フーナラ 全年齢


  雪上の天使


 寒いと思ったら夜の間に雪が降っていたらしい。子供のようにはしゃぐナランチャの声で、フーゴは目を覚ました。
「ほらっ、フーゴっ。起きろってば! 外、積もってる!」
「うるさいなぁ。窓開けないでくださいよ。寒いでしょうが」
 フーゴの声が聞こえているのかいないのか、ナランチャは通りに面した窓を大きく開け放ち、身を乗り出すように外を眺めている。後ろから押したら、たぶんあっさり落ちるだろう。
 フーゴは瞼を擦り、ようやくベッドから出ると、窓から入り込んでくる冷たい空気に身震いをしながらナランチャに近付いた。無防備な背中に寄り添うように――もちろん、押したりはしない――窓の外を見た。
「うわ、ホントだ。こんなに降ったのか」
 そう言った息は白かった。だが、それに負けじと外に広がる風景も雪の色に染められている。すでに降雪はやみ、陽が差してはいるが、地面には数センチの雪が残っているようだ。ここネアポリスでこれだけの雪が降るのは、少々珍しいことだ。反射された光は眩しく、それに消毒されるように、フーゴの中に残っていた眠気は消えていった。空気の冷たさの手伝いもあって、一気にクリアになった彼の頭は、その光景を、純粋に「綺麗だ」と思った。
「な、外出よう」
 ナランチャがフーゴの腕を引いた。
「いやです」
「なんで」
「寒いから。行きたいなら行ってくれば」
「やだ」
「なんで」
「フーゴと一緒がいい」
 ナランチャの素直さは、ちょっと卑怯だとフーゴは思う。そんなことを言われたら――しかもキラキラと光る大きな眼で、真っ直ぐこちらを見ながらなんて――、それに抗える者は、そう多くはいないだろう。ナランチャが心から願ってついてきて欲しいと言うのなら、どこへでも――例えばそれが命の保障がないような旅路であったとしても、あるいは――ついて……、いや、つれて行ってやりたくなってしまう。フーゴは呆れたように溜め息を吐いた。ナランチャに対して、ではない。自分に、だ。
「朝食は?」
「どっかで買う」
「準備するから待ってて」
「うん!」
 早く早くと急かされながら、フーゴは身支度を済ませた。散歩につれて行ってもらいたくて仕方がない犬のように落ち着きのないナランチャは、すでに玄関へ向かおうとしている。
「待て。その格好で出る気か」
 さっきから寒いと言っているのに。
「だって今これしかないもん」
「コート貸すから」
 クローゼットの中を漁って、フーゴはコートを2着とマフラー、それから所有していた覚えのない耳あてを見付けた。
「ねえ、これ、君のじゃあないの」
「あ、ほんとだ」
「勝手にぼくのうちに君の物を置いて行かないでくださいよ。まったく……」
 それ等を身に着けて、2人は外へ出た。陽の光の眩しさに眼を細めながら、フーゴはマフラーの中に潜り込むように身を縮めた。やはり寒い。一方ナランチャは、スキップをするように雪の上を歩いた。たぶんその内転ぶなと思いながら、フーゴはその後に続いた。
「すっげぇー。ちゃんと積もってんじゃん!」
 真っ白な息を吐きながら、ナランチャはどんどん進んで行く。意外にも、まだ転倒してはいない。が、何度か滑って踏鞴を踏んだのを、フーゴは見逃さなかった。ナランチャは、そんな危なげな足元さえも、楽しんでいるようだ。その無邪気な笑顔は、昼になって気温が上がり、雪が溶けてしまえば一緒になくなってしまうだろうか。それは少し残念だ。が、やはりこうも寒いのはいただけない。
 ナランチャの足が急にとまった。少し後ろを歩いている自分が追いつくのを待ってくれているのかとフーゴは思ったが、相変わらず子供っぽく輝いている2つの眼は、小さな公園へと向いていた。時間の所為か、この気温の所為か、人影は見当たらない。ナランチャは迷った様子もなくその先へ足を進めていった。やれやれ寄り道かと、フーゴも仕方なくついて行く。
 人も車も通らず、更には木の陰になっている所為で陽が当たらない場所では、雪の量は他よりも少し多いようだった。誰の足跡も付いていない。新品のキャンバスのようだ。
 ナランチャは振り向き、フーゴの方を見て笑った。かと思うと、彼はその場にぺたりと腰を下ろした。
「何やってんですか」
 彼は答えずに、そのまま手足を投げ出すように雪の地面に仰向けに寝転んだ。そして弧を描くように、手足をばたばたと振った。
「知らない? スノーエンジェル。一回やってみたかったんだ」
「天使?」
 ナランチャが上体を起こすと、地面には彼の跡がくっきりと残っていた。車のワイパーのように動いた腕の跡は、なるほど、大きな翼のように見えなくもない。キャンバスに描かれた天使の絵……。いや、そんな大層なものではない。無邪気な子供のラクガキだ。腕の跡は翼で良いとしても、同じように扇状の跡を付けた脚には何の意味があるのだろう。はて、今までに見たことがある天使の絵画で、ベルボトムを穿いたものなんてあっただろうか。
 雪の上に座ったまま、ナランチャは満足そうに“天使”のシルエットを眺めている。かと思うと、不意にその眼がこちらを向いた。嫌な予感がした。そう、ナランチャの素直さは、卑怯で、危険なのだ。
 フーゴは咄嗟にその場を離れようとした。そうすることで何かがどうにかなると、明確に思ったわけではない。ただの反射、あるいは、細い足場から落ちそうになった時に、おそらく無駄な抵抗だろうと分かっていながら空気を漕ぐように腕をぐるぐる廻してしまうのと同じような悪足掻きだったのかも知れない。だがこの場に限っては、その悪足掻きは有効だった。ナランチャが伸ばしてきた手は、距離さえあれば触れはしなかったのだから。ただし、間に合っていれば。
 フーゴが動くのよりも早く、ナランチャの手が彼の腕を掴んでいた。そのまま強く引かれ、フーゴはバランスを崩した。踏みとどまろうとしたが、靴の裏と地面との間の摩擦係数が明らかに足りない。
「うわっ」
 小さく声を上げながら、彼はそのまま引き倒された。反射的に眼を瞑る直前に、ナランチャが口を開けて笑っているのが見えた。
 倒れ込んだ地面は冷たかった。しかしそれは身体の半分だけで、もう半分――右半身側――はナランチャの身体の上に乗り上げるような形になったために、むしろ温かかった。地面に手を付き、腕立て伏せのような体勢で身体を浮かせたフーゴの下で、ナランチャはまだ笑っている。
「お前なぁ」
 この辺りで一回怒鳴り付けてやろうかと思った。が、声はそれ以上出てこなかった。あまりの寒さに、喉の中で音が凍り付いてしまったのだろうか。
 眼の前には、ナランチャの笑顔がある。大きな瞳。少し長い睫毛。はしゃいだ所為か、少し上気した頬。笑い声を上げる唇。顔の横にはファーの耳あて。黒い髪は雪で少し濡れている。フーゴの視界にあるのは、それだけだった。あとのものは全て白。雪に埋め尽くされて、ナランチャ以外、何も見えない。その姿が、いつもより眩しいのは何故だろう。光が反射しているから、それだけか。いや、そもそもここは日陰になっていなかったか。雪上では人は3割増し美しく見えるという、馬鹿みたいな話があったようななかったような……。いや違う。あれはスキー場での話だ。ゲレンデマジックとかいう、おかしな名称が付いていた。やっぱり馬鹿みたいな話ではないか。じゃあ心音がいつもより早いのは何故だ。寒いからか。体温を上げるために、血流を良くしようとして心臓がガンバっているからか。
 先程否定した言葉が、彼の脳裏に再び現れる。『白いキャンバスに描かれた天使の絵』。耳あてをした天使……? ベルボトムを穿いた天使よりは、いてもおかしくないかも知れない。なにしろ上空は、地上よりも寒いだろうから。
「フーゴ?」
 まだ笑ったまま、ナランチャは「どうしたの?」と首を傾げた。フーゴは少し考えるような仕草をしてから、「なんでもありません」と言って、溜め息を吐くように笑ってから立ち上がった。ナランチャは、「急に動かなくなるから、凍っちまったのかと思った」と言って、また笑った。
「馬鹿なこと言ってないで、もう行きましょう。いい加減寒いし。ほら立って。濡れますよ。って言うか、それ、ぼくのコートなんですけど」
「ああ、そっか。じゃあ、クリーニング出してから返す」
 ナランチャが手を伸ばしてきた。フーゴはそれを取った。また転んだらどうしようと思いながら、その手を手前に引いた。少々危なげではあったが、ナランチャは無事に立ち上がり、身体に付いた雪をパタパタと掃い落とした。
「よしっ」
「良くない。まだ付いてる」
 やれやれと息を吐き、フーゴはナランチャの後ろへ廻った。お世辞にも『広い』とは言い難い背中には、雪は付いているが、もちろん羽根なんて生えてはいない。それでも……。
「はい、いいですよ」
 残った雪を掃い終えると、フーゴは歩き出しながらナランチャの手を握った。ナランチャの顔に、驚きの色が現れる。だが、嫌そうではない。彼の表情は笑顔のままだ。それでも「どうしたの?」と尋ねてきた幼さの残る微笑みに、フーゴは首を横へ振った。
「なんでも」
「ヘンなの」
「行きましょう」
「うん」
 ナランチャは軽やかな足取りでフーゴに手を引かれたまま歩き出した。今転ばれたら、ほぼ確実に巻き込まれるな。そう思いながらも、フーゴは繋いだ手を離さなかった。その理由は、“飛んで行ってしまわないように”という冗談のようなものが3から4割。残りは単純に、手の平から伝わってくる温度が温かく、心地良かったからに他ならない。


2015,01,25


フーゴはナランチャが「お前がいないと駄目なんだよ! フーゴもついてきてくれよ!!」って言ってたら、同行してくれてたんじゃあないかしらと一腐女子は思うのですよ。
ナポリは雪が降ることがあるそうですが、スノーエンジェルやれるほど積もりはしない気がしますね。
<利鳴>

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