フーナラ 全年齢


  Sender


「あれぇ?」
 耳元で聞こえたのは完全に不意打ちの声。すぐ隣の椅子からかけられたにしても近過ぎるそれに、パンナコッタ・フーゴは大型のクリップでとめようとしていた資料の束を落としかけた。
 振り向くと、焦点を合わせることが不可能なほどの至近距離に人の顔があった。思わず椅子から立ち上がって距離を取り、ようやく“見る”ことが出来るようになるほどの近さ。
 そこにあったのは、子供っぽさを残した大きな瞳と、それを縁取る長い睫毛。まるでその人物自身であるかのように自由奔放に跳ねた黒い髪が、フーゴのすぐ目の前で揺れる。
 呼吸が触れたように感じた。それと同時に、伸ばされた手が本当に触れようとしてきた。フーゴは慌ててさらに飛び退いた。
「なっ、なんですかっ、いきなりっ……」
 離れたフーゴに不満そうな表情を見せたのは、彼の年上の後輩、ナランチャ・ギルガだった。
「耳」
 ナランチャはそうとだけ返すと、改めて手を伸ばそうとする。どうやら、その手はフーゴの左耳を目指しているようだ。
「なんですかっ」
 同じ質問をしながら、フーゴはナランチャの手を振り払った。すぐさま返ってくる、またしても不満そうな目。
「ピアス、どうしたの?」
 直接触れることは――ようやく――諦め、ナランチャはフーゴの耳元を指差しながら言った。
「人を指差すな。してますよ、普通に」
 フーゴは自分でその部分に触れた――硬い石の感触がちゃんとある――。決して意図したわけではなかったが、それは向けられる視線から耳元を隠す仕草に似ていた。ナランチャはしかめっ面を続行する。
「それじゃなくてっ」
 頬を少し膨らませて拗ねた子供のような表情をした顔が、フーゴが先程まで座っていた椅子を乗り越えて詰め寄ってきた。
「イチゴのやつ。昨日までしてたのに」
 ナランチャの言う通り、今フーゴの耳にあるのは所有して以来毎日――昨日までは――着けていたイチゴを模したピアスではなく、ただ薄いブルーの小さな――小指の先ほどもない――石がぽつんとひとつあるだけのシンプルな物だ。長く垂れた髪の毛に隠れて決して目に付き易い場所でもないというのに、それはナランチャの目にとまったらしい。いや、それ以前にイチゴのピアスを毎日していることまで把握されていた。そんなにしょっちゅう見られていたのかと思うと、わずかに顔が熱くなった。その熱と、そして昨日までと違うピアスをしている理由を誤魔化す術を探そうとするが、睨むように下から見上げてくるナランチャの目がそれを阻止する。
「失くしたの?」
 逃げられるわけでもないのに何も言わないフーゴにしびれを切らしたのか、ナランチャが新たな問いをぶつけてくる。
「違う」
 否定の言葉は、自分でも少々驚くくらい強い口調で口から飛び出た。ナランチャが一瞬狼狽えたように瞬きを繰り返す。
「失くしません……。失くすわけがない」
「気に入ってるから?」
 一言で言えば、そうなのだろう。そうでなければ毎日身に着けたりはしない。だがそんな簡単な言葉では、フーゴの想いの1割も表現出来ない。
「失くしたくないからこそ、はずしてきたんです。君もちゃんと聞いてたでしょう? 今日か、遅くても明日には、重大な任務に就くことになるって。かなりあちこち移動することになるかも知れないし、それを妨害しようとする輩とやり合うこともあるかも知れないって」
 争いの中で失くしてしまったものは、おそらく二度と取り戻すことは叶わないだろう。易々と失うつもりは毛頭ないが、それでも不測の事態の中でそのちっぽけな“想い”を守り通せる確証はどこにもない。手に入れるまでの苦労を嘲笑うように、失う時は一瞬だ。フーゴはそのことを知っている。
「ふーん」
 一応は納得してくれたようだ。ナランチャは詰め寄るのをやめ、先程までフーゴが座っていた椅子にすとんと腰を降ろした。しかしその視線は相変わらずフーゴの耳元を見ている。
「でも、そんなこと言ったらどこにも着けて行けなくねぇ?」
 失うことをおそれてばかりいては、大切な物ほど本来の用途を果たせなくなってしまう。それは正論だ。ナランチャのくせに。
 それでも、大切なものは大切なのだ。それを守るために出来る努力は、残念ながら限られている。
(ぼくにはこのくらいしか出来ない……)
 しばしの沈黙。ナランチャが何を考えているのかは分からない。
 フーゴが黙ったままでいると、ナランチャは「まあいいか」と呟くように言いながら腰を浮かせた。椅子をフーゴに返すつもりらしい。そして、
「もし失くしてもさ」
 失くさないと言っているのに。
「“また”買ってやるよ」
 ただデザインが気に入っているだけなら、似たような物をどこかで購入してくることは可能だろう。だがそれでは意味がない。仮に全く同じ物を見付けることが出来たとしても、それはフーゴが失くしたくないと思ったそれとは違う。
 そう思っていたのに、ナランチャの手によって贈られるとなると話は別だ。それなら、その小さな装飾品は“フーゴが失くしたくないと思ったそれ”と完全に同一のものになる。全く違うデザインのものだったとしても――それどころか、ピアスですらなくても――。
「……失くしませんって」
 口角が勝手に上がりそうになるのを意志の力で押さえ込んで、フーゴは吐き捨てるように言った。しかしナランチャはあっさりと笑っていた。
「まだ仕事終わんない?」
「いえ、もう片付けるところです」
「じゃあ帰ろ」
「はい」
 一度は譲るようにこちらに押された椅子をテーブルの下に戻しながら、フーゴは素直に頷いた。


2019,04,30


なんでアニメのフーゴイチゴピアスじゃあなかったんだろう。
描くの大変なのかなぁ?
と思ってたけど、原作でも結構違うのしてたこと多かった。
<利鳴>

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