フーゴとブチャラティ フーナラ&アバブチャ要素極わずか 全年齢


  Rescued Dog


 不規則的な間隔で窓を叩く雨の音は、あっと言う間にその勢いを増し、途切れることのないノイズに似た音へと変化した。読み掛けの本をテーブルに置きながら「やっぱり間に合わなかったか」と心の中で呟くと、フーゴは顔を上げて窓の外へと目をやった。が、天気の良し悪しに拘わらず、陽はすでに落ち、外は暗くなっている時刻だ。透明な硝子はその先にある風景を見せる代わりに、フーゴ自身の姿を鏡のように反射して見せた。
 数時間前、「行ってくる」と言ってアジトのドアを開けたブチャラティを、フーゴは、「雨が降りそうですよ」と言って一度は引き留めた。テレビでは朝の内から雨の予報を伝え続けていたし、そうでなくても、どんよりと暗い空を見上げれば、遅かれ早かれそうなるであろうことは多くの人が予想出来ただろう。それでもブチャラティは、手が塞がるのを嫌がってか、「降り出す前に帰ってくる」とだけ言って出掛けていった。実際に降り出す時間が彼に予言出来るはずもなく、その言葉はただの希望でしかなかったことは明白だ。フーゴの耳には「その時はその時だ。大人しく降られるさ」と言っているようにすら聞こえた。
 そして現在、ついに雨は降り出したわけだが、ブチャラティは『やっぱり間に合わなかった』。運良く近くまで帰りついていたとしても、この降り方では全く濡れずにいるというのは不可能だろう。
 改めて外の様子を窺おうと、フーゴは窓へと近付いて通りを見下ろした。半透明な自分の姿越しに見える風景の中に、歩いている者の姿はひとつもなかった。町の人々は皆ブチャラティと違って雨の気配を事前に察知することに成功し、とっくに屋根のある場所への避難を完了させているのか、あるいは、教会にこもって祈りを捧げるのに忙しくて、外をふらふらと歩いている暇なんて最初からないのかも知れない。
 街灯に照らされた雨粒以外に動くものがないことを再度確かめてから、フーゴは窓の傍を離れた。栞を挟む代わりにテーブルに伏せていた本――ページに開いたままの形のクセが付くので本当はあまりやらない方が良いということは分かっている――を手に取って、先程まで座っていた椅子に改めて腰を降ろす。携帯電話に「傘を持ってきてほしい」等という面倒臭いメールが着ていないことを確認してから、読書を、もとい、“留守番”の任務を再開した。
 同じ室内どころか建物の外にも誰もいないその場所は、雨音が絶えず鳴っているという事実にも拘わらず、随分と静かに感じる。
(今日はこのまま何事もなく終わりかな)
 フーゴは心の中で独り言ちた。だがそれも、ブチャラティの天気予報と同じく根拠のない予言……、ただの希望でしかなかった。
 数分後、ドアが開く音がしたかと思うと、その直後に外で響く雨音がかすかに大きく聞こえるようになった。フーゴが顔を上げると、予想通り、そこにいたのはブチャラティであった。が、頭の天辺から爪先まで余すところなく雨に濡れた彼の姿には、フーゴが予想もしなかった点が存在していた。彼は昼間出掛けて行く時に着ていた白地にドットに似た黒い模様の上着を脱いで、それを裸になった胸の前で丸めるようにして抱えていた。早い話が半裸である。
「……なんて恰好してんですか」
 思わず呆れた声で言いながらも、フーゴはすでにテーブルに本を――またしてもページを開いたまま伏せて――置いて、乾いたタオルを取ってくるべく立ち上がっていた。フーゴが向かう先――タオルをしまってある棚――を察したのか、ブチャラティは苦笑いを浮かべながら「すまない」と言った。
「やっぱり傘を持って出るべきだったな」
 今更過ぎることを言いながらブチャラティが背後のドアを閉めると、雨の音が再び遠くなった。その所為で、フーゴの溜め息は本人が思ったよりも大きな音になって響いた。
「あんたにそんな趣味があったなんて知らなかったな。いつか通報されますよ」
「そうだな。誰とも会わなくて助かった」
「いや、そこはまず、否定してください」
 ブチャラティはくすくすと笑った。
 天気がもっと悪くなかったとしたら、まだ人の通りはいくらかは残っていたに違いない。そうなれば、彼は“助かって”いなかったかも知れない。いや、これはもう少し後になってから判明することだが、天気がこうでなければ、そもそも彼はそんな恰好で屋外を歩くなんてことはしていなかった。
 そんな会話をしている間にも、ブチャラティの半分だけ着たままの衣服の裾からも、半分だけ露わになった肌からも、黒い髪からも、それからついでに丸めた上着からも、水が滴り落ち、足元に小さな水たまりが生まれ大きく育っていこうとしている。フーゴが無意識の内に眉をひそめると、ブチャラティは再び――だがやはり少し笑ったまま――「すまない」と小さく言った。
「それで? なんだってそんな――」
 タオルを差し出しながら理解不可能な出で立ちをしている理由を問おうとすると、先行して答えを示すかのように、ブチャラティが胸の前で抱えている上着を丸めた物が、身じろいだ。フーゴが思わず足を止め、見間違いかと思っていると、そこからぴょこんと顔を出したのは、全身を――究極に汚れているのでなければ黒い色の――毛で覆われた四つ足の哺乳動物であった。もっと別の特徴を上げるのであれば、例えば、人間よりも遥かに優れた嗅覚と聴覚を有している生き物だ。
「……なんですか、それ」
「犬だ」
 そんなことは言われるまでもなく分かっている。それが猫でもキツネでもイノシシでもないことは一目瞭然だ。ついでに言うと、小型ではなく大型の、だが成犬ではなくまだ仔犬であることも見れば分かる。フーゴが質問したのはそんなことではない。が、彼にはその答えも、すでに察しが付いていた。
「……つまり、雨に濡れてるカワイソウな仔犬を見付けて、思わず拾ってきちまったってわけですか?」
 否定の言葉はなかった。フーゴはやれやれと溜め息を吐いた。吐かずにはいられなかった。
「似合い過ぎだろ」
「ん?」
「いえ、ナンデモ」
「傘がなかったから代わりに上着を被せてきた。……まあ、結果は見ての通りだが」
 正直、ブチャラティがわざわざ通行人に警察を呼ばれるかも知れない危険を犯してまでしようとしたことは、あまり意味がなかったようだ。彼の腕に抱かれた犬は、彼同様、乾いている部位を探すことの方が難しいであろうまでにずぶ濡れになっている。ブチャラティは手を伸ばしてフーゴが持ってきたタオルを受け取ると、迷った様子を一切見せず、それで犬の体を拭き始めた。自身は相変わらずずぶ濡れのままである。流石に同じタオルで自分の体や髪、ましてや顔を拭くことはしないだろう。先程よりも深い溜め息を吐いて、フーゴは再び棚を目指した。
「風邪引きますよ」
 相手がまだ二十歳にも満たないような若者であっても、上司は上司だ――さらに自分の方がもっと若い――。先にこちらの――体を気遣う――言葉を掛けるべきだっただろうか。犬を拭くのに使われているのと色違いのタオルを引っ張り出しながら、フーゴはそんなことを思った。が、先程のブチャラティのセリフ同様、今更だ。
「で、それ、飼う気ですか」
 2枚目のタオルは、3度目の「すまない」の言葉と共に、無事にブチャラティの頭の上に広げられた。が、それだけ。頭の上に、本当にただ乗っているだけだ。彼の両手はタオル越しに犬の体を擦る作業で忙しいらしい。さっさと拭かないと本当に風邪を引くぞと思ったが、流石に手を伸ばして拭いてやろうと言う気にはなれなかった。相手は犬ではないのだから。
「首輪をしている。迷い犬だな」
 「こんなもんか?」と言いながら、ブチャラティは犬を足元へ降ろした。床に肉球が触れるのとほぼ同時に、犬は全身をぶるぶると震わせた。「こんなもん」では足りなかったようで、拭き切れていなかった水分が盛大に撥ね、フーゴの方にまで飛んできた。これで今日雨の被害に遭わずに済んだ者は、この場からいなくなった。
「今日はこんな天気だし、この時間だから、明日になったら、飼い主を探そうと思う」
「迷い犬? 脱走犬の間違いでは?」
「まだ仔犬だからな。ちょっとした冒険のつもりで外へ出て、戻れなくなったんだろう」
 ブチャラティはまるで自分にもそんな経験があるかのような口調で言い切った。
(つまり、帰り方が分からなくなったただのバカってことですね)
 フーゴは心の中だけでそう言った。ブチャラティにも同じような経験が、万が一にでもあるのだとしたら不味い。例え心に思っていても、言葉には出さない方が良いこともあるのだ。この世界では――この世界以外でも――。
 ブチャラティの推理は、おそらく間違っていないだろう。大人しく彼の腕に抱かれていた――そして今も逃げる素振りは一切見せない――ところからも、その犬が人にかなり慣れているらしいことが伺える。主の残虐非道な仕打ちに耐え切れず、命辛々逃げ出してきたようには全く見えない。それならば、飼い主も愛犬を血眼になって探している可能性は低くはない。時刻か天候、そのどちらかが違ってさえいれば、彼――あるいは彼女――の自宅を探し出すことはそう難しくはないだろう。
 それにしても、
「お人好しですね」
「そうか?」
「わざわざ面倒事を拾ってくるなんて。犬猫まではならいいけど、その内人間まで拾ってくるようにならないでくださいね」
「道に迷って帰れなくなった人間?」
(それはただのバカでは?)
「まあ、見捨てるのは忍びないな」
「ぼくなら見捨てます」
「そうか?」
 二度目の「そうか?」は、少しの驚きを含んでいた。それから少しの笑みも。
「なんですか」
「いや、なんでも」
(嘘吐け)
 フーゴが睨むと、ブチャラティは濡れた上着を椅子の背に掛けてから、ようやく自分の髪を拭き始めた。
 ブチャラティの手から解放された犬は、辺りをきょろきょろと見廻し始めた。見知らぬ場所、それもギャングのアジトへと連れて来られたというのに、怯えた素振りは全く見せない。堂々としたものだ。あるいはやはり、バカなのかも知れない。それを眺めながら、ブチャラティは再び口を開く。
「帰れる場所があるなら、帰った方がいいに決まっている」
 何か“含み”を感じさせるような口調でそう言うと、彼は「な?」とフーゴの目を見た。フーゴは意味を尋ねるように視線を返したが、それ以上、彼は何も言わなかった。もし、“帰れる場所”がなかったとしたら、どうするべきなのか。どこへ行くのがベストであるのか。そういう者が目の前に現れた時、彼がどんな行動を起こすのか……。そのようなことは、何も。しかしフーゴは、その答えをおそらくすでに知っている。人間まで拾ってくるなよという忠告は、どうやらとっくに“遅かった”ようだ。
「……まあ、反対するつもりはありません。と言うか、しても無駄でしょう? 貴方の好きにしてください」
 なんとなく、ブチャラティの姿を直視しているのが気まずい気がして――彼が相変わらず上半身裸のままでいる所為ではない――、フーゴは顔を背けながらそう言った。返ってきたのは、やはり何か別の意味を隠していそうな笑いと、「そうさせてもらおう」という言葉だった。その声を聞きながら、フーゴは改めて思った。この場の最高責任者とも言える立場であるブチャラティの決定に、逆らえるわけがないのだ。拾われる者も、それを見ているだけの者も。そして拾われた者は、最初は心を許すまいとしていたとしても、彼の傍で過ごすことが、いつの間にか当たり前になってしまうのだ――もっとも、この犬はとっくに懐いているようではあるが――。ブチャラティとは、そういう人間だ。
「……で」
 勝手に動き廻ろうとし始めた犬を、――これ以上濡れるのは御免だからと――手を伸ばして首輪――だけ――を掴んで引き留めながらフーゴは言った。
「こいつどうするんですか。明日になったら飼い主を探すのはまあいいとして、それまではどこに? 連れて帰る気ですか?」
「いや、一晩ここにおいておこうと思う」
「大丈夫ですか」
「オレも泊まっていく」
「本気ですか」
「ああ」
「犬のために?」
「ああ」
「やっぱりお人好しだ」
「そうかもな」
「“かも”、じゃあなくて」
「鴨じゃなくて犬だな」
「面白くないです、それ」
 だがブチャラティは笑っていたし、フーゴに首輪を掴まれたままの犬も、仔犬らしく甲高い声で返事をするようにワンと鳴いた。
 フーゴは一瞬、「実はぼくも傘持ってないんです」とでも言って残ろうかと思った。ブチャラティひとりに犬の世話を押し付けるのは――いくら彼自身が拾ってきた犬だとは言っても――いくらか申し訳ないような気がして。が、傍にいるのが犬だけならまだしも、人間までいるとなっては、ブチャラティはいつまでも濡れたままの服を着ていなければならないことになるだろう――気にせず脱がれても困る――。結局、「タオル、足りなければそこの棚に。床はそっちの雑巾で」とだけ伝えて、置き傘を持ってとっとと帰らせていただくことにした。
 フーゴが首輪から手を離すと、犬は早速駆け出そうとした。それを透かさず現れたブチャラティのスタンドのヴィジョンが捕獲する。犬は見えない手に捕まれて、驚いているようだが、脅えた様子はやはりなく、むしろはしゃいでいるようにすら見えた。あの調子では、懲りずに何度でも駆け出そうとするに違いない。やっぱり少々心配だ――ブチャラティや犬がというよりは、アジト内に置いてある物が――と思いながらも、フーゴは出口へと向かった。
「じゃあ……」
「ああ、気を付けて」
「お先に失礼します」
 ドアを開けて外に出ると、天気は相変わらずだった。彼等が生活しているこの地域では、季節が秋から冬へと変化していくつれて雨の日が多くなってくる。その度に犬やら猫やら……を拾ってこられたら……なんて不安が、脳裏をよぎった。ブチャラティなら、やりかねない。つい数分前、彼自身の口から「見捨てられない」と聞いたばかりだ。それ等の全てがきちんと首輪をしていて、帰る場所を持っているのであればまだ良い。だが、いつか、それを持たない者が現れるのでは……。
 なんでもかんでも拾ってくるなと釘を刺しておくべきだろうか。フーゴは足を止め、振り返ろうとした。が、すぐに無駄だと首を振った。ブチャラティの決定に、フーゴが逆らえるはずはないのだ。「お前の“立場”でそれを言うのか」とでも言われれば、最早何も言い返せない。上司と部下、それ以外の“立場”としても。
(……帰ろう)
 傘の中で溜め息を吐いてから、フーゴは再び歩き出した。


2021,11,01


もうちょっとしっかりフーナラとアバブチャを匂わせたかったのに、あんまり匂いませんでした!
微香タイプのフーナラ&アバブチャです(笑)。
<利鳴>

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