フーゴ過去設定 全年齢 モブ→フー要素有り


  marionetta


「いい? あなたは将来立派な人間になるのよ」
「そうなれるだけの『素質』があるんだ」
「あなたは他の子とは違うのよ」
「お前は『特別』なんだ」
「『特別な子』なのよ」
「分かるな?」
「……そうよね、あなたはとても賢い子ですもの」
「……そう、それでいい」
「いい子ね」
「いい子だ」

 今でも時々思い出す。優しい笑顔で、唄うように繰り返す2人の声を。『お前は特別なんだ』『あなたは特別なのよ』それが彼等の口癖だった。
 物心付いた時から、彼は既に『特別な少年』として扱われていた。父は医者、母は教師、お互いに多忙な両親は、子供を彼1人しか作らなかった。優秀な両親は、1人息子にもやはり優秀な人間に育って欲しいと、彼がまだ幼い頃からかなりの期待をよせ、出来る限りのことをしてきた。そして彼には、それに応えられるだけの素質があった。彼は、教わったことはなんでも覚えた。大人の言うことをよく聞き、よく学び、大人顔負けの礼儀作法を身に付け、同年代の子供達の誰よりも優れていると、周囲が認めずにはいられない程であった。
「まずは立派な大学に入るんだ。そうすれば立派な仕事に就ける」
「お父様のようなお医者様や、私のような先生にね」
 2人はそれが幸せへの道だと信じて疑わなかった。現に、その道を歩んできた彼等自身が幸せであったのだから、2人にとってそれは絶対だった。
 彼の学習を見ているのは主に母親の方だった。息子が学校から帰宅すると、彼のその日1日のノートを見ながら「まあ、なんて遅れているの。やっぱりあんな学校じゃあ駄目ねぇ」と言う彼女は、実に上機嫌そうだった。その後、息子を塾へ連れて行くのもまた幸福で、彼の食後の学習を夫婦揃って眺める――彼が教えを請えばもちろん応えるが、そんなことは殆ど必要ない程、彼に理解出来ないことはなかった――時間が破られることは、例え天地がひっくり返ろうともあってはならないことだった。
 彼は実に優秀だった。成績はクラスどころか学校内でも常にトップだった。それでも彼も人である以上、つまらない間違いをすることは――極稀にではあっても――あった。単純な計算ミスや、問題の読み間違い、それ等を発見した時、彼女の表情は豹変した。どうしてこんな簡単なことを間違うのかと、ある時は喚き、ある時は手を上げ、そしてある時はさめざめと泣き崩れた。それを虐待と呼ぶ者はいただろう。しかし彼女は最後には必ず、怯え、硬直した彼の身体を抱きすくめ、先程までとは違った泪を流しながら、何度でも繰り返すのだ。「ごめんなさい、ごめんなさい、パンナコッタ……」と。彼は――パンナコッタは――、それは間違いなく母の愛情なのだと理解していた。間違いをしてしまったのは自分なのだから、彼女がそれを罰するのは当然のこと。失望するのも、落胆するのも、当たり前のこと。全ては自分が原因なのだから、と。理解していた。納得もしていた――つもりだった――。ただ、打たれた頬の痺れるような痛みが治まるまでの時間が、少しずつ長くなっていくような気がしていた。

「車を廻してくるから、ちょっと待っててね」
 息子を塾へ送り届けるため、彼女はいつものように家の裏に停めてある車へと向かった。その間パンナコッタは、いつものようにテキストを入れた鞄を持って玄関先で待っていた。全てがいつもと同じことばかりであるように思えた。しかし、この日は1つだけ、いつもと違うことが起きた。パンナコッタが忘れ物はないかと頭の中で確認していると、足元にサッカーボールが転がってきたのだ。しかも、それを追って1人の少年がこちらへ向かってきた。こんなことは初めてだった。
 小走りにやってきた少年は、パンナコッタの爪先に触れて動きをとめたボールから視線を上げ、そしてパンナコッタと眼が合うと、にこりと笑った。子供らしい、柔和な笑みだった。
 パンナコッタはボールを拾い上げ、少年に手渡した。
「ありがと」
 ボールを受取りながら、彼はもう1度笑った。
「君、ここの家の子?」
 おそらくパンナコッタと同じか、1つか2つしか違わないだろう歳頃の――パンナコッタと比べるずいぶん幼く見えたが、それは、パンナコッタが同年代の子供よりも遥かに大人びた顔をしているだけにすぎない――少年は、眼前の建物を見上げながら尋ねた。肯定の意を示すと、彼は「すごいなぁ」と溜息を吐くように言った。
「こんなに広い家だったら、かくれんぼなんか楽しそうだね」
「カクレンボ?」
「君、サッカーはする?」
「サッカー?」
「今皆でサッカーしてるところなんだ」
「みんな?」
「ぼくの友達だよ」
「トモダチ?」
 それ等の言葉を、パンナコッタが知らなかったわけではない。しかし、自分に関係のある言葉だと思ったことは殆どなく、全てに実感がなかった。作り話を聞かされているような感覚だった。
 そんなパンナコッタの心境には気付かずに、少年はなおも勝手に喋り続けた。パンナコッタが知る筈もない固有名詞を出して、誰々のドリブルが上手いだとか、誰々のシュートは凄いけれどすぐにバテるだとか、誰々はパスが下手だとか、好きなチームはどこだとか、そんなことを一気に喋った。そして、
「ねえ、もし良かったら君も……、あ、ぼくまだ君の名前……」
「パンナコッタっ」
 ぴしゃりとドアを閉めるように、甲高い声が少年の言葉を遮った。そちらの方を見ると、車の運転席からパンナコッタの母が顔を出していた。
「何をしているの? 早く乗って。遅刻したら大変でしょうっ」
「ああ、お母さんと出掛けるところだったんだね? 買い物?」
「違う」
「じゃあ映画? それとも――」
「違う。ごめん、ぼく……」
「あ、お母さんが待ってるんだったね。ごめんごめん」
 少年はぺろりと舌を出して笑った。
「じゃあ、今度おいでよ。その時遊ぼうよ」
 パンナコッタが返事をするのも待たず、少年は彼の手を取って、ぶんぶんと上下に振った。
「じゃあね、パンナコッタ。チャオ」
 片手を上げて去って行く背中を見ながら、ほんの数秒、パンナコッタはその場に呆然と立ち尽くしていた。
「パンナコッタっ、早くしなさいッ」
 何かの余韻さえかき消すような母の声に、急いで駆け寄って行った少年の小さな舌打ちを聞いた者はいない。彼自身でさえも、誰も――。

「昼間の子は知っている子?」
 パンナコッタと似たような歳の子供ならば、とっくに夕食を済ませ、家族でテレビを眺めている、そんな時間に、彼は母親が運転する車で家路についたところだった。停止信号の合間に、顔は前方へ向けたまま、母は尋ねてきた。
「知らない。近所の子かも知れないけど、知らない」
 母は「ふーん。そうなの」と呟いたきり、興味がなくなったらしく、それ以上その話題には触れなかった。
 あの少年の方も、パンナコッタのことを知らなかった様子だった。初対面であることは間違いないと思って良さそうだ。そして、この先関わることもないだろう。何しろ自分は忙しい。まだ学ばなければならないことはたくさんある。自分は、彼とは違うのだ。
『あなたは特別なのよ』
(そう、特別なんだ)
 だからもう会うこともないだろう。2度と。
(……そういえば、名前も聞かなかったな……)
 そう思ってから、そんな必要もないのにと、自嘲するように僅かに口元を歪めた。もう関わり合うこともない人間の名前なんて、なんの必要がある。そんなことを気にする意味がどこにある。
(でもなんで……)
 なぜ気になるのだろう。
 どんな本にも答えが書かれていないその疑問は、暫く彼の頭の中に居座った。

「どうしたの、パンナコッタ。手がとまっているわ」
 パンナコッタははっと顔を上げた。机の上に広げられた解きかけの問題集は、先程から同じページでとまっている。
 あれから数週間が経っていた。時間の経過は記憶の中にある少年の笑顔を少しずつ風化させてはいたが、窓の外から子供のはしゃぎ廻る声が聞こえてくると、パンナコッタはつい手をとめてしまっていた。そばに母がいなければ、窓を開けて外を見てみることもあった。敷地の向こうを駆け廻る影は、あの少年かも知れなかったし、全くの別人であったかも知れない。どちらにせよ、そんなことはどうでも良い筈だった。にも関わらず、なぜか気にしてしまう自分自身に、パンナコッタは苛立った。そんなタイミングで母が「お腹でも痛いの?」等と、掠りもしないことをいちいち尋ねてくるものだから、煩くて仕方ないと思うようになっていた。
(イライラする……)
 母にも、はっきりとは見えないクセにいつまでも頭の中に居座り続けるあの少年にも――。
「少し疲れたかしら? 今お茶をいれてくるわ」
 母がドアを閉める音に続いて、木片が割れるような音がした。辺りに視線を巡らせると、右手の中で鉛筆が真っ二つになっていた。
 その時、不意に背後に気配を感じた。後頭部に息が掛かるほどの至近距離に。母が戻ってきたにしては早過ぎる。彼女が音もなくぴったり後ろに立ち尽くす理由もない。彼女ではない。
「誰ッ?」
 パンナコッタは立ち上がりながらり返った。椅子ががたりと音を立てた。
 そこには、誰もいなかった。いる筈がない。にも関わらず、その気配は確かにあった。透明な人間がそこに立っているかのように。
「だ……誰……」
 しかし『それ』は答えない。何をするではなく、無言のまま、ただそこに存在していた。
 パンナコッタは何か言おうとした。が、口からはなんの音も出てこない。代わりに、冷たい汗が背中を撫でた。
「あらパンナコッタ、どうしたの?」
 不意にドアが開いて、母が戻ってきた。ティーカップを乗せたトレイを持った彼女は、なんの躊躇いもなくその気配の中を通過してきた。同時に、『それ』の存在は感じられなくなった。
(気の所為……?)
「どうしたの? さぁ、これを飲んだら続きをするのよ」
 彼女は全く気付いていないようだった。
 以来、似たようなことは度々起こった。『それ』は、何度も何度も繰り返し、パンナコッタの前に現れた。そして『それ』は、回を増す毎に形を持ち始めた。初めは完全に透明だった。それでも気配だけははっきりとあり、姿が見えないことの方がおかしいのではないかと思うほどだった。それがやがて薄ぼんやりとした霧のような物が見えるようになった。霧は徐々に濃度を増していき、黒い煙のような物へと変わった。だが霧や煙の類と明確に違うのは、風に掻き消されたり、辺りに広がって薄れたりしないことだった。逆に1カ所に集まり、少しずつ人の形を作り始めているように思えて仕方がなかった。そして驚くべきことに、『それ』を見ても驚く人間が誰もいないのだ。いや、見えていないのだ。パンナコッタ以外の誰にも。最初はそのことに戸惑った。だがやがて理解した。『それ』は、存在等しないのだ。パンナコッタにしか見えない、パンナコッタが作り出した幻覚だと考えれば、一番不自然がない。だが、そうと認めてしまうことは容易ではなく、パンナコッタはますます苛立ちを内に蓄積していった。

「ねえパンナコッタ。大学に行きたくない? 今の学校は勉強も遅くてつまらないでしょう? それよりも、大学に行けばもっとあなたに合った勉強が出来るのよ。ね? あなたなら出来るわ」
 そう言った母の口調は、意見や同意を求めるようなものではなく、既に決定している事項を再確認しているようだった。パンナコッタに拒否権はない。が、もしそれが赦されたとしても、元より彼にそのつもりはなかっただろう。今の学校での授業は、彼に取っては大人がアルファベットをAからもう1度教えられているも同然で、わずかな面白さもなかった。その他にも彼を引きとめるものは何もなかった。離れ難い友人も、彼にはいなかった。
 彼の学習は明確に大学受験を目当てとした物になった。その頃には、周囲の眼は『特別なもの』を見る眼から、『異質なもの』を見るそれへと変化していた。
『あなたは特別なのよ』
(違う……)
 また、背後にあの影が立っている。何も言わず、ただじっと――。
『特別なんだぞ』
(違う。ぼくは……)
 何かが歪んでいる。
(ぼくは『異端』だ)

「流石だわ。やっぱりあなたは天才よ」
 母はそう言ったが、パンナコッタ自身は、大学の合格通知を見てもなんの感動も湧いてこなかった。試験も難しくはなかった。当たり前のことを、当たり前にこなしたとしか感じなかった。むしろこれが出来ない人間がいるということの方が不思議に思える程だった。しかしそれは決して一般的な感覚ではない。入学が許可された時、彼は13歳だった。当然のように、大学にいるのは歳上の者ばかりだった。最初は誰もが不思議そうな顔でパンナコッタのことを見た。「どうしてこんなところに子供が?」口に出さずとも、そう思っていることは明白だった。「迷子か?」「誰かの子供?」そんなことを尋ねてくる者もいたが、やがてそうではないのだと分かると、誰も声をかけてこなくなった。それでも彼等の声はパンナコッタの耳には届いていた。
「あの子が噂の天才少年?」
「13ってホント?」
「へぇ、すごいじゃん」
「馬鹿、あんな子供がホントに試験受かるわけねーだろ? お前、あんなガキと同レベル扱いされていーわけ?」
「じゃあ裏口?」
「ははーん、ワイロか」
「あたし、関係者に変態趣味がいるって聞いた」
「まじでー?」
「身体はってるぅ」
 耳障りな笑い声が、毎日のように聞こえてきた。こんなくだらない話をしているのが自分よりも歳上の者だというのが信じられなかった。しかし、いかに頭の中が子供染みていようと、彼等が数年の歳月を経て蓄えてきたものはゼロではない。学力面では少しも劣る気がしなかったが、体格や体力の差は、何をどれだけ学ぼうと埋められるものではなかった。
「おっと、あぶねーな」
 1人の男子学生がそう言った時、既にパンナコッタは冷たい廊下に倒れ込んでいた。正面から歩いてきた男とぶつかったのだと気付くのに、わずかな時間を要した。
「気を付けろ」
 決してパンナコッタがよそ見をしていたわけではない。通路の真ん中を歩いていたわけでも。にも関わらず、その男は衝突して来た。
(わざとだ)
 パンナコッタはすぐに理解した。が、立ち上がって抗議の声を上げる間もなく、男はさっさとその場を立ち去って行った。
(……馬鹿馬鹿しい)
 追う気にもなれず、一度だけ溜息を吐くと、床に散らばった筆記用具や教科書を拾い始めた。手を貸してくる者はいない。皆遠巻きに、冷ややかな視線を送ってくるだけだ。そんな彼等は、始業を告げるチャイムに急かされてあっと言う間に姿を消した。パンナコッタも次の授業の予定がある。いつまでも床に座り込んでペンを拾っているわけにはいかない。しかし、急ぐ気力は少しも湧いてこなかった。そのままのろのろと作業を続けた。
 フと、気配を感じて顔を上げた。誰もいないと思っていたそこに、『それ』は立っていた。
「ああ、お前か」
 例の『影』だった。どんなに近付いてみても、不思議とピントが合っていないように不鮮明な『それ』は、いつの間に現れたのか、ただ、そこに立っていた。
「お前はなんだ。なんのためにいる」
 尋ねてみたところで、相変わらず返事はない。もっとも、最初から口を利けるのかどうかも疑わしい。
「どうかしたかい?」
 突然声をかけられ、パンナコッタは反射的に小さく跳ねた。一瞬、眼の前の『それ』がいきなり喋り出したのかと思ったのだ。だが振り返った先には、1人の教師が立っていた。教員達の中では比較的若い男で、いつもにこやかな笑みを湛えている。生徒からの評判もまずまずな人物だ。
「そんなところに独りで、どうかしたのかい? それとも誰かいたのかな?」
 『影』は既に消えていた。現れた時と同じように音もなく。教師は何も見ていないらしい。
「いえ、別に……。なんでもありません」
 突き放すようなパンナコッタの口調を無視して、教師は歩み寄ってきた。足元に落ちていたノートを拾い上げ、微笑みながらパンナコッタに手渡す。
「……どうも」
「おや? 君はフーゴだね? 天才少年、パンナコッタ・フーゴ」
 教師はパンナコッタの顔を見ると、そう言って笑った。
「君の話は聞いているよ。当校始まって以来の天才少年が現れたと、学校も期待しているそうだね」
「そうですか」
 そんな話をされて、パンナコッタが喜ぶとでも思ったのだろうか。誰かに期待されることは、彼にとっては少しも嬉しくなんかなかった。生まれた時からそうだったのだから。むしろそれが原因で他人に疎まれているとなると、迷惑でしかなかった。
 無愛想なパンナコッタの表情を、教師はプレッシャーを感じているのだと思ったらしく、慌てた様子で「周りは気にしないで、君がやりたいことをやればいいんだよ」と言った。どちらにしても、どうでも良いことだった。
「この時間は空き時間かい?」
「……ええ」
 本当は授業を受けるつもりだった。しかし、今から行ってもどうせ遅刻だ。さらに、1度休んだところで、パンナコッタにはなんの問題もなかった。その気になれば自分独りで充分学べるようなことばかりだ。
「そうか。もし暇なら、ちょっと手伝ってくれないか?」
「手伝い?」
 もしかしたら彼は、パンナコッタに気を使っているのだろうか。年齢の違いもあって、パンナコッタに友人と呼べるような存在がいないことは他人の眼にも明らかだっただろう。本人が望む望まないに関わらず、パンナコッタは明らかに周囲から浮いていた。
「……ええ。いいですよ」
 正確には『どうでも』良かった。しかし次の授業までの時間はまだまだある。時間を潰す手間が省けるのなら、話くらい聞いてみても良い。そう思った。
「そうか。助かるよ」
 連れて行かれた先は、あまり広くはない資料室だった。そしてこの狭い部屋にどれ程の書籍をつめ込めるか、限界に挑んでみたというような場所だった。壁どころか窓まで半分埋めるように頑丈そうな棚が置かれ、机を置いてあまったスペースの大半を、こちらは可動式の本棚が占拠している。そしてどの棚にも、乱雑に、かつ強引に、本やファイルがつめ込まれている。棚から溢れ返った書類は、机の上や床の上までを侵蝕しかけている。
「大変だろうけど、ここの整理を手伝って欲しいんだ。本の内容毎に纏めて、順番に並べる。破損している本があれば、修復もする。今日で終わらなくてもいいんだ」
「つまり明日以降も来いということですか」
「あ、いや、そこまでは言わないよ。急ぐ作業ではないからね。残りはぼく独りでもやれるさ」
「……まあ、いいです」
 明日以降のことは後から決めれば良いだろう。
 パンナコッタは自分の持ち物を机に置いて、本で出来た山の一角に取り掛かった。それを見て、教師は少し微笑んでから自分も別の本棚を動かし始めた。
 それからしばらく、パンナコッタはそこへ通った。授業の合間に、暇潰しと称して足を運ぶと、あの教師は大袈裟なくらい喜んで見せた。が、彼のためというつもりはパンナコッタにはなく、廊下を通る度に誰の足に躓かされたり体当たりを食らったり、下らない嘲笑を聞くよりは遥かにましだろうと考えていただけに過ぎない。それでも片付けの合間に古い本を読むことを許されたり、静かにレポートを書く場所を与えられたり、時折暖かいお茶を勧められるのは、決して嫌ではなかった。

「君は歳は幾つだったかな」
 ある日――、その日も、パンナコッタは彼と連れ立って資料室へ入った。教師がドアを閉めると、廊下の喧騒が僅かに遠退いた。先に入ったパンナコッタはさっさと荷物を机の上に置き、奥にある手を付け掛けていた棚を目指した。
「13です」
「そうか。まだ法律等で色々な制限がある年齢だね」
「ええ」
 彼は時々どうでも良い話を振ってきた。彼なりにパンナコッタが興味を示しそうな話題を探しているのだろう。昨日は「君はあまり子供らしくないね」と話しかけてきた。
「ぼくに『もっと子供らしくしろ』と言う大人がいます。でも彼等はぼくを大学へ通わせたがる。これは子供に対する言動ではありません。その一方で子供を馬鹿にするような、それこそ子供染みたことをする人もいます。矛盾しているのはぼくだけじゃあありません」
 そう答えてみせると、彼は苦笑いを返してきただけだった。
 そんな会話は既に何度も繰り返されていて、この時もパンナコッタは「またか」と思っただけだった。
「だが……」
「はい?」
 教師の声は少し小さく、本がぎっしりつまった棚越しでは少し聞き取り難かった。『どうでも良い話』を聞かせたいのならば、こちらが聞き取り易い場所へそっちが近付いてくれば良い。そんなことを思っていたために、今までは多少聞こえなくても、パンナコッタの方から聞き返したりすることは殆どなく、いつも勝手に喋らせていた。しかし今日は、教師の様子がいつもと違う。その口調には、何やら躊躇っているような、それでいて切羽詰っているような重みがあった。それを完全に無視してしまって良いとは、パンナコッタには思えなかった。
「なんですか? よく聞こえません」
 少し大きめの声で尋ねると、返ってきたのはカチリという金属音だった。
「……先生?」
 本棚の陰から顔を出してみると、教師はドアを背に、この部屋に入ってきた時のまま最初の場所から動いていなかった。
「だが君が……」
 先程の音は彼がドアに鍵を掛けた音だと気付いた。が、その意味が分からない。パンナコッタが怪訝そうな顔をしていると、彼は1歩だけ前へ出た。
「君が黙っていれば……」
「せん……せい?」
 やはり様子がおかしい。どうかしたのかと尋ねようとした直後、教師は突然速い歩調で一気に歩み寄ってきた。
「先生っ?」
 思わず1歩後退る。が、背後にはすぐ壁があった。教師はその壁に手を付き、壁と自分の身体で作った空間にパンナコッタを閉じ込めた。
「君さえ黙っていれば、なんの問題もないんだ」
 汗ばんだ教師の手が、パンナコッタの手首を掴んだ。言葉では表現出来ぬ不快さに、全身の産毛が逆立つ。パンナコッタはその手を振り解こうとした。が、力は相手の方が断然強い。力尽くで引き寄せられ、気が付けば仰向けに床に抑え付けられていた。
「何を……ッ」
 覆い被さるように動きを封じる身体をなんとか撥ね退けようとするも、手足がバタバタと音を立てるだけで、びくともしない。
「静かにしてるんだッ」
 教師が手を振り上げた。
(殴られる)
 パンナコッタは反射的に両眼を瞑った。しかし、パンナコッタが予想したような衝撃は降ってこなかった。
「……?」
 恐る恐る眼を開けると、教師は腕を振り上げたまま、奇妙に顔を歪めていた。振り下ろそうとした筈の手が、空中で何かに繋ぎ止められているかのように動かない。それは、自らの意思でそうしているのではないらしく、その証拠に、彼は恐怖にも似た表情を顔面に貼り付けている。
「な……、なんだこれは……ッ。だ、誰かいるのかッ」
 彼の言う通り、そこには『いた』。しかし彼には見えていない。彼の腕を掴んでいるのは、あの『影』だった。いや、その呼び方は最早正確ではない。『それ』は既に完全に『ヒト』の形をしていた。全身が紫色で、その皮膚は金属やプラスチックで出来ているようにも見えた。無機質な眼は鋭く、口は紐のような物で縫い付けられているようだ。『それ』が、教師の動きをとめている。
 何が起こっているのか、パンナコッタにも分からない。しかし、動揺している教師の隙を、このまま黙って見ていなければならない理由はない。パンナコッタが必死に腕を動かすと、指先に何かが触れた。それが何であるかを確認している余裕はない。予想よりもかなりの重量があるそれを掴むと、教師の顔面へ向けて、力の限り振り切った。鈍い音と、呻き声が耳に届き、そして重たい感触が腕に残った。
「き、きさまぁぁぁッ」
 顔を怒りで真っ赤にした教師は、憎悪の感情を剥き出しにし、立ち上がりかけたパンナコッタの首に掴みかかろうとしてきた。パンナコッタは再度腕を振った。2度、3度と、繰り返し、何度も振った。その度に教師の顔は滑稽な程醜く歪んでゆき、パンナコッタはそれを嫌悪するようにさらに腕を振った。気持ち悪い虫を叩き潰すように、何度でも。

「きゃああああああッ?」
 甲高い悲鳴に手をとめ、そちらを振り返ると、廊下とは反対側のドアが開いて、そこに女子生徒が立っていた。真っ青な顔をして、口をぱくぱくさせている。クズ教師め、こちらのドアにだけ鍵をかけて、もう1つのドアのことは忘れていたな……。自分でも驚く程冷静に、そんなことを思った。
 パンナコッタが音もなく立ち上がると、女子生徒は悲鳴を上げながら走って行った。遠くから「あの子供が」と喚く声が聞こえる。室内に残されたのは、ぐちゃぐちゃになった顔を両手で覆いながら床の上をのた打ち廻っている教師と、血塗れの分厚い辞書を持って静かに立っている少年と、少年以外の視界には存在しない得体の知れない『ヒト』だけだった。
「お前は……、ぼくか?」
 パンナコッタは『ヒト』に尋ねた。『ヒト』は答えない。しかしそれはもう必要ないように思えた。何も発しない縫い合わされた口は、ただ黙って周囲の大人達の命令に従い続けてきたパンナコッタ自身の物でないと言うのならば、一体なんなのだ。『それ』はパンナコッタが作り出したものに間違いなかった。歪んだ世界の、歪んだ住人なのだ。
 やがて人が集まってきて、大騒ぎになった。両親が呼び出され、彼等は「どうしてこんなことに」と大いに嘆いた。
 パンナコッタは何があったのか、全てを話した。が、誰1人として彼の言葉に耳を傾ける者はいなかった。最早完全に人相が変わってしまった教師は、病院に運ばれる直前まで「あのガキが急に殴りかかってきた」と叫んでいた。
 右手にはまだ血を吸い込んでさらに重たくなったように感じる辞書を握っていた。その手を、何度振り下ろしたのかは分からない。「正当防衛の域を超えている」と言われれば、そうなのかも知れない。後悔はしていなかった。周囲の大人達がパンナコッタの言葉を信じず、教師が作り出した紛いの『事実』を受け入れたのだと分かった時には、「もっと殴ってやれば良かった」とさえ思った。
「今までどれだけのことをしてやったと思ってるのッ? 全部台無しだわッ」
 母でさえ、息子の言葉を聞こうとしなかった。
 その事件がどのように処理されたのかは、パンナコッタの知り及ぶところではなかった。おそらくは、金で解決された――解決したことにされた――のだろう。悪いのは全面的にパンナコッタ・フーゴであると歪めた事実を掲げても、騒ぎが大きくなることを学校側は望んではいなかっただろうし、あの教師としても、何かの拍子に真実が露見すれば身を滅ぼすだけだ。下手に裁判等起こせば、関係者全てにとっての不都合になる。加えてフーゴ夫妻には支払いに応じるだけの資産があった。
(全て解決、問題なしってわけだ)
 なんて立派な正義だろう。パンナコッタは顔を歪めて笑った。
 あの日以来、パンナコッタは自宅には帰っていない。いや、正確には一度だけ、必要最低限と思われる荷物を取りには戻っている。しかしそれは大人達がまだあの資料室で偽りの検証をしている最中だったために、彼は誰とも顔を会わせずに済んだ。一人息子が家を出て行くのを、写真の中の両親だけが微笑みながら見ていた。

『特別なのよ』
(違う……)
『お前は特別なんだぞ』
(違う。あなた達は間違った)
 間違いを犯すことを厳しく禁じた両親は、自身が間違っていることに気付かなかった。
(ぼくはあなた達の過ちだ)
 学校を飛び出し、家を飛び出し、パンナコッタは当てもなく街を彷徨った。一応事件の犯人として追われている可能性を考え、あまり目立たないように行動した。
 浮浪者なのか、ただのチンピラなのか、どちらにせよガラの悪い連中に絡まれたことも何度か――何度も――あった。パンナコッタは、それ等を全て排除してきた。時には自分の拳を振って、時には『ヒト』の力を使って。
 『それ』は、パンナコッタの意思に従って動いた。そして日を増す毎に、少しずつ成長しているように見えた。最初に見た時よりも、随分と大きくなっている気がする。力も強くなっており、大の大人が複数で襲ってきても、パンナコッタは大きな傷を負うことなくそれ等を撃退出来た。しかしどれだけはっきりとその力を振るうことが出来ても、やはり他人の眼に見えていないということは確かなようだ。パンナコッタに返り討ちにされた者は皆、「見えない腕に殴られた」「おかしな力に吹っ飛ばされた」とその体験を語った。しばらくは腕試しのつもりなのか、正面から挑んでくる者もあったが、やがてそういった者も少なくなり、彼の姿を見てそそくさと逃げ出す者や、遠くでひそひそと声を漏らしている者が大半になった。初めてではないそんな周囲の眼に、パンナコッタは今更なんの感想も抱かなかった。
 ある日、『ヒト』の力が単純に大きく、強くなってきているわけではないことに気付いた。初期の頃には見られなかった変化が現れている。
「なんだ……これ?」
 『それ』の両の拳に、丸いカプセルのような物がついていた。左右に3つずつ、合計6つのそれを確認出来た。強い力を加えれば壊せそうに思えた。
(試しに割ってみようか)
 パンナコッタがそう思い、『ヒト』に命じようとした直後だった。
「どけぇッ」
 路地の向こう側から、黒っぽい服装の男が走ってくるのが見えた。さらにその後を、2人の警察官が追っている。おそらく強盗犯か何かだろう。右手にナイフを握っている。男は進行方向を塞ぐ少年を突き飛ばそうと1度は身構えたようだったが、すぐに口元をにやりと歪めた。パンナコッタの背後に廻り、そのまま彼の首に腕を廻して後ろから拘束した。
「その少年を離せ」
 警察官が叫ぶ。
「うるせぇッ、それ以上近付くんじゃあねぇッ」
 男はパンナコッタの首元にナイフを突き付けた。
 これが、パンナコッタと同い歳の普通の少年であれば、助けてくれと騒ぎ立てるか、恐怖で声も出せないかのどちらかだったろう。しかしパンナコッタは違った。刃物を突き付けられるのは既に初めてではない。
(馬鹿なやつ……)
 実に冷ややかな眼で、ナイフを握る男の手が小刻みに震えているのを見ていた。
(震える程怖いなら、最初からこんなことをしなければいいのに)
 それ以上に愚かなのは、人質にパンナコッタを選んだことだ。
(保身のつもりが仇になったな)
 男の手から、ナイフが弾け飛んだ。男が少年を傷付けようと暴れ出したのかと、警察官は銃を構えた。が、男もまた、警察官が強行突破を試みたのかと、焦りと恐怖の表情を浮かべていた。しかし、両者の予想は、どちらも外れだ。まだどちらも動いてはいなかった。パンナコッタだけが、男の手からナイフを奪い取った『力』の正体を知っている。
「な、なんだッ?」
 心の中で小さく「やれ」と命じる。『ヒト』は無言のまま、その意思に応えた。パンナコッタの自由を封じている腕が解け、直後に男の身体は後ろへ吹っ飛んだ。
 何が起こったのか理解せぬまま、男は路上に転がり落ちた。わずかな間を空けて、警察官が男を取り押さえようと駆け出した。しかし慌しい足音は、彼等が男の身体に触れる前にぴたりととまった。
「どうなってるんだっ」
 困惑した声を上げたのは警察官だった。パンナコッタは首を傾げた。驚くタイミングが少し遅すぎはしないか。不審に思いながら、2人の警察官の後ろから覗き込んでみた。
「……なんだこれ……」
 男は断続的に血を吐いていた。身体を“く”の字に曲げ、烈しい咳をしながら、真っ赤な液体を口から吐き出している。突然のその光景に、警察官は呆然としている。
 その男を殴り飛ばしたのは間違いなく自分の『ヒト』だ。今までにも何度もその『力』を使ってきた。しかし、こんなことは初めてだった。
 ほんの僅かな時間、パンナコッタは何が起こったのが分からずにその場に立ち尽くした。が、すぐにこの場に留まるのは得策ではないと判断し、警察官に気付かれないように静かに姿を消した。
「……お前がやったのか?」
 パンナコッタは『それ』に尋ねた。今まで同様、なんの返事もなかった。代わりに、『それ』の拳に付いていたカプセルが、1つ割れていた。

 夜の訪れとともに、パンナコッタは酷い疲労に襲われた。肉体的なそれよりも、精神その物を消耗してしまったかのようだった。今ばかりは、誰かに襲い掛かられれば抵抗出来ないと半ば覚悟したが、幸いにも、傍に寄ってくる者はいなかった。
 翌朝になると疲労は殆ど回復していた。それと同時に、壊れた筈の『ヒト』のあのカプセルも元に戻っていた。おそらくこれが原因なのだ。このカプセルの中に秘められていた何かが、あの男を謎の症状へと誘った。それ以外に考えられなかった。
 パンナコッタは『実験』を繰り返した。わざと治安の悪い町を無防備に歩き、襲い掛かってきた者をモルモットにした。実験動物達の末路は知らない。病院に運ばれるのが早くて助かった者がいるという噂は聞こえていたが、気に留めることはなかった。何人もの犠牲者を出した末、それの正体は、恐らく毒ガスか細菌、或いはウイルスの類ではないだろうかと考え始めた。そして、その威力は『ヒト』同様、徐々に強力――凶悪と言った方が相応しいかも知れない――になっていた。確実に成長しているようだ。今6つのカプセル全てを破壊すれば、人1人の命を奪うことなど容易いだろう。
(化け物……)
 しかしそれはもう、自分の本当の姿なのだと思ってやまなかった。また1つ、何かが大きく歪む音を聞いた気がした。

 数ヶ月前までは、毎日のように両親の同じ言葉を聞いていた。今はただ、雨の音しか聞こえない。暗い空から絶え間なく降り注ぐ雫は、これまでに彼が流し損ねた泪か、歪め続けた自身の意思か――。
(もう……どうでもいい)
 パンナコッタは、雨を凌ぐ場所を探すことさえ億劫で、全身を冷たい雨に打たれるままにし、誰もいない夜の広場に独り立ち尽くしていた。そんなことをしていても、何も起こらないことは充分承知していた。この雨が何かを与えてくれることなど、決してないのだ。同時に――
(何も奪ってくれない……)
 この雨が何かを連れてきてくれることなど、有り得ないのだ。そしてまた――
(どこへも連れ去ってはくれない……)
 何かを待つことは無意味なのだ。
「……疲れた」
 パンナコッタがぽつりと呟くと、背後にあの『ヒト』が現れる気配があった。ただ冷たいだけの雨は、何もしてはくれない。だが、『それ』になら、可能なことがある。パンナコッタの分身たるこの歪な化け物が、誰かに対して救いを与えることなど出来はしないだろう。だが、逆なら可能だ。
 パンナコッタが『それ』の眼を真っ直ぐ見ると、『それ』は彼の思考を、口に出さずとも読み取ったように、足音も立てずに歩み寄ってきた。
「ぼくが死ねば、お前も消えるんだろうな。それでも構わないな?」
 尋ねてから、今更そんな確認をすることの無意味さを思い出し、パンナコッタは自嘲気味に笑った。『それ』は自分の分身なのだから、自分の意思と『それ』の意思が食い違うことなど有り得ない。その証拠に、『それ』は静かに手を伸ばしてきた。異形である筈のその手は、不思議と差し伸べられた救いの光であるように見えた。パンナコッタは小さく頷いてみせた。
「もういい。もう……休もう」
 パンナコッタは人よりも早く大人になることを強いられて育ってきた。速い歩みで道を進めば、終わりに着くのもまた早いことは当たり前のことだ。
(このまま終わりまで、一気に行けばいい)
 パンナコッタは眼を閉じた。それを合図に、『それ』は拳のカプセルを砕いた。
 辺りに紫色の煙が広がっているであろうことは、かつてその力を使った時に見て覚えていたので、視界を閉ざしていても思い浮かべることが出来た。
 足の力が一気に抜け、がくりと地面に膝を付いてから倒れた。同時に『それ』の気配が消える。が、体内を侵食し始めた『力』は、とまることはない。
 薄れ行く意識の中で、ざあざあと鳴り止まない雨音の中に混ざる足音を聞いた。こんな時間に、通行人だろうか。が、今更誰が現れようと、パンナコッタには関係ない。
 足音が近付いてきて、すぐ近くでとまった。何か喋っているようだが、その声は大きくはなく、殆ど聞き取れない。わずかに眼を開いてみると、背の高い男が自分を見下ろしているのが辛うじて見えた。
(あんたが死神ならそれでいい。違うなら、放っておいてくれ……)
 パンナコッタの視界は再び闇に包まれた。

 眼を覚まして最初に思ったのは、「なぜ眼が覚めたのだろう」ということだった。決して心地良い眠りではなかった。しかし目覚めることはない筈の眠りだったのだ。
「なんで……」
 最後の――最期になる筈だった――記憶とは正反対の光景がそこにはあった。真っ暗な夜の広場はどこにも見当たらず、頭上には白い天井が広がっていた。
「眼が覚めたか」
 知らない声が言った。
 パンナコッタは飛び起きた。どうやらベッドに寝かされていたらしいと初めて気が付いた。
 部屋の出入り口の近くに男が立っていた。広場で見た男に違いないと、あの時は顔は殆ど――むしろ全く――見えなかったが、その背格好から気付いた。男は静かに近付いてきて、ベッドのそばに置かれた椅子に腰掛けた。
「ここはどこだ」
「病院だ」
「びょういん……」
 ようやく状況を理解した。つまり、助かっ――てしまっ――たのだ。
「どうしてッ」
 パンナコッタは身を乗り出して男の胸倉を掴んだ。しかし男は表情を変えず、黙ってパンナコッタの眼を見ている。
「どうして、余計なことを……っ」
「余計なこと?」
 男は感情が篭っていないような、抑揚のない声で尋ねた。
「今更助けられたって、どうしようもないんだッ。行き倒れの子供を助けて善人ぶりたいのか? だったら教えてやるよ。ぼくはこの手で何人も殺してるッ」
「『何人も』じゃあない。3人だ」
「な……っ」
 男はパンナコッタの手を軽く振り払った。
「後の者は皆発見が早くて一命を取り留めている」
「……あんた、何者だ……?」
 男はどこからともなく手帳を取り出して開いた。
「この辺りで原因不明の病人が多発している。おかしな流行病の類かとも考えられたが、感染者は1日に多くて2・3人、地域はかなり限られている。しばらくして原因は新種のウイルスだと判明したが、発生源が全くもって不明だ。人為的な何かが絡んでいるのではないかと疑い出した頃、変死体と、『銀髪の少年』を目撃した者が何人も現れる。オレはスタンド使いの仕業だと考えた」
 男は淡々と言った。
「スタンド?」
 耳慣れない言葉に首を傾げると、男はすっと右手を上げてみせた。
「こいつだ」
 突然、何もなかった空間に1つの気配が生まれた。かと思うと、そこには奇妙な姿をした『ヒト』が立っていた。人間の形をしてはいるが、その無機質な皮膚はサイボーグを思い出させた。さらには全身の至る箇所に大きなジッパーが付いている。姿形はまるで違うが、それが持つ雰囲気はパンナコッタが従える『ヒト』に似ていた。
「やはりこいつが見えているな? オレ達は『スタンド』と呼んでいる。『スタンド』は『スタンド使い』同士にしか見えない。そして誰でも持っている物ではない」
 男は「詳しくはその内説明する」と言った。
「あんた、警察か?」
 男の話が一度途切れたタイミングで、パンナコッタは尋ねてみた。
「まさかだろう。だがこの件を調べている」
「調べて……どうするつもりなんだ」
「組織の敵となるようであれば始末することもある」
「組織……」
 最初から一般人ではないだろうとは、彼が放つ雰囲気から思ってはいたが、どうやら堅気の人間ですらないようだ。歳の頃はパンナコッタと5つか6つ程違うといったところだろうか。まだ「青年」と呼ぶことをわずかに躊躇うような――それでもその瞳には決して子供が持たない鋭さを秘めている――その少年が、一体どのような世界にその身を投じているのか、パンナコッタには計り知れない。
「お前のスタンドは危険だ。使い方によっては大量の犠牲者を出す。今はまだそれ程強くはないようだが、これ以上成長すれば確実に死者を増やすだろうな。お前自身も、今回助かったのは運が良かっただけに過ぎない」
「運が良かった?」
 それは正反対だ。パンナコッタは男を睨み付けた。
「なんだ、死ぬ気だったのか」
「そうだ」
「なぜ」
「他にどうしろって言うんだッ」
 パンナコッタは再び声を荒げた。
「ぼくは空っぽなんだよッ。自分の意思なんて全く持たずに、大人達に言われるがままに動いてきた! 完全な傀儡になり果てて、それで生き続ける意味があるか!?」
 心を持たぬ操り人形が初めて自分の意思を持ってしたことは、自らに繋がる糸を切ることだった。自分を束縛していると思っていた糸が、切り捨てた後で唯一の動く術だったのだと気付いてしまったのは、皮肉だと笑うしかない。
「放っておいてくれれば良かったのに……。どうして助けた!?」
 男は少し考えるような表情をし、言った。
「お前が生きていることによって、誰かが救われる可能性はないとは言い切れないだろ?」
「そんな話は聞きたくない。可能性だけなら、ぼくが死ぬことによって救われる人がいることだってある。現にぼくは殺している。綺麗事は聞きたくない。あんたが『救われるかも知れない誰か』のために何かしたがっているようにも見えない」
 男は頷くような仕草をしてから、「なるほど」と呟いた。肉親でさえ彼を救うことは出来なかったのだ。見ず知らずの男に、何が出来る筈もない。用済みになった人形は、処分されるより他ないのだ。後はこの男がいなくなってくれれば良かった。邪魔者がいなくなってから、同じことをすれば良いだけだ。もしこの男が本格的に邪魔をしてくるようであれば、いっそ巻き込んでも構わない。その程度の覚悟は、男にはとっくに気付かれているだろう。しかし、彼は立ち去ろうとはしなかった。
「いっそ綺麗事ではなく、利己主義の方が納得がいくか?」
「……どう言う意味だ」
 パンナコッタが首を傾げてみせると、男はさらりと言い放った。
「人手が不足している」
 予想外の返答に、思わずその意味を考えてしまった。わずかな間を要してから、歪んだ笑みを作りはしたものの、パンナコッタははっきりと動揺していた。
「今度はあんたの操り人形になれと?」
「いや、オレには人形を操る技術なんてないな。人形には、自分で動いてもらう」
 パンナコッタは驚いたように眼を見開いた。
 最初はただの無関係な人間としてしか見られなかったその男は、今ではもう違うものになっていた。何か、強い力を持っているような――今まで会ったことのあるどんな人間とも違っているような――、そんな気がしてならなかった。
 それでもまだ信じることは怖かった。パンナコッタは信じ方を知らない。
「糸のない人形は動けない」
「動けるさ」
 男は初めてわずかに笑ってみせた。
「知らないのか?」
「何を……」
「『Pinocchio』」
 パンナコッタがぽかんと口を開けると、男はさらにくすりと笑った。
「明日の午後にまた来る。それまで休んでおけ。色々質問させてもらうからな」
 まだ呆然としているパンナコッタをそのままに、男は椅子から腰を浮かせた。ドアの向こうに姿を消す前に、もう一度こちらを振り返った。
「明日の質問には、正直に答えること。嘘は吐くなよ」
「え?」
「鼻が伸びるぜ」
 男は自分の顔の中心を指差しながら笑った。
「……馬鹿にしてるだろ」
 しかし、不思議と腹は立たなかった。男は笑い声を残して去って行った。背中を見送りながら、パンナコッタは「変なやつだ」と呟いた。
「あ、名前……」
 今よりももっと子供の頃に似たようなことがあったのを思い出しながら、今度は名前くらいは聞いてやっても良い。パンナコッタはそんなことを思った。


2011,02,05


以前別の場所に置いていた小説を公開終了させたので、少しだけ手直しして移動させてきました。
フーゴがただの短気で自分で勝手に問題起こして大学除籍になったんだったらそれはちょっと可哀想だなと思って、捏造したものです。
幼少期に会ったサッカーボールの少年が実は後の仲間の誰か……というのもちょっと考えたのですが、結局やめました。
あと、「元々キレ易い性格」という原作の設定を完璧どっかにやっちゃいました。
あちゃあ。
パンナコッタパンナコッタ書いてるとシリアスなシーンでも笑いそうになってごめんフーゴ。
<利鳴>

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