フーナラ 全年齢


  suspension bridge


 00:00:00にならないと出られない

 71:58:26

 ナランチャ・ギルガはかすかな声に名前を呼ばれたような気がして目を覚ました。仰向けの姿勢のまま瞼を開くと、視界に入ってきたのは見知らぬ風景だった。いや、風景と呼べるかどうかも危うい。そこに広がっているものは、一言でいえば『白』だった。
「……あれ?」
 ナランチャは寝転がったまま首を傾げた。
「ここ、どこだ……?」
 そこは、自分の部屋ではなかった。白い天井に、白い壁。起き上がって見下ろしてみれば、今彼が眠っていたベッドや床まで白い。
「え? なんだここ?」
 自分の部屋と比べるとずいぶんと広いようだ。天井も高い。そんな空間の隅にぽつんと置かれたパイプベッドの傍には、誰もいなかった。だがそれなら、ついさっき自分の名を呼んだ声は、どこから……?
「それに、今の声って……」
 ナランチャは耳を澄ませてみた。が、何も聞こえない。気の所為だったのかと思った、その直後。
「ナランチャ!」
 また聞こえた。今度は、先程よりもはっきりと。
「……フーゴ?」
「ナランチャ! こっちです!」
 声がした方へ視線を向けると、そこにあるのはやはり白い壁だ。だが、人の顔の高さ辺りに、四角い窓のような穴が空いている。近付いてみるとそれは、大人の肩幅よりはやや狭いかというほどのサイズであったが、奥行きはその数倍はあるようだった。手前と奥――入口と出口――はその両方が細い針金を編んで作ったような金網で覆われている。一見大き目の通気ダクトか何かの点検口のようにも思えるその向こうから、人の顔がこちらを見ていた。ナランチャは、その人物の名を今一度呼んだ。
「フーゴ!」
 2枚の金網越しに戸惑いと安堵を綯交ぜにしたような表情を見せたその人物は、ナランチャの仲間のひとり、パンナコッタ・フーゴだった。彼は溜め息を吐くように言った。
「ナランチャ……。良かった、無事なんですね」
「うん」
 肯定したものの、状況が分からないので本当に無事なのかどうかは定かではない――とりあえずどこか痛いだとか動かないだとか、そういうことはないようだが――。ナランチャは改めてその場所を見廻した。
「この部屋って……」
 ナランチャがまず思い浮かべたのは、家具が搬入される前どころか、内装すらまだ終わっていない作りかけの部屋だ。どのような用途なのかも分からない――あるいは決まっていない――、ただの四角い部屋。床も天井も壁も全て真っ白な所為で広さは分かり難いが、小さなライブハウスくらいはあるだろうか。天井には半球形の照明があり、白い部屋全体をますます白く照らしている。だがそのスイッチはどこにも見当たらない。それどころか、今フーゴの顔が見えている“窓”がある壁以外の三方には、何もないようだ。
(なんなんだ、この部屋……)
 “窓”に向かって左側に位置する隅には、ナランチャが先程目を覚ましたパイプベッドが置かれている。その上のシーツや毛布、枕もやはり白。そこに人が眠っている光景を想像すると、真っ白な空間に頭だけが浮かび上がっているような姿になりそうだ。配色に統一感を持たせるにしても、限度というものがあるだろうに。ベッドの下にわざわざ白く塗ったらしい段ボール箱のような物が置かれているのが見えるが、開けてみるのはひとまず後廻しにしておこう。
 反対側――“窓”に向かって右側――の隅には、タンクと蓋が付いた白い便器が設置されている。後ろの壁から銀色のパイプ――こちらは着色していないらしい――が繋がっているのを見るに、水も使えるのだろう。“窓”と同じ側の壁にシンプルなペーパーホルダーが取り付けられており、その下にはベッドの下にあるのと良く似た――しかしサイズはひと廻り小さい――箱が置かれている。
 それ等がこの部屋にある全てだった。他には何も、家具の類も装飾品も、一切ない。
「なんなんだよここ。オレ達、なんでこんなところにいるんだ?」
 理由どころか、“こんなところ”がどんなところなのかも理解出来ない。
「分かりません。ぼくも気が付いたら、ここに」
 “窓”越しのフーゴの声は微妙に反響して聞き取り難かった。2人の間にある2枚の金網は、目はそれほど細かくはないが、指を数本入れるのがやっとで、腕を伸ばすことまでは出来ない上に、壁に埋め込むような形で張られていて、道具でもなければ壊すことも出来そうにない。
「ナランチャ、そっちの部屋は、どうなってますか?」
「えーっと、ベッドと毛布と枕と、トイレと、箱がある。なんか入ってんのかな。あと電気。スイッチはない。見えるところには、たぶんそれだけ」
 フーゴは「こちらも同じだ」と頷いた。
「つまりドアが……、出口がない」
「ってことは、オレ達、閉じ込められたのか?」
 またしても肯定の仕草が返ってきた。が、それだけでは終わらなかった。
「それ以前に、どうやってここに入ったんです? ぼく達を連れてきた誰かがいるとして、その人物はどうやって外へ?」
「あ……」
 壁のどこにも継ぎ目のような物は見当たらない。天井や床も同じだ。小さな部屋であれば壁――あるいは天井――の一面がそのまま開閉する作りにも出来るかも知れないが、この広さの部屋では考え難い。完全なる密室。そんな物が実在するとすれば、それを作り出す手段は多くはない。
「もしかして、スタンド使いが?」
 フーゴはゆっくりと頷いた。
「その可能性が高いです。おそらく、この部屋その物が、スタンドによって作り出された空間なんだ」
 そう言われて、ナランチャは今一度周囲を見廻した。色を失くしたような空間は非日常的ではあるが、どこからどう見ても実在しているようにしか思えない。壁に触れてみても、それは同じことだった。実体化しているスタンド……とでも言うべきだろうか。そんな物に遭遇するのは初めてだ。
「ナランチャ」
 フーゴの声に、ナランチャは視線を戻す。
「ひとつ、確認したいことがあるんですが」
「うん?」
「スタンド、出せますか?」
「え?」
「ぼくは出せなかった」
「って、試したのかよっ!?」
 数えるほどしか見たことがないフーゴのスタンドの姿――見るからに「ヤバそう」だった――を思い出して、思わず焦りの声が出た。すると、少し不服そうな声が返ってきた。
「ちゃんとコントロールしてれば大丈夫ですって」
「ならいいけどさぁ……」
 それが出来ないことが絶対にないとは言い切れないから困るのではないかと、ナランチャは心の中で零した。まあ、実際に出現したスタンドが暴走するようなことは起こらなかったと言うし――そもそも出現しなかったのだから、それはそれで別の大問題だ――、もう済んだことを気にしている場合ではないだろう。ナランチャは頭を振って余計な思考を追い払った。
「エアロスミス!」
 我がスタンドへの呼び掛けの声は、広い室内に響いて消えた。それだけだ。ラジコン飛行機のような形をしたスタンドのヴィジョンはどこにも現れない。その存在を感じることが全く出来ない。“見えない”だけではなく、はっきりと“ない”ことが分かる。
「……やっぱり」
 フーゴが小さく呟くのが聞こえた。
「どうなってんだよっ! オレのエアロスミスはどこに行っちまったんだよ!?」
 ナランチャの心臓はにわかに鼓動を早めた。それと同時に息が上手く吸えなくなり、体が小さく震え出した。
 奇妙な力を持つ“矢”に射抜かれて以来、スタンド能力は己の手足同然の存在だった。それを突然失ってしまった。肉体の一部を奪われたのと近い状況に置かれて、平然としていろと言う方が無理がある。それだというのに、フーゴは口調を一切変えることなく言った。
「ナランチャ、落ち着いて」
「でもっ……!」
「スタンドそのものが消滅させられたのであれば、ぼく達はとっくに死んでます。そうじゃあないってことは、一時的に能力を封じられているだけだと考えるべきです」
「一時的に……」
「完全に失ったわけじゃあないなら、取り戻せます。大丈夫です」
 2枚の金網越しに、強い視線がこちらを見ていた。その表情は、真剣でありながら、わずかに微笑んでもいた。
 ナランチャは、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。同時に、フーゴの「大丈夫」だと言う言葉が温かい空気になって全身を包んでいくような心地がした。心臓が刻むリズムはすでに正常に戻っている。状況は何も変わっていないというのに。
 冷静になって考えれば、フーゴの言葉に保証なんてものがあるはずもないだろう。それなのに、今度は「疑いを持て」と言われても無理だと思うようになっていた。不思議な感覚だ。説得力、安心感、そんなものが、フーゴの声には存在しているということなのだろうか。
「ぼくは前にも似たようなスタンド使いと戦ったことがあります。スタンドと切り離されて閉じ込められたけど、敵を倒せばちゃんと元通りになりました。今回も同じタイプと見ていいでしょう。だから、大丈夫です」
 「大丈夫」と語気を強める声につられるように、ナランチャは「うん」と深く頷いた。
「そっか。そうだよなっ」
 弾んだような声で言うと、フーゴはにっこりと微笑みを返してきた。
「よおし、本体のヤロー、絶対に見付けて、ぶっ倒してやるぜ!」
「と言っても、本体は“外”にいるようですね。これじゃあスタンドが使えたとしても攻撃のしようがない……。外へ連絡出来ればいいけど、携帯電話もない」
「あ、ほんとだ」
 ナランチャはポケットの中を探ったが、電話機どころか何も入っていなかった。
「じゃあどうすんだよ」
「……ぼく達から連絡がない状態が続けば、ブチャラティが動いてくれると思います」
「あ、そっか!」
 彼等のリーダーであるブローノ・ブチャラティなら、きっとこの事態に気付いて対処してくれる。それは、希望だとか予想だなんてものではなく、確信、むしろすでに決定付けられた事実――未来――に近い。長期の休みでも取っていれば連絡してこないのも当たり前で、いなくなったことに気付くのが遅れるということもあるかも知れないが、フーゴもナランチャも――他のメンバー達も――、そんなものはこれから取る予定すらない。休みどころか、任務の真っ最中とも言えるタイミングだったくらいだ。
(そうだ、思い出してきた……)
 彼等――リーダーであるブチャラティと、元警官のレオーネ・アバッキオ、拳銃使いのグイード・ミスタ、数日前に仲間になったばかりのジョルノ・ジョバァーナ、そしてフーゴとナランチャ――に与えられていたのは、『スタンド使いを探す』という任務だった。
 スタンドを自由に操ることが出来る彼等にとって、脅威となり得る存在は、一般の人間のそれと比べると多くはない。それに該当するとすれば、相手もスタンド使いである可能性が非常に高い。だが危険な力を持つ者を前以て見付け出すことが出来れば、釘を差しておくなり“始末”するなりが可能だ。場合によっては仲間に引き入れることを見当しても良い。とりあえずは国内の主要な都市から調査を始めるとブチャラティは言っていたが、その口振りだと、いずれは世界中の……とでも言い出すつもりだったのだろうか。
 『国内の主要な都市』に絞っても、調査ははっきり言って楽ではなかった。
その具体的な内容としては、チームのメンバー全員で手分けをして、出来るだけ多くの人間から話を聞き、『普通では考えられないような現象についての噂』を、とにかく集めという、原始的かつ根気を要するものだった。ナランチャにはこれが途方もないことのように思えた。なかなか望むような情報が得られないだけではなく、下手すると陽気でお喋り好きな年寄りのどうでも良いような世間話を延々と聞かされる羽目になる。それでも、1ヵ月もした頃には――多くはブチャラティの人脈と人望のお陰で――複数の情報が彼等の許へと集まった。誰もいない建物の中で物音がするだとか、透視能力を持った人間がいるだとか、夜になると旧校舎の階段が1段増えるだとか、友人達と出掛ける時に特定の人物が参加しているとその日は必ず雨になるだとか……。
 もちろん、ただの噂話の収集では終われない。ある程度の数が集まってきたから、今度はその裏付けに入るとブチャラティは宣言した。つまり、噂の真相を突き止め、スタンド使いが本当に関わっているのか否かを明確にさせるのだ――ジョルノがチームにやってきたのはこの段階に入ってからだった――。それらしき人物の素性がはっきりしている場合は、直接訪ねて行って話を聞いた――それよりもどう調べたら良いのかも分からないような曖昧な怪談紛いの情報についての調査の方が酷く面倒だったが、それは主にアバッキオが担当することになった――。頑なに能力を明かそうとしない者も多かったが、意外と快く話してくれる者もいた。そのほとんどが「自分以外にこの力を持った人間を初めて見た」と、どこか嬉しそうに語った。
「今まで共感してくれる人がいなくて、孤独を感じていたのかも知れませんね」
 そう言ったのは、ナランチャとペアになって調査を進めていたフーゴだった。その意見がフーゴの経験に基づくものなのか否かは、ナランチャには分からなかった。その時のフーゴの表情は、なんとなく、そう尋ねられることを拒んでいるように思えた。
 今日も、ナランチャはフーゴと2人で、朝早くから出掛けて行くことになっていた。ローマを中心としたエリアを、2日掛けて調査するはずだった。
(だからいつもより早く起きて、着替えて、準備して……)
 その途中で、急激な眠気に襲われた。睡眠は充分に取ったはずだったのに。「何故」と思う暇もないまま、彼は意識を失った。
 そして、気が付いたらここにいた。気を失ってる間に連れて来られたということか。
(朝起きるのがもっと遅かったら寝た時の服装のままここに来てたのかな。着替えといて良かったぜ。……そういえば朝飯の準備しようと思ってたんだった。火は使ってなかった……よな? 火事とか起こってないだろうなぁ……)
 むしろそうなっていた方が異常事態には早く気付いてもらえるかも知れないが……。
 ブチャラティへの連絡は、任務が終わった段階、もしくは想定外の問題が起こった時点で行えば良いということになっていた――「今から任務に就く」という連絡の予定はなかったが、移動中にメールくらい送っておこうかとフーゴが言っていた――。今正に想定を遥かに超えた問題が発生中だが、残念ながらそれを知らせる術はない。だが終了予定の日時を過ぎても2人からの連絡がなければ、間違いなく何かあったと気付いてくれる。運が良ければもっと早いタイミングで状況確認の連絡が向こうからあるかも知れない。
「ブチャラティなら合鍵を管理しているし、スティッキー・フィンガーズならそんな物がなくても出入りは自由です。まずはぼく達の部屋を調べるでしょうね。侵入の痕跡があるかも知れないし、敵に奪われてなければ、今日持って出るはずだった荷物がそのまま残っているはずです。何か起こったことは、すぐに気付いてもらえる。そうでなくても、ムーディー・ブルースは使うでしょうね」
「うん!」
「明日の夕方の時点でなんの連絡もないことを不審に思って調べ始めたとして……。ブチャラティ達も任務中ですね。ブチャラティは確か、ヴェネツィア方面へ向かうことになっていました。早い時間にもう出発してる可能性が高いですね。それに、アバッキオの担当エリアには離島も含まれているんでしたっけ。戻ってくるのに時間が掛かるかも知れない……」
「えーっと、じゃあ……」
 多少手間取ったとしても、異変に気付いて動き出しさえしてくれれば、あとは長い時間は掛からないだろう。となると、
「3日くらい?」
 そのくらいの時間があれば、きっとブチャラティ達は2人を捕らえた者へと辿り着く。
「そうですね。そのくらいが妥当だと思います」
「じゃあ、ここで3日耐えればOK……ってこと?」
「ええ」
 何もないこんな場所に閉じ込められて、3日間過ごす。それは、おそらくとても退屈なことだろう。が、耐えられないほどではない。飲食の問題も、そのくらいならなんとかなるはずだということは、自宅に帰ることもせずに町を彷徨っていた過去の経験から分かる。
 大丈夫だ、と、強がりでも偽りでもなく思えた。躊躇った様子のないフーゴの口調がその確信をより強固なものにしてくれているようにも感じる。外にはブチャラティ――と他の仲間達――がいて、中にはフーゴがいる。こんなに頼もしいことは、他にないではないか。
「一応、ぼく達の方でも何か手掛かりがないか探してみましょう」
「うん。さっきから気になってる物もあるしな」
 ナランチャはベッドの下と便器の傍に置かれた箱に目をやった。それが見えているかのように、フーゴも「そうですね」と言った。
「あの箱、ちょっと取ってくる」
「気を付けて。何か仕掛けがないとも限らない」
「仕掛け? トラップってこと? どんな?」
「人食い箱とか?」
 そんな物があるなら、むしろ見てみたい。どうやらフーゴはナランチャ以上に余裕がある――ジョークを言えるほどに落ち着いている――ようだ。取り乱したところで、どうにもならない。そう思って、意識的に明るく振る舞っているのかも知れない。フーゴがそういうつもりなのであれば、ナランチャは自分もそうしようと思った。
(暗くなったって、ここから出られるわけじゃあないもんな)
 うんうんと頷いて、早速軽い足取りで駆けるように部屋の隅へと移動した。

 71:42:48

 ナランチャはまず、ベッドの方へ行ってみた。先程まで自分が寝ていたためにシワが寄っているが、シーツも枕も真新しい。良く見るとベッドの脚は人の指よりも太いボルトで何ヵ所も床に固定されている。動かすことはまず不可能と見て良いだろう。
 床に膝をついてベッドの下を覗き込むと、大きなサイズの段ボール箱が2つ並んでいた。引っ張り出そうとすると、かなりの重量がある。
「おっもっ! なんだこれ!?」
 苦労しながらなんとか2つ共ベッド下から引っ張り出した。開けてみると、片方は水が入ったペットボトルで、もう片方は缶詰めの食品――それも、どちらかと言えば大振りの物ばかり――だった。
「あー、こりゃ重いはずだわ……」
 箱を持ち上げようとしたが、下手をすると腰を痛めそうだ。それに、うっかり足の上に落としでもしたら笑えない。床が汚れたり傷が付いたりしても構うものかと、“窓”の傍まで押して移動させることにした。
 続いて、反対側の隅に設置された便器の方へ目をやる。ベッドとトイレが同じ空間にあるなんて、まるで監獄のようだ。だがその2つが離れていることを除いても、不衛生な感じは全くしない。むしろ下手なビジネスホテルよりもよっぽど綺麗だと思えた。これもスタンド能力で作られているのだとしたら、本当に新品なのだろう。レバーを押してみると、ちゃんと透明な水が流れた。
「すげぇなこの能力」
 足元の箱――ベッドの下にあった物と比べると小さい上に重量も大したことなく、これなら持ち上げて動かせそうだ――を開けると、予備のペーパーと白いタオルが入っていた。数日なら足りなくなることはないだろうと言えるだけの数がある。
「水と食料とトイレ……」
 敵を捕らえるための部屋にしては、ずいぶんと整っているように思えた。
「そもそも、オレ達なんで閉じ込められてんだ?」
 首を傾げたところで、フーゴの声がかすかに聞こえた。
「ナランチャ、どうですか?」
 小走りに“窓”のところへ戻ると、先程と同じようにフーゴの顔が見えた。
「こっちとそっちにある物が同じかどうか、確認しておきましょう」
「オッケー。えーっと、まず、トイレットペーパーとタオル」
「こっちにもあります。それと、水と食料ですね」
「うん」
 ナランチャは水のボトルを1本取り出して眺めてみた。どうやら、ナランチャが普段買って飲んでいるのと同じ物のようだ。開封された痕跡はない。
「1、2、3、4……」
「12本」
「こっちも」
 そりゃあ重いよなと再度納得する。
「それと缶詰」
「あ、水は全部同じのだけど、こっちは違うんだ」
「本当だ。色々入ってますね」
 ランダムにいくつか取り出してみる。肉や魚介類、果物の写真が使われたパッケージが、この真っ白な部屋の中では異様にカラフルに見えた。水のボトルと同じように、どれも一般に流通している商品であるらしく、見覚えがある物も少なくない。形やサイズは区々だが、開けるのに道具を必要としないタイプであるという点は全てに共通しているようだ。ぱっと見は非常時のための蓄えといった感じだが、残飯を漁って飢えを凌いでいた頃の自分が見れば、「ご馳走だ」と手を叩いたに違いない。箱の底の方に、ご丁寧にプラスチックのフォークまで入っていた。
「どう思います?」
「どうって?」
 ナランチャは首を傾げた。
「市販されている物そっくりに作ることは不可能ではないし、スタンドを使えば開封せずに中身を入れ替えることも出来ます」
 フーゴはきっぱりと言ったが、その声に危機感は感じられない。
「でも、オレ達を殺すつもりなんだったら、捕まえておく必要はないよな? 殺したいなら、とっくに出来たはずだ」
 何しろ無防備に眠っていたのだから。
「そうですね」
 これだけの広い空間を作り出し、外部から切り離し、スタンド能力まで封じるとなると、並大抵のパワーでは不可能だろう。2人の死を望むだけなら、ここまでの労力を掛ける必要はない。
「なのにこんなところにいさせてるってことは、えーっと……」
 上手く説明出来ない。だがフーゴは「正解です」と言うように頷いた。
「害になるような物を飲食物に混ぜておくようなことは、しないんじゃあないかってことですね」
「そうそう」
「敵の目的はおそらく、ぼく達を足止めすること」
「時間稼ぎか」
「あるいは、ぼく達を使ってなんらかの交渉をすること。そのためには、生かしておく必要がある」
「交渉? 人質みたいなもん?」
「ええ」
 少し考えてみたが、具体的な心当たりは全くない。だが、「誰からも恨まれないような真っ当な生き方をしている」とも言えない以上は、納得するしかないだろう。
「つまり……、逆に言うと、この部屋は安全ってこと? この水とか食べ物も?」
「そう考えていいと思います」
「さっき、3日って言ったよな」
「ええ」
 ナランチャは指を差しながら缶詰の数を数えた。
「18個ある」
 それ等は全て同じ大きさをしているわけでもないのに、不思議と誂えたようにぴったりと箱に納まっている。
「1回に2つずつ食べたとしたら、3食で6個。それが3日分だと、18個だろ?」
「凄いじゃあないですか。計算合ってますよ」
「言ってる場合かよ」
 そう言いつつナランチャも、今が危機的状況だとは、不思議と思っていなかった。敵の意思で作り出されたはずの空間なのに、“悪意”や“敵意”、それに類するものが、全くと言って良いほど感じられないのだ。
(なんでだろう)
 ブチャラティ達が助けに来てくれると信じているから? だが、自分独りでいたら、そう呑気にしてはいられなかったかも知れない。
「ナランチャ?」
 フーゴが不思議そうに呼び掛ける。
「どうしました?」
「んーん、なんでもない」
 ナランチャは首を振って笑ってみせた。すると、真似るように微笑みが返ってきた。
「日数の件は、結構いい線いってると思いますよ。缶詰もそうだけど、水の本数から見ても」
 そう言ってフーゴは、水のボトルを顔の高さに持ち上げてみせた。金網越しに見えたラベルは、ナランチャの方にあるのと同じ物のようだ。
「さっき、12本と言ってましたね?」
「うん」
「人間が一日に必要とする水の量は、約2リットルだと言われています。このボトルは500ミリリットルだから?」
 語尾が質問の形になっていた。計算しろと言っているらしい。
「えーっと、……さん……」
「はい?」
「じゃなくて! じゃなくて……、えっと、えーっと、……4本! 4本で1日分だ!」
「正解です。じゃあ12本は何日分?」
「1日4本だから……3日?」
「正解」
 フーゴはにっこりと微笑んだ。まさか、こんな時にまで算数の勉強とは。だがナランチャも、唇が自然と弧の形になるのを自覚した。
「つまり、敵も3日以内に何らかの決着をつけるつもりでいると考えていいと思います。おそらくその間に、敵の方からブチャラティ達に接触するつもりなんでしょう」
「そうなったら、もう勝ったも同然だな!」
「ええ」
 ナランチャは「よし」と両拳を強く握ってから、改めて足元の箱へと目をやった。
「でも、水と比べたら食料少なくないか? さっき1回2個って言ったけど、普通の食事と比べたら全然少ないよな?」
「生命活動に支障がなければそれでいいという考え方かも知れませんね。人間は食べ物がない状態でも2、3週間は生きられるけど、水がないと、数日で死にますから」
「そんなにすぐ?」
 急に喉が渇いたような気がしてきた。
「動き廻るようなこともないでしょうから、そんなに腹が減ることはない気もします。とりあえず、缶詰は1日6缶まで、水は1日4本まで。そこまでは消費してもいいことにしますか」
「うん、分かった」
「ここを出たら、“本体”との戦闘になるかも知れないから、出来るだけ食べておいた方がいいと思います。体力は温存しておかないと」
「だな」
 それどころか、さっきの話ならむしろ水は積極的に飲んだ方が良いのかも知れない。
(トイレの心配もしなくて良さそうだし)
 至れり尽くせり……という言葉は、こんな場所に説明もなしに閉じ込められている状態でも当てはまるのかどうかは疑問だが。
(説明くらいあってもいいよな、説明くらいさぁー……)
 それから、2人はさらに部屋の中を調べて廻った。目視だけではなく、手の届かないような高い位置以外は、手で触って確認もした。だが、隠し扉のような物はやはりどこにもなさそうだ。換気口の類も見当たらない。
(これ、ちゃんと空気入ってきてるのかな……)
 エアロスミスのレーダーがあれば、室内の二酸化炭素濃度が高まっていないかどうか確認出来たかも知れないのだが……。危害を加える意思はなさそうだという直感を信じるのであれば、きっと大丈夫なのだろうと思いたいところだ。今のところ息苦しさも感じない。そもそもこの空間はスタンドが作り出した物だというのだから、何等かの装置がなくても換気は可能なのかも知れない。と、思っておきたい。
(暑くも寒くもないし……)
 空気が乾燥していたりもしない。実はかなり快適な環境なのではないだろうか――今が暑くも寒くもない季節だからそうなっているだけという可能性もあるが――。自分がこの能力を持っていたら、おかしなことに使わずに普通に住むかも知れないなとナランチャは思った。もちろん出入口は作った上で。
「ナランチャ」
 フーゴの声だ。ナランチャは再び“窓”に駆け寄った。
「どうですか」
「やっぱり何もないぜ」
「そうですか。こっちもです。やっぱり、大人しく助けを待っていた方がいいのかも知れない」
「敵を刺激してもマズいもんなぁ」
 2人が殺されることはないというのは、現時点での予測でしかない。2人の様子が敵から確認出来ているのかどうかすら分からない――監視カメラのような物も見付からない――が、もしその人物の気が変わったりしたら……。少なくとも、水や食料が充分に残っている内は、もう少し様子を見ていた方がいいかも知れない。
「でも、暇だよなー、3日も」
 腕を頭の後ろで組みながら、ナランチャは“窓”の横の壁に体重を預けた。平常時であれば、3日もあれば何が出来るだろう。
(買い物行ったり、散歩したり、音楽聞いたり……。3日続けての休みなら、旅行だって行けるじゃあねーか)
 改めて、最低限の物はあるが最低限以上の物は何もない部屋だ。
「紙とペンがあれば良かったですね」
「紙とペン?」
「勉強が出来るでしょう?」
「うげ」
「ぼくは何もなくても問題くらい出せるけど、君に暗算しろってのは、流石にちょっと酷ですからね」
 さらっと言ってくれる。フーゴなら本当にやりかねないとナランチャは思った。いや、紙がなくても、ペンさえあれば床に書いて解けとすら言い出しそうである。そう思って見れば、この部屋全体が真っ白なノートかキャンバスのように見えてくる――絵描きであれば、何よりも絵具や筆が欲しいと思うところなのかも知れない――。筆記のための道具を部屋の中に置かなかったこと、それだけは、敵に感謝だ。
 ナランチャは話題を変えることにした。
「そういえば、時間も分かんないな」
 この部屋には、時計も、外の様子が分かる窓もない。3日もあれば状況が変わるだろうとは言ったが、これでは今が昼なのか夜なのかすら判断出来ない。果たして体内時計だけでどの程度時間を推測出来るだろうか。そもそも、目を覚ました時間すら不明だ。
 しかし、
「そうか、君は時計を持ってないんですね」
「え、フーゴ持ってんの?」
「ええ」
 「ほら」とフーゴは左腕を上げてみせた。そういえば、彼はナランチャと違って日常的に腕時計を使っていた。
「ちゃんと動いてます。身に付けていた物は基本的にそのまま持ち込めたのかな。それなら、紙とペンもポケットにでも入れておけば良かった。携帯電話はまだ充電器に刺したままだったか……」
「あー、そういえばオレも充電中だった。で、今何時?」
 フーゴの腕に普段通りの金属のベルトが巻かれているのははっきりと見えたが、文字盤まではここからでは見辛い。フーゴは、「そろそろ10時半ですね」と答えた。
「午前か午後かは分からないけど、さっき目を覚ましたんだから、朝ってことにしておきますか」
 となると、自室で意識を失ってから、すでに数時間は経過していることになる。
(どーりで……)
 ナランチャは腹部に手を当てた。“窓”から外れたその位置が、フーゴに見えたはずはない。にも拘わらず、彼の声は少し笑っているように聞こえた。
「ちょっと変な時間ではあるけど、朝食にしますか」
「賛成!」
「食事は出来るだけ同じ間隔で取った方がいいかも知れませんね。体内時計は崩さない方がいい。……と言っても、まあ3日だけなら大したことはないでしょうけど。それでも、今日は仕方ないけど、明日明後日はもう少し早い時間に朝食にしましょう」
「オレは時間分かんないから、フーゴに任せる」
「時計、君が持ちますか?」
 “窓”は金網で塞がれている。が、腕時計くらいなら、滑らせて反対側へ通すことが出来るかも知れない。
 だが、ナランチャは首を捻った。
「うーん、やめとく」
「そうですか」
 上手いことこちらまで滑ってきてくれれば良いが、どちらからも届かないところで止まって回収出来なくなってしまっては困る。それ以上に、時間の管理をするなら、自分よりもフーゴの方が適任であると思えた。
「フーゴが持ってて」
「了解です」
 フーゴは外そうとしていた腕時計を元に戻した。
「じゃあ、時間が知りたい時は、いつでも聞いて」
「うん」
 ナランチャは早速、“窓”の向こうへ呼び掛けた。
「今なんの時間ー?」
「はいはい。朝食の時間ですよ」
 子供のようなやり取りに、2人の笑い声が重なった。

 70:25:30

 ナランチャはしゃがみ込んで足元に置いた箱の中を見た。缶詰は楕円形や丸みを帯びた四角形の物もあるが、半数以上は円柱の形をしている。敷き詰められたような銀色の円が、一瞬、こちらをじっと見詰める目のように思えた。
「どれ食べる?」
 ナランチャはしゃがんだ体勢のまま、“窓”に向かって尋ねた。
「どれでもどうぞ」
 返ってきた声は少し遠いように聞こえた。頭を下げるような姿勢の所為で、“窓”の真正面から離れているためだろう。会話が不可能なほどではないが、なんだかもどかしく感じる。
 ナランチャは改めて缶詰の並びを眺めた。そして、
「フーゴと同じのにする」
「なんで?」
「え? なんとなく?」
 フーゴの口調は驚いた時のそれのようだった。そうなる理由が分からず、逆にナランチャの方が少々驚いた。
「駄目?」
「飛行機の機長と副操縦士は、必ず違う物を食べるんですよ」
 急に話題が変わったように思ったが、ナランチャは考えるよりも先に疑問を口にしていた。
「なんで?」
「同じ物を食べて食中毒にでもなったら大変でしょう?」
「えーっと……」
「機長がおかしな物を食べてしまってフライト中に動けなくなっても、同じ物を食べていない副操縦士が無事なら操縦が出来る。そうやって、運航に支障が出ないようにしているんですよ。食事のタイミングも必ずずらして、常に片方が計器のチェックをしているそうです」
「へえ」
 ナランチャは素直に、フーゴはなんでも知ってるなぁと感心した。
「でも、今は大丈夫なんだろ」
 先程、水や食料に毒のような物は入っていないはずだと話したばかりだ。何よりも、ここは飛行機の操縦室の中ではない。
「だったら、同じ物食べて感想とか言い合った方が楽しいかと思ったんだけど」
 返ってきたのは沈黙だった。
「フーゴ?」
 何かマズイことを言っただろうか。ナランチャがそう思っていると、
「そんな発想はなかった」
 フーゴはぽつりと呟くように言った。
「君は凄いですね」
「すごい?」
「こんな状況でも、『楽しい』を見付けられるんだ」
 咎められているのか――あるいは馬鹿にされているのか――と思ったが、フーゴの口調は穏やかだった。
「君のそういうところ、凄いと思います」
「大袈裟だなぁ」
 なんだか照れる。“窓”から外れていれば顔を見られないで済むこの状況が少しだけありがたく感じた。
「じゃあ、そうしましょう。ここにいる間は、食事は2人で、同じ物を食べる」
「うんっ」
「まず何があるか見てみないとですね」
「一回全部箱から出してもいい?」
「自分で片付けるだけのことだから、いいんじゃあないですかぁ?」
「出しっ放しじゃあ駄目かなぁ」
「ぼくは別に構わないけど、蹴っ飛ばしても知りませんよ」
 ほら、早速少し楽しい。フーゴの顔は今は見えないが、その口調からきっと彼も笑っているのであろうことは充分予想出来た。会話の内容だけなら、ルームシェアをしている友人と「今日の食事はどうしようか」と相談しているのと大きくは違っていない。
「結構種類がありますね。同じ物が1つもないってわけではなさそうですけど」
「なんかフルーツが多い気がする」
「ですね。一応栄養素のバランスまで考えられているのかな。昔の船乗りは海の上で新鮮な野菜や果物が手に入らなかったために、ビタミンC不足で何人も死んだそうです」
「へえ。ビタミン、大事なんだ」
 いまいち危機感を持てない所為もあってか、閉じ込められているというよりは飼育されているような気持ちになってくる。あるいは、「好き嫌いせず食べなさい」と言われている子供のようだ。
「良かったですね」
「え?」
「オレンジ、好きでしょう?」
 見れば、確かにシロップ漬けのオレンジの缶詰があった。フーゴが今手に取っているのはこれなのだろう。
「うん」
 ナランチャも同じ物を手にした。
 奇妙な部屋での最初の食事は、オレンジと、パンの缶詰を開けることにした。
「えーっと、この輪になってる部分を起こして、反対側に引っ張る感じに開けるんだよな」
 何も使わなくても開けられるタイプの缶は楽で良い。「開けられますかぁ?」と揶揄するような声が“窓”から降ってきて抗議したが、正直、缶切りが必要なタイプであったらフーゴと同じタイミングで食べ始められていたかどうかは危うい。
「あ、ゴミはどうしよう」
 無事に開いた缶の蓋を見ながらナランチャは呟いた。
「箱を1つ空けて、ゴミ箱にでもしますか」
「じゃあやっぱり中身全部出すんじゃん」
「せめて端の方に寄せて置いてよ。君、絶対蹴るから」
「はーい」
 缶と同じ円柱の形をしたパンは、言われなければ缶詰とは思わなかったかも知れない。それほど、どこにでもあるような普通のパンに見える。口に入れてみると、味も悪くない。特別美味いというほどでもないが、全然「あり」だ。
「缶詰でもふわふわのパンなんてあるんだな」
「科学の進歩ですね」
 そう声がするまでに少々の間があったのは、フーゴが口の中の物を飲み込もうとしていたからだろう。彼はナランチャがそう思ったのと同じように、「意外と悪くないですね」と言った。
「世界初の缶詰は、ナポレオンの命令で1810年にイギリスで作られたと言われています。それまでの保存食と言えば瓶詰でしたが、ガラスは重たい上に壊れ易いので、遠征時には不向きだったんですね。でも、当時の技術では殺菌が充分ではなく、中で発酵が進んで缶が破裂することが度々起こったそうですよ」
「へえ」
「あと、『空気の缶詰』なんて商品もあるんだとか」
「え、何それ」
「空気が綺麗であることを売りにした国や地域が作って販売してるそうです。まあ、一種のジョークグッズですかね。逆に、公害で汚れた空気の缶詰なんかもあるそうです。こっちは皮肉かな」
 さっきの飛行機での食事の話と言い、ビタミンの話と言い、今の缶詰の話と言い……、
「フーゴってなんでも知ってんなぁ」
 思わずそう呟くと、くすりと笑う声が返ってきた。
「知りませんでした?」
 きっと得意げな顔をしているのだろうことが予測出来て、ナランチャも笑った。
 ナランチャの提案通り、2人は感想を言い合いながら食事を終えた。パンの方は「意外と美味い」「口の中の水分持っていかれる」、オレンジの方は「シロップが思ったより甘い」「意外と量ある」で、意見はおおよそ一致した。
「そういえば、食べたあとの残りはどうする?」
 ナランチャは水のボトルが入っていた方の段ボール箱を空けて、それをゴミ箱にすることにした――出したボトルは壁際にずらりと並べると、妙なデザインのガーデンフェンスのようになった――が、空になった容器だけならともかく、缶詰に残ったシロップはそこには捨てられないだろう。
「置いといたら腐るかな? でも、全部飲むのは流石にちょっときついと思うぜ」
「スタンドで作られた空間で普通に腐食が進むのかは分からないけど、置いておくのもあんまりいい気分ではないですね」
「うんうん」
「君、蹴っ飛ばしそうだしね」
「それしつこいなぁ!」
「まあ、トイレに捨てるしかないでしょうね」
 そう言った声がわずかに遠くなったように感じたのは、フーゴがそちらの方を向いて喋ったからだろう。
「本当は食品を流すのは良くないんですけどね」
「そうなの?」
「詰まり易いし、油なんかが配管の老朽化を早めるそうですよ。キッチンの排水管と違って、そういった物をそのまま流せるような加工はされてないんです」
「へぇ」
「でもまあ、3日だけですし、食べカスやシロップの残りだけなら大丈夫だと思います。この部屋の配管の傷みが早まったところで、ぼく達にはなんの不都合もないですしね」
 確かにその通りだ。ナランチャはフーゴがにやりと笑うのを思い浮かべた。
「詰まるのだけは困るから、くれぐれも大きいままの食べ残しは捨てないようにね」
「分かった」

 69:05:00

 缶詰と水のみの食事が終わると、やることがなくなってしまった。普段であれば「暇してるんだったら今日の分の勉強進めますよ」とでも言われていたところだろう。
「予想はしてたけど、ここ、やっぱ暇だな」
「時間的にはもう昼ですけど、食事はもうちょっと空けてからの方がいいですね」
「うん。今は無理」
 缶詰2個だけでは少ないのではないかと思っていたが、動いていないために消費も少ないのか、意外とすぐに満腹になった。むしろ今日は1食抜いても良いくらいに思える。
 今頃他の仲間達はどうしているだろうか。もう各々の任務に取り掛かっている頃か。誰かが早々とナランチャ達の不在に気付いて、案外もう動き出してくれていたりはしないか……。
「暇なら、九九でも言ってみたら?」
 “外”へと彷徨っていた思考が、急に引き戻される。
「九九ぅ?」
 やっぱりそうきたか……。ちらりと視線を向けた“窓”の向こうで、フーゴはいたって真面目な顔をしていた。これは本当にやらされかねない。確かに、九九の暗唱なら紙とペンがなくても出来てしまう。
「九九はもう覚えたって」
「お浚いです。1つ言うのに2秒としても、3分は潰せますよ」
「ええぇ……」
 この状況であれば、仮にナランチャが盛大に間違えてフーゴがキレたとしても、手を上げられる心配はない。が、怒りを発散させる術がないがために、逆にその状況が長々と続いてしまうのではないかとも思える。素直に殴られてやるという選択肢――滅多に選ぶことはないが――も、他の誰かが宥めてくれる可能性もない状況で、どうやってフーゴを落ち着かせたら良いのか……。突然おかしな場所に閉じ込められたというのに、先程からフーゴの機嫌が悪くなさそう――どちらかと言えば良さそうにすら見える――なのは幸運だ。その幸運は、出来れば持ち続けたままこの場所を出て行きたい。
「そ、それよりえーっと……、なんか話そうぜ! ほら、オレは九九やってもいいけど、その間フーゴは暇になっちゃうじゃんっ? それって、オレだけズルくない? オレはズルいと思うなぁ。こんな状況なんだしさぁ、抜け駆けってのは良くないんじゃあないかなあぁぁぁ」
 ナランチャは“窓”を塞いでいる金網に張り付くように身を乗り出した。それを見たフーゴは眉をひそめる。
「逃げたな」
「そんなことないってぇ。オレはぁ、協力し合う必要があるってことを言いたいわけでぇ……」
「君が間違ってないかどうか聞いてれば、同じだけの時間が潰せますが」
 フーゴはやれやれと溜め息を吐いた。
「まあ、いいですよ。今回は見逃してあげます。その代わり、君が言い出したんだから、話題は君が提供してくださいよ」
「よっしゃぁ!」
 ナランチャは拳を握ってガッツポーズを取った。フーゴが再び溜め息を吐くのが聞こえた。
「じゃあ、敵がどんなやつか予想しようぜ! たくさん合ってた方が勝ちなっ!」
 フーゴは「よくそんなこと思い付きますね」と呆れたように言った。が、笑ってもいた。やはり彼の機嫌は良いようだ。その証拠に、
「それ、勝ったら何かいいことでもあるんですか?」
 くだらないと一蹴するどころか、そんなことまで言い出した。
「え? うーん、そうだなぁ……」
 そもそもは九九を回避するために咄嗟に口から出た言葉だ。正直、そこまでは考えていなかった。何かあるだろうかと首を傾げていると、その提案はフーゴの方からされた。
「じゃあ、ぼくが勝ったらジェラート奢ってください。ここを出たら」
 今すぐにでなくても良いとなると、“賞品”はなんでもありだ。だがナランチャには、フーゴの要求以上に良い物が浮かぶはずもないと思えた。
「じゃあ、オレもそれがいい!」
「決まりですね」
「うん!」
 なんだか楽しくなってきた。食事は2人で一緒にとろうと決めた時と同じだ。独り切りで閉じ込められていたら、こうはいかなかっただろう。フーゴがいて良かったと、ナランチャは思った。
「じゃあ、男か女かと、あと年からな」
「そうですね……。性別は男かな。女だったら、もう少し部屋の内装にまで拘っていそうな気がします」
「あー、なんか分かるかも」
 同じ意見では勝敗を付けられないことは分かっているが、ナランチャはフーゴの言葉に頷いた。
「年齢は?」
「20代前半」
「なんで?」
「適当ですよ。判断材料なんてないんですから」
「なんだ。自信満々に言うから、なんかあるのかと思った」
「全然」
 根拠がないと言いながらも、フーゴは迷った風もなく続ける。
「出身はローマかな。これは単純に国内ならローマが一番人口が多いから。体形は中肉中背。力に自信がなくて、何か困ったことがあると自分の部屋に引き篭もりがち」
「それっぽいそれっぽい」
 ナランチャは段々そんな男に本当に会ったことがあるような気がしてきた。
「勝負だって言うなら、君も何か言わないと」
「そっか。えーっと、じゃあ30代後半で、身長は2メートルの大男。そんで、モミアゲが右側にだけにある!」
 逆に、そんな男には間違いなく会ったことがない。
「だいぶ変えてきましたね」
 「ただ面白そうなことを言っているだけだろう」とでも言いたげに、フーゴは眉をひそめて笑った。ナランチャにはそれを否定するつもりは微塵もなかった。
「だって、同じじゃあ勝負になんないだろ?」
「発想がギャンブラーですよ。これもし2人とも掠りもしてなかったら、勝敗はどうやって決めるんですか?」
「そうだなぁ……」
 ナランチャはしばし首を傾げた。そして、
「その時は、ブチャラティに奢ってもらう。2人分!」
 フーゴは唐突に巻き込まれたブチャラティを憐れむのではなく吹き出した。
「なんでそこでブチャラティが出てくるんですか」
「カワイイ部下が敵に捕まってたんだぜ!? 水も食料も限られたキョクゲンジョータイで頑張ってたんだから、『お疲れ様』って労ってくれてもいいはずだろっ!」
 ナランチャが力説すると、フーゴはますます笑った。
「無茶苦茶だなぁ。でも、ブチャラティなら、奢ってくれそうな気がしますね」
「だろっ!?」
「アバッキオなら?」
「あー、案外ワンチャンあるかも? すっげぇ面倒臭そうな顔して、『しかたねーなー』とか言いながら。あ、ジョルノは年下だから、タカるのはナシな」
「ぼくもジョルノと同い年ですけど……。まあいいや。じゃあミスタは?」
「絶対ない」
 2人は声をそろえるように笑った。

 67:57:48

 他愛のない会話が、しばらく続いた。ずっと喋っていた所為だろう、ナランチャは何度か喉の渇きを覚え、ボトルの水を口に含んだ。普段から飲んでいるのと同じ味で、一瞬だけこの異様な状況を忘れそうになる。
「疲れましたか?」
 フーゴが尋ねてきた。
「うーん、どうかなぁ」
 まだ明確に疲労しているというほどのことはない。だが“窓”の傍にいないと声が届き難い所為で、彼等はずっと同じ場所に立っている必要があった。椅子でもあればいいのにと思ったが、そんな物はここにはない。申し訳程度にしかない家具は床に固定されているし――そうでなくても流石に便器を動かしてきて椅子代わりにする気にはならなかったが――、段ボール箱は人の体重を支えられるほどの強度はなさそうだ。今はまだ平気でも、ずっとこの状態を続けていれば流石に疲れてくるかも知れない。
「今何時?」
「午後1時……を、3分ほど過ぎたところ」
 最初の食事を終えてから、1時間は潰せたようだ。だがそれも、3日の内の1時間でしかない。ずっとこのペースを保っているのは難しいと考えるべきだろう。
「少し黙っている時間も作りましょうか」
 フーゴがそう提案したのは、もしかしたら彼自身が疲れたからなのだろうか。その可能性がないとは言えない以上、「喋り続けろ」なんて言えるはずがない。先程話したように、体力は残しておかなければ。
「じゃあ、ちょっと休憩」
「分かりました。でも、何かあったらすぐに言ってくださいね。大きな声で呼んでくれれば、“窓”から離れていても、なんとか聞こえるはずですから」
 力強い視線の笑顔を向けられて、ちょっと頼もしいなとナランチャは思った。それが、正直少し悔しくもあった。フーゴの方が2歳も年下なのだから、不安そうな顔で「呼んだらすぐに来てくださいね」くらい言う可愛げがあっても良いのに。
(でも、なんか安心する……)
 実際に何かが起こった場合、大声で呼んだところでフーゴは“こちら側”へは入って来られない。それは分かっているのに、何故か「大丈夫だ」と思えてしまう。胸の中心に温かい物が浮かんでいるようなこの不思議な気持ちは、一体なんなのだろう。

 65:55:57

 数時間前の繰り返しのように、ナランチャはかすかな声に呼ばれて目を覚ました。
「……あれ?」
 他に腰を降ろせる場所もないからと、ベッドに座ってぼーっとしていたはずだった。それが、いつの間にか横になって眠っていたようだ。おかしな状況に置かれているというのに、我ながらなんて呑気なのだろう。
 広がる風景は相変わらず白一色だ。どうやら、おかしな空間に閉じ込められたことは、寝て起きたら覚める夢ではなかったようだ。
「ナランチャ。寝てるんですか?」
 “窓”からの声に、「今起きた!」と返事をしながら急いで起き上がった。
「なに?」
 “窓”に駆け寄ると、いつもと変わらぬ様子のフーゴがこちらを見ていた。
「もう3時ですけど、昼食どうします?」
「あー……。あんまり腹減ってないなぁ」
「確かに」
 それでも1日3食のリズムは作った方が良いとフーゴが言うので、缶詰を1つだけ食べることにした。
「軽く済ませましょう。別に残ったっていいんだから」
「了解」
 ナランチャがラベルを見ずに選んで、フーゴがそれに合わせるという形で何を食べるかを決めた。一番小さい缶――中身はフルーツミックスだった――を選んだために、食事の時間はあっと言う間に終わる。ゴミを片付けた後、2人はそのまま雑談を始めた。
「さっきはジェラートって言ったけどさぁ」
 ナランチャがそう話し出すと、フーゴは「さっき?」と首を傾げた。が、すぐに敵の姿や性格を当てる勝負をしていたことを思い出したようだ。
「ジェラートじゃあなくて、他の物がいいんですか?」
「うん。アツアツのピッツァもいいなぁって」
 ナランチャが「ナラの木の薪で焼いた故郷の本物のマルガリータにボルチーニ茸も……」と続けると、フーゴはくすりと笑った。
「ここにある物は、全部常温ですもんね」
「部屋の中が寒くも暑くもないから、別に困りはしないんだけどさぁ」
 やはりどうにかして温度等はコントロールされているのだろうか。
「ガッツリ熱かったり、逆にキンキンに冷えてる物も食べたくなるだろっ?」
「気持ちは分かります」
「だから、さっきの勝負、ジェラートもいいけどピッツァも捨て難いなぁって」
「どっちでもいいですよ」
 そう言ってフーゴは笑った。
「というか、“どっちも”、いいですよ」
「どっち“も”?」
「両方」
「マジか」
「君が勝つって決まったわけじゃあないですけどね」
「絶対勝ってやる!」
 そう宣言してみせたものの、30代後半でモミアゲが右側だけにある大男を探すのは少々骨が折れそうだ。見付け出すより早く、きっとレストランは閉まってしまうだろう。

 62:22:49

 時間を聞くと、「6時半」と返ってきた。外はそろそろ暗くなってきている頃だろうか。他の仲間達は何をしているだろう。まだスタンド使いのリストを睨み付けているのか、それとも、すっかり夕食のこと――そういえばミスタがヴェネツィア方面へ向かうブチャラティとそれに同行するジョルノに、現地の美味い物を教えていた――で頭の中をいっぱいにしているか……。
「流石に参ってきた?」
 “窓”の向こうから、フーゴが尋ねる。
「うーん、参ったっていうか……」
「疲れた?」
「飽きた?」
 異常な状況であっても、退屈だという感覚は消えてしまいはしないらしい。やはり危機感を持てないままでいるのがその原因だろうか。
「少し運動もした方がいいかも知れませんね」
 ナランチャが大きな欠伸をしていると、フーゴがそう言った。
「1日寝た切りで過ごしただけでも、筋肉量は確実に減ると言われています。それに、長時間同じ姿勢のままでいるのも良くないです」
「でも、ここで運動なんか出来るかぁ?」
 いっそのことトレーニングマシンでも設置しておいてくれたら良かったのに。気が利かない敵だ。
「腕立て伏せとか、腹筋とか、ストレッチでも、簡単なことでいいんです」
 なるほど、その程度のことなら、この何もない部屋でも出来そうだ。この広さなら、軽く走ることすら可能かも知れない。
「分かった。やってみる」
「ただし、ほどほどにね。必要以上に体力を消耗しないように。あと、怪我はしないで。何かあっても、手当なんて出来ないんですからね」
「うん」
 それ以前に、シャワーを浴びることが出来ないので、汗だくになるほどやる気にはなれない。ここで出来るのは、タオルを濡らして体を拭くくらいか。トイレの水は流れるのだから、シャワーだって付けてくれても良いのに。やっぱり気が利かない敵だ。
「それが終わったら夕食にしましょうか」
「うん」
 まずは腹筋運動からと思ったが、誰かに足を押さえていてもらうことが出来ないので少々やり辛かった。さらには床が硬くて、少し背中が痛い。長時間続けるのは難しいかも知れない。それでも腕を頭の後ろで組み、上体を起こす動きを何度か繰り返した。フーゴが言ったように、腕立て伏せもやってみた。さらには前屈や開脚等のストレッチも。もっと何かないかと聞くと、ペットボトルをダンベル替わりにするのはどうかとのアドバイスがもらえた。朝から何もしていなかったために、やはり体力が余っているのか、思ったよりも長く続けてしまった。しばらく続けた後で改めてフーゴに時間を尋ねると、1時間以上が経過していた。
「ご、ごめん。夕食にするって言ってたのに、待たせちまって……」
「大丈夫ですよ。ぼくもやってましたから」
 それなら、一緒にカウントの声でも掛ければ良かった。明日にでも提案してみようか。
(それとも、どっちがたくさんスクワット出来るかの勝負とか)
 勝った時の賞品は、食事とデザートはもう決まっているから、飲み物が良いだろうか。

 60:12:00

 夕食にはスープの缶詰を開けた。常温でも意外と味は悪くないが、温めた方がもっと美味いのだろうなと思った。それを食べ終えてしまうと、やることがないので早々に寝ることになった。
「って言っても、電気消せないんだよなぁ」
 ナランチャは頭上で白く光っている半球体を睨み上げた。真っ暗じゃあないと眠れないということはないが、まだ時間も早いし、あまり眠気がない――昼間に少し寝てしまった所為か――今の状態だと、少々厄介かも知れない。中身が入ったままの缶詰を投げてぶつければ――届けば――壊すことは可能かも知れない。が、それで明かりを消せたとしても、今度は二度と付けることが出来なくなってしまう。残りの2日間を“窓”からかすかに漏れ出る隣室の明かりのみで過ごすことは、極力、もとい、絶対に、避けたい。
「毛布被って寝るしかないかぁ」
 少し息苦しくなるのがネックだ。
「タオルで目隠しをしてアイマスク替わりとかね」
 フーゴにそう言われて、その姿を想像してみた。安眠のためのアイマスクというよりも、目隠しをされている人質と言った方が相応しいように思える。人が見たら――目撃出来る者がいたとしたら――、何事かと思われるかも知れない。が、実はそちらの方が、今の状況にはあっていると言える気がする。
「横になった時に結び目がちょっと邪魔そうだなぁ」
「じゃあ、結ぶんじゃあなくて、タオルに穴を開けて耳に引っ掛けたら?」
「そんな簡単に穴なんて開けられるかぁ?」
 真新しいタオルは案外丈夫そうに見える。そういえば、いつもなら持ち歩いているナイフもないのだ。着替えてすぐに身に付けたはずなのに持ってきていないということは、取り上げられたのだろう。今は部屋に置き去りにされているのか、それともそのまま持ち去られてしまったのだろうか――後者だとすると、ここを出たら早めに新しい物を調達しなければ――。どうせ敵は安全な外にいるのだから、腕時計と同じように武器だって持ち込ませてくれても良いのに。そもそも、どこまでが“武器”として判断されているのだろう。刃物や、ミスタが使っているような銃器等は分かり易いが、例えば、小さな球に紐を付けたような形状のおもちゃなんかはどうだろう。球が鉄製であれば、紐を持って振り廻すだけでもそれなりの攻撃力にはなりそうだ。シャボン玉だって目に入れば立派に痛い。
「刃物の代わりなら、缶詰の蓋が使えると思いますよ」
 フーゴの声に、想像上のシャボン玉がぱちんと弾けて、ナランチャの思考はこの場に引き戻される。
「え、あれってそんなに鋭いの?」
「ええ。ちゃんと注意書きがあるはずですよ。手を切ったりしないようにって」
「へぇ」
 結構雑に扱ってしまっていたが、今後は気を付けることにしよう。フーゴが言ったように、怪我をしても、水で洗ってタオルで止血する以外の手当てが出来る道具は何もないのだから。
「じゃあ、寝られなさそうだったらやってみる」
 たぶんやらないだろうな――面倒臭い――と思いながら、ナランチャはそう言った。
「あ、寝る前にトイレに行っておいた方がいいですよ」
「ガキじゃあねーんだよっ!!」
 フーゴはあははと笑った。
「それじゃあ、おやすみなさい、ナランチャ」
「うん。おやすみ」
「また明日」
「うん。また明日」
 2人は手を振り合った。こうして、長いのか短いのかもよく分からない1日が、どうやら終わったらしい。

 51:19:20

 寝られないかも、と思ったわりには、案外長く眠っていた気がする。適度に体を動かしたのが良かったのか、あるいは思ったよりも精神的に疲労していて、そのためだろうか。それでも、昨日と比べるとだいぶ早い時間に目が覚めたように思う。普段なら外が明るくなっているのがカーテン越しに見える頃かも知れないが、この場所にいる間はフーゴに教えてもらわない限りは具体的な時刻を知ることは不可能だ。
 ナランチャは起き上がり、“窓”を覗き込んだ。だが、その先にフーゴの姿は見えない。“窓”側の壁の傍は死角になってしまっているので、おそらくそこにいるのだろう。
「……フーゴ?」
 控えめな声を掛けてみたが、返事はない。やはりまだ眠っているのだろう。
 どうやらこの空間は、“窓”から少しでも離れると隣の部屋の物音はほとんど聞こえなくなってしまうようだ。“窓”の奥行きと同じ分だけ壁の厚みがある所為か、それともスタンドがそのように作用しているのかは分からない。何かあったら呼ぶようにと言われたが、離れてしまっている時はそれも不可能だと見るべきだろう。少し不便だ――トイレを使う音が隣に聞こえずに済むのは良いことだが――。
「フーゴが起きるまで待つしかないかぁ」
 ナランチャは溜め息を吐いてからベッドに戻り、腰を降ろした。そしてまた溜め息を吐いた。
(なんか、すごい静かだ……)
 ナランチャは隣の部屋にフーゴがいることを知っているが、そうでなければ近くに誰かいるとは思えないほどに静まり返っている。
 この部屋に閉じ込められてから、初めてひとりになった気がした。孤独を感じる……とまで言えば、大袈裟かつ感傷的かも知れないが。だが、改めて考えてみれば、2つの部屋は小さな“窓”でしか繋がっていないのだ。もしこの“窓”が何等かの理由で塞がれてしまったら……。果たして、この異常な状況にどれだけの時間耐えていられるだろうか――そもそも“耐えた時間”はどうやって知れば良いのか……――。実際の“窓”は小さなトンネルのような形状をしているが、ナランチャの頭の中には何故か2つの小島を繋ぐ橋のイメージが浮かんだ。もしそれが吊り橋のような不安定な物だったらと考えると、少し怖いと思った。
「フーゴ……」
 向こう側の部屋の家具――申し訳程度しかないが――も、おそらくここと同じような配置になっているのだろう。となると、2つのベッドは壁を挟んで隣り合っている状態になるのか。といっても、壁に触れてみたところで何も伝わってはこなかった。温かくも冷たくもない。力一杯叩いてみたとしても、音が聞こえるとは思えず、手が痛いだけで終わるだろう。
 要らない負傷をするわけにはいかない。壁の代わりに自分の頬をぺちぺちと軽く叩いて、ナランチャは立ち上がった。もう眠たくはないので、軽い運動をしながらフーゴの起床を待つことにする。昨日と同じく、腹筋、腕立て伏せ等をした後、隣に聞こえないのを良いことに――それでも一応は“窓”から離れ、壁の方を向いて――大声で歌を唄ってみたりもした。
 そうして過ごしたのは、――やはり時計がないので正確には分からないが――感覚的には1時間くらいだろうか。側転をしながら「飛び込み前転はやめておいた方がいいよな」等と思っていると、まだ眠たそうなフーゴの声が辛うじて聞こえた。
「……ナランチャ?」
 振り向くと、“窓”の向こうにフーゴの顔が見えた。ナランチャは急いで駆け寄った。
「おはよう!」
 昨夜振りに人へ向けて放った声は、自分の予想よりも弾んで聞こえた。一方フーゴは、眠そうに目をこすりながら欠伸をしている。声もいかにも寝起きといった感じだ。
「おはようございます。……だいぶ前から起きてました?」
「そうかも。今何時?」
 そう尋ねると、フーゴの視線は壁掛けの時計を探すように“窓”の上部へと動いた。数秒後、ここが自分の部屋ではないことを思い出したのか、「あ、違う」と呟いて、彼の姿は窓枠の外へと消えた。そのまま妙に長い間があり、もしかしてまた寝たんじゃあないだろうなと疑い始めたところで、のろのろとした足取りで戻ってきた。フーゴは腕時計を手に持っていた。寝る前に外していたのだろう。
「……もうすぐ、7時」
 やっと答えた声に欠伸が混ざった。
「もしかして、フーゴって朝弱い?」
「……朝から仕事がある時はちゃんと起きますよ」
 仕事がない時はずっと寝ているということだろうか。というか、微妙に答えになっていなかった気がする。きっとまだ脳味噌が起き切っていないのだろう。
 フーゴの寝起きの悪さはとりあえず置いておくとして、ナランチャが起きたのは普段と比べてもだいぶ早い時間であったようだ。だが体を動かした所為か、もうすっかり目が覚めた。そんなナランチャの様子を見て、フーゴは何か言おうと口を開いた。が、そこから出てきたのは先程よりも大きな欠伸だった。
「ここに来たの、着替えたあとで良かったな」
 皮肉っぽく言ってみたのに、リアクションは薄かった。
「……そうですね」
 やはりまだ半分眠っているらしい。
 日頃ナランチャが目にするフーゴの姿は、16という年齢以上にしっかりしていて、大人びた態度でいることが圧倒的に多い。任務の時も――チームに在籍している年数の長さゆえなのか――サブリーダーのような役割を与えられることが珍しくはない。だというのに、今のフーゴときたら、はっきり言って隙だらけだ。今なら九九を言えと言われても、出来ないのではないのだろうか――同じことをやれと言われることを回避するために、絶対言うつもりはないが――。ネクタイ――こちらも、時計と同じように寝る前に外したらしく、今はまだ付けていない――を裏表で結んでしまっても気付かなさそうだとすら思えた――ちなみにナランチャは元から結べない――。
(もしかしてオレ、すげぇ珍しいもの見てるんじゃあないか?)
 何故か口元が自然と笑みの形になった。寝起きのフーゴは、そのことに全く気付いていない。

 49:12:27

 結局、たっぷり30分以上掛けて、フーゴは目を覚ましたようだ。濡らしたタオルで顔を拭いて、ネクタイを締め、腕時計もちゃんと左手首に着けて、ナランチャに体調の異常等はないか少ししつこいくらいに質問し、その答えに満足して「それじゃあ朝食にしましょう」と言った頃には、すっかり見慣れたいつものフーゴになっていた。
「というか、先に食べてて良かったのに」
 缶詰を選んでいるナランチャに、フーゴは申し訳なさそうな声で言った。
 確かに、腹が減ってないと言えば嘘になる。だが、耐えられないというほどではない。もっとひどい空腹は、過去に経験したことがある。それより何より、食事は2人で一緒に取ろうと約束した。
「フーゴが起きるの待ってる間くらい、全然平気だって。缶詰は逃げないしぃー」
 足が生えて走り廻っている缶詰のイメージが頭の中に浮かんできた。かなりシュールな光景だ。それよりも丸い形状を活かして転がる方が速いだろうか。どちらであったにせよ、缶詰に逃げ廻る術があったところで、出口のないこの部屋の中ではいずれ捕まえることは可能だろう。
(でももし全部の缶詰が合体して攻撃してきたら……)
 これまたシュール過ぎる。全て集めればそれなりの重量になるから、案外攻撃力は高いかも知れない。
「朝っぱらから空腹状態で動き廻ってたんですか?」
 フーゴの怪訝そうな声に、ナランチャの思考は現実へと戻る。が、良く考えればこの何もない部屋の中も、凡そ現実味のある光景とは言い難い。
「うん、まあ。あ、でも、水分はちゃんと取ってたぜ!」
「あ、それは正解ですね。寝ている間って、意外と水分を失ってるんですよ」
 今日も朝はパンにすることにした。これはナランチャが選んだ。もう1つは何にしようかと考えていると、フーゴが「そろそろ動物性たんぱく質も取った方がいいですよ」と言い出した。
「確か、ソーセージの缶詰がありましたよね。それでどうです?」
「ホントになんでも缶詰になるんだなぁ。ってゆーかオレ、元々野菜とか果物とかの方がよく食うから、しばらく肉食わなくてもわりと平気なんだけど」
「ちゃんとバランス良く食べないと、背伸びませんよ」
「食べる」
 早速缶詰を開ける音に、フーゴが笑いを堪えている声が混ざった。
「わーらーうーなー!」
「笑ってません」
「嘘吐け!」
「あ、このパン、チョコ味ですね」
「え? ほんと? 昨日のは?」
「プレーンでした」
「色々あるんだなぁ」
 ナランチャはだいぶ慣れてきた手付きで缶を開けると、パンを一口サイズにちぎって口へ入れた。確かに昨日食べた物と違って、ほんのりとチョコレートの味がする。口の中の水分が奪われるという点は共通しているようだ。肉と一緒に食べるなら甘くない物を選んだ方が良かっただろうかと思ったが、今更だ。それに、チョコレートの味はするが、甘味はそれほど強くなく、案外平気だった。
「焼きたてのパンには負けるけど、これも結構いけるよな」
「流石にこれと比べたら、パン職人に失礼ですよ」
 それは確かに、とナランチャは頷いた。
「フーゴはパンに何塗る派?」
「まあ、普通にバターとか」
「そういえばバターとマーガリンって何が違うの?」
「動物性と植物性」
 ナランチャが首を傾げると、それが見えていたかのようにフーゴは続けた。
「分かり易く言うと、マーガリンはバターの代用品です」
「偽物ってことか」
「そこまで言っちゃいますか。バターの方がコクがあって、マーガリンはあっさりしているとよく言われますね。マーガリンの方が安価で、劣化が遅いという利点があります」
「ふーん」
「君は?」
「ん?」
「パンに、何塗るんですか?」
「ジャムでもチョコでもはちみつでも」
「節操なし」
「好き嫌いがないって言えよ」
 フーゴは言い直すことなく、ふふふと笑った。
 この会話だけ聞けば、誰も2人がおかしな空間に閉じ込められているとは思わないだろう。当人達も、他愛のないことを言っている間はそのことを忘れていたかも知れないくらいだ。
「高いジャムってさぁ、高いだけあって美味いんだよな」
「結構値段が比例しますね。まあ、わりとなんでもそうかな。パン自体も」
「あ、でもオレ、安くて美味いパン屋知ってるぜ」
「へえ」
「うちの近くにある」
「そんなのありましたっけ?」
「先月出来たばっかり」
「知らなかった」
「今度買ってってやろうか」
 フーゴの返事を聞く前に、ナランチャは「なんて名案なんだろう」と思った。パン職人が作った焼き立てのパンを食べながら、やっぱり缶詰よりこっちだよなと言い合えたら……。それはとても素晴らしいことであるように思えた。
「いいんですか?」
 心なしか、フーゴの声も弾んで聞こえた。ナランチャにはそれが嬉しかった。
「うん! 事務所で朝飯にしようぜ!」
「じゃあ、ぼくは飲み物を用意しようかな」
「マジで? やったぁ!」
「でもそうすると、全員分買わないと駄目ですかね」
「あ、そっか」
 5人分……いや違う。少し前から、チームの人数は6人だ。6人分の量となると、そこそこの値段になってしまう。重さ的にも、事務所まで持って行くの少々面倒かも知れない。ナランチャは「うーん」と唸った。
「あ、じゃあ、2人だけで留守番の時にしようぜ!」
 そう言うと、フーゴのくすくすと笑う声が返ってきた。そのあとで、賛同する言葉も。
 “勝負”の行方とは無関係に、もう1回分食事の約束が出来たようだ。

 48:02:47

 食後の時間は、1日目と変わらず――つまり何もないまま――過ぎていった。相変わらず外の様子は何ひとつ分からず、“中”の状況にも変化は見られない。白いだけの室内を眺めるなんてことには、もうとっくに飽きてしまっている。
 隣の部屋とのやり取りをしようと思えば、当然のように“窓”の傍にいる必要がある。ベッドとトイレも同じ壁に隣接する位置にある。そのため、彼等は会話の有無に拘わらず、ほとんどの時間を壁にくっついて過ごした。この部屋の中で過ごすには、“窓”がある壁側の1、2メートルだけあれば事足りるのではないかとすら思えた。改めて、無駄が多い空間だ。
「暇だぁー」
 ナランチャは“窓”の横の壁に凭れ掛かりながら言った。
「本でもあれば良かったですね」
「ほんんんー? オレはパス」
 漫画やページの大半が写真で埋まった雑誌等ならともかく、文字がずらりと並んだ小難しそうな本は視界に入れたいとも思わない。それなら、どれだけ続けて逆立ちしていられるかの記録にでも挑んだ方がまだいい。だがそれよりもっと良いと思うのは、
「フーゴっ! 話しよ!」
「はいはい」
 と言っても、敵について考えられるようなことは、もう1日目に考え尽くしたように思える。それ以前に考えたところでどうにかなるものでもないという問題もある。結局、2人は事務所の近くを縄張りにしているらしき猫の話で時間を潰すことにした。
「あいつって、いつからいるんだっけ」
「さあ……。もう1ヵ月くらいになりますか? 3月の頭くらいには、もういた気がしますね。任務から帰ってきたらいたんじゃあなかったかな」
「すっげぇ人に慣れてるよな」
「誰かに飼われてるんじゃあないの」
「そうかなぁ」
 もしこの空間に猫がいたら、退屈は紛れるだろうか。だが猫は話し相手にはなってくれない。隣室のフーゴと同室の猫、どちらか一方だけを選択出来ると言われたら、どちらを選んでいただろう。
「猫と言えば」
「ん?」
「三毛猫はほとんどがメスって、知ってましたか?」
「え、なんで?」
 こんなやりとりは、猫とは出来ない。やっぱりフーゴの方がいいかなと、ナランチャは思った。
「そもそも三毛猫っていうのは、白、黒、オレンジの3色の毛が生えてる猫のことです。この内オレンジ色を作っている遺伝子が、X染色体にしか存在しないんです」
「はい、せんせー。何言ってんのか分かりませーん」
 フーゴはくすくすと笑った。
「簡単に説明するのはちょっと難しいですね」
「じゃあいいや」
 人間にだって片方の性別しか持っていない器官がある。猫の一部の毛色もそれと似たようなものと思っておくことにしよう。ナランチャがそう言うと、フーゴはまた笑った。
「三毛猫のオスは高額で取り引きされることもあります」
「へぇ。両親が三毛だったら、仔猫も三毛になるのかなぁ」
「三毛猫のオスは繁殖能力を持たないことが多いようです。これもさっきの染色体の話が関わってくるんですが……。説明、します?」
「いや、いい。とにかく、本当にレアだってことだな」
「そもそも猫の毛色って、ちょっと変わってるんですよ。クローン猫を作っても、オリジナルと同じ色、模様になるとは限らないんです。親子でも全然違う見た目の子供が生まれてきたりもしますしね」
「そうなんだ。じゃあ、子供を作れるオスの三毛猫がいたとしても、生まれた子供は真っ白だったり縞々だったり、そういう可能性もあるのか」
「そういうことです」
 フーゴはナランチャが話を理解出来たことを喜ぶように頷いた。
「猫の色といえば、黒猫は不吉だって言われたりしますね」
「別に猫がなんか悪さしてるわけじゃあないのにな」
 そんな風に言われていることを知ったら、猫は憤慨するだろうか。それとも、ねずみを追ったり毛づくろいをしたり日向ぼっこをしたりするのに忙しくて、そんなことには構っていられないとそっぽを向くだろうか。
「外国では、黒猫は幸運を呼ぶと言われることもあります」
「そうなんだ」
「つまりどっちも根拠なしってこと。猫は猫です」
「だよな。オレは何色だって、猫は好きだよ」
「ぼくもです」

 44:56:52

「何してんですか」
 フーゴがそう言った時、ナランチャは逆立ちをしていた――意外と支えなしでも出来た――。昼まで少し休んでいようと言われ、これまでと同じように軽い運動をして時間を潰していたのがその理由だ。声を掛けられたのは不意のことだったので、危うくバランスを崩して倒れるところだった。なんとか踏み止まり、両足で着地する。“窓”に駆け寄ると、フーゴは訝し気な顔をしていた。
「何をしてたんです?」
「逆立ち!」
「怪我しないでくださいよ」
「大丈夫!」
「というか、なんでそんなことを」
「だって暇じゃん?」
「ぼくは死ぬほど暇になっても逆立ちしようとは思わないな」
 フーゴは呆れたように笑った。
「でも、血の巡りがいつもと変わって、なんか新しいこと思い付いたりしそうじゃねぇ?」
「なるほど? で、何か思い付いたわけ?」
「なーんにも」
「やれやれですね」
 フーゴは肩をすくめる仕草をしてから「食事の時間ですよ」と言った。本日2度目の食事は、フーゴが選んだ魚の缶詰――2種食べ比べ――に決まった。これまでに食べてきた物同様、まあまあ美味いと言える味だった。が、
「うーん、そろそろ缶詰以外の物が食べたい」
「同意です」
 やはり緊張感がない所為か、口から出てくる言葉のいくつかは不満のそれになりがちだ。ここを出てスタンドの本体を見付けたら、いいだけ文句を言ってやろうと心に決めた。が、それより前に、缶詰ではない食事を取るというのもいいかも知れない。
「ここにきてから食べ物のことばっかり話してますね」
 フーゴが少し笑いながら言った。
「あー、そうかも」
 この場所に他の物がないことが原因だろう――寝具やトイレの話をしたいとは思えない――。
「食べ物の話と、あとは……」
 他に話したことと言えば……、
「あ」
「なんです?」
「一流シェフが勧めたって猫は食べないからな!」
「ああ、猫の話もしましたね」
「じゃあ次は食べ物と猫以外の話にする?」
「そうですね」
「そうだなぁ、じゃあ……」
 口の中の物を呑み込むと、それと入れ替わるように言葉が出てきた。
「フーゴって、なんでギャングになったの?」
 フーゴが言葉を返してくるまでに、わずかな間があった。
「なんですか、いきなり」
「いきなりじゃねーよ。話するって言ったじゃん。なんだかんだで聞いたことなかったなーって思って。っていうか、今まではなんとなく聞いちゃいけないのかなって気がしてたんだけどさ。他のみんなも、そういう話してるの、あんまり聞いたことないし」
 まともな人生を歩んできた者が、わざわざ道を踏み外すことを選ぶとは考え難い。おそらくそうせざるを得ない事情があったのだろう。それは、人に話して愉快なことではないかも知れない。だが、許されるのであれば知りたい、知ってみたいと、ナランチャは思った。誰に対してもそう思うわけではない。これはおそらく、フーゴが相手だからだ。
「今めちゃくちゃ暇だから、ぽろっと答えてくれるかなーって」
 半分茶化したような言い方をしつつ、無理強いをしたいわけではない、言いたくないならそれでいいと続ける。その言葉を無視するように、フーゴは少し長めの溜め息を吐いてから口を開いた。
「別に、面白い話でもないですよ。学校で馬が合わない教授を殴って、あとはそのまま」
「ふーん?」
「落ちぶれる切欠としては、そんなに珍しいものでもないでしょう?」
 確かにフーゴは、気が短いと言わざるを得ない性格をしている。理由さえあれば、目上の者であろうと容赦なく殴り付けるだろうと容易に想像出来る。が、“理由さえあれば”だ。それを今、彼は言わなかった。さらに、「そっちはなんで」と聞き返してくることもなかった。それは、数時間前、ナランチャが寝起きのフーゴに「九九言える?」と尋ねなかったのと同じ理由からだろうか。
(つまり、やっぱり言いたくないってことだよな)
 あるいは、先に組織に所属していたフーゴには、ナランチャの“志望動機”はとっくに知られているというだけのことかも知れないが。
 とにかく、フーゴが望まないと言うのであれば、この話はもう終わりだ。ナランチャは「なるほどね」と納得したフリをして、「フーゴの髪の色って、それ地毛?」と別の話を始めた。

 43:53:57

「そういえば、思い出したんだけどさ」
 ふと会話が途切れたタイミングでのことだった。頭の中で、一瞬何かが光を放ったような感覚があった。それと共に脳裏に浮かび上がってきた映像……。それは、文字がたくさん書かれた『リスト』だった。
「このスタンド使い、オレ知ってるかも。いや、直接知ってるわけじゃあなくて、いるってことを知ってるって言うか……」
「待って、ナランチャ。どういうことです?」
 フーゴは何を言っているのか分からないと言うような顔をしている。確かに、説明の順番がめちゃくちゃだ。ナランチャは深く息を吸ってから、改めて言った。
「オレ達、手分けしてスタンド使いの情報を集めてただろ? そのリストに書いてあったやつ、このスタンド使いかも知れない」
 そのリストは、白い紙に書かれた表の形をしていた。記載されているのは、スタンド能力によるものと思われる現象の内容、本体であると思われる人物の名前や特徴、連絡先、その他色々。埋まっている欄の方が少ないのは、まだ調査が始まったばかりであるためだった。そんな中で、“その人物”は比較的多くの情報が書き込まれていた。ナランチャの目に留まったのも、それが理由だろう。だとしても、「お前はフーゴと一緒にローマ方面を」と指示された時にざっと目を通しただけのそれの、ましてや自分の担当区域外の項目に書かれていたものを思い出したのは、奇跡的な出来事であると言えるかも知れない――本当に逆立ちで血の巡りが良くなったのだろうか――。
「確か、スタンド名は『ザ・ルーム』だったかな。本体の名前は『スタンツァ』。能力は、『部屋』を作り出して、中に人を入れること」
 それ以外に能力の詳細として書かれていたのは、『その部屋からは条件を守らないと出られない』『条件は中にいる人間(最低1人以上)に提示する必要がある』の2つだった。
「出身地とか体形までは書いてなかったなー」
 敵がどんな人物か当てるという勝負の行方は、まだ分からないということだ。
 フーゴは何も言わず、じっとこちらを見ている。
「……フーゴ?」
「びっくりしました」
 数秒の間を置いてから、フーゴはやっとそう言った。
「君がそんなに細かく覚えてるなんて」
「なんかしつれーな言い方だなぁ」
「だって、君の担当じゃあなかったのに……」
「たまたまだよ。たまたま目に付いたのを、今思い出しただけ」
「ふうん」
 そういえば、あのリストに書かれた文字は、フーゴの筆跡ではなかっただろうか――ナランチャはフーゴに勉強を教わっているので、彼の字は何度も見たことがある――。だがフーゴはそれを覚えていないようだ。あるいは、調査したのは別のメンバーで、フーゴはそれを機械的に書き写しただけだったのかも知れない。彼は以前から資料をまとめたり報告書を作ったりする役目を与えられることが多かったから、今回もそうであった可能性は高い。いくつもの情報を書き写すのに、いちいちその内容までは覚えていられなかったのだろう。
「でも、偽名っぽいよな。スタンドが『Room(部屋)』で本体の名前が『Stanza(部屋)』なんて」
 なんと言うか、そのまま過ぎる。自分の意思で名付けることが出来るスタンド名はともかく、本体の名前までとは――というか、我が子に『部屋』なんて名前を付けたがる親がいるのだろうか――。この人物のことを調べたのは誰だったのだろう。何故こんな名前で疑わなかったのか……。それとも、疑いながらもその場で本当のことを喋らせるのには苦労しそうだと判断して、あとからもう一度調べ直すつもりだったのだろうか。あるいは途中で逃げられたのか。
「で、本題なんだけどさ」
 ナランチャは身を乗り出すように“窓”に寄った。
「そいつの仕業だとすると、ちょっとおかしいんだ」
「おかしい?」
 フーゴは眉をひそめながらナランチャの言葉を繰り返した。
「『条件の提示』ってのがないんだよな。スタンド能力を発動させるためには、部屋を出るためのルールを作って、それを中にいる人間に知らせないといけないって、リストにはそう書いてあったんだ」
 この部屋の中は1日目に探索済みであるが、それらしき物はどこにも見付からなかった。この事態がナランチャがリストで見たスタンド使い――自称スタンツァ――の仕業であるとすると、ルールがないのはルール違反であるということになってしまう。
「調査報告が間違っていたか、あるいは、別人なのでは?」
 ナランチャが首を傾げていると、フーゴがそう言った。間違い……それはあるかも知れない。だが、後者……、こんな能力の持ち主が他にもいるというのは、ちょっと納得出来ない。こうして2人が閉じ込められている理由も、先の調査の時に何か相手にとって不利益となりえるような情報をこちらが掴んでしまったために、口止めの目的でと考えると、それなりに筋が通っているように思えるくらいだ。
「それよりさ、まだ見付けてないだけで、どっかにあるんじゃあないかな。“ルール”」
 物を隠せるような場所はほとんどないが、例えば白い壁に白いインクで書かれている等だったらどうだろうか。あるいは、ちょっと見ただけでは文字だと分からないようにカモフラージュされているとか……。そんなインチキのようなやり方でも、スタンド使い本人が「条件は提示している」と判断しているなら、能力は発動するのかも知れない。
「フーゴの方には、なんかない?」
「ない……と、思います」
「もっかい探してみようぜ」
 ナランチャは部屋の隅に駆けて行き、ベッドの裏側を覗き込んでみた。シーツも剥がし、マットレスの下までチェックした。だが、変わった物は何も見付からない。缶詰も――すでに空になっている物も含めて――全て見てみたが、底に小さな文字が1つずつ書いてあって缶の高さの順に並べ替えると文章になっている、なんてこともなかった。白地に白い文字の可能性も考え、角度を変えて部屋中を眺めてみたが、こちらも同様だ。
「ないなぁ」
 “窓”の傍に戻ると、先に戻ってきていたフーゴも首を横へ振った。
「こっちにも何もありません」
「そっかぁ。じゃあ、やっぱり別人? うーん、でもなぁ……」
 なんだかすっきりしない。
「まあ、本体のことが分かったところで、中にいる内はなんも出来ねーんだけど……」
「そうですね」
「でも、そいつが犯人だったら、ブチャラティ達がすぐ確保出来るかも知れないよな。リストに情報があるってことは、一回は誰かが接触してるってことだろ?」
「そうなりますね」
「じゃあそれに賭けるしかないなぁ……」
 やっと手掛かりらしきものに行き当たったと思ったのに、実際には何も出来ないことがもどかしい。自分で動くことが出来ないにしても、せめて“外”へ情報を伝えられれば良いのに……。
「ナランチャ、そんなに深刻になる必要はありません。敵のことは、ここを出てから考えましょう? もう折り返しと思っていいでしょうし、もう少しの辛抱ですから……」
 フーゴは真剣な眼差しをこちらへ向けていた。フーゴにそんな顔をさせるなんて、それほどまでに深刻そうな表情をしてしまっていたのだろうか。頭の中のもやもやを払うように、ナランチャは頭を軽く振った。
「そっか、もう半分は過ぎたんだよな」
「ええ」
「……うん、そうだよな。今は手も足も出せないけど、それでオレ達の負けってわけじゃあないもんな!」
「ええ。ここを出たら、敵を探しに行きましょう。ぼく達2人で」
 フーゴは“窓”を塞ぐ金網に手を当てながらそう言った。ナランチャは再びもどかしさを感じた。その理由は、先程までとは違う。金網に掛かるフーゴのその指に触れることが出来ないのがもどかしいのだ。本当なら、ハイタッチか握手でもしたい気分だというのに。
「うん。絶対に見付けて、ぼこぼこにしてやろうぜ!」
 触れる代わりに力一杯頷いてみせた。フーゴは満足そうに――あるいは安心したように――微笑んだ。

 40:57:47

「フーゴはさぁ、無人島に何かひとつだけ持って行けるとしたら、何持ってく?」
 どうにかして破壊することは出来ないだろうかと“窓”を塞いでいる金網を眺めながら――そもそも壊せたところでこの“窓”が外に繋がっているわけではないのだが――、ナランチャはごくくだらない質問をしてみた。それは、明け方にイメージした2つの小島とそれを繋ぐ橋のイメージから思い浮かんだのかも知れない。フーゴは爪が少し伸び気味なのが気になるのか――数時間前に「切ってから来れば良かったな」と呟いていた――、指先を眺めながら「その質問ね」と返した。
「それ、わりと良く聞きますけど、無人島に何しに行ってる設定なんでしょうね。目的があって行くなら、持ち物がひとつだけというのは現実的じゃあありませんよね」
「きっとさ、乗ってた船が沈んだんだよ。それか飛行機が海に墜落したか。そんで、無人島に流れ着いて、助けを待ってるってこと」
 多少は今の2人の状況に近いと言えるかも知れない。大きく違っているのは、目下のところ命の危険に晒されるような心配がないことか。
「その設定で好きな物をひとつだけ持てるというのもいまいち納得出来ませんが、まあ『例えば』の話に、リアリティは求めるなってことなんでしょうね」
「うんうん、そーゆーこと」
 会話の目的は時間潰しだ。ゆえに、振った話題が逸れかねない返しも――普通なら「オレの話を聞けよ」と思うのかも知れないが――今は全く不愉快ではない。消費しなければならない時間はまだまだある。話題なんて、何度でも戻せば良いし、逸れた結果もっと多くの話題が生まれてより長い時間が潰れるのなら、むしろ望むところだ。2人はもうそんなことを何度も繰り返している。脈絡のない唐突な議題にも、とっくに慣れた。
「ぱっと思い付くのは、飲食物ですかね」
 確かに、それがあるから、こんな状況でも呑気にお喋りをしていられるというのはあるかも知れない。
「でも、島に食べられる物があったら、要らないんじゃねぇ?」
「食べられる物?」
「動物とか植物とか」
「なるほど、狩りをするわけですか。でも、道具もなしに出来るかな。狩りの道具で『好きな物をひとつだけ』を使うことになりますね。そうなると、複数の用途で使える物がいいですね」
 今欲しいと思うのは金網を破壊出来るような工具だなとナランチャは思った。フーゴは、爪切りがいいと思っているのだろうか。
「植物なら動き廻らないからすぐ採れるぜ」
「害のない物かどうかの知識が必要になってきますね。専門家でもないと、見分けるのが難しい物も多いですよ」
「あー、それもそうかぁ」
 そのような知識は、フーゴならともかく、ナランチャにはない。そう考えると、やはり食料は持参するべきなのかも知れない。だが『ひとつだけ』という条件なら、1種類の物だけをずっと食べ続けることになるのだろうか。それは飽きそうだ。
「あと、野生の動植物は調味料がないと食べ難いかも知れませんよ」
「ああ、味付け?」
「そうそう」
「塩なら海の水があるぜ」
「それよりお勧めはカレー粉です。カレー粉があれば、どんな物でもなんとか食べられるって言いますからね」
「どんな物でも?」
「野生のネズミとか、ヘビとか、昆虫とか」
「うげぇ……」
「臭みを消すには匂いが強いカレー粉が最適なんだとか。そういう理由で、サバイバル時の備えとして、軍が隊員に持たせたりもします」
「うわぁ」
 ナランチャは思わず顔を歪めた。
「猫もだけど、野生動物も食いたくねーな」
「ぼくもです」
「じゃあ、食べられる植物とかがいっぱいあって、飲める水もある島だったら? そんで、危ない動物とかもいないの」
「随分と都合のいい島ですね。リゾート開発されていないのが不思議なくらいだ」
 フーゴはくすくすと笑った。
「それなら、物より話し相手がいいかな」
「そういうのもありかぁ」
 確かに、ひとりきりでは退屈に耐えられなかっただろうとは何度も思った。この会話も、相手がいなければ成立していない。
「そういえば、この質問って正解ある?」
「ありませんね」
 フーゴはあっさりと答えた。
「しいて言うなら、心理テストみたいなものですかね。その人が価値があると思っている物が分かる……的な」
「なるほど」
 つまり、フーゴは“仲間”が大切だということか。ナランチャも昔、そう思っていた。友情こそが何よりも大切で、それと比べれば他の物等取るに足りないとすら思っていた。だが、あることを切欠に、ナランチャはそれを信じることをやめかけた。だが今なら、
(もう一度信じられるかも知れない……)
 いや、“スデに”なのかも知れない。スデにナランチャは、「やっぱりあの考え方は間違っていなかった」と信じているのかも知れない。
 気が付くとナランチャは“窓”の向こうにあるフーゴの顔をじっと見ていた。フーゴも見られていることに気付いたようで、「どうかしましたか?」と首を傾げる。ナランチャは首を横に振って否定の意を示した。同時に、笑顔を見せた。
「なんでもない!」
「それならいいですけど……、って、あ!」
「えっ、何っ?」
「今、また食べ物の話になってましたね」
「あ! ほんとだ!」
「無意識でしたね」
「オレ達って食い意地張ってる?」
 2人分の笑い声が“窓”の中に響いた。

 35:34:40

 ナランチャは大きな欠伸をした。眠たくなったわけではない。やはり退屈なのだ。この部屋の中と外とで、時間の流れる速度が同じだとはとても思えない。
 時間を尋ねると午後9時を過ぎたとフーゴが答えた。やっと2日目の終わりが近付いてきている。
 もう寝るかと聞こうとすると、フーゴの方が先に口を開いた。
「ナランチャ、ここを出たら、まず何をしますか?」
「あれ、ピッツァとジェラートじゃあないの?」
 また食べ物の話だ。逆に「ワインもいいなぁ」とその話題を続けると、フーゴは口元に手を当てて笑った。
「でも、ここを出てすぐに“答え合わせ”が出来るとは限らないですよ」
「あ、そっか」
 スタンド使いが外で待ち構えていてくれれば話は早いが、きっとそう都合の良いことにはならないだろう。確保までに数日掛かる可能性だってある。
「でも、それはそれとして、なんかまともな物食いに行きたくねぇ?」
「それは否定しません」
「だろ? だから、とりあえず腹ごしらえしに行こうぜ!」
「……一緒に?」
「え? 駄目?」
 特に理由はない。が、自然とそのつもりでいた。言うなれば昨日からの延長だ。だが丸3日も一緒にいて、少しはひとりでゆっくり過ごしたいと思うのが普通だろうか。「フーゴが嫌なら」と口を開こうとすると、ゆるゆると首を振る仕草が返ってきた。
「いえ、一緒に行きましょう」
 フーゴは微笑んでいた。それを見て、ナランチャは安堵の溜め息を吐いた。同時に、胸の奥が温かくなったような気がした。
「うんっ、一緒に行こう!」
「それもピッツァとジェラートですか?」
「んー、同じじゃあない方がいい?」
「じゃあ、明日また聞きますから、何がいいか考えておいてください」
「うん、分かった!」
 それからもう数分ほど他愛のない話をしてから、フーゴは「そろそろ寝ましょう」と言った。
「ちゃんと寝られるかなー」
「昨日は? 寝られなかったんですか?」
「いや、意外と寝た」
「君そんなに繊細じゃあなさそうですもんね」
「しつれーだな。昨日大丈夫だったからって、今日も大丈夫とは限らないじゃん」
「羊を数えてみたら?」
「あれって意味あんの?」
「英語ならね」
「どーゆーこと?」
 もしフーゴが眠たいと思っているのであれば、「いいからさっさと寝ろ」とでも返ってきていただろう。だが今度も、そうはならなかった。
「英語で羊はsheep。眠りはsleep。音が似てるでしょう?」
「似てたって眠くはなんないだろ……」
「『one sheep, two sheep……』と繰り返す時の呼吸のリズムが、睡眠時のそれに似てるとも言われています」
「ふーん?」
「単純な思考で眠気を誘うとか、羊が広々とした農地にいる風景を思い浮かべることでリラックスするとか、そういう効果もあるようですよ」
「じゃあ、全くの無意味ではない?」
「ぼくはやってみようとはあんまり思いませんけどね」
「えええっ? なんだよそれぇ」
 フーゴは無邪気な子供のように笑った。あまり見慣れない様子に、ナランチャは思わず目を見張った。フーゴはそのことには気付いてないようだ。今日は起きてすぐと寝る前と、2度も珍しいフーゴを見てしまった。……なんだか、くすぐったいような感じがする。ナランチャは、やっぱりすぐに寝付くのは難しそうだと思った。
「それじゃあナランチャ、また明日」
「うん、おやすみ」
「おやすみなさい」
 ベッドに仰向けになり、言われた通りに羊を数えてみたが、案の定、少しも眠くはならなかった。そうこうする内に頭の中の羊が大脱走を始めたので、ナランチャは数えるのをやめた。

 24:59:34

 この奇妙な部屋で最初に目を覚ました時のように、ナランチャは自分の名を呼ぶフーゴの声で眠りから覚めた。この空間は、“窓”から離れると隣の部屋の物音はだいぶ聞き取り難くなってしまう。にも拘わらず今その声が聞こえているということは、フーゴは小さくはない声でナランチャを呼んでいるのだろう。もしかしたらもう何分も前からそうしているのかも知れない。
(起き、ないと……)
 両手で体を支えて起き上がる。その動作には、思った以上の時間を要した。なんだか全身が重たい。それに、少し寒い。
(なんだこれ……、風邪?)
 目を覚まそうとして頭を振ると、目の前の光景が歪むような感覚がした。
(気持ち悪い……)
 フーゴの声はナランチャを呼び続けている。
「今……、行く……」
 少しフラ付きながらも“窓”の前まで移動すると、その向こうにいるフーゴは眉をひそめた。ナランチャが何か言うより早く、彼は異変を察したらしい。
「ナランチャ? どうかしましたか?」
 「なんでもない」と言おうとした。だが声が出るより先に、床が傾いていくような感覚に襲われ、ナランチャは壁に手をついた。支えなしで立っていることが出来ない。煌々と照らされているはずの室内が、次第次第に暗くなってきている気がする。
「ナランチャ?」
 一言で言えば『体調不良』というやつだろう。ただの風邪なのか、それ以外の何かなのか、その判別はナランチャには出来ない。
「フーゴ、……ごめん」
 隠し通そうかと思えたのは一瞬だけだった。この様子で「なんでもない」なんて言っても、フーゴは信じないだろう。いくらなんでも無理がある。自分だって信じない。
「なんか、ダルいかも……」
 壁に凭れ掛かるも、その体は強い力で引っ張られるかのように少しずつ地面へと崩れていく。ついには床にへたり込んでしまった。
「ナランチャ!」
 フーゴの叫び声は、水中で鳴る音のようにどこか不鮮明に聞こえた。その声に混ざって、突然何かを叩くような鈍い音が響いた。
「……フーゴ?」
「くそッ……!!」
 今のは、おそらくフーゴが壁に拳を叩き付けた音だ。そんなことでこの部屋を破壊出来るわけはない。下手をすれば、フーゴの方が負傷しかねない。
「フーゴ、なにして……」
「ぼくは馬鹿だ! こんな事態も想定出来ないなんて……ッ!」
 頭がぼーっとする。そうでなくても、ナランチャにはフーゴが何を言っているのか理解出来なかっただろう。この不測の事態に、フーゴの非なんて一切ない。仮に想定出来たとしても、薬も医者も存在しないこの場所にいて、対処なんて出来たはずがないのだ。それなのに、フーゴは己を罵倒するかのようなことを……。
「安全に監禁するつもりなら薬類も用意しておくべきだってことがどうして分からないんだッ」
 今度のは、この空間を作り出した敵へ向けたものだろうか。続いて吐き出された呪詛にも似た言葉は、その対象をフーゴ自身と、姿も知れぬ敵、両方へと、ランダムに切り替わりながら何度も繰り返された。どうやら彼は、完全に冷静さを欠いてしまっているようだ。
「どうして……、どうしてこんな……。そんなはず……。駄目だ。許さない。絶対に、許さないっ」
 再び鈍い音が響く。フーゴが壁を殴り付ける理由は、それをここにいない誰かの代わりにしているのか、それとも、己を傷付けるためなのか……。
「ふー、ご……、やめろって……。怪我、する……」
「ごめんなさい、ナランチャ。ごめんなさいっ。ぼくはっ……、ぼくは……ッ!!」
 「フーゴは悪くない」そう伝えたいのに、手にも足にも力が入らない。それにやっぱり寒い。体に大きな穴が空いて、そこから多くの血液が流れ出てしまったとしたら、こんな感じがするのだろうか。“窓”から顔を出すことが、ナランチャにはどうしても出来ない。それどころか、意識はどんどん遠退いていく。
 何が起こっているのかは全く分からない。だがナランチャは、薄れゆく意識の片隅で、温かさに似た感情が芽生えていることに気付いた。フーゴが自分の名を呼んでいる。フーゴが、自分の身を案じ、自分のために怒り、自分のために心を痛めてくれている。壁を隔ててはいるが、傍にいてくれている。そのことが、何故だか嬉しいことであるように感じた。
(でも、『ありがとう』も言えそうにないし、それに、目が覚めるまでの間、フーゴをひとりにしちまうな……)
 それだけは、心苦しい。

 19:57:39

 いつ目を覚ましたのか、ナランチャには自覚することが出来なかった。気が付くと白い床に片方の頬を密着させるような体勢で倒れていた。何度か瞬きを繰り返してから、ようやく自分がここに“いる”ことを認識する。
 気を失っていた時間はどのくらいだろうか。その感覚は全くないが、とりあえずは無事だったようだ。ゆっくりと起き上がると、少し体に痛みがあった。だがそれは、固い床の上で不自然な体勢のまま眠ってしまった所為だろう。それ以外は、呼吸も脈拍も体温も、自覚出来る範囲にはなんの異変もないようだ。
 ……いや、何かがかすかに聞こえる。耳を済ませてみると、それは隣室から聞こえる声だった。ナランチャの名を、繰り返し呼んでいる。それと、謝罪の言葉。
(フーゴ……)
 ナランチャが眠っている間、フーゴはずっとそうしていたのだろうか。悲痛とでも表現したくなるようなその声に、ナランチャは胸の奥の方に締め付けるような痛みを感じた。
 ナランチャは声を出そうとしたが、上手く出来ずに少しだけ咳き込んだ。すると隣室の声がピタリと止む。
「フ――」
「ナランチャ!?」
 先に呼ばれてしまった。壁に手を付きながらも立ち上がり、“窓”から顔を見せると、その向こうに険しい表情のフーゴの顔があった。
「ナランチャ!」
 一瞬、「なんて顔してんだよ」とでも茶化してやろうかと思った。が、こちらを見る目があまりにも真剣で、そんなことは出来るはずもなかった。代わりに口にしたのは先程までフーゴが繰り返していたのと同じ、謝罪の言葉だ。
「ごめん。今起きた。もう大丈夫だから」
「本当に?」
「うん」
「どこか痛いところは」
「ないよ」
「良かった……。本当に良かった……っ」
 俯くように視線を下げたフーゴの肩は、小さく震えているように見えた。まさか泣いているのだろうか。
「フーゴ……」
 もしかしたらフーゴは、冷静であるように見せてその実、他人には計り知れないほどの不安を抱えていたのだろうか。日常とかけ離れたこの事態に、ナランチャ以上に神経を磨り減らし、それでも気丈に振る舞っていたのだとしたら……。
(オレの方が年上なのに、気付いてやれなかった……)
 ナランチャは、フーゴの震える肩を支えてやれないことを、今までにないほどにもどかしく感じた。
「フーゴ、オレもう大丈夫だから。心配させてごめん」
「ぼくこそ、ごめんなさい、ナランチャ」
「フーゴはなんにも悪くないって」
「もし君に何かあったら、ぼくは……」
「大丈夫だって。しばらく寝て、すっきりしたくらいだぜ」
 ナランチャは両の拳をぐっと握ってみせた。続いてその両手をぶんぶんと振り廻してみせる。
「な?」
「……本当に?」
「ああ」
 ようやく、フーゴの険しい表情が和らいだ。
「そんなに心配してくれたのかよ。ありがとな」
「いえ。……ぼくは、何も出来なかった……。とめられなかった……」
「フーゴの所為じゃあないんだから」
「ご――」
「もう謝るの禁止」
「でも……」
「ダメ」
「……とりあえず、ここを出るまでは安静にしていてください」
「うん。分かった」
 じっとしているのは退屈だが、これ以上フーゴを不安にさせたくはない。幸いにも残りの時間はあと1日を切っているようだし、そのくらいなら我慢して、運動も控えていることにしよう。
「あと、時間はちょっと中途半端だけど、食べられそうなら食べてください。水分も補給して」
「了解。ってか、今何時?」
「昼の1時を少し過ぎたところです」
 思ったより長く気を失っていたようだ。ナランチャは急に空腹感を覚え、早速缶詰の箱を覗き込んだ。最初に「1度の食事で2個」と決めてはいたが、途中で数を減らした分と、今朝食べなかった分があるために、意外と選択肢は残っている。
「フーゴは昼食べた?」
「……いえ、まだ」
「そっか。じゃあ一緒に食べようぜ。何残ってる? 朝は何食べた?」
 その質問に、返ってきたのは沈黙だった。
「……フーゴ?」
 ナランチャは顔を上げて、“窓”の向こうへ目をやった。フーゴはわずかに顔を背け、こちらへ視線を向けまいとしているようだった。
「フーゴ?」
 聞こえなかったのかと思い、もう一度問い掛ける。すると、溜め息交じりの声が、やっと答えた。
「何を選んでも大丈夫です。君が好きなのを選んでください」
「……どういうこと?」
「……こっちにも、君と同じだけ残ってます」
 つまり、食べていないということか。昼の分は少し遅くなっただけだとしても、朝の分までも。
「なんでっ!?」
 ナランチャは思わず声を荒らげた。
「ちゃんと食べた方がいいって言ったのはフーゴだろっ! なんで朝食ってねーんだよっ!?」
「……水分はちゃんと取ってるから大丈夫ですよ」
「そういうことを言ってるんじゃあないッ!!」
 フーゴは視線を外したまま黙り込んだ。だがナランチャが睨むように目を向け続けていると、ようやく長い溜め息の後に答えた。
「……君が倒れてるってのに、何も出来ないんですよ? そんな時に食事なんて、取る気になれない」
 その言葉に、今度はナランチャが黙った。もし2人の立場が逆であったら、きっと自分も同じように思っただろう。フーゴを非難するのはお門違いだ。むしろ、非は自分の方にある。そんな風に思った。
 ナランチャの「ごめん」と言う声と、フーゴの「ごめんなさい」と言う声が重なった。謝罪の言葉は先程禁止にしたはずなのに、もうなかったことになってしまったようだ。
「ナランチャ、ぼくは君を守りたいんです。それなのに、こんなに近くにいるのに、何も出来ないまま、君に何があったら……。敵がどうとか、そんなのは関係ないんです。ぼくは、ぼく自身を許せない。絶対に」
 フーゴはきっぱりと言い放つと、視線を真っ直ぐに向けてきた。
「そんなのっ……」
 ナランチャは金網に掴み掛かった。
「そんなの、オレだって同じだぜ。敵のスタンド使いのことは、捕まえて話聞いてちょっと懲らしめてやればいいかなって思ってたけど、もしフーゴに何かあったら、絶対に許さない」
「ナランチャ……」
 2人は幾度目かになる謝罪の言葉を繰り返した。それはいつしか、感謝を伝える言葉へと変わっていた。
「ありがとな」
「ぼくの方こそ」
「なんにも出来なかったって言ったけど、そんなことねーよ。壁の向こうでも、フーゴがいるって思ったら、それだけで心細くなかったぜ」
 おそらく、独りだったらもっと不安だった。フーゴがいてくれて、良かった。
「無人島に持って行くなら、オレもやっぱり仲間だな!」
 満面の笑みを見せながらそう言うと、小さな明かりでも灯ったかのように、フーゴの頬にわずかな赤みが差した。
「よし、食事にしようぜ! 一緒に!」
「はい」
「何がいいかなぁ」
 わざと明るい声を出してそう言うと、少しぎこちなさを残しつつもフーゴも微笑んだ。今はそれで充分だ。
「食欲あります?」
「ある」
「即答」
「そういえば、昨日……? 1日目? 忘れたけど、なんでも缶詰になるんだなぁって言ったけど、イチゴの缶詰って見ないよな」
 ここにない。というだけではなく、“外”の世界で売られているのを見たこともない。
「食べたいんですか? イチゴ」
「フーゴ、イチゴ好きだろ?」
 フーゴの返事は聞こえなかった。だがその認識はおそらく間違っていないという自信がナランチャにはある。
「フーゴの好きな物もあったらいいのになぁって思って」
 ここにあるのは、どちらかと言えばナランチャが好きな物が多いようだ。改めて残りの缶――半分が果物だが、やはりイチゴはない――を見ながらそう思っていると、フーゴが何も言わなくなってしまった。
「フーゴ? どした?」
「いえ、なんでも。ええっと、イチゴですね? イチゴは、缶詰用に加工するのに向いてないんですよ」
(あ、やっぱり知ってた)
 おそらくそうだろうなとは思っていた。が、フーゴが「イチゴの缶詰はどうしてないんだ」と残念な顔をしながらその理由を調べているところを想像すると、思わず噴き出しそうになった――もしかしたら最初の頃に言っていた缶詰の起源も、その時に知ったのだろうか――。しゃがみ込んで段ボール箱の中を見ていたので、その顔を見られずに済んだのは幸いだ。
(なんか可愛い)
 ナランチャが下を向いて笑いを堪えているなんてことを知らないフーゴは続ける。
「イチゴを缶詰にすると、ジャムのようになってしまうそうです。それなら、最初からジャムでいいだろってことですね。あれも保存食ですから」
「なるほどねー」
「それか、ドライフルーツですかね」
「ああ、そういうのもあるんだ。そういうのは嫌い?」
「嫌いではないですが……」
 やはり生のイチゴの方が好きであるようだ。ナランチャは、もし件の勝負に自分が負けたら、フーゴにイチゴの果肉がたっぷり入ったジェラートを食わせてやろうかと思った。

 16:51:17

「このスタンド使いってさ、何がしたかったのかな」
 空になった水のボトルを軽く投げてはキャッチするという動作を繰り返しながら、ナランチャはぽつりと呟くようにそう言った。
「なんか要求があるんだよな、きっと」
「その可能性は高いと思いますよ」
 外にいる仲間達は、すでに敵の存在に気付き、その動機まで調べている頃だろうか。追跡だけなら、スタンド能力を使えば容易だろうが、敵が頑として口を割ろうとしなかったりすると、少し面倒なことになるかも知れない。が、その辺りは頭の切れる新入り辺りがなんとかしてくれそうな気もする。根拠等は何もないが。我ながら不思議だ。過去にそんな経験があったわけでもない――そもそも新入りがチームにやってきてから、まだ長い時間は経っていない――というのに、何故そう思うのだろう。
(……まあ、いっか)
 ナランチャはその疑問を一先ず押しやっておくことにした。一度に2つのことを考えるのは、自分の頭には向いていない。先に始めたのだから、今はスタンド使いについての疑問を口にする方が良いだろう。
「その要求ってさ、オレ達の組織でどうにか出来ることってことだろ?」
「たぶんね。じゃないと意味がない」
「だったら、最初から言えばいいのに」
 フーゴが首を傾げるのが見えた。
「どういうこと?」
「何がしたいのかは分からないけど、いきなり人質取るんじゃあなくてさ、相談とかしてくれたら、もしかしたら力になれたかも知れないじゃん」
 具体的にどうやって、とは、全く思い付かない。だが、もし自分が誰かから何等かの相談をされたとしたら、少なくとも話くらいは聞いてやりたいと思う。どこの誰なのかは知らないが、耳を傾けてくれる人物がひとりくらいはいたって良いではないか。一緒になって悩んだり、「馬鹿なことを言うな」と叱ってくれたり、そんな相手が……。
「君は、優しいですね」
 フーゴがそう言った時、ナランチャはキャッチし損ねて落としてしまったボトルを拾うために身を屈めていた。そのために、フーゴがどんな表情をしていたのかは見えなかった。だが少なくとも、そのフーゴの口調こそが優しいとナランチャは感じた。
「想定外の状況でこそ本性が出るのが普通なのに。こんな状態に置かれて、君は相手を恨んだり憎んだりするんじゃあなく、そんな優しい言葉を掛けてやれるんですね」
「えー、なんか真面目にそういうこと言われると、照れる」
「でも真面目に言ったんでしょう?」
 2人は少し笑い合った。
「人質が犯人に同情するのは珍しいことではないけど、君のはそれとは違う」
「何それ。どういうこと?」
 『違う』と言われたが、そういう言い方をされると興味を持ってしまう。どうせ時間は余っているのだからとでも思ったのか、フーゴは続けた。
「ストックホルム症候群って、知ってますか?」
「知らない」
 最初から期待はしていなかったのか、フーゴは軽く頷いてから説明を始めた。
「ストックホルムというのはスウェーデンの都市名です。ストックホルムで起こった事件が元になっているので、そう名付けられています」
 「ここまではいいですか?」と言うように視線を向けられ、ナランチャは無言で頷きを返す。
「1973年の夏のある日、ストックホルム市内の銀行に強盗が押し入り、人質を取って立て籠もるという事件が起こりました。現場へ駆け付けた警察官は投降するように命じますが、犯人達はそれに応じようとはしません。事件は硬直状態のまま、十時間以上続きます」
 すでにこの空間で丸二日以上を過ごしているナランチャにしてみれば、十時間なんて大したことはないと思ってしまった。が、命の保証がない状況――しかも人質全員が実はギャングの一員……なんてことはなく、おそらく非力な一般人――では、その時間は何倍にも長く感じたことだろう。
「そんな中、さらなる長期戦に備えるつもりだったのか、犯人達は仮眠を取り始めます。もちろんこれは、警察にとってはまたとない突撃のチャンスです」
 「しかし」と、フーゴは語気を強めた。
「警察が見たのは、自分達に向かって銃を構える人質達の姿でした。犯人は眠っている間の見張りを、人質達にさせていたんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
 ナランチャは割り込むように口を開いた。
「その時、犯人は寝てるんだろ? 寝てる犯人の命令なんて、普通聞き続けるかぁ? 脅されて言うこと聞いたとしても、それは犯人がまだ起きてる間だけ……最初だけだろ? 隙を見て逃げ出すか、突入してきた警察に保護してもらうに決まってんじゃん。しかも犯人の銃は人質が持ってるんだろ? そんな安全な状態、見逃すなんて馬鹿だぜ。ちょっと過激なやつでもいたら、自分達で犯人を撃ってるかも知れないくらいだ」
「犯人がスペアの銃を持っていないとは限りませんが、確かに、そう考えるのが普通かも知れません。ところが実際にはそうとはならず、長い緊張状態の時間を共有した犯人と人質の間には、一種の連帯感が生まれてしまっていた」
「連帯……?」
「事件を長引かせたくないという思いは、犯人も人質も同じです。警察の面子も、銀行の損害も関係ない人質にとっては、犯人がさっさと目的を果たしてその場から逃げて行ってくれる方が有り難いんです」
「うーん……、それは確かに……」
「また、人質達は犯人に命を握られ、水を飲むことや、トイレに行くことすら許可をもらわないといけない状況にいます。そんな中で、少しでも優しい言葉や、気遣うような素振りを見せられたら? トイレに行きたいと懇願して、それを許してもらえたら? 人質達はそれを“優しさ”だと思ってしまい、やがて犯人に好意を抱くようになる。犯人達も、協力的な態度を見せるようになった人質への扱い方に変化が生じる。そうしている内に、両者の間には共感が生まれ、信頼関係のような物が出来てしまうんだとか」
「それ、勘違いっていうか、感覚バグってないかぁ……?」
「そうかも知れませんね」
 フーゴはあっさり頷いた。
「逆上した犯人に危害を加えられないように、協力的になったり、犯人の機嫌を取ったりは、まあ、分かります。自己防衛の一種ですね。でも、解放後にも犯人を庇うような証言を行った人質がいたんだとか。それはぼくにはちょっと理解出来そうにありません」
「うん、完全にバグってる。感覚がまともに戻るまで、時間が掛かんのかな?」
「犯人と結婚した女もいたらしいですよ」
「それは時間掛かり過ぎだろ! それか、元々やべーやつを好きになるタイプの女だ」
「他に有名なのは、アメリカのパトリシア・ハースト誘拐事件。誘拐された女性が、その後強盗団の一味になった」
「ええー……」
「逮捕されたパトリシアは『洗脳されていた』と主張したそうですけどね。最終的には有罪判決が出たそうです」
「無罪になったらなったで、あとから強盗達に報復されそうだな」
「で、今回のケースですが」
 そうだった。すっかり聞き入っていた。確か元々の話題は、ナランチャが彼等をこの場所に閉じ込めているスタンド使い対して、優しいという話だった。
「犯人に不幸な事情……例えば、身内が病気で手術のために金がいる……とか、そんなことでも聞かされていれば、同情することもあるかも知れない。でも今のこの状況では、犯人と時間を共有しているとは言い難いし、犯人の情報が無さ過ぎるから共感も同情もしようがない。君の場合は、そういうのではなさそうですねって、そういう話」
 そんな“やべーやつ”と一緒にされてはたまったものではない。
「目の前にいたら、むしろぶん殴ってるかもだ」
「君らしい」
 フーゴはくすりと笑った。
「でも、まあまあ面白い話でしょう? 人間の心理の複雑性が伺えます。……それとも、脆さ、かな?」
「うん、まあ、色んな人がいるんだなーってのは、分かった」
 それから、やっぱりフーゴは色んなことを知っているんだなということも。
「厳密に言えば違うんでしょうが……」
「ん?」
「最初にストックホルム症候群の話を聞いた時に、吊り橋効果に似てるなと思いました」
「なにそれ」
「えっと……」
 先程まではすらすらと話していたフーゴだったが、今度は少し困ったように眉をひそめた。そんなに難しい話なのか、あるいは逆に、簡単過ぎて今更説明するのが煩わしいのか……。
「簡単に言うと、吊り橋の上のような不安定な場所では、一緒にいる相手を好きになり易いと言われている現象です。緊張感を恋愛感情と勘違いするのがその理由だそうです」
「ふーん。そんなのほんとにあんの?」
「さあ?」
 返事自体は曖昧だが、切り捨てるような口調だった。ひょっとしたら、フーゴ自身は「そんなものはない」と思っているのかも知れない。
 その話は、結局そのまま終わってしまった。「犯人の目的を推理して、どっちが当たっていたか勝負しよう」とはならなかった。
「少し、休憩しましょうか」
 そう言ってこちらを向いたフーゴは微笑んでいた。が、少し疲れているようにも見えた。確かに、長く喋らせ過ぎたかも知れない。残りの時間は十数時間……。無理をしようと思えば、出来ないことはない……かも知れないが、やる必要のないことは、やっぱりやらない方が良い。不必要に疲れさせて、今度はフーゴが体調を崩してしまってはいけない。
(別に、今しか喋れないってわけじゃあないし……)
 何故か自身に言い聞かせるように心の中で呟いてから、ナランチャは「じゃあ、またあとで」と告げて軽く手を振った。

 16:35:19

「ナランチャ、いますか?」
「うん。いるよ」
 その時ナランチャは、眠たくはなかったので、“窓”の下に腰を降ろしてぼーっとしていた。そこにいればいつフーゴから声を掛けられても即座に反応することが出来る。今のように。
「ちゃんと水分取ってますか?」
「うん。大丈夫」
「それなら良かった。あと少しで出られるはずですから、頑張りましょう」
「今何時?」
「もうすぐ4時半ですね」
 思ったよりも経っていなかった。
「ってことは残りは?」
「16時間半くらい」
「半日ちょっと」
「ええ。その内のいくらかは睡眠時間になると思うので、実際にはもっと短く感じると思います」
「そっか。よーし、もうちょっとだぁー」
 ナランチャは改めて部屋の中を見廻した。この退屈な景色を半強制的に眺めさせられているのも、あと半日少々の辛抱だ。そう思ってみても、全然名残惜しさは感じなかった。
「そういえば」
 自分でもまだ何を言おうとしているのかはっきり分かっていないような状態のまま小さな声で呟いた言葉は、しかしフーゴの耳には届いていたらしい。「どうかしましたか?」と、視線がこちらを向く。
「うん、えっと、このスタンド使いさ、なんか要求があるんだとしても、2人も閉じ込める必要ってあったのかな」
 例えば銀行強盗が人質を取って立て籠る場合、人質がひとりしかいなかったらどうなるだろうか。たったひとりの人質に何かの切欠で逃げられてしまったら、計画はそこで終了してしまうかも知れない。予備のためにも、「自分ひとりが逃げ出すことによって、残りの人が危険な目に遭わされるかも……」との罪悪感を植え付けるためにも、人質は数人いるのが望ましいだろう――多過ぎても扱い難いだろうが――。だがこの場所は、スタンド能力によって作られた特殊な空間だ。“人質”が逃げ出す心配はない。なのに彼等は2人だ。一体どのようにしたのかは分からないが、2人捕らえるよりも、1人だけの方が楽だったのではないだろうか。用意しておく飲食物の量だって、1人分なら半分で済んだはずだ。それとも、2人であることに、何か意味があるのか……。
「要求を突き付けられる側……この場合は外にいるみんなですね。その危機感を煽るためとか? でもそれなら、団結して抵抗されるおそれもないんだから、極端な話何十人いても構わないことになりますが……。それか、あくまでも害を加えないつもりだとするなら、精神的な負担を軽減する目的でしょうか」
「どゆこと?」
「簡単に言うと、1人より2人の方が暇を潰せるってこと」
「なるほど」
 それには実感を込めて頷くことが出来た。おそらくフーゴがいなければ、“今”はまだ1日目の夜すら明けていなかっただろう。
「じゃあ、その2人にオレ達が選ばれたのは、たまたまなのかな」
 たまたま2人で人通りのない道を歩いていたから……というのであればまだ分かる。だが実際には、この部屋で目を覚ますまでは2人とも自分の部屋にいたはずだ。それでもナランチャとフーゴの2人が狙い易かったのだろうか。それとも、もっと他に、
「何か意味があると?」
「……分かんない」
 考えても全く分かりそうにない。先程の、強盗犯と結婚までしてしまった女の話と同じだ。知りもしない人間が何を考えているかなんて、心理学のスペシャリストでもあるまいし、理解出来るはずがないのだ。
「犯人捕まえたらボッコボコにして、ぜーんぶ吐かせようなっ」
「そうですね」
 そう答えた声からは、フーゴがどんなことを考えているのか、――やばい女と違って――少しは分かるように思えた。「もちろんこんな目に遭わせた犯人を許すつもりはない。だが、相手が性格がひねくれているだけの一般の――敵対する組織等には属していない――人間であったら、ナランチャが本気になり過ぎて再起不能にまでしてしまうのは少し不味いな」。きっとそんなところだ。

 09:00:00

 不意に、強烈な眠気を感じた。今は、昨日までの就寝時間と比べると少々遅い時刻ではある。だがそれには理由があって、今朝は昼過ぎまで眠っていたし、夕食の前にも少し仮眠を取っていた。そのため、なかなか眠たくならなかったのだ。それは「睡眠時間は充分であった」ということに他ならない。フーゴも「まだ起きていられる」と言うので、自然と眠たくなってくるまでは話をしていようかという意見が2人とも一致していた――不思議と、話題に困ることはなく、会話は意図しない限りは途切れることはなかった――。だが今、ナランチャは明らかに“自然ではない”睡魔に襲われていた。「何故」と思っていると、ふと記憶が蘇ってきた。
(あ、似てる……)
 随分と過去のことであるように感じるが、実際にはほんの2日前の朝――つまり2日半前――、ここではなく、自宅アパートで任務に出る準備をしている時に現れた、あの感覚に。
「ナランチャ? どうしました?」
 ナランチャが何も言わずとも、フーゴはその異変に気付いたようだ。が、その声は不思議と穏やかで、心地良くて、ナランチャの意識はますます眠りへと誘われていこうとしている。
「……なんか、眠い」
「疲れが出たのかも知れませんね」
 そうだろうか。だが事実、目蓋を開け続けていることすらすでに難しく感じる。
「また体調を崩してもいけない。もう寝ましょう。朝になって目が覚めたら、ちゃんとここから出られているはずですから、何も心配しないで」
「……うん」
 異様な眠気ではあったが、今ここで眠ってしまうことに、危機感は微塵もなかった。フーゴの言う通り、これで終わるのだという安心感すらある。今日の朝に意識を失った時とはまるで違う感覚だ。あの時とは違って、温かい。
「ぼくも、もう休みますから」
「うん……」
 「いやだ」と言っても、それはもう叶いそうにない。壁に両手をついていなければ、とっくに床に崩れ落ちていただろう。完全に眠気に呑まれてしまう前に、ベッドまで移動出来る自信はあまりない。残りの時間は眠っている間に過ぎてしまうというのであれば、このまま床で横になってしまってもいいかも知れない。ナランチャがそんなことを考えていると、
「ナランチャ」
「……ん?」
 フーゴの声は、不思議とどこか遠くから響いて聞こえるように感じた。まるで夢の中の世界だ。あるいは、この奇妙な空間で過ごした時間は、最初から、全て夢だったのだろうか。
「ここを出たら、何がしたいですか?」
 そうだ、もう一度聞くと、確か2日目の夜に言われていた。
「ここを、出たら……」
 答えようと思った口からは、大きな欠伸が出た。
「……フーゴに、会いたいかなぁ」
「……え?」
「ここを出たら、フーゴに……。金網越しじゃあなくて、ちゃんと、フーゴに会いたい」
 ちゃんと、握手でも、ハイタッチでも、他のことでも、出来るような状態で、フーゴに会いたい。この空間が消えた後、どこでどのように目を覚ますことになるのかは分からないが、この3日間と同じように、隣の部屋にフーゴがいたら、いてくれたら……。「もう起きてる?」と声を掛けることから始まる1日が、外の世界でも続いていったら……。
(それって、なんかすげぇー最高じゃん)
 ナランチャの口から自然と笑いが零れた。
「そんで……」
 再び欠伸が出た。
「それで?」
 フーゴが焦れたように先を促す。
「そんで……、スパゲッティ、食べに行く。フーゴと……、一緒に……」
 いや、本当は、なんでもいいのかも知れない。スパゲッティだろうが、ピッツァだろうが、ジェラートだろうが、フーゴと一緒であるのなら。
(あ、でも辛い物はパス……)
 ナランチャは壁に凭れ掛かったまま、床へと座り込んだ。少し硬いなと思いながらも、そのまま体を丸めるように横になる。あとでフーゴに「どこで寝てるんだ」と怒られるかも知れないが、それはそれで良いのかも知れない。そんな会話だって、きっと2人の間には意味が生まれる。
「……ええ。行きましょう。一緒に」
 その声を聞きながら、ナランチャは最後の意識の欠片を、眠りの中へと預けた。

 00:00:00


2021,12,31


最初は監禁物のつもりで書いていたのに、いつの間にか「○○しないと出られない部屋」みたいになってました。
推しを閉じ込めたい気持ちと推し達に呑気なお喋りを楽しめる平和な時間を過ごしてもらいたい気持ちが合体してしまったようです。
なんでだ! なんでそこ両立させた! 別々に書けばいいだろ!
<利鳴>

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