ブチャラティ&ナランチャ 全年齢


  オレンジ


 包帯で覆われていない方の眼をちらりと向けると、その男は何かの資料らしき紙の束――覗き込もうとしたら、さり気無く足を組み変える動きで見えない角度にされてしまった――に視線を落としたまま、黙ってベッド脇に置かれた椅子に座っていた。もう随分と長いことそのままでいる気がする。何故この男は、何も言わないのだろう。何も言わないのにこの場に居続けるのはどうしてなのだろう。疑問を口にすることが出来ないまま、少年は自分の拳を見るように眼を伏せた。
 少年には、その男に聞きたいことが山のようにあった。何故助けてくれたのか。何故何も質問してこないのか。あんたは何者なんだ。カタギの人間ではいんだろう? しかし、男はその質問を、投げかけることすら許してはいなかった。「何も聞くな」と、言葉にして言われたわけではない。だが、その男を取り巻く空気が、様々なものを拒否しているように思えて仕方がなかった。男が自分に対して何も聞いてこない――「あんな場所で何をしていた」「家はどこだ」「親はどうした」「その眼は?」――のは、深く関わるつもりがないということの意思表示なのか、それとも単純に、『お互い様』なのか……。
 沈黙が苦しい。こんな気まずさが続くくらいなら、もう――また――1人にしておいて欲しい……。少年は、眼の奥がチリチリと痛むのを感じた。
「もうこんな時間か」
 男がぽつりと呟いた。人の声を聞くのは酷く久しぶりであるように感じた――実際には眼の治療を担当した医者と病状についての簡単な会話をしてから精々1時間も経っていないが――。反射的に顔を上げると、男は窓の方を見ていた。つられて少年もそちらを向く。外はすでに薄暗くなりかけており、ガラスは鏡のように室内の光景を反射させていた。そのガラス越しに男と眼が合い、少年は慌てて視線を逸らせた。
「検査の結果を聞いて行くつもりだったが……」
 男の視線が自分――の左眼――へ向くのを感じた。少年は、その部分を両手で覆ってしまいたくなった。拳にぎゅっと力を入れて、なんとかそれを抑える。
「急患が入って後廻しにされているようだな。まあ、後廻しに出来る余裕があるということは、大事に至る程ではなかったということか」
 男は「ふむ」と頷くと、「物は言いようだな」と納得したように言った。母と同じ死に至る病だと思い疑わなかった少年には、信じ難い言葉だった。
「すまないが、仕事を残してきているんだ」
 男はそう言うと、椅子から立ち上がった。
 結局何も聞かせてはくれなかったし、聞いてもくれなかった。男の名前すら知らないままだ。このまま、彼と自分の接点は途切れてしまうのだろうか。いや、最初から『接して』などいなかったのかも知れない。
 少年は、俯いたまま小さく溜め息を吐いた。肺に招き入れた空気は、消毒液臭かった。
 次に男が言った言葉を、少年は幻聴かと疑った。眼だけではなく、耳までおかしくなかったのかと……。
「また明日来る」
 彼が顔を上げるのとほぼ同時に、額に何か硬い物が触れていた。少し冷たい。それが何なのか認識するよりも先に、男に促されて両手で受け取ると、そこにあったのはオレンジジュースの缶だった。
「え? 今……、ど、どこから……?」
 こんなもの、さっきまで持っていなかったはずだ。そう思って改めて男の姿を見ると、今度は彼がずっと読んでいたはずの資料の束がなくなっていた。完全に手ぶらだ。そして男が座っていた椅子の上にも、床にも、それが置かれていたり落ちているといったことはなかった。少年がきょろきょろと目まぐるしく視線を動かしていると、男は不思議そうな表情をした。
「どうした。オレンジジュースは嫌いか?」
「え、いや、そうじゃあなくって……」
 男からの初めての質問にまともな返事をすることもせず、少年は「あんた手品師?」と尋ねていた。男は一瞬きょとんとした顔を見せた。かと思うと、真っ直ぐに切り揃えられた黒髪で表情を隠すようにさっと横を向いた。「くっ」と声を押し殺すような音がした。笑ったらしい。
 再び少年の方を向いた時にはもう、その顔に笑みは残っていなかった。だが、先程までと比べると、いくらかは穏やかな表情になっている。さっきは直視――どころか、ガラスの反射越しにさえも見ることが――出来なかったはずの男の眼を、少年は食い入るように見詰めていた。一度は恐ろしく思えたそれが、今は不思議と優しいものに見えた。
「入院の手続きは済ませてある。今日はゆっくり休むといい」
 男は最後に「じゃあな」と言って少年の頭に触れた。その手を離すと、革靴をコツコツと鳴らしながら去って行ってしまった。
 何だったのだろう。何が起こったのだろうか。少年はただぽかんと、男が出て行ったドアを見詰めていた。
 渡されたジュースの缶は、少年の体温がすっかり移ってしまうまで、ずっとその手に握られていた。その重みを感じながら、彼は男の言葉――「また明日来る」――を、信じてみようと思った。友人に裏切られて以来、もう何も信じることはないだろうと感じていた少年は、今、病室のベッドの中で、新たな1歩を踏み出していた。


2014,04,12


ナランチャの好きな物がオレンジジュースなのが可愛いです。
それが、どん底にいる時に(後の)大切な人がくれた物だったから。って理由だったら……という妄想です。
フーナラで……とも考えたのですが、原作で病院のシーンでいたのはブチャラティだったよなと思ってこうなりました。
カップリングとまではいかない。……と書いた本人は思っています。
しっかしジッパーで人体の中に入っていた飲食物は、ちょっと嫌だなぁ(笑)。
<利鳴>

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