フーナラ アバブチャ 全年齢


  とろける透明な唇気楼−シンキロウ−


「いたっ」
 小さく声を上げたのは、ナランチャ・ギルガだった。なんだろうと思って目を向けると、退屈そうな顔をして時折欠伸をしていた少年は、眉をひそめながら口元を押さえるような仕草をしていた。
 それに一番に反応したのは、たまたま一番近い位置にいた、ブローノ・ブチャラティだった。
「ん、どうした、ナランチャ」
「唇切れた」
 短く答えたナランチャに、ブチャラティはその顔を覗き込む。
(……おい)
 彼は資料をめくる手をとめて、2人の姿を睨んだ。が、それに気付いて返ってくる視線はない。
(近過ぎないか、おい。距離感どうなってる?)
 なんてことが言えるわけもなく、彼は下唇を噛んだ。
「荒れているな」
「うん、そうなんだ」
 少し離れた机から向けられる怒り――もしくは嫉妬――の目に気付かないまま、ブチャラティとナランチャは言葉を交わす。
 ナランチャは日頃からブチャラティを慕っていることを隠そうともしない。ブチャラティの傍にいる時のナランチャは、いかにも楽しそうな笑みを見せる――それこそ、そんなに笑ったら唇が切れそうだなと思うことがあるほどに――。
 一方ブチャラティは、そんなナランチャのことを一部下としてというよりは、我が子のように可愛がっているように見えることがある。つい先程、誰よりも早く気遣うような素振りを見せたのも、その一環だろう。
 2人の間にあるのは、恋愛感情と呼ばれるようなものではない。それは分かっている。分かってはいるのだ。が、
(それにしたって、……いや、それならなおのこと近い!)
 自分の所有物に無断で触れられた時のような感情を抱くなというのは、難しい相談だ。残念ながら、彼はそこまで“出来た”人間ではない。
 2人はまだ離れようとしない。
「保湿しておかないと、また切れるぞ」
「保湿?」
「そうだ、いい物がある」
 何か閃いたような顔で、ブチャラティはポケットの中を探った。それをナランチャは興味深そうな表情で眺めている。ぽかんと口を開けたままブチャラティの動きを目で追う様子は、小さな子供か小動物を連想させた。
 間抜け面しやがってと彼が思っていると、ブチャラティは手の平にすっぽりと納まってしまう程度の小さなプラスチックらしき容器を取り出した。
「なにそれ?」
 ナランチャが首を傾げる。
「リップバームという物だ。リップクリームのような物……らしい」
(『らしい』、かよ……)
 どうやらブチャラティも良く知らないようだ。自分で購入した物ではないのかも知れない。横から口を挟んでリップクリームとの違いを説明してやることは出来ただろうが、何故自分が親切に教えてやらなければならないのだという気持ちがふつふつと湧いてきて、彼は再び下唇を噛んだ。このままこの空間にいたら、自分の唇こそぼろぼろになってしまいそうだなと思いながら。
「それ、どうやって使うの?」
 ナランチャが尋ねる。唇に塗る以外にどんな使い方があるんだと、彼は心の中で吐き捨てる。
「指で掬って、唇に塗って保護するんだ」
「へぇ」
「使い掛けですまないが、しばらく使ってみろ。荒れが治まるまで持っていていい」
(リップの使い廻し……)
 直接唇に触れるスティック状のそれと比べれば、指で掬って塗れるタイプの物は、俗に言う“間接キス”感はあまりない。
(……ような気がする)
 だが皆無かと聞かれたら?
(うーん……)
 彼が異議を唱えるべきかと迷っている内に、ナランチャは受け取った容器の蓋を開けている。
「どのくらいの量だろう?」
 そんなの、適当だろう。少な目に掬って、足りなければ足せばいい。そのくらいのことも思い付かないなんて。
(これだからお子様は……)
 しかし、なんとブチャラティまで説明の言葉を思い付かないらしく、どうしようかと眉をひそめている。
(悩むようなことか……!?)
 その結果、
「このくらい、かな」
(実演か!)
 しかも、指先に取ったそれを容器に戻すのを躊躇ったらしく、ブチャラティは「じっとしてろ」と言いながらナランチャの顎を軽く押さえた。
(おいッ!)
 ブチャラティの指が、ナランチャの唇をなぞる。その動きは何故か扇状的に見え、端的に言うと妙に色っぽかった。
(おいおいおいおい。自分でやれよ! 自分でやらせろよ!)
 ナランチャは唇を軽く突き出して、そして何故か目を閉じている。まるでキスシーンだ。そんなもの、見たくもない。のに、何故か目を離せない。机に置いた資料なんて、もうとっくに視界にも頭にも入ってきていない。
「これでいい」
「ありがとう!」
 ちっとも良くない。だがどうやら終わったようだ。
(じゃあさっさと離れろ)
「でもなんでだろ? 最近切れ易くなった気がするんだ」
 残念、会話は終わらなかったようだ。
「乾燥する季節でもないのになぁ?」
「そうだな……」
 そろって首を傾げる2人の姿は、息がぴったりとでも言いたいほどだ。そんな光景をこれ以上見ていても、苛立ちが募るだけだ。資料の整理は終わっていないし、外出の予定時刻もまだ――まだまだ――先だが、さっさと出かけてしまおうかと、彼は腰を浮かせ掛けた。
 その耳に、とんでもない言葉が飛び込んでくる。
「最近キスするようになったなら、それが原因じゃあないか?」
「ああ、それかぁ」
(待て待て待て待て)
 聞く方も答える方も、待て。
 何を普通に答えているんだあいつは。ブチャラティも、何故普通に“そういう相手”がいることを知っているような口振りなのだ。
 彼はもう少しで「それ以上言うな」と叫ぶところだった。
(まさかとは思うけど、ナランチャのやつ……)
 自分との仲を――どの程度の“進展具合”なのかを――べらべらと他人に吹聴しているのでは……。
 蒼褪めた彼の様子に一番に反応したのは、今度もブチャラティだった。そうだった。対ナランチャに限らず、リーダーは部下達の様子をちゃんと見ているんだった。
「ん、どうしたフーゴ」
「……いいえ」
 「ナンデモアリマセン」と首を振り、彼――パンナコッタ・フーゴ――はそのまま2人から目を逸らす。2人の方はそうしてくれていない――訝しげな目でこちらを見ている――ことには気付いていたが、その視線を真っ直ぐ見返すなんて、無理に決まっている。
(よし、決めた)
 彼は立ち上がった。
「出かけてきます」
「あれ、もう?」
「少し早くないか?」
「寄りたいところがあるので」
「本屋?」
「ドラッグストア」
「ふーん?」
「気を付けて」
「行ってらっしゃーい」
 彼は最近になって――ようやく――キスをするようにまでなった相手の見送りの声を背中に受けながら、事務所のドアを開けた。同時に、心の中で仕事前にリップクリームでも買ってこようと決意する。色は付かないやつで、果物の匂いでもするような物がいい――例えば、苺とか、オレンジとか――。
(……あれ? なんでブチャラティは乾燥する季節でもないのに、あんな物持ち歩いているんだ……?)
 フーゴは振り向いた。が、乾燥する季節でもないのに自分で買ったわけでもないらしいリップバームを持ち歩いているらしい男の姿は、すでにドアの向こうに見えなくなっていた。


2019,08,03


セツさんからのリクエストでリップネタです。
わたしがニュアンスリップにはまって結構なペースで新しいリップ買っていた時に書かせようと思ったそうです。
曰く、「いっぱい持ってるから書けるでしょ」
どういう理屈なの!?(笑)
<利鳴>

【戻】


inserted by FC2 system