フーナラ 全年齢


  「してくれない?」


 初めて見た時と、随分違うなとフーゴは思った。初めてその姿を見た時、彼は患った片目――右だったか左だったか……――を薄汚れた包帯で覆って隠していたので、そもそも向けられている瞳の数が違っているが、そういう物理的な意味の話ではなく。
 初めて彼を見た時、その目は――病んでいない方の目も――何も見ていなかった。光を宿すこと自体を忘れてしまったかのような暗い瞳。ただ絶望だけを抱えた少年。それが、ナランチャ・ギルガだった。彼の過去に何があったのか……。それは知らずともだいたいの予想は付いた。おそらく、その目の治療が上手く済んだからといって、それだけで彼が救われることはないのだろう、と。
 だが、今そこにある眼差しは、それがあの少年と同一の人物が持つものだとは俄かには信じ難いほどの輝きに満ちている。過去を切り捨て、全く新しい未来を目指すための道。彼はそれを見付けることが出来たようだ。
 それを自分の手柄だと主張するつもりは、フーゴにはない。自分はただ、切欠を示してやっただけだったのだろう。
 初めて彼を見付けた時、彼がこんな顔をすることが出来るだなんて、想像も付かなかった。窓から差し込む夕陽にも劣らぬ眩しい視線。それが自分へと向けられていることに気付くと、フーゴはわけも分からず心臓が鼓動を速めるのを感じた。
 いや、それは正しくはない。フーゴはその“理由”に、本当はもう気付いている。気付いてしまった。
(ぼくは……)
 気付くと資料を纏める手が止まっていた。その理由も分かっている。今必要だとは到底思えないようなことに思考を彷徨わせていたそのわけ。それは、件の視線が今正に間近から向けられていることにある。
「……何か用?」
 そう尋ねたのは、もう1時間近くも前のことだ。その時にはまだ各々の仕事や暇潰しをしていた仲間達は、すでに帰宅済みであったり、別の仕事に出ていてここにはいない。やることがないなら帰って良い。リーダーから直接そう言われたにも拘らず、ナランチャはその素振りを見せようとはしない。
「うん。ちょっと」
 彼の返答はそれだけだった。
 せっかく資料を広げ易いようにと大きなテーブルの方へ移動してきたというのに、すぐ隣の席に座られて妙に居心地が良くない。用がないなら、本当に帰ってもらいたいところだ。明日までにこの資料を纏めてしまいたいのに。「気にしない」というのは無理な相談だ。フーゴにはそう出来ない“理由”がある。
 一体何が面白いのか――あるいは面白くないのか――、ナランチャはただ黙ってフーゴの顔を――時折手元を――見ている。計算ミスをしないか監視しているつもりか。まさか。仮に間違えたところで、ナランチャにそれが分かるはずもない。
 正直言って、気が散る。彼へ向ける感情がどうであっても、やるべきことが進まないのは困る――それとこれとは別の問題だ――。そろそろ邪魔だと追い払ってしまおうかと思い始めた頃、ナランチャはようやく言葉を放った。
「なぁ」
 いっそのこと無視してやろうかとも思ったが、そんなことをしても状況は好転するどころか悪化しかねない。せめてもの抵抗と言わんばかりに、手を止めないまま「なんですか」と尋ねた。その冷ややかな口調に、ナランチャは気付かなかったようだ。
「フーゴって、恋人いる?」
 1時間も一体何を思案していたのかと思えば、そんな下らないセリフを練っていたのか。やっぱり追い払おう。そう決めて、フーゴはペンを置いた。
「いませんけど、それがなにか?」
 睨み付けてやったのに、ナランチャの表情に変化はない。鈍感にもほどがあるだろうと、フーゴは溜め息を吐きたくなった。
「いないの?」
「いるように見えるの?」
 これがもし「自分にはいるのに?」という自慢だったら、躊躇わず殴ろう。そんなフーゴの胸中に気付くことなく、ナランチャは首を傾げる。
「じゃあ、好きな人は?」
「それ、は……」
 口篭ってしまったのが答えのようなものだった。不機嫌な表情のまま「仕事の邪魔しないでくれませんか」とでも言っておけば、どうとでもなっただろうに。ナランチャは「あ、そうなんだ」と小さく呟いた。
「っ……、なんなんですか一体ッ」
 誤魔化すように喚き散らすことしか出来なかった。いくらナランチャ相手でも、これは誤魔化し切れないだろうと思いながらも。
「うん。……ちょっと」
 本日2度目の返答だ。ちっとも答えになっていない。
(『ちょっと』なんだっていうんだ。『ちょっと』暇潰しにおちょくってやろうとでも思ったのか!?)
 フーゴは音を立ててテーブルを叩いた。
「あのねナランチャ、ぼくは――」
「あのさ」
 よくこの状況で割り込めるなと、いっそ感心したくなった。だがナランチャの表情は真剣そのもので、思わずフーゴの方が怯んでしまいそうになった。
「……なに」
 ようやくそれだけ返す。
 たっぷり5秒は間を置いてから――目を開けたまま眠ってしまったんじゃあないだろうなと疑いそうになった――、ナランチャは口を開いた。
「オレをフーゴの恋人にしてくれない?」
 それまでと変わらない口調の所為で、何を言われたのか一瞬――よりは長い時間――理解出来なかった。続いて聞き間違いを疑ったが、何をどうしたらそんな聞き間違いをするというのか。むしろナランチャが言葉の意味を間違えて覚えているのではないかとさえ思った。
「駄目?」
 下から覗き込むような視線は、不思議な力で目を逸らすことを封じてきた。同時に、話題を別の方向へ逸らすことも阻止されていると悟った。
「……駄目じゃあない」
 喉から搾り出したような声で、そう返すのがやっとだった。それでもナランチャは、その表情を輝かせた。
「ほんとっ!? やったぁ!!」
 子供のような笑顔に、やっぱり何かの間違いなのではと疑いたくなる。それとも夢を見ているのだろうか。目が覚めたら、これと真逆の――自分以外は誰もいない――世界が広がっているのでは……。
 勝手に満足したらしいナランチャは、立ち上がって「帰る!」と宣言した。
「はっ!? ちょっと待て!」
「え? だってフーゴまだ仕事終わってないんだろ? 邪魔したら悪いじゃん」
 どうして今更そんなまともなことを言うのだろう。やっぱり何か勘違いしているのでは。
「君ねぇ、言ってる意味分かってる!?」
「え? うん。フーゴ、その資料完成させないとまずいんだろう? オレは用事が済んだけど、手伝いは出来そうにないし、気が散るようなら帰ろうかなって……」
「違うっ、その前のセリフだッ!」
 なんだか急に疲れてきた。資料作りなんてぶん投げて、自分も帰ってしまおうか。だがそうするにしても、このままでいるのは落ち着かない。
「だから、……そのっ、こ、こい……」
「恋人?」
 やはり聞き間違いなんかではなかったようだ。改めて言われて、フーゴは自分の顔が熱を持つのを自覚した。
「やっぱり嫌? あ、そうか。フーゴ好きな人いるんだもんな。それなら、付き合ってはいなくてもやっぱり駄目か……」
「そうじゃあなくって……!」
 フーゴは思わず立ち上がり、ナランチャの両肩を掴んでいた。大きな瞳が真っ直ぐにこちらを向く。幼さを残した表情に、引き込まれてゆくような気がした。
「その……、恋人に、してくれっていうのは……、つまり、その意味っていうか……」
 幼い頃から、頭は良い方だった。自惚れのように聞こえるかも知れないが、14歳の時にはすでに大学への入学を許可されていたという経歴が、それがただの事実でしかないことを証明してくれるだろう。同年代の少年どころか、今だって、10も20も上の大人達にも負けないくらいの知識は持っているつもりだ。それなのに、どうしてこんなに言葉が出てこないんだろう――その理由も分からない――。小学生の方がまだよく喋るのではないだろうかとさえ思える。
「意味?」
 ナランチャも首を傾げた。しかし、
「フーゴのことが好きってこと」
 彼は躊躇った様子も見せずに言い切った。
「でも、フーゴが嫌だっていうなら、『だからどうしろ』とか言わないよ。オレ、フーゴを困らせたり、フーゴがここに居辛くなったり、そういうのはしたくないから。それなら今まで通りでいい」
 フーゴがなお何も言えずにいると、
「やっぱりオレ、帰るよ」
 ナランチャは踵を返そうとした。フーゴはそれを、両肩を押える手に力を入れて引き止めた。
「……待って」
 やっとそれだけ、小さな声が出た。
「フーゴ? やっぱり嫌だった? ごめん」
「違う」
 フーゴは左右に頭を振った。俯いたその顔を、少年の瞳が覗き込んでくる。
「そうじゃあないんです。……ただ……」
「ただ?」
 フーゴはたっぷり10秒は黙り込んだ。ナランチャはじっと待っている。
「ぼくが、先に言おうと思ってたのに……」
 出来もしなかったくせに、何を言うんだと笑われても文句は言えない。だが、その想いを伝えるなら、きっと自分の方から――自分はいつになったらその勇気を持てるかという話――だろうと思っていた。つまり、ナランチャの方にはそんな気持ちはないだろうと思っていた。完全なる想定外の事態。こんな時、知識なんていくらあっても無駄なのだなと思い知った気分だ。
「それって、どういう意味?」
 答えなんて、もうとっくに知っていそうな目で、ナランチャは尋ねてきた。フーゴもさっき、似たようなことを尋ねている。
「意味は、つまり……。……ナランチャ、……君が好きです」
 耳の中で、心臓の音が煩い。自分の声すら聞き取れないのではと思うほどだ。だがその言葉は、ナランチャには無事に届いたらしい。年上には見えない顔が、ぱっと――未だかつて見たことがないほどに――輝いていた。
「マジでっ? マジで言ってる? 冗談とかじゃあなく?」
 ナランチャの両手がフーゴの腕に触れた。そこから伝わってくる体温は、少し熱かった。それから眩しい。彼の全身が光を放っているように。こいつ、うっかり太陽でも飲み込んでしまったんじゃあないだろうか。だから窓の外が――光源を失って――暗くなっているのでは……。
「こんな冗談なんて、言いません」
 冗談のような思考を振り払って、フーゴは抗議するような口調で返す。
「……ぼくの、恋人になってください」
 ナランチャの肩に置いたままだった手が振り払われた。かと思うと、胴体に腕を廻すように、ナランチャが抱き付いてきた。体当たりに近い衝撃を受け、フーゴは転倒しそうになるのをなんとか踏みとどまった。
「やったぁ!!」
 どうやってこの気持ちを伝えれば良いのか、また、伝えた後はどうすれば良いのか。ずっと分からないでいたその疑問の答えを差し出すように、ナランチャは満面の笑みを見せた。そこに意味や理屈は存在してはいないようだ。だが、それで良いのだろう。
「え、じゃあさっき言ってたフーゴの好きな人って、オレ? マジ?」
「ちょ、改めて言わないでくださいよッ。は、恥ずかしい……」
「じゃあオレ達両想いだったんだ! これってすごくねぇ!?」
「だからいちいち言うなって! ああもうっ、仕事終わってないのにっ。……もう帰ってください!」
「えー、送ってくれなきゃ帰れないー」
「はあ!?」
「もう外暗いじゃん? 恋人ひとりで帰すの、心配じゃあなーい?」
「ギャングが何言ってんの……」
 もう今日は、仕事のことは考えられそうにない。いや、明日になっても危ういかも知れない。たぶん今日のことは、一生忘れることは出来ないだろう――不慮の事故か、あるいはスタンドによる攻撃によって記憶を奪われでもしない限り――。ナランチャの眩しさと、自分の無様さ、その両方を過去として割り切れるようになるまで、時間が掛かりそうだ。
「ね、フーゴも帰ろ?」
 ナランチャの手が、フーゴの手を握った。なおも「でも」と反論する術は、フーゴの持つ知識を全て使っても見付け出すことは出来なかった。
(もういい! もう、どうにでもなれ!)
 テーブルに広げたままの資料の山を意識の外へ追いやって、フーゴはナランチャの手を握り返すことにした。


2019,01,22


ただフーナラが書きたかった。
タイトルはセツさんがつけてくれた!
<利鳴>

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