ギアメロ 全年齢


  guide lover


 その人物は、足音を立てることなく近付いてきた。おそらくそれは、ただの――彼等にとっては特別なことでもなんでもない――暗殺者としてのクセだったのだろう。任務の最中でもないその人物に気配を殺すつもり等はなく、もちろん、ソファで眠っている人間に配慮するつもりなんかも微塵もないに違いない。
 それでも空気のわずかな動きを感じて、ギアッチョの意識は浅い眠りの中から浮上した。彼もまた暗殺者だ。意識を向けずとも、その程度のことは察知出来る。同時に、その人物が誰であるかにも気付いている。これは暗殺者云々というよりも、その人物と同じ空間で過ごすことが――本人が自覚している以上に、そして、本人が認めたがらずとも――多いことによる、つまりは慣れだ。
(くそっ……)
 ギアッチョは心の中で舌を鳴らした。もしも「目を閉じたままでもお前だと分かった」なんて聞かせたら、鬱陶しい反応がある可能性はあまりにも高い。「ギアッチョったら、オレのこと好き過ぎない?」。そんなセリフを想像するのは、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すのよりも簡単なことだった。
 幸い、ギアッチョはまだ目を開けていないし、身動ぎすらしていない。声を掛けられたわけでもない。ならば、このまま寝たふりを続けてしまおう。相手は、反応を示さずにいれば「つまらない」と言ってさっさと離れて行くことが多い――それ故に、いつも適当にあしらってくるような相手には不服そうな顔を見せるが、それもまた軽く流されてしまっているようだ――。起きる様子がないと分かれば、きっとどこかへ行ってしまう。髪を摘んだり頬を抓ったり程度のことはしてくるかも知れないが……そこは我慢だ。
「……ギアッチョ? 寝てるのか?」
 メローネの控えめな声が言った。完全に予想通りの人物の声に、ギアッチョは溜め息を吐きたい気持ちをなんとか呑み込んだ。
「おーい、ギアッチョー?」
 呼び掛ける声が先程よりも近い。おそらくはこちらの顔を覗き込んでいるのだろう。うつ伏せで寝てりゃあ良かったなと思った次の瞬間には、膝を折って屈み込む気配。そこまでしなくても見えるだろうに。
(ド近眼かテメーはッ!)
 そう突っ込みを入れたいのを我慢する。
 しばしの沈黙。おそらくメローネは「つまらない」とでも思っている頃だろう。だが、彼が離れて行く気配はない。いや、むしろそれどころか……。
 パリン――あるいはバキ――と、ガラスが割れるような音がした。その直後に聞こえたメローネの「あ」という声は、予想以上の至近距離から――閉じた目蓋のすぐ向こうから――聞こえた。いやいや、そんなことよりも……。
 一瞬で頭の中に浮かんだのは、円形のガラス板のような物が真っ二つに割れるイメージだった。何故そんな物を思い浮かべたのか……。どこかでそんなような物を見ただろうか? 見た。毎日見ていると言っても過言ではない。より正確に言えば、ギアッチョは“それ”越しでほとんどの物を見る。
「おい、テメ……ッ!!」
 飛び起きると、目の前にあったメローネの顔と見事に衝突した。それは頭突きというよりも顔突きと呼ぶ方が正確かも知れなかった。先程の“何か”が割れるような音よりも、衝突音の方が数倍派手に響いた。
「痛ッ……!!」
 2人はそろって悶絶した。
「いっ……たぁー。あー、変な色の星見えた……。いきなり起き上がるなよぉ」
 メローネは鼻の辺りを摩りながら恨めしそうな目を向けてきた。
「うるせぇ!! テメー何してやがるッ!!」
「いや、ちょっと寝込みを襲おうかと……」
「素直に答えてんじゃねぇッ!!」
 いや、今はそんなことよりも……。
 ギアッチョは素早く視線を床へと向けた。そこには想像通りの物、即ち、割れた眼鏡が落ちていた。破損はレンズのみに留まらず、ブリッジの付け根も折れているようだ。
「てめぇ……」
 ギアッチョはメローネの胸倉を掴んだ。そこにギアッチョの眼鏡があることに気付かずに膝をついて体重を掛け、破壊した調本人の顔は、視力を矯正するための道具を失った今、インクが滲んたように不鮮明にしか見えなかった。そうでなくても、メローネが良からぬことを閃いたような顔をしたことは、一瞬過ぎて見破っている時間はなかっただろうが。
 メローネはキスをしてきた。激突の痛みに紛れて反応出来なかったが、先程も同じ感触がそこにあったような気がしないでもない。
「何しやがるッ!!」
 先程とほぼ同じ質問をしながら、しかしギアッチョに返答を待つつもり等さらさらなく、握った拳をメローネの顔面目掛けて力一杯振り切った。メローネは声にならない悲鳴を上げながら倒れ込み、そのまま床の上でじたばたともがいた。
「ドメスティックバイオレンスゥゥッ!!」
「ふざけろ!!」
「だって近かったからぁ」
 ギアッチョはメローネを蹴り付けてから破壊された眼鏡を拾い上げた。それは、素人目にも修復が不可能であることが分かるほど無残な状態になっていた。これでは使い物にならない。
「クソっ……」
「弁解しておくけど、それは完っ全に事故だからな。ってゆーか、床に置いてたギアッチョが悪いと思うんだけど」
 文句を言うメローネを睨み付けながら、ギアッチョは眠る前の記憶を呼び起こした。
 彼が任務を終えてアジトへと帰還したのは明け方になってからだった。本当ならきちんと自分の部屋へ帰り、ベッドに入って睡眠を取りたいところだったが、報告は早めに済ませてしまった方が良い。そう思って、リーダーであるリゾット――彼もまた任務に出ているらしい――が来るのを待つ間、このソファで仮眠を取ることにした。その際に、いつも掛けている眼鏡を外して、ローテーブルの上へと置いた。間違っても床になんて置くはずがない。
「置いてねーよ! 落ちたんだよ!」
 眼鏡が自らの意思でテーブルから身を投げるはずがないから、寝返りを打った拍子にでもぶつかって落ちたのかも知れない。
「じゃあ落ちるようなところに置いておくなよ」
 溜め息を吐くメローネの顔は、少し離れただけでもう鮮明には見えない。これが地味にイライラする。目を細めれば多少はピントが合わないでもないが、四六時中そうしていては顔中の筋肉が疲弊してしまうことだろう。無理に見ようとするのにも、見えないままでいるのにもストレスがたまる。
「どーしてくれんだよッ!?」
「ええええ、オレの所為ぃー?」
「ギアッチョ」
「ああ!?」
 不意の低い声に、ギアッチョは振り向いた。ぼやけてほとんど見えないが、そこ――ギアッチョが使用していたのとは別のソファの上――にいるのはどうやらリゾットであると、声から分かる。どうやら彼は、先程のギアッチョと同じように――ただし長身の所為で足がソファからはみ出ているようではあるが――仮眠を取っていたようだ。
「もう少し静かにしてくれないか」
 ピンボケリーダーは抑揚のない眠そうな声でそう言った。
「うるせぇ! つーかアンタはなんでそこで寝てんだよ!? オレはテメーが来んの待ってたんだぞ! いつからそこにいる!? 来てんならさっさと報告させやがれ!!」
「お前寝てたじゃあないか」
「起こせッ!!」
「あー、リゾットもいたの。気付かなかった。ギアッチョったらオレがいない間に他の男と寝てるなんてひどい。浮気だ。めそめそ」
「るせェ!! 同じ部屋の8人掛けテーブル挟んだあっちとこっちで、なんでそーゆーことになるんだよッ!?」
「突っ込むとこそこかぁ」
「『オレがいない間に』って、いる時ならいいのか?」
「お? リーダー興味あるぅ? さーんーにーんーでぇー? オレは構わないけどぉ?」
 メローネがにやにやと笑うも、端から本気と取っていないのか、リゾットはやれやれと溜め息を吐いた。まだ眠たそうな顔をしているが、二度寝に突入する様子がなさそうなのは、寝込みを襲われることを警戒してのことだろうか――おそらく誰もいなくなってから改めて横になるつもりなのだろう――。
「まあ、冗談は置いといて、だ」
 唐突にそう言うと、メローネは今度はにっこりと微笑んだ――眼鏡をしていないのに、何故かその表情ははっきりと分かった――。
「喧嘩するにしても、イチャ付くにしても、まず眼鏡を新調しよう」
 イチャ付くってなんだと突っ込みたいが、それでは話が進まないので我慢した。ギアッチョが舌打ちをすると、メローネはますます笑顔になった。
「見えないままだと困るだろ?」
 確かに、このままでは次の仕事どころか、日常生活にも支障を来す。だと言うのに、メローネがなんだか嬉しそうな――あるいは楽しそうな――顔をしているのはどうしてだ。
「もう店開いてる時間だぜ。良かったな」
 そう言ってメローネは、右手を差し出した。握手を求める時のように。
「見えないんだろ?」
 メローネが首を傾げると、長い髪がさらりと揺れた。
「手繋いでってやるよ」
 それがその表情の答えか。
 ギアッチョは思い切り眉間にしわを寄せた。が、確かにこの状態のままひとりで外を歩くのは心許ない。
「転ぶなよ」
「だからオレが手繋いで行くんじゃん。あっ、恋人繋ぎするぅ!?」
「壊れた物を直せるスタンド使いでもいれば良かったな」
「お、それ便利そう。リーダー、探してスカウトしてきてくれよ」
「この間ペッシが入ってきたばかりだろ。これ以上人数が増えるのは賛成出来ない」
「ちぇー。可愛がってやるのになあぁぁ」
「ますます賛成出来ない」
 リゾットとそんな会話をしている間も、メローネの手はギアッチョへと差し出されたままだ。
 逡巡の時間は、それほど長くは続かなかった。
「ああっ、くそっ!」
 辛うじてピントを合わせられる距離にあるその手を、ギアッチョは乱暴に取った。それを見届けたリゾットは、ひらひらと手を振りながら――表情が鮮明に見えない所為もあって、「行ってらっしゃい」と言っているようにも、「さっさと行け」と追い払っているようにも見える――ソファに横になった――やはり人が……というかメローネがいなくなるのを待っていたようだ――。
「じゃ、出発! あ、他の連中に聞かれたら、オレ達はデートに行ったって言っておいてね〜」
「ざけんな!」
「早く行け」
「新しい眼鏡、どんなのにする? 前と同じ感じの? 真っ赤なフレームとか、案外似合うと思うんだけどどう?」
「安いの一択」
「うっわ、つまんねぇ!」
 ギアッチョの手を引いたまま、メローネは意気揚々と――だがやはり習慣で足音は立てずに――歩き出した。
 アジトの出口へと向かいながら、ギアッチョは舌を鳴らした。いい年をした男が2人、手を繋いで歩いているのを見て、すれ違う人々がどんな顔をするか……。眼鏡がないことによって、おそらく冷ややかな物であるに違いない視線の数々を見なくて済む――見えない――のは、唯一の幸いであるかも知れない。いっそのことサングラスでもして、さらに盲人用の杖でも持てば、「あれは介護だ」と認識してもらえるかも知れないが、もちろんそんな物は所有していない。新たに買いに行く暇と金があるなら、さっさと眼鏡を買いに行く方が良いだろう。店につくまでの辛抱だ。そのくらいの間なら、きっとなんとか耐えられる……はず。
「あっ! 数字のやつは!? 2001ってなってて、ゼロのところから見るやつ!」
「さっさと歩けェ!!」
 やっぱり無理かも知れない。


2021,06,16


盲導犬って英語ではguide dogっていうんですね。
ミスタと戦ってる時に眼鏡壊れたけど見えてたじゃんとかは言ってはいけません。
あれはきっとあれよ。スタンドで氷のレンズ作って見えるようにしてたとかなんかそういう……(苦しい)。
<利鳴>

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