「それは昨日だろ」
「今何時?」
「3時前」
「そっか、“今日”か……」
「うん、今日」
 フーゴはふうと息を吐いたようだ。そして、
「いいよ」
 短いその言葉の中に、先程まではなかった“なにか”が存在していた。ナランチャはそれを百パーセント表現する言葉を知らない。優しさ、温もり、柔らかさ……まあ、だいたいそんなところだろう。それが自分の体を……、いや、2人の全身を包んでいく。そんな風に感じた。そのまま、静かな眠りがやってくる。
「一度帰って、着替え取ってきますか?」
 すっかりいつもの様子に戻った――でも少し眠そうな――声でフーゴが尋ねる。ナランチャは「うん」と頷いた。
「一回着替え取りに行って、それから帰ってくる」
 その声の最後の方は欠伸と混ざった。再びフーゴが息を吐く音が聞こえた。いや、今のは笑ったのかも知れない。
 「おやすみ」という声を、ナランチャは半分眠りの中に落ちた状態で聞いた。


2017,02,07


事後の確率97パーセント。
フーゴの日とフーナラの日、どちらにアップするか迷って後者にしました。
本当は両日更新出来たら良かったのですが、そこまでの余裕はありませんでした。
残念。
<利鳴>

【戻】


inserted by FC2 system