フーナラ アバブチャ要素極わずか 全年齢 アニメ設定少々


  Re:REform


「でも、言うほど大変ってこともなかったよな? オレ達にかかれば、楽勝って感じ?」
 危険を伴うような任務も、全て無事に終えて帰りの車に乗り込んでしまえば、後は呑気なドライブと大差ない。間もなく姿を完全に消すであろう夕陽を追い掛けるように走るその車の中の声を聞く者があったら、彼――それとも彼女――は、迷うことなく「賑やか」と表現しているだろう。
 といっても実際のところは、声を出して騒いでいるのはほとんど1人だけで、後の3人は静かなものだ。久々に大暴れ出来るような派手な任務を与えられた興奮と、これまた少々久し振りとなる4人全員での遠出が楽しいことのように思えたのとが重なって、すっかりテンションが上がったナランチャ・ギルガは、先程から声を出さずにいる時間が1分も続いていない状態である。「逃げていく敵の情けない顔を見た?」と尋ねる口調は弾んでいて、まるで小さな子供のもののようだ。
 それに対して、レオーネ・アバッキオは「うるせーな」と――おそらくわざと聞こえるように――独り言を呟いた切り、ほぼ無言だし、運転席のブローノ・ブチャラティは、時折り相槌や笑い声を返す以外は特に口を挟むこともなく、専ら聞き役に徹している。それからもう1人の仲間、パンナコッタ・フーゴは……、
「……あれ? フーゴ?」
 ふと、助手席にいるはずのフーゴの声を、車に乗り込んで以降、ほとんど聞いていない――個性的な形にセットされた髪が座席の後ろから見えていなかったら、おいてきてしまったのではと思っていたかも知れない――ことに気付いて、ナランチャは身を乗り出した。覗き込んだ先でその男は、車内は煩い――そうしているのは他ならぬナランチャ自身だが――というのに、なんと両の目を瞑って寝息を立てていた。
 ナランチャが手を伸ばしながら声をかけようとすると、ブチャラティがそれを制した。
「寝かせておいていい」
 彼は穏やかな表情でゆるゆると首を横へ振りながら言った。
「どうせ到着まではまだしばらくかかる。そっとしておいてやれ。疲れているんだろう」
 確かに、ここ数日は特に忙しそうにしているフーゴの姿をよく見かけていた――それが今日のこの任務に関わるようなことでなのか、別件絡みなのかまでは分からないが――。ブチャラティが帰りの運転は自分がすると強く主張しているように見えたのは、最初からフーゴを――優しいリーダーのことだから、ひょっとしたらもう2人のことも――休ませるつもりがあったからなのかも知れない。
「キャパシティオーバーだな」
 運転席の後ろのアバッキオ――彼こそあまりにも静かだから寝ているのかと思ったのに――も言う。
「真っ当な職場なら、ガキを働かせ過ぎだと苦情がくるぜ」
「真っ当な職場なら、そもそも子供を働かせたりはしないさ」
 すかさずそう返したブチャラティの微笑みは、ルームミラーの中でわずかに寂しそうに見えた。
 そういえば、フーゴはこの4人の中では最年少だった。確か、まだ15歳かそのくらいにしかなっていなかったのではないか――自分とは2歳違いだったはずだとナランチャは記憶している――。最年長者と比べてみるまでもなく――アバッキオの方を見ていたら、「こっち見んな」と言うように睨まれた――、まだ充分子供であると言える年齢だ。再び目を向けた気を張っていない寝顔は、ことさら幼く見える気がする。そして、ブチャラティが言ったように、そこには疲労の色が見て取れた。
 ナランチャは不意に、手を伸ばしてその頬をそっと撫でてやりたいと思った。
(こんな移動中の車の中なんかじゃあなくて、もっとちゃんと休ませてやれないのかな……)
 休みが全くないわけでは――流石に――ないだろうが、充分であるとも言い難い状態なのかも知れない。自分がフーゴの仕事を代わってやることが出来れば良いのにと、ナランチャは思った。だが、残念ながらそれは不可能だ。フーゴとナランチャとでは、必要とされている能力がまるで違うのだ。ブチャラティやアバッキオならともかく、自分には頭を使うような仕事は無理だと彼は理解している――無茶を言っても、却ってフーゴや他の仲間達を困らせることになると、そのくらいは分かる――。
 「なんとかしてやれない?」、そう言おうとして口を開きかけると、
「駄目だな」
 心を読んで先廻りしたようなタイミングでのブチャラティの発言に、心臓が萎縮したような感覚に襲われる。しかしその後に続いた言葉に、ナランチャはほっと息を吐いた。
「ついフーゴに任せがちになってばかりで。頼り過ぎていたな」
 「何か考えてやらないとな」と呟くように言うブチャラティの目は、やはり優しかった。
 きっと、頼られることは嬉しい。自分の存在を認められているようで、「ここにいていいんだ」と言ってもらえているようで……。それが信頼を向ける相手からとなれば、なおさらである。あくまでもナランチャならそう感じるという話ではあるが、きっとフーゴだってそうだろう。それは、日頃の彼の様子を見ていれば分かる。「よくやったな」と褒められれば「このくらい別に……」と言いながらもわずかに照れたような表情を見せ、「フーゴすごいじゃん」と賞賛されれば「まあね」とばかりに胸を張ってみせる。そんな姿は、特別珍しいものではない。
(でも、やり過ぎは良くない)
 フーゴはしっかりしているから、つい子供だということを忘れそうになる。忘れたまま、色々な仕事を任せてしまいがちなのだ。
「オレ達の中では、なんだかんだで古株だしな」
「根が真面目だし」
「頭もいい」
「子供らしくないな」
 忘れても、無理はないのかも知れない。むしろ本人もそうあろうとしているかのように思える。子供だからといって誰かの助力を乞うたりしない、大人でありたいというような、そんな態度。
「でも、背伸びしたって子供は子供だ」
「お前が言うか」
「ねえブチャラティ、なんとかなんない?」
「無視か。いい度胸してやがる」
「ナランチャ、ちゃんと座ってろ。危ないから」
「うん。……ん? アバッキオ、なんか言った?」
「別に」
 運転席と助手席の間に顔を突っ込むように身を乗り出していたナランチャは、ブチャラティに言われた通りに、シートに座り直した。その姿勢でいると、フーゴの様子を伺うことは出来ない。手を伸ばしても届かない。何かしてやりたいと思うのに、何が彼のためになるのかが分からない。「所詮はお前も力のない子供でしかないのだ」と――誰かに――言われているような気がして面白くない。
「ナランチャ」
 運転席からの声に、ナランチャは顔を上げた。
「なに?」
 返した声は、自分の耳にも不機嫌そうに届いたが、幸い、ブチャラティが特別気にすることはなかったようだ――ブチャラティからとは別の睨むような視線が横から向けられたような気はしたが――。
「明日のお前の予定は?」
「えっと、たぶん留守番?」
 休みでないことは覚えているが、これといった予定も入れられていなかった気がする。そのような場合は、急な任務が入った時のために、アジトで待機――留守番――しているのが基本だ。いつもなら、そんな空きの時間を利用してフーゴに勉強を見てもらっていることが多いのだが、明日はフーゴのスケジュールが空いていたとしても、それはやめにしておいた方がいいのかも知れない――だがフーゴがそれを“サボり”だと判断して許可してくれない可能性が大いにありそうなのが困りどころだ――。
「特別な依頼は、何もなかったはずだな?」
 ブチャラティは今度はアバッキオに向かって尋ねたようだ。だが、アバッキオもナランチャと同じように、「たぶん」と曖昧な返事しか出来なかった。そういったことを一番しっかりと把握しているであろう者が眠ってしまっているために、誰も――リーダーでさえも――自信を持って答えることが出来ない。やはりこの状況は、なんらかの改善が必要なようだ――フーゴの負荷云々を別としても――。
「いつもの集金と見廻りだけだったと思うぜ」
「よし、それじゃあそういうことにしよう」
「あんたがそう言うならそれでいい。従うまでだ」
 案外適当な大人達だ。その『適当』さの所為でフーゴの仕事が増えたりしていないと良いのだが……。
「ナランチャ、お前の明日の予定は変更だ。お前に、特別任務を与える」
 その重大そうな言葉の響きとは裏腹に、ブチャラティはなんだか楽しげな笑みを浮かべている。
 ナランチャは再び身を乗り出した。
「特別?」
 ついさっき、「特別な依頼はない――ことにする――」と言ったばかりだが……。
「フーゴは、明日一日休ませることにする」
 首を傾げるナランチャに、ブチャラティはきっぱりと告げた。
「明日一日、フーゴに仕事をさせないこと。それがお前の任務だ」
 その言葉の意味が自分の体内に浸透するのを待つように、ナランチャは瞬きを繰り返した。
「出来るか?」
 ブチャラティはミラー越しに微笑んだ。
「うん!」
 隣の座席からやれやれというような溜め息が聞こえた。
「甘い」
 アバッキオはブラックでオーダーしたはずのコーヒーに大量の砂糖が入っていたかのように眉間にしわを寄せている。
「そうさ」
 そう答えたブチャラティは、涼しげな顔をしている。
「オレは甘いんだ」
 砂糖が入ったコーヒーだって美味いじゃあないかと言うような口調。
「厳しくしないといけないと思っていても、腹を減らしていれば飯を食わせてやりたくなるし、雨に打たれていれば屋根の下に入れてやりたくなる」
 なんの話だろう。猫でも拾ったことがあるのだろうか。
 「それに」とブチャラティは続ける。
「それに、そこに頭があれば、撫でてやりたくなるんだ」
 ハンドルから片手を離した彼は、そのままフーゴの頭をよしよしと撫でた。
 「あ」と小さく上がった声は、2人分。なんの「あ」なのかは、ナランチャ自身にもよく分からなかった。同じく声を上げたアバッキオの表情は、心なしか険しくなっているように見えた――日頃から穏やかだとは言い難い顔をしていることの方が多い男ではあるが――。
「どうかしたか?」
 ブチャラティが尋ねる。
「別に」
「なんでも」
 2人が揃って否定すると、ブチャラティはくすりと笑った。ナランチャが「よく分からない」と思ったことが、もしかしたら彼には分かっているのかも知れない――教えてくれるつもりはないようだが――。
「結局、甘やかしたい自分に一番甘いんだな」
 そう言って頷いた顔は、どこか満足そうだった。

「おはよう」
「……は?」
 目を覚ましたフーゴは、ベッドの上で体を丸めたような姿勢のまま、ぽかんとした顔を見せた。状況を呑み込めていないようで、彼は枕に頭を乗せたまま、「え?」と首を傾げる。
「お、は、よ、う」
 挨拶が返ってこなかったので、ナランチャは同じ言葉をもう一度繰り返した。
「……おはよう、ございます」
 フーゴは呆然としたような表情のまま起き上がって、ようやくそう返した。
「ここ……」
「フーゴの部屋」
「なんで……」
「ブチャラティから伝言!」
 フーゴの言葉を遮って、ナランチャは彼の顔をびしっと指差した。いつもの彼なら「人を指差すな」くらい言いそうだが、今ばかりはそんな余裕はないようだ。
「フーゴは今日は休み! 仕事はしちゃ駄目! 禁止!」
「なっ、なんですかそれ」
「働き過ぎだから。アバッキオも言ってた。えーっと……、キャ……、キャリーオーバー?」
「ちょっと待って。意味が分からない」
 フーゴは何かを探すように室内を見廻した。
「昨日ここまで帰ってきた記憶がないんですけど」
「うん」
 「ここまで」どころか、おそらく帰りの車に乗り込んだ直後までしか彼の記憶はないだろう。
「ぼくどうやってここに……」
 結局あの後、ネアポリスについてもフーゴは目を覚まさなかった。思いの外熟睡しているようで、少し声をかけた程度では全く反応がなかった。叩き起こすのも可哀想だからと、そのまま部屋へ運んでしまうことに話はまとまったのだった。
 「どうやって」と尋ねられれば……、
「アバッキオがこーやって……」
 ナランチャは脇に荷物を抱えるような仕草をした。
「運んできて、ベッドにぽーんと」
 放り投げた――「もっと大事に扱えよ」と、呆れと憤怒の2種類の口調での苦情が飛んだ――。それでも彼は目を覚まさなかったのだから、相当疲れていたのだろうことが改めて伺えた。
「……鍵」
「ブチャラティがジッパーで」
「昨日の夜から、ずっといるんですか?」
「うん」
 熟睡しているフーゴが早起きをしてさっさと“出勤”してしまうとは考え難かったが、万全を期すために、ナランチャもすぐに“任務”に就くことにしたのだ。
「あ、でも一回うちに寄ってもらって、着替えはしてきたけど。ブチャラティ達は帰ったぜ」
「えっと、その……、ずっと“ここ”に……?」
 「ここ」と、フーゴはベッドの傍――ナランチャの足下――を指差した。
「まさかぁ」
 ナランチャが否定すると、何故かフーゴはわずかに安堵したような顔を見せた――ような気がしないでもなかった――。まあ、流石に本当にずっと監視されているような状況は好まないだろう。
「リビングのソファで寝させてもらったぜ」
 アジトからそれほど離れていない場所にあるフーゴのアパートにナランチャが泊まったのは今回が初めてのことであるが、訪問と滞在だけなら何度かしたことがある――暇だからと遊びに押し掛けたり、荷物を運ぶのを手伝ったり、そのついでにお茶をいれてもらったり――。その時に一人暮らし向けのその部屋に、寝室の他に人が寝られそうな場所――ゲストルーム等――がないことは知っていたので、昨夜は悩みもせずにソファを借りた。少し窮屈だろうかと思ったが、意外とぐっすり眠ることが出来たのはラッキーだった。
「でも、ちゃんとフーゴより早く起きたぜ」
 ナランチャは「どうだ」と胸を張ってみせた。が、フーゴからはこれといったリアクションはなかった。まだ半分眠ってでもいるのか。
「目覚ましは鳴ってるの聞こえたから、止めておいたぜ」
「目覚まし……、聞いてない」
「めっちゃくちゃ熟睡してたもんな」
 1個や2個では済まない数の目覚まし時計が数分おきになかなかの音量で鳴る中で、寝返りすら打たずに眠り続けるフーゴを見て、改めてきちんと休ませないといけないなと、ナランチャは思ったのだった――もっとも、そんな数の目覚まし時計を普段から用意しているところを見るに、元々朝起きるのが苦手なタイプでもあるようだが――。
「それにしても全然起きないもんだから、ひょっとして死んでるんじゃあないかって心配になったぜぇー」
 ナランチャの冗談に、フーゴはくすりとも笑わない。やはりまだ目覚め切っていないようだ。
「後から鳴り出したやつも全部止めたから。……たぶんあれで全部だと思うけど、まだどっかに隠してたりする?」
「え、今何時……」
「大丈夫。まだぎりぎり朝って言える時間だから。まあ、別に夕方まで寝てたって、それはそれで大丈夫なんだけどさ」
 なにしろ今日は休日になったのだから。
 フーゴは今一度室内を見廻した。その視線の動きは先程よりも忙しない。今度こそ何かを探しているようだ。
「これ?」
 フーゴが「それ」と頷いたのは、携帯電話だった。昨日ベッドに放り投げられたフーゴのポケットから零れ落ち、拾い上げたブチャラティの手によって近くの机の上に置かれていた物だが、今はナランチャの手の中にある。
「携帯のアラームも止めたぜ」
「返してください」
「駄目」
「なんで」
「ブチャラティに電話する気だろ」
 ナランチャは腕を頭上に伸ばし、小さなその機械を奪い取られないようにと、高々と上げた。普段ならフーゴの方が――いくらか――背が高いので簡単に奪い返されてしまうだろうが、流石にベッドの上に起き上がっただけの今の彼の手は届かない。
「いきなり休みって、今日やるつもりだったことはどうするんだ、とか、代わりにやっておいてもらいたいことのお願い、とか、それってつまり仕事じゃん。仕事関係の電話じゃん。言っただろ。今日は仕事禁止!」
「せめて確認の連絡くらいさせてくださいっ」
「だぁーめ! ってか、これさっきアラーム鳴った時点でギリギリだったみたいで、その後すぐに充電切れたぜ。確認なんかしなくても、オレが言うことだけじゃあ信用出来ないの?」
「待って、本当に状況が分からない」
「そこは『そうじゃあない』って言えよ。傷付くなぁ、もう。フーゴまだちゃんと目ぇ覚めてないだろ」
「それは……あるかも」
「だろ? 顔洗ってくれば? それとも、いっそ風呂入るとか」
「……入る」
 昨日帰宅して――させられて――そのまま寝てしまったことを気にしたのか、フーゴは意外とあっさり頷いた――別におかしなニオイなんかはしないのに――。だが、ゆっくり休む、イコール、風呂。うん、悪くない気がする。
「じゃあオレは、その間に朝飯の準備する!」
「君が?」
 フーゴは驚いたような顔をした。
「オレ以外誰がいるんだよ。ブチャラティとアバッキオは昨日の内に帰ったんだってば。なんか食べれるもんある? それとも、フーゴが風呂入ってる間にひとっ走りして買ってくる?」
 一般的な店はとっくに開いている時間である。
「確か、パンくらいなら2人で食べられる量があったと思うけど……」
「2人? ああ、そっか。オレも食べるのか」
「当たり前でしょう」
 フーゴは呆れたような顔をしたが、やっと少しは目が覚めてきたようだ――ツッコミまでの間隔が短くなってきている――。
 そんなフーゴの背中をぐいぐいとバスルームへ追いやって、ナランチャはひらひらと手を振った。
「じゃ、ごゆっくりー」
 ドアの向こうに消えていった横顔は、何かを諦めたように溜め息を吐いていた。

「ふーうーごぉー」
 浴室のドアをノックしながら声をかけると、返ってきた声は何故かはっきりと狼狽えていた。
「な、なななんですかっ」
「そんなにビビらなくても」
 ナランチャは思わず笑った。
 食事の準備が出来たから早く出てこい。と呼びにきたわけではない。ナランチャがフーゴを「ごゆっくり」と見送ってから、経った時間はせいぜい5分。「ごゆっくり」するつもりがなかったとしても、流石にまだ早いだろう。食事の準備は、むしろこれから始まるところだ――まだ食器や調理器具の在り処や数を確認し終えただけだ――と言える。
「別に覗いたりしないってぇ」
「だからなんなんですかっ」
「冷蔵庫の中の玉子使ってもいい?」
「そんなこと……」
 ドア越しであるにも拘わらず、はっきりとした溜め息が聞こえた。
「いいですよ。冷蔵庫の中にある物、全部好きにしていい」
「よっしゃぁ」
 本当のことを言うと、大した物は入っていなかったのをすでに見ているが。だが空っぽだというわけでもなかったところをみると、忙しいながらも自宅で食事を作って食べるくらいの時間は取れていたのだろうか――それともずっと前から放置されているのか――。
(フーゴが作った料理かぁ)
 少し興味がある――気がする――。
(でも、今はオレの番だぜ!)
 ナランチャは「よし」と頷いた。
「じゃ、今度こそごゆっくり!」
 見えないと分かっていつつも、彼は改めて手を振ってキッチンへと戻っていった。

「あのさあフーゴ!」
「ちょっ……今度はなに!?」
 先程の会話からもう5分もせずに、ナランチャは再び浴室のドアを叩いた。今度も大袈裟に驚いたような声が響く。
「だから覗かないって。コーヒーマシン使ってもいい?」
「好きにしろって言ったじゃあないですかっ」
「だってあれは冷蔵庫の中の物じゃあないから」
 コーヒーの粉は冷蔵庫の中にあったが、機械はもちろんそんなところに入っているはずがない。
「もうなんでもいいからっ。全部任せます!」
「はーい」
「早く出てって!」
「はいはい」
 全く、何をそんなに慌てているんだか。
(女の子かよ)
 ナランチャはくつくつと笑った。
「背中流してやろーかぁー?」
「怒るぞッ!」
 ちょっふざけてみただけだったのに、本当に怒られそうな――あるいはすでに怒っている――声が返ってきた。ナランチャはさっさと退散することにした。

「……いただきます」
「どーぞ」
 時計は見ていなかったので、フーゴがどれだけの時間風呂に入っていたのかは分からなかった。が、短くなかったことは確かだ。さっさと出ていけとナランチャを追い払ったくらいだから、もう出ようとしているのかと思いきや、そんなことは全くなかった。案外長く待った。
 しかしその甲斐あってか、フーゴの目はしっかりと覚めたようだ。そして正常に動き出した頭は、「まだ疑問は残っているが、せっかく用意してもらった料理を無駄にするわけにはいかない」という思考を優先させているようで、彼は勧めた椅子――もちろんフーゴの所有物であるが――に大人しく座り、テーブルの上の食事に手を付けた。
「……美味しい」
 最初の一口を咀嚼し、飲み込んだフーゴは、ぽつりと呟くようにそう言った
「料理って呼べるほどのことしてないけど」
 パンはトーストで焼いただけだし、玉子だって同じく焼いただけ――黄身を潰さない自信がなかったので、最初からスクランブルエッグ――だ。しかも思ったよりフーゴが出てくるのが遅かったために、一度冷めてしまった物を温め直している。これを「出来立て」と呼んだら、間違いなく異議が飛んでくるだろう。後は、トマトを切って、レタスはちぎって、冷蔵庫にあったドレッシングをかけただけのサラダと呼ぶのは少々躊躇う物が1品。カプチーノを入れたのは機械であって、ナランチャは粉等の必要な物をセットしてスイッチを入れただけだ。
「でもこの玉子、チーズが入ってる」
「ああ、うん、まあそのくらいは」
 たまたま賞味期限が近い物を冷蔵庫の中に発見したので。
「あ、もしかして嫌だった? チーズ嫌い?」
 ナランチャが尋ねると、フーゴはくすりと笑った。やっと笑った顔を見た気がした。
「まさか。嫌いな物を、自分の家の冷蔵庫に入れたりしません」
 それもそうか。
 とりあえず、口に合わなかったわけではないのなら良かった。そう思いながら、ナランチャはフーゴの正面の椅子に腰掛けた。
「店以外で他人が作った料理なんて、久々です」
「へぇ、そうなんだ。実家以来?」
「いえ、家庭的な母親ではなかったから……。大事なのは学歴や世間体って、そんな人でしたよ」
 フーゴはフォークを口に運びながら、なんでもないことのように言った。だが、その表情が俄に曇り出したのを、ナランチャは見逃さなかった。
「だから、手料理なんて……」
 フーゴの手がぴたりと止まる。こんな会話の途中でなければ、玉子に殻でも入っていたかと思ったかも知れない。
「……フーゴ?」
「大学に通っていた時に、教授の家に招かれて……」
 少しずつ声が小さくなっていくフーゴの顔は、蒼褪めていた。
 彼が何を考えているのかは、ナランチャには分からない。『大学に通っていた時』に何があったのかも。だが、その思考は、たぶん良くないところへと繋がろうとしている。そんな様子を見るために、ナランチャはここにいるわけではない。
「いいよ」
 彼はきっぱりと言った。
 黄昏時の空のような、朱と藍が混ざったような色の瞳が、2度、3度と瞬きを繰り返した。
「言わなくていい」
 フーゴはまだ“今”と“過去”、どちらに自分がいるのか、判断しかねているような顔をしている。
「言いたくないんだろ? だったら、言わなくていい。思い出す必要もない。今日は仕事だけじゃあなくて、嫌な昔の話も禁止にしよう」
 ナランチャは一方的に宣言すると、フォークを掴んで勢い良くトマトに突き刺した。
 今すべきこと、それは、
「食べよ」
 ナランチャはここ1ヶ月の間で我ながら“一番”の笑顔だったのではないかというような表情を見せた。そんな笑みを浮かべながらも、もしフーゴがまだごちゃごちゃと話を続けるつもりであれば、フォークに刺したトマトを口に突っ込んでやろう等と考えていた。それを見抜いたわけではないだろうが、フーゴはそれ以上の言葉を発することなく、溜め息を吐くように小さく笑った。

「で、どういうことなんですか」
 明らかに遅い朝食を食べ終えたフーゴは、やはり遅い説明を改めて求めてきた。
「まだ納得してなかったのかよぉ」
「いいから、説明してください」
 面倒だが、仕方ない。これも与えられた任務の内だと思うことにしよう。といっても、すでに伝えている以上の説明は、ほとんどないのだが。
「フーゴは働き過ぎで良くないから、今日一日休みにするって、ブチャラティが」
「なんですかその急な決定は」
「でも、急がないとまずいような仕事はないだろ?」
「それはそうですけど」
 ナランチャは当てずっぽうに言ってみただけだったが、どうやら当たっていたようで良かった。だがそれを聞かれてすぐに答えられるということは、フーゴが日頃から先の予定を把握して気にかけているということの証ではないだろうか。自宅にいる時でさえ、頭の片隅には仕事のことがあるというのか。そんなことで、ちゃんと休まる時間はあるのだろか。
「で、オレはフーゴを一日休ませろって命令を実行中!」
「ブチャラティは時々変なことを思い付くんだよなぁ……」
 フーゴは長い溜め息を吐いた。フーゴのためにブチャラティが考えて、ナランチャが動いてやっている――アバッキオもまあ、協力らしいことは特にしていないが、異論を挟んで妨害しようともしていなかった――というのに、『変なこと』とは失礼な。もう少しストレートに喜んでくれても良いのに。これだからなんでも難しく考えるやつは面倒臭い。
「なんでもいいじゃん。深く考え過ぎ」
 そんなんだから、きっと余計に疲れるのだ。
「せっかくの休みだぜ! なんかやりたいこととかないの?」
 ナランチャの質問に、フーゴはわずかに首を傾げてから答えた。
「じゃあ……、本屋にでも行こうかな」
 ナランチャは本を読む趣味を持ち合わせていないが、フーゴは難しい本でも好んで読んでいそうだ。正直、そんなところへ同行しても面白いと思える気はしないが、フーゴが楽しいならそれでいい。
 と、思ったのに。
「今度必要になる資料も探したいし……」
「あー!」
 ナランチャが上げた声に、フーゴは迷惑そうな顔をした。
「煩いなぁ。なんですか」
「今日は仕事のことは全部禁止だってば! 考えるのも駄目!」
「思考の自由すら奪う気ですか。じゃあ何を考えていればいいんです」
「普通に読みたい本とかないの?」
 フーゴが普段どんな本を読んでいるのかは知らないが。小説……とかだろうか。
「今は特にないです」
「えー」
「えーって言われても、まだ書店に並んでもいない本を買うなんて、出来るわけがないでしょう」
「うーん……」
 本屋にはあんなに本がたくさんあるというのに――まさかこの街の本屋にある本はすでに読み尽くした、なんて言いはしないだろうな……――。
「あとやること……掃除とか、洗濯とか? でも、そんなに溜め込んでいるわけではないし、人がいる時にやることじゃあないと思います」
「やりたいなら気にせずやればいいのに」
 自分がいることによって出来ないことがあるだなんて。もしかして、フーゴの休日を邪魔してしまっていることになるのだろうか。彼を休ませることがナランチャに与えられた任務だというのに。このままではいけない。
「むしろフーゴが休めるように、オレがやるってのは? 風呂掃除とか」
 これは名案だ。そう思ったのに、
「あー……、それはさっきやったので……」
「風呂掃除?」
「ええ」
 入るだけでなく、掃除までしていたのか。それで時間がかかっていたということか。たった今「人がいる時にやることじゃあない」と言ったのはなんだったんだ。部屋の掃除は駄目で、風呂はいいのか。基準が全く分からない。
「普段の休みは何してんの?」
「……なんだろう?」
 おいおい。
「どんだけマトモに休んでないんだよ。もしかして、休み中ずっと寝てるだけ?」
「そんなことはないと思うけど……」
 『思う』な点が非常に怪しい。
「そういう君は?」
 今度はフーゴの方から尋ねてきた。
「えーっと、音楽聞いたり、天気が悪くなければ外ぶらぶらしたり?」
 そうやって尋ねられると、特別何かしているという感じでもないのかも知れない。意識すると案外難しい。
「ひとりでいるのも暇だから、アジトに顔出してることもあるかな」
 そうすれば少なくとも「退屈だ」とこぼす相手が1人くらいは確保出来ることが多い。
「でも、今日のぼくはそれ禁止なんでしょう」
「うん」
 ナランチャであれば本当にその場にいるだけ――仕事場にはいても、仕事はしていない――になるが、きっとフーゴの場合はなんだかんだと言いながら仕事に手を付けてしまうに違いない。よって、NGだ。
 何日か休みが続くのなら、旅行でも勧めてみるのだが……。いや、遠出をさせて疲れさせるのは、“休み”に相応しくないか?
「いっそ二度寝するとか!」
 ある意味一番休日らしいと言えるかも知れない。が、
「もう眠たくありません」
「えーっと、じゃあ……、しりとりでもする?」
「しません」
「あとはやっぱり掃除とか洗濯とか……。あと買い物? あ、そういえば、昼どうする?」
「さっき朝食べたばっかりじゃあないですか」
 食べたばかりどころか、その痕跡がまだしっかりと目の前のテーブルの上に残っている状態だ――とりあえすこれを片付ける、というのは、ありかも知れない――。
「でも、もうすぐ昼になるぜ」
 朝が遅かった所為で、時計の短針はもうずいぶんと高い位置を示そうとしている。
「準備をするにしても、何か買いに行かないと、何もないかも知れません」
 それは先程冷蔵庫を開けたので知っている。
 どうせ外に出る必要があるのなら、
「どっか食べ行く?」
「しっかりした量はまだちょっと……。あ、じゃあ、お茶でもしに行くっていうのは?」
 食事ではなく、軽いティータイムか。それもいいかも知れない。
「じゃあ、どっかでお茶して、ぶらぶらして、晩飯の材料買ってこよう」
 やっとすることが思い付いたのは良かったが、食べることばかりを考えている――それしか考えていない――ようで少しおかしかった。
(でも仕事じゃあないんだからいいよな!)
「夕食と言えば、君、夜までいるつもりなんですか?」
 そう尋ねたフーゴは、それまでとは――どうとは説明出来ないが――わずかに表情が変わっていたように見えた。そんなにずっといられるのは……と、不快に思ったのだろうか。
「オレはそうなんだと思ってたけど……」
 命じられた任務は「今日一日」であるので。だが、フーゴがひとりで過ごしたい――それが彼の“休日”だ――と言うのであれば、無理に居座るわけにはいかないだろう。そもそも、追い返されなかったとしても、いつまでフーゴの――こっそり働いていないかの――監視をしていれば良いのか。そこを確認するのを、すっかり忘れていた。
(『今日一日』だから、0時まで? 真夜中に帰るのはちょっと面倒臭いなぁ……)
 フーゴの夕食の準備を手伝って、その後帰宅するのでは、『今日一日』にはならないだろうか。
「オレいつまでいたらいい?」
「ぼくに聞かないでくださいよ」
「後でブチャラティに電話して聞いてみようかな」
 「思い付きでおかしなことをするから」とフーゴが呆れた顔を見せる。それでも「もう帰れ」とは言われなかったのが、ナランチャには嬉しかった。
「とりあえず出掛けようぜ! ここ、ぱぱっと片付けちまうから!」
 勢い良く立ち上がると、空の食器がガチャンと音を立てた。それ等を積み上げてキッチンへ駆け込む背中に、「割らないでくださいよ!?」と声が飛んできた。

「さて、どこに行きます?」
 ドアの施錠を終えたフーゴに尋ねられ、ナランチャは改めて首を傾げた。一応行き先はお茶が出来る所と夕食の買い物が出来る所とは決まっているが、荷物が増える買い物は、最後にした方が良いだろう。
「お茶するなら、どっかのカフェとかだよな。朝食べたばっかりだから、ちょっと遠くまで歩いてみる?」
 幸い今日は天気も良い。のんびり散歩というのも、休日らしいように思える。フーゴもそう考えたのか、「いいですよ」と頷きを返してきた。
「どこがいいかなぁ。あ、仕事関係の誰かに会いそうな所は駄目だからなっ」
「その程度も? 厳しいですね。っていうか、それなら……」
 フーゴは、何かを言いかけて、やめた。
「なに?」
「いえ、……なんでもないです」
「えー、なにそれ」
 明らかに「なんでもない」風ではなかったではないか。だが無理矢理喋らせることも出来ない。「それより、どこに行くか決めましょう」と笑顔で言われれば、それ以上追求することは不可能となってしまった。ブチャラティやアバッキオだったら、フーゴが何を考えていたのか探ることが出来ただろうか。……いや、あの2人の能力――特技――は、嘘を見破ることと、過去の出来事を再現することだ。今のように発せられることのなかった言葉を暴くことは出来ない。そんな能力があったら、組織的には非常に便利かも知れない――なんらかの情報を引き出したい相手に自白させる手間が省ける――が、周りの人間からは、敬遠されてしまいそうだ。
「そうだナランチャ」
 ナランチャの思考を強制的に終了させるように、フーゴが言った。
「最近出来た、タルトの専門店にはもう行きましたか? 前に、行ってみたいようなことを言っていたけど」
「あ、広告は見たけど、まだ行ってない」
「だったら、そこにしませんか。ちょっと遠いけど、時間はあるんだし、大丈夫ですよね」
「うん」
 それは全く問題はない。
「じゃあ、決まり」
 そう告げると、フーゴはさっさと歩き出してしまった。その場に何かを置き去りにしようとするかのように。
 フーゴが何を言おうとしたのか、時折見せる見慣れぬ表情が何を意味しているのか、それ等は少々の引っ掛かりを残しはしたが、今自分がすべきことは、フーゴの休日を有意義なものにすることだ。そう考えることにして、ナランチャは慌てて彼の後を追った。

「うん、美味い!」
「さっきからそれしか言ってないじゃあないですか」
 思ったよりも少々余分に時間を要して――道を1本間違えた――到着した小洒落たカフェの席に着き、注文したケーキのセットが運ばれてくるや否や、「テレビでよく見る食リポの真似をしよう」と提案したのは、ナランチャの方だった。それなのに、彼は一口毎にほぼ同じ言葉を繰り返した。それを見たフーゴは、呆れたような顔をしつつも、楽しそうに笑っている。
「本物のリポーターだったらクビですね」
「だって本当に美味いんだもん」
「それじゃあリポーターはやれないって言ってるの」
「じゃあフーゴ、お手本見せて」
「いいですよ」
 フーゴはあっさりと応じると、鮮やかな色をした果物が乗ったタルトをナイフで切り分け、フォークに刺したそれを上品な仕草で口元へ運んだ。
「これは……、濃厚なチーズの味に、果物の甘さが負けてなくて、非常にバランスがいいですね。焼きたての食感もすごくいい」
「えぇー、なにそれぇ。そういう勉強もしたことあんのぉ?」
「そんなわけないでしょ。てきとーですよこんなの。誰だって出来る」
「そうかなぁ」
 少なくとも、アバッキオが同じセリフを口にしている姿は全く想像出来ないが――ブチャラティならぎりぎりなくはないかも知れない――。
「そうだ、勉強といえば、今日の分の問題集はどうするつもりなんです? 昨日はアジトに寄らないで帰ったから、デスクに置きっぱなしだ」
「うっ!? 嫌なこと思い出すなぁ……」
「勉強の話は、『仕事関係』でも、『嫌な昔の話』でもないですよ」
「それはそーだけどぉー……」
「ぼくは今日一日アジトへの立ち入りを禁じられてしまっているけど、君はそうじゃあないんだから、取りに行きますか? それとも、やっぱり本屋に行って、新しいのを買いますか?」
 「もちろん最終的には元からあるのも、新しいのも、両方最後まで解くんですよ」とフーゴは続けた。
「もぉー……。勉強の話も禁止にしようぜー、なぁー」
「勝手だなぁ」
 その後続いた会話は、後から思い出そうとしてもほとんど覚えていないくらい、言ってしまえばくだらない内容ばかりだった。『仕事のこと』と、『捨ててきた過去のこと』、そして急遽追加になった、『勉強のこと』の話題を避けると、「アパートでこっそり犬を飼っている住人がいて時々鳴き声が煩い」だとか、「お気に入りのお茶が値上がりしていた」だとか、そんなような話しか出来ない。それでも意外と時間は過ぎていったし、思った以上に「楽しい」と感じた。ナランチャはほとんどずっと笑っていたような自覚があるし、フーゴの笑顔を見た覚えもしっかりある。だからきっと、それで良いのだ。少なくとも悪い休日にはなっていないようだと信じよう。
(これなら、任務成功って言えるんじゃあないか?)
 皿とカップが空になってからも、2人はしばらく店に居座った。だが流石に店員の視線が刺々しくなってきたところで、会計を済ませて外に出ることにした。
「美味かったー!」
「最後までそればっかり」
「次はどうする?」
 すでに太陽は高みを目指すのをやめて降下を始めてはいるが、今日という日が終わるまでの時間はまだある。
「ぼくの休みを成功させるのが君の任務なんでしょう。君が考えてよ」
 フーゴは平然とそんなことを言い出した。最初は不意のことに戸惑っていたようだったのに、すっかり開き直ったようだ。
「うーんと、じゃあ買い物」
「夕食まではまだ時間があると思いますけど」
「夕食以外の買い物」
「何を買うんですか?」
「なんでもいいけど、服とか、靴とか? 実際に買わなくても、見るだけでも」
「ウインドウショッピングってやつですか」
「それそれ」
 本日2度目の散歩を兼ねて、また少し長く歩いていると、小さな雑貨屋らしき店があるのが目にとまった。何組かの若者が出入りしているのが見える。学校帰りの学生だろうか。年齢的には、2人が混ざってもおかしくないはずである。少し覗いてみると、店内からは心なしか甘い香りが漂ってきているように思えた。青春を謳歌する少年少女達がいかにも好みそうな空間だ。「ここでいいか」と口には出さずに、2人はどちらからともなく店内に足を踏み入れた。
 実用性等は一切考えずにとにかくカラフルに色付けされた文房具、どこに貼る想定なのか全く分からない謎の生き物の形のステッカー、洗うのが面倒臭そうな形状の食器類、メインであるはずの文字盤よりもその周りの装飾の方が主張が激しい腕時計……。そんな物が並んだ棚の間を、目的がないままぶらぶらと歩いた。“普通の若者”達は、こういう物を所有して、学校やなんかで披露し合うのだろうか。そんなことを考えていたナランチャの目が、腰よりも少し低い位置にある棚の上のあるものを捕らえた。
「あ、フーゴこういうの似合いそう」
 それは、指の先ほどのサイズの、イチゴの形をしたピアスだった。
「そう、ですか?」
「うん」
 大人振っているのに、ふとした瞬間に年齢相応の子供らしさが見えるところなんかは、そのアクセサリの可愛らしさに通じものがある。本人にはそんな自覚がないのか、「そうかなぁ?」とでも言うような顔で、小さな飾りをまじまじと見ている。
 いいことを思い付いた。
「買ってやろうか」
 フーゴは驚いたような顔を見せた。
「は? なんで?」
「んー? プレゼント?」
「誕生日でもクリスマスでもないのに?」
 それもそうか。
「じゃあ、フーゴもオレになんか買って」
「どうしてそうなるんです」
「交換ならいいいじゃん」
「仕方ないなぁ」
 少々困ったような顔をしつつも、案外あっさり折れてくれた。「それじゃあ」と、フーゴの視線が周囲を見廻す。
「これとかは?」
 フーゴが手に取ったのは、オレンジの形をしたブローチだった。
「あ、いいかも」
 金額的にもほとんど変わらず、どちらも果物のアクセサリで、お揃いみたいだ。
「じゃあ決まりですね」
 フーゴは穏やかな表情でそう言った。なんだかんだで、ナランチャが選んだそれと、自分の選択が、気に入ったのかも知れない。そんな様子を見ていると、ナランチャはなんだか嬉しい気持ちになってきた。その後に発した声は、自然と弾んでいた。
「なんかさぁ!」
「はい?」
「これってデートみたい!」
 そんなセリフを思い付いたのは、学生らしきカップル――通路の幅が半分しかないのではないかと思うほど、あるいは、相手の足に躓いて転倒するのではないかと思うほどくっついて歩いている男女――が同じ店内にいるのが視界の隅に何度も見えていたからだろうか。
「なっ……」
 フーゴが変な顔をした。
「あ、嫌だった? ごめん。っていうかただのじょーだんだから……」
 軽く流してくれて構わない。そう弁解しようとすると、
「冗談……なんですか?」
「……へ?」
 何故そこでがっかりしたような顔になる?
「フーゴ……?」
「……ごめんなさい。なんでもないです」
 フーゴはそれ以上の会話を拒むようにかぶりを振った。かと思うと、ぱっと明かりが灯ったような顔を見せた。
「会計、済ませてきましょう」
「う、うん」
 まただ。また、“引っ掛かり”を感じずにはいられない顔。そしてそれの追究を拒絶するような態度。
(なんか隠してる?)
 考えても、ナランチャには分からなかった。

「後は、夕食の買い物だけでしょうか」
 店を出ると、思いの外時間が経っていたようで、太陽は西へと傾きかけていた。意外と遠くまで歩いてきたことを考えると、そろそろ帰り始めるべきなのかも知れない――帰りにも曲がる道を間違える可能性がないとは言い切れない――。
「さっきの、着けないの?」
 ナランチャはフーゴの手の中にある小さな紙の袋を指差して言った。もちろん、その中身は購入したばかりのイチゴのピアス――会計を済ませるなりその場で交換した――だ。
「鏡がないと」
 フーゴは肩をすくめるような仕草をしてみせた。少々残念がっているように見えたその顔は、手元に鏡さえあればすぐにでも身に着けるのにと言っているようだ。自分が選んだプレゼントを気に入ってもらえたのだとしたら、シンプルに嬉しいとナランチャは思った。
「じゃあ、帰るまでお預けか」
「そうですね。……君は着けないの?」
 ピアスと違って、ブローチなら鏡がなくても着けられる。だがナランチャは、少し考えてから首を横へ振った。
「オレも帰ってからにする。せっかくだから、『せーの』で着けようぜ!」
「その『せーの』でぼくが着けるのは1つ目? 2つ目? ピアスは2つあるんですけど。君と同じタイミングで着け始めも着け終わりもなんて不可能だ。……あ、でも君は不器用だから、時間がかかって案外同じタイミングになるかも?」
「なんだとぉ!?」
「あと、『せっかくだから』の意味が分からない。それに、『帰ってから』って、これから向かおうとしてる先は、君の家じゃあないんですけど」
 呆れたように言いつつも、フーゴが笑っていたので、ナランチャも「ふふふ」と笑った。
「夕食、何にします?」
 どうやら、少なくとも夕食より前に帰れと言われることはないようだ。
「えーっと、じゃあスパゲッティ」
「ソースは?」
「トマト!」
 迷わずそう答えたのは、夕陽が赤かったから、きっとそこからの連想だ――頭上に広がっているのが夜空だったら、ネーロと答えていたかも知れない――。トマトは朝も食べたが、切っただけの生のトマトと、スパゲッティのソースは完全に別物である。そんなことを考えていると、ちょうどいい具合に腹も空いてきた気がしないでもない――材料を買っている間にちょうど空腹になりそうな感じだ――。
「ねえ」
 歩きながら、フーゴがこちらを振り向いた。逆光の所為で、その表情はあまり見えない。
「なに?」
「今日、仕事関係の人と会うのは駄目なんでしょう?」
「うん」
 誰か会いたい相手でもいるのかと聞こうとするも、それより先にフーゴが続けた。
「君は、“それ”には該当しないの?」
「あ……」
 そう言われてみれば。
 2人は紛れもなく仕事の先輩と後輩の関係である。“この世界”に身を置いていなかったら、年齢も性格もまるで違う2人は、街中ですれ違うことすらなかったかも知れない。仕事の関係者との接触を禁じるのであれば、ナランチャもまた、フーゴから離れていなければならないことになるのではないか。
(でもブチャラティはフーゴについてるようにって……)
 では、自分だけは例外なのか。そんな都合の良い話があるだろうか。
(それとも、朝フーゴに説明をするだけで、ずっと見てろって意味ではなかった? でもそれなら、オレの今日の予定はやっぱり留守番のままなはずで……)
 どこかで何かの認識が間違っていたのだろうか。それはなんだ。
「ええっと、それはつまり……」
 つまり……、なんだろう。
 フーゴは続ける。
「ブチャラティの命令でぼくを休ませていると言っていたから、君自身は休みではなかった。仕事だった。……そうですよね?」
 そうだ。ナランチャは『そういう任務』を受けてここにいる。言うなれば、仕事の真っ最中である。仕事中の仕事仲間と一緒にいて、果たしてフーゴは本当に仕事から離れていたと言えるのか……。フーゴは、
(オレの“仕事”につきあってるだけだった……?)
 もしかしたら、最初から“失敗”していたのでは……。
 ナランチャの困惑を余所に、フーゴはなおも口を開く。
「君は」
(待って。どうなってるのか、よく分かんない……。待ってくれよ。オレ、フーゴみたいに頭良くないんだからさぁ……!)
 頭は懸命に動き続けてヒートアップしそうなくらいだというのに、急に風の温度が下がったように感じた。
「ブチャラティの命令じゃあなかったら……」
 フーゴは深呼吸をするように言葉を区切ってから、ふいっと目を逸らした。
「命令がなければ、……ぼくと『デート』はしてくれなかった……?」
 わずかに横を向いた顔は、夕陽に照らされている以上に赤く染まっていた。
(え……っと……?)
「君は“仕事”だったかも知れないけど、ぼくは、その……、楽しかったです。“これ”も……」
 ピアスが入った小さな紙袋を持つ手に、ぎゅっと力が入ったように見えた。
「嬉しいです。ありがとうございます。大切にします」
(ああ、そっか……)
 ナランチャは気付いた。
(そうか、オレ……)
 昨夜、ブチャラティがフーゴの頭に触れた時に芽生えた感情。それはおそらく、嫉妬と呼ばれるものだった。自分もフーゴに触れたかった。そしてそう思う理由。それに、今気付いた。
(オレ、フーゴのことが好きなんだ)
 その事実に気付いていなかった。それが間違っていた認識の正体だ。驚きはしなかった。照れもない。何かがすとんと納まるべき場所に納まったような、そんな感覚。その後にじわじわと胸に広がっていったのは、心地良い高揚感だった。
(そうか、これが誰かを好きになるってことか!)
 じっとしていることが出来ないような気持ち。今すぐどこかへ走り出したいような、あるいは、大きな声で叫びたいような。
 フーゴはナランチャの仕事仲間である。フーゴが先輩で、ナランチャは後輩だ。だがナランチャには、彼へ向けるもっと別の感情があった。仕事だとか、任務だとか、そんなものよりももっと優先されるべき“関係”を望む“想い”。
 ナランチャはフーゴが逸らした視線の先へ廻り込んだ。
「あのさ!」
 フーゴはわずかに怯んだような顔をした。ナランチャはかまわず距離をさらに縮める。
「オレ、“仕事”は『今日一日』なんだけどさ」
 ナランチャは無意識の内にフーゴの袖を掴んでいた。
「『今日』が終わっても、すぐには帰らなくていい? フーゴの休み、オレも一緒に明日の朝まで続けてもいい?」
 フーゴはぽかんと口を開けたまま瞬きを繰り返している。その様子が少しおかしくて、ナランチャは笑いそうになった。
「……泊まっていくってこと?」
 そうか、そう言えばすぐに伝わったのか。
「その……、仕事で、じゃあなく?」
「うん。あと、今度休みが同じ日になることがあったら、またどっか行こう。また『デート』しよう。ピアスとブローチ着けてさぁ!」
 フーゴの頬に再び赤みが差す。
「だめ?」
「……駄目じゃあ、ないです」
 「駄目だなんて、言えるわけない」と小さな声が続けた。
 ナランチャはじっとしていられないだけでは済まず、飛び跳ねたい気持ちになった。それを抑えるように、彼はフーゴの腕にしがみ付いた。小さなアクセサリが入った紙袋が、がさりと音を立てた。
「じゃあ、明日の朝飯の材料も買って帰ろ!」
 今のは、ここ1ヶ月の間での“一番の笑顔”が更新された瞬間だったかも知れない。つられたように、フーゴが微笑んだ。
「じゃあ、明日の朝食は、ぼくが作りますね」
「やったぁ! 楽しみっ」
「あんまり期待されても困りますけど」
「別にいーよ、パン焼くだけだって」
「そう言われると逆にもう少し何かしないといけない気になってくる」
「そお? じゃあ、もっと言ったら、すっげー豪華な朝飯になるかもっ」
 「早く行こう」と、ナランチャはフーゴの腕を引いた。夕陽に照らされて長く伸びる2人の影がぴったりと寄り添っているのを見て、また嬉しくなった。
「あ、そういえば今日の昼間さ」
「はい?」
「もしかして、風呂場でなんかシてた?」
「ちょっ……」


2020,02,05


F「まだ使ってない下着があったので貸しますね」
N「紐……」
仕事中描写が多いフーゴに休みを上げよう大作戦、以前見事に失敗した(ちょっと早く帰っただけになった)ので、リベンジです。
今回は成功したと言っても良いのではないでしょうか!?
<利鳴>

【戻】


inserted by FC2 system