ミスジョル R15 モブ視点 モブ→ジョル少々


  マリオ・ロッシの奇妙な日常


 ネアポリスにある全寮制学校の中等部に通う──身内や然程広くない交友関係にある者を除けばその名を知る人間はほとんどいないであろう──極一般的な少年──本人はそれでいいと思っている。有名になりたいなんて願望はない──である彼は、その日たまたま、そしてうっかり、夜更かしをしてしまっていた。
 贅沢な一人部屋の机の上にある時計を見ながら、彼は「やばいな」と呟いた。表示されているデジタルの数字は、すでに日の入りからよりも日の出までの方が短い時刻になっている。
 明日は休日ではない。当然、授業もある。しかも朝から厳しいことで有名な教師の授業だ。遅れれば、おそらくえらいことになるだろう。
 寮と校舎は同じ敷地内に建っている為に、通学に掛かる時間は短くて済む。それでも極端に寝過ごせば、遅刻の可能性だってないとは言い切れない。
 まずいなと思いながら明かりを消し、ベッドに入ろうとした時、「がん」と、何かがぶつかるような音が聞こえた。「痛い」と言う人の声も、かすかにだが聞いた気がする。
「……なんだ?」
 隣の部屋にいる者が、寝呆けて壁に頭をぶつけでもしたのだろうか。その時は、その程度にしか思わなかった。
 彼は、入退室のタイミングが偶然一致した時等に簡単な挨拶を交わす程度の交流しかない隣人のことを、よく知らなかった。確か、彼が入学した当初は黒髪の少しアジア人の血が混ざっていそうな顔立ちをした少年──おそらく同学年──が入居していたと思ったが、いつの間にか、そこを出入りする人間は見事な金髪の少年──こちらは髪の色の所為か、少々イギリス人風の顔をしているように見えた──に変わっていた。元いた少年は、何か事情があって他の部屋へ移ったか、あるいはこの学校を去ったかしたのだろうか。今いる──はずの──金髪の少年も、寮内学校内を問わずその姿を目にすることはあまりない。目立つ風貌ではあると思うのだが……。
(まあ、もっとド派手な色に髪を染めてるやつも珍しくないけど)
 そんなことよりも、明日の授業に遅れてはまずい。
(早く寝ないと)
 彼はいつも通り、壁の方を向いて横になった。
 目を瞑って眠気がやってくるのを待っていると、再びあの音が耳に届く。
──どん。
 隣人はよっぽど寝相が悪いのだろうか。
(オレの安眠を邪魔する気か?)
 無駄だと分かっていながら、彼は壁を睨んだ。すると、まるでそれが見えたかのように、かすかな声が聞こえてきた。
「……隣に……えます……ら」
「こ……な時間……。もう……くに寝て……」
 隣の部屋は、出入り口から見て左右が逆になっているだけで、ここと同じ作りをしているはずだ。すなわち、独り用の部屋であるはず。にも関わらず、途切れ途切れに聞こえてくる声は2人分ある。誰かいる。あの金髪の少年の他に、誰か。
(部外者の立ち入りって出来るんだっけ? それとも他の部屋の誰か? でもこんな時間に……?)
 彼は壁に耳を当ててみた。先程よりも、会話の内容がはっきりと聞こえるようになる。
「やっぱりここでっていうのは、無理があるかぁ?」
「だから最初からそう言ったじゃあないですか……」
「でも今から場所変えるってのもなー。あんまり時間掛けてもいられねーし」
「やっつけですか」
「明日学校だろ?」
「それはいいです。サボりますから」
「悪いやつだな」
「学校の寮に忍び込むのは善良な人間のやることですか?」
「まあ、そうでなくても、もう“こんな状態”だしぃ?」
「あっ……、ちょっと、ミスタっ」
「『お願いやめないでー』って言ってるもんなぁ? ほら」
「や……。隣……、ほんとに、聞こえ……るからっ」
「んンー? なんだ? バレるかもって思ったら逆に興奮したかぁ?」
「っ……ばかッ」
 彼の心臓はにわかに鼓動を早めた。
(これ……って……!?)
 その会話からは、明らかに情事の最中であることが窺えた。ベッドが軋む音までする。しかも聞こえてくる声は両方男。ここは男子寮だから、で納得するわけがない。
(ま、マジかよ……!?)
 元々大して強くなかった眠気は、今や完全に消えてしまっていた。決して分厚いとは言えないような壁を1枚隔てただけの場所で、今正に……。
 教師だか上級生だかに“そういう趣味”の者がいて、小柄でちょっと可愛い顔立ちをした男子生徒が入学してくると、たちまち呼び出されて一晩部屋に戻らないことがある。……なんて噂は、耳にしたことがないでもない。だがそんなものは、誰かが面白おかしく広めた作り話だろうとしか思っていなかった──なにしろそんな噂話は何年も前からずっとあるようなのだ。教師にしろ生徒にしろ、一体何年この学校に居続けているんだという話になってくる──。だが、今聞こえてくる声は、間違いなく自身の耳で聞いたものだ。
(まさか、本当に……!?)
 壁の向こうの必死に抑えたような声は、やがて小さな喘ぎ声へと変わった。それよりも大きな音を立てているのは、彼自身の心臓の音だ。不意に、壁越しにそれが聞こえてしまうのではないか──自分が聞き耳を立てていることが知られてしまうのでは──との不安に駆られる。慌てて壁から飛び退き、危うくベッドから転げ落ちそうになった。すんでのところで留まれたが、口からは小さく悲鳴が出た。聞かれただろうか。一瞬だけ、2つの息遣いが消えたように思ったのは、単純に距離を取って聞こえなくなっただけ……と思うのは楽観的過ぎるか……。
 彼はベッドの淵にしがみ付くような体勢のまま、動くことが出来なかった。少しでも動けば、自分の存在が向こう側に知られてしまう。そう思えて仕方がなかった。
 いくつもの感覚が麻痺している気が……いや、むしろ暴走している気がする。すでに聞こえなくなっているはずの声や息遣いが聞こえ、見えないはずの壁の向こうの光景が見える。そんな錯覚。そしてその状態で流れた時間は、一瞬にも数時間にも感じられた。
 夜明けが近付いてきた頃、窓が開く音が聞こえた。それから短い挨拶の言葉。どうやら“来訪者”は出て行ったようだ。それきり、隣の部屋は静かになった。残された少年は眠ってしまったのだろう。
 静寂が訪れ、彼の通う学校の寮はいつも通りの姿に戻る。それでも、彼は結局一睡も出来ぬまま朝を迎えることとなった。

 その日1日の授業は散々だった。授業中に居眠りをして教師に怒られ、休み時間に居眠りをして昼食を取りそびれ、そして午後の授業でもやはり居眠りをして、もちろん教師に怒られた。
 ようやく迎えた放課後、彼は友人の「映画でも見に行かないか」との誘いを断り、自分の部屋へ戻ろうとしていた。居眠りの罰として与えられた課題の締め切りは明日の昼だ。残念ながら遊びに出ている余裕はない。
 その頃には、昨夜のことはもう忘れようと──少なくともその努力をしようと──決めていた。不意のことに驚きはしたが、だからなんだというのだ。隣の部屋で常識外のことが行われていたからといって、自分になんの関係がある。そろそろ次のテストのことも考えなければならない時期になってきている。他人のことなんて、気に掛けている場合ではない。
(オレは極一般的な人生を送るんだからなッ)
 だが、自室のドアに手を伸ばした正にその時、見計らったかのようなタイミングで隣の部屋のドアが開く。そこから出てきたのは、長い金色の髪を1つに編んだ、イギリス人風の顔立ちをした少年だった。もちろん、その部屋に住んでいる少年だ。今の彼には、その姿が『極一般的な人生からかけ離れたもの』の象徴であるかのように見えた。
「あ……」
 思わず小さな声を漏らしていた。そうでなければ、その少年がこちらを向くこと等なかっただろうに。
 少年は、突然足を止めた彼を見て少々不思議そうな顔をしはしたが、極自然に「どうも」と軽い挨拶をしてきた。そうだった、その程度の挨拶は、顔を合わせれば交わしていたんだった。どうやら隣人であるということくらいは把握されているらしい。ここで無視等すれば、おそらくこれ以上ないほどに不自然だろう。
「や、やあ……」
 自然とは言い難い返事を、しかし少年が不審がった様子はなかった。
 その少年は、もう夕方だというのに、今起きたばかりであるかのように眠そうな目を擦っている。やはり昨夜のことが原因で、睡眠が足りていないのだろうか。どこにも寄らずに最速で帰ってきた彼と入れ違うようなタイミングで部屋を出ようとしているということは、──昨夜あの部屋にいた誰かに──そうと宣言していたように、授業はサボったのか。
 窓からの日差しで、金色の髪がより一層輝いているように見えた。長い睫毛に縁取られた目も、欠伸を噛み殺す口元も、まるで計算されたかのように整った形をしている。背が低いということはないがその体付きは細く、ずいぶんと華奢に見える。『ちょっと可愛い顔立ち』なんてものではない。はっきり言って、その姿は美しい。そんな彼を抱いていた男は、一体どこの誰だったのだろう……。
 ふと、少年の瞳がこちらを向いた。
「なにか?」
「えっ」
 完全に目が合ってしまった。いつの間にかその姿を凝視していたことに、彼はようやく気付いた。
「あ、いや、その……」
 少年は「なにをじろじろ見ているんだ」と問うようにこちらを睨んでいる。
「授業……、いなかったなと思って……」
 咄嗟に出たのはそんな言葉だった。何故そんなことを言ったのかは、自分でも分からない。普段から教室で彼の姿を見た記憶はほとんどない。そもそも同じクラスかどうかも分からないのに。もし自分がそうと知らないだけで出席していたのだとしたら、面倒なことになりかねない。「ごめん、なんでもない」とでも言って、さっさと部屋に入ってしまえば良かったはずだ。それをしなかった理由は……? まさか彼と話をしたいとでも?
「君……」
 今度は少年の目が、彼をじっと見た。
「同じクラス? ええっと、ラバロだっけ、それともラウーロ?」
 どちらも彼の名前ではない。たまたま隣の部屋を宛がわれただけの人間なんて、所詮その程度の存在だ。彼とて、“あんなこと”でもなければ、同じように思っていただろう。
 少年は面倒臭そうに溜め息を吐いた。
「今朝は……、少し体調が悪かったので……」
 だから授業を休んだ。と言っているようだ。彼は「そうだったんだ」と返すことしか出来ない。
「えっと、……もう、大丈夫なのかい?」
「なにが?」
「だから、体調が……」
「ああ……。ええ、だいぶ良くなったので、ちょっと出掛けてきます」
 これ以上引き止められることを拒むように、少年はさっさと歩き出した。彼は、何故かその後ろ姿を見えなくなるまで見送った。

 その日の夜、隣室は静まり返っていた。何度か壁に耳をあててみはしたが、聞こえてくる物音はひとつもない。誰もいないようだ。“来訪者”どころか、住人であるあの少年も。夕方出掛けて、そのまま戻っていないのだろうか。
(外泊……かな)
 静かで結構ではないか。これで今夜は熟睡出来る。そう思うべきなのに、眠らないまま日付が変わろうという時刻になっている。
(なにをやってるんだオレは……!)
 ぶんぶんと頭を振って、ベッドに潜り込んだ。毎日居眠りの罰の課題を持ち帰るつもりか。
 だが閉じた目蓋の内側に浮かぶのは、あの少年の顔だ。
 街中で擦れ違えば多くの人が思わず振り返ってしまうだろうというほどに整った顔立ちをしているのに、感情の読めないその表情は、どこか不気味でもある。言葉を変えれば妙な“怪しさ”を纏っている。人と良く似た姿をした、別の生き物……。そんな馬鹿げたことを考えてしまうような空気が、あの少年の周りにはある──ような気がする──。
 それが、“良からぬもの”を惹きつけてしまうのだろうか。真夜中に学生寮に忍び込むなんて、どう考えても普通じゃあない。あるいは堅気の人間ですらないのかも知れない。もし、そんな輩に、望みもしない行為を強いられているのだとしたら……。あの体格では、力尽くで押さえ付けられでもしたらきっと抵抗出来ないだろう。
 少年の物憂げな瞳を思い出す。誰にも相談出来ずに悩んでいたりするのだろうか。何か弱みを握られているのでは……。
 だとしたらなんだ。ただの隣人でしかない自分──お互いに名前すら知らない──に、何が出来るというのだ。
(忘れろ! 忘れるんだ!)
 頭の中に留まる靄を振り払うように、声に出さずに何度も叫んだ。と同時に、明日の授業もおそらく散々なことになるだろうとの予感を、彼は捨てることは出来なかった。

 なんとか1日を乗り切り、2日連続で友人からの誘いを断り──「付き合い悪いぞ」と文句を言われたが後日飲み物を奢る約束で赦された──、彼は自分の部屋を目指していた。
 今日の授業中に考えていたのは、「思い切って少年の部屋を訪ねてみようか」ということだった。だがなんと言ってそうすればいい? 「良かったら休んでいた授業のノートを貸そうか?」……? なんの授業を休んだのかも分からないのに? しかも彼自身、寝不足と考え事の所為でノートなんてろくすっぽとれていない。「悩みがあるなら相談に乗るけど」? よく知らない相手からそう持ち掛けられたら、自分なら素直に話すか?
(それはない)
 絶対にない。
 余計なことはしない方が良い。それが一番だと結論付けたのは、ちょうど自分の部屋が見えてきた時だった。隣の部屋のドアへ視線を向けるべきではない。さっさと与えられた空間にその身を滑り込ませ、じっとしているのが正解だ。
 ドアノブに手を伸ばそうとすると、廊下を走ってくる軽やかな足音が聞こえてきた。こちらの方向を目指してきているようだ。無遠慮に響くそれに眉をひそめながら、衝突でもされてはかなわないと、彼は通路の端へと寄った。避けられるトラブルは避ける。それが彼のモットーだ。直後に、小柄な人影がぱっと現れ、彼の横を走り去って行く。
(誰だろう……?)
 その後ろ姿に、見覚えはなかった。黒髪の小柄な少年──いや、後姿だけでは性別すら不明だ──。別のフロアの学生だろうか。それとも部外者?
(まあ、そんなこともあるだろう)
 何しろ隣の部屋へ不審者が侵入していることすらあるのだから。
(オレには関係ない……)
 自分の中にある『非日常』のハードルが下がっていることを自覚しながら、今度こそ自室へと思ったところへ、別の足音が聞こえてきた。それから、今度は声も。
「ちょっとナランチャ!」
 先程の少年──それとも少女──へ向かって声を掛けたのは、年齢だけを見れば学校内にいたとしても不思議はないであろう、15、6歳の少年だった。これまた見覚えのない姿だ。見事なプラチナブロンドと素肌を見せる穴空きのデザインのスーツ姿なんて、一度でも見れば忘れることはないだろうに。
(今日はどうなってるんだ?)
 いや、今日だけではない。あの日の夜から、どうもおかしい。それとも隣の部屋から黒髪のアジア人風の少年が消えて、あの金髪の少年が現れた時点で、すでにその『奇妙な日常』とでも呼ぶべき事態は始まっていたのだろうか。
 「関係ない」と思いながらも、周囲の空気に溶け込まない2つの人影を、彼はつい視線で追っていた。
「フーゴ、早く!」
「勝手に行かないでください! ジョルノに迷惑が……」
「あ、ジョルノ!」
 そうだ、そんな名前だった。隣の部屋で寝起きしているはずの、あの金髪の少年。姓も思い出した。初めて廊下で顔を合わせた時に、それだけは教え合っていたんだったという事実と共に。確かジョバァーナ。ジョルノ・ジョバァーナ。それが少年の名だ──関わらないようにしようと決めたというのに、逆に思い出してしまうとはなんだか皮肉だ──。
 振り向くと、廊下の向こうから姿を現したのは、まさにその人物だった。
 ジョルノ・ジョバァーナという名の少年は、彼の存在には気付きもしないように、その先にいる2人の人物へと歩み寄って行った。
「ナランチャ、フーゴ、2人ともどうしたんですか? こんなところで」
 驚いたようなその声は、しかし不思議と弾んでいるようにも聞こえた。昨日会話をしたのと同一人物とは思えぬほどの変わりようだ。あの少年──ジョルノ・ジョバァーナ──にも、ちゃんと感情があったんだなとおかしなことを思った。
「近くまで来たから迎えに!」
 そう答えたのは、黒髪の方の少年──正面からだと胸が平らであることが分かったので、おそらく男なのだろうと判断出来た──だった。そこへ、プラチナブロンドの少年が食って掛かる。
「だからって勝手に入るな! すみませんジョルノ。車で待ってようって言ったのにこいつが……」
「構いませんよ。すぐに準備をするから、待っててください」
 踵を返すと、ジョルノ・ジョバァーナはこちらへ向かってきた。いや、自分の部屋──彼の斜め後ろにある──を目指しているだけだろう。だが目が合って、一瞬どきりとする。同時に、ジョルノ・ジョバァーナの奥にいる2人が訝しげな顔で彼を見ていることに気付く。じろじろ見ていたと思われただろうか──だがそれは事実だ──。
「ジョルノ、彼は?」
 あからさまな視線を向ける者を、そのまま逃しはしないつもりであるようだ。プラチナブロンドの少年が、首を傾げるような仕草をする。
「ああ、彼はえーっと、シェイマスだかウィリアムだか……」
 どちらも彼の名前ではない。前のとも違うし、そもそもイタリア人の名前ですらなくなってしまっている。結局ジョルノ・ジョバァーナは、「ただの隣人です」と纏めた。
 名前すら知られていない彼よりも、謎の訪問者達の方がジョルノ・ジョバァーナとは親しい間柄であるようだ。「迎えに」と言っていたから、これから一緒にどこかへ行くつもりなのだろう。
(……もしかして……?)
 あの日の夜のことを思い出す。
 あの時聞いた声は、今いる2人のどちらのものとも違っていた。学校外に複数の知人友人がいることは、全く不思議でもなんでもない。だが、彼等が纏う空気は、極普通の若者のそれとは違っている。自分と同じ世界に生きる者とは到底思えない、もっと危険な、影を秘めたような……。
 そして、それはジョルノ・ジョバァーナも同じだと、今気付いた。そうだ、彼から感じる言い知れぬオーラのようなものは、知るはずもない別世界を思わせる。
(普通じゃあない……)
 ジョルノ・ジョバァーナは、普通の人間とは違う世界の住人である。
 だとすると、あの日の訪問者は望まざる荒くれ者なんかではなく、自ら、進んで招き入れたのか? そして今いる2人の少年も……? まさか複数の相手を……?
(こいつ……、“そういうやつ”なのか……?)
 自らの肉体を捧げて、何等かの対価──それは金銭か、それとも形を持たぬ快楽の類か──を受け取る……。そんな男だったというのか。
 彼は、幼い頃に見た所謂『騙し絵』を思い出した。それは一見すると美しい花の絵なのだが、よく見るともつれ合う男女の裸体であることに気付くというものだ。今まで見ていた世界がぐるりと反転するような、奇妙な感覚。あの時に似たものを、今の彼は感じていた。「騙された」という言葉は、相応しくはないだろう。彼はそもそも、何も知ってはいなかったのだから。だがそれに近いものは確かにある。失望? 嫌悪? 悍ましさ? 適切な言葉は浮かんでこない。
「ジョルノ、早く行こうぜ。ブチャラティ達が待ってる」
「ちょっと待ってください、ナランチャ。部屋に携帯電話を置きっぱなしなんです」
 ジョルノ・ジョバァーナは、彼との会話はもう終了したものとみなしているようだ。さっさと自分の部屋へ入って行く。そのドアの向こうにある空間が自分の部屋と同じとは、もう彼には思えなくなっていた。
 自分ももう戻ろう。例え壁一枚隔てた先にあるのが奇妙な異世界であるとしても、自分の部屋だけは自分の日常だと信じて。
 だが、ドアを閉ざしても物音は容赦なく届く。声を潜めているのならともかく、遠慮もしないで喋ればそのほとんどは筒抜けになってしまう。元々プライベートを考えて作られたような部屋ではない。在学中の数年間を凌げればそれで良いということなのだろう。はしゃぐような声は、聞くまいとしていても彼の耳に飛び込んでくる。
「なあ、学校の寮ってどんな感じ? 部屋見てもいい?」
「どうぞ。面白い物はなにもないと思いますけど。フーゴもどうぞ中へ。廊下を塞ぐのもなんですし」
「じゃあ、お邪魔します……。へぇ、一人部屋なんですね」
「ゼェータクぅ」
「防音も何もないですけどね」
 彼はぎくりと表情を強張らせた。
(もしかして、バレてる?)
 あの夜、そして今、聞き耳を立てている──不可抗力のものもあったが、そうではないものもあった──ことを?
 今にも「おい」と声を掛けられるのではないかと思うと、彼はいてもたってもいられず、行き先も決めぬまま、部屋を飛び出した。

 それから数日間は、何事もなく過ぎた。隣の部屋からは何も聞こえない。「おかしな物音は」という意味だけではなく、通常の生活音すらしない。2人の少年が迎えにきた──さらに誰か他の人間が待っているというようなことも言っていた──あの日から、どうやら戻っていないようだ。同じクラスの者を見付けて尋ねてみたが、授業にも出ていないという。
(もうそれだけで立派な非行少年じゃあないか)
 やはり関わるべきではない相手なのだ。
 明日は休日だ。久々にゆっくり休もう。そう決めて向かった自室の前に、見知らぬ男が立っていた。いや、正確には自室の隣の部屋の前に、だ。
(またか……)
 考えまいとしているのに、“ジョルノ・ジョバァーナの関係者らしき者”は一定の間隔で現れ続けるとでもいうのか。彼が気付いていなかっただけで、これまでもずっとそうだったのだろうか。
 その男は、見るからに“普通”の人間ではなかった。年齢は成人前後と見える。部屋を出入りする者を妨害するかのようにドアを背にして何かを待っているらしいその姿は、ただそこに立っているというだけなのに異質なものに見えた。一言で言うと、ガラが悪い──全身柄物の服を着ているがそういう意味ではなく──。
 うっかり、目が合ってしまった。
「ん? ここの学生か?」
 学生寮にいるのだから、普通はそうだろう。そうではないあんたの方がおかしい。だがそんなことを言えるはずもない。そんなことよりも、彼はその声に聞き覚えがあった。“あの夜”聞いた、あの声と同じだ。
「あんたは……」
 男は面倒臭そうな顔をした。
「あー、気にしないでくれ。ちょっと雨宿りさせてもらってるだけだからよ。待ち合わせみたいなもんだ。すぐ行くよ」
 ああ、そういえば今日は朝から雨が降っていた。だから窓の外で待つことをせずに、玄関からやってきたのかと、彼は妙に納得してしまった。
「あの……」
 彼はその男に向かって、無意識の内に自分から話し掛けていた。平穏な日々を過ごそうと思っていたはずなのに。
「……ジョバァーナに……、なにか用ですか?」
 男は眉をぴくりと跳ねさせた。
「お前、ジョルノの知り合いか?」
「友人……です」
 咄嗟に嘘を吐いてしまった。それは、一言で言うなら『見栄』だろうか。だが男は「へぇ」と呟くように返してきた。彼の言葉を信じていないように見える。
「オレは……、まあ知り合いだ。気にすんな」
 つい先程も言われたその言葉の影に、「詮索するな」という脅しの文句が隠れているように聞こえた。
(そうだ。関わらわない方がいい)
 そうしろと言われたのだから、そうしよう。それが最良に違いない。
 「失礼します」と声を掛けるのも妙な気がして、彼は無言のまま踵を返した。
「お前の部屋、この辺りじゃあないのか」
 背中に向かって飛んできた声は、妙な冷たさを含んでいるように感じた。
「……いえ。ぼくの部屋は東側だし、もう1つ上の階です。隣のクラスのやつにノートを借りに行こうと思ってたんですけど、あいつ今日は部活だったってのを思い出したので、出直します」
 デマカセを告げる声は、不思議と全く震えてもいなかった。普通ではない人間に向かって平然と嘘を吐くなんて。今喋ったのは本当に自分なのかと驚きに似たものさえ感じながら、それでも彼の表情はぴくりともしなかった。頭のどこか隅の方に、本当に東側の建物の1つ上のフロアに彼の部屋があるかどうかわざわざ調べようとまではしないだろうと、妙に冷静に判断している部分もあった。自分はもう少し、普通程度に臆病な人間だったはず。それが、奇妙なものに関わったことによって、変わってしまったのだろうか。
 廊下を曲がり、振り返ってもその男の姿が見えなくなったところで、話し声が聞こえてきた。
「ようジョルノ」
「ミスタ」
 どうやらあの男の待ち人が戻ってきたようだ。
「みんなぼくを迎えに来るのが好きなんですね」
 ジョルノ・ジョバァーナはくすくすと笑っている。
「おめーのダチに会ったぜ」
「友達? 誰だろう? そんな人いたかな? 名前は?」
「聞いてない」
「じゃあ、髪型は?」
「あー、黒かったような、赤かったような……」
「モヒカンだったようなスキンヘッドだったような?」
「そうそう、そんなやつ」
「そんな人知りません。見たこともない」
「うん、オレも見たことないな」
 適当にもほどがある。結局自分はその程度の存在なのだろう。彼はそのままその場を去った。楽しそうな会話の声は、あっと言う間に聞こえなくなった。
 今日もあの男はあの部屋で過ごすつもりなのだろうか。いや、さっき「迎えに」と言っていた。ということは、今日は2人で他所へ出ていくつもりか。どこへ行って、何をするつもりなんだか……。
 きっとあの少年は、所謂『魔性の男』なのだ。何人もの男を惑わさせているに違いない。わざわざ部屋まで迎えに来るような相手が1人だけではないことを、隠そうともしていない。一介の少年である彼のことも、きっと笑ってるのだろう。そんな男に関わるのは、賢い人間のすることではない。何もない、平和な日常が一番だ。
 そう思っていても、彼は時折思い出したように隣室の物音に耳を傾けずにはいられなくなっていた。そして思い浮かべる。長い手足。細い首筋。金色の髪。自分へ対して興味も関心も一切持たぬことが明確である、ともすれば冷たさすら感じるような眼差し。それすら、畏怖の念を覚えるほどに、美しかった。
 数日後、ジョルノ・ジョバァーナは久方振りに部屋へ戻ってきたようだ。隣の部屋は、何日も続けて静まり返っていた。もうこの学校にはいないのかとすら思い掛けたほどだった。
 他の人間がいる気配はない。だがこれから窓が開いて、そこから誰かが入って来ないとも限らない。
(誰かが入ってきたら……、そしたらきっと……)
 良からぬ空想を浮かべながら、頭の中でジョルノ・ジョバァーナの相手を自身に置き換える。そんな日々は、しばし続いた。


2018,12,28


「マリオ・ロッシ」という名前はイタリア版名無しの権兵衛(もしくは山田太郎的なもの)なので、彼の名前はマリオではないはずです(ってか考えてないので別にマリオでもいいや)。
モブ視点を書いてみたかったのですが、これたぶん一人称小説の方が向いてるやつ。
でも一人称書くのあんまり得意じゃあないんですよね……。
書きたいと思ったものがなんでも書けるだけの実力がほしいぃぃー。
<利鳴>

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