フーナラ 全年齢


  良いユメを


 傘越しに鳴る雨と風の音を聞きながら、フーゴは自分の部屋へと向かって歩いていた。外に出たのはたったの十数分前のことだが、横から吹く風に運ばれた水滴によって、膝から下はすでにずいぶんと濡れてしまっている。こうなってしまっては、傘なんか差していてもほとんど意味なんかないなと思いつつ、だからと言って差しもしない傘を持って雨の中を歩く姿もアホっぽい。すでにそれを目撃する人の眼がなくなった真夜中ではあるが、それでも、だ。
 仕事が終わった後は事務所に戻らずに帰って良いと指示されていた。それでも彼の脚がそちらへ向いている――ように見える――のは、単純に彼の部屋が同じ方向にあるという理由からでしかない。事務所の前を通り過ぎる時、フーゴは、おそらくもう誰もいないだろうと思いながらも、傘の角度を変え、視線を動かした。案の定窓には1つの明かりも灯っておらず、建物自体が眠りについているかのように見えた。自分も早く帰ろう。少し疲れた。そう思った視界の隅に、一瞬小さな違和感を覚え、彼は脚をとめた。
「今……」
 改めてよく見てみると、入口の前のスペースだけが、他と闇の濃さが違っている。それが膝を抱えるように座り込んだ人の形であることに気付くまでに、数秒を要した。
「あれは……」
 さらに数秒後、その形の正体に気付くと、フーゴは大股でそれに近付いて行った。その途中で素早く視線を走らせた腕時計の文字盤は、全ての針が頂上を過ぎてそれほど経っていない位置にあった。
「何をしている」
 フーゴの接近に気付いていなかったのか――あるいはまどろんでいたのかも知れない――上げられた顔は、フーゴの眼には怯えているように映った。
「あ、ああ……。びっくりした。あんたか」
 安堵の溜め息……と呼ぶにはやや強張った表情で息を吐いたのは、少し前に組織に入ったばかりの少年、ナランチャ・ギルガだった。濡れた髪は夜の闇をそのまま切り取ったように黒く、幼い丸みをわずかに残した頬にぴったりと張り付いている。本人は雨宿りをしているつもりなのかも知れないが、風向きの所為で、建物の入口の上にある庇は、雨にとって何の障害物ともなっていなかった。
 傘を持っていない少年は、水を吸って重たくなった衣服を不快に思う風でもなく座り込んでいる。すでに「今更だ」と思いながらも、フーゴはさり気無く動き、自分の傘が新たな雨を防ぐように立ち位置を変えた。
「何か忘れ物?」
 例えば自分の部屋の鍵を置き忘れて取りに戻ってきたのだろうか。しかし、組織に入ってからまだ日が浅い彼は、事務所の鍵を持たされていない。自分の部屋にも事務所にも入れずに――他の場所へも行かなかったところを見ると、財布も持っていないのかも知れない――途方に暮れているところへ雨まで降ってきた。そんなところだろうか。
 しかしナランチャは、フーゴの質問に明確には答えなかった。「いや、別に……」と口篭ったかと思うと、そのまま視線を逸らされてしまった。フーゴは訝しげな顔をした。
「ここで何をしているんだ」
「……」
「部屋の鍵は?」
「……持ってる」
「じゃあここで何を?」
「……」
 フーゴは雨音さえかき消すような大きな溜め息を吐きながら手を伸ばした。
「用がないならさっさと帰るんだ」
 腕を掴むと、ナランチャは眼に見えて分かるほどに身体を強張らせた。その表情は、明らかに怯えていた。何故、と思ったのは一瞬だった。そんなことよりも、掴んだ腕の冷たさに驚かされた。一体いつから彼はここでこうしていたのか……。
「……何これ。何時間雨に打たれてたらこんなに冷たくなるんだ」
 ナランチャは答えない。ただじっと耐えるように歯を食い縛っている。
 フーゴはまだ、ナランチャのことをよく知らない。それでも今の彼の様子が普通ではないことは一目瞭然だった。さらには、話を聞くにしても少しの時間でどうにかなりそうなことではないということも察した。いや、そもそも雨の中でするのが相応しい会話なんてあるだろうか。
 ナランチャの腕をそのまま引き、立ち上がらせた。抵抗するような力はなく、彼は俯いたまま従った。怒られることを怖れつつも自分に非があることは理解している――だからこそ歯向かえないでいる――子供のようだ。
 フーゴは鍵を取り出し、事務所のドアを開けた。その中に向かってナランチャの背中を押し、「入れ」と命じる。壁のスイッチを入れて室内の明かりを付けると、ナランチャの表情がようやくはっきり見えた。蒼褪めているのは、雨に打たれた寒さの所為。それだけだろうか。そもそもなぜ与えられた部屋に帰っていないのだ。こんな時間に。傘も持たずに。
 問い質したいことはいくつもあるが、今は先にやるべきことがある。
 フーゴは床に眼を向けた。ナランチャの髪や衣服から滴り落ちた水滴が、小さな水溜りをいくつも作っていた。
「脱げ」
「え?」
「早く」
 有無を言わさぬ口調で命じると、ナランチャはようやく動き出した。寒さの所為か、指先が少し震えている。首の後ろの金具を外そうとしているようだが、時間がかかりそうだ。
 フーゴは舌打ちをすると、早い歩調で書庫室――実際の用途は7割がただの物置部屋だ――へ向かった。ナランチャの傍を通り過ぎる時、細い肩がぎくりと跳ねるのが見えた。
 乾いたタオルと仮眠用の毛布を持って書庫室から戻った時、ナランチャは肌に張り付いた服を脱ぐのにまだ手間取っていた。そんな彼に向かって、フーゴはタオルを投げ渡した。頭にかかったそれに視界を奪われたことに驚いたのか、「ひっ」と小さな声が少年の咽喉から漏れ出た。些細なことに対しても、明らかに怯えている。何に対して? ここへ来る途中で、あるいはその前に、何かあったのか……? まさか、フーゴに対して怯えているのでは……?
(馬鹿な。ぼくは何もしちゃあいない)
 視線を向けると、ナランチャは投げ渡されたタオルを掴んだまま、どうすれば良いのか分からずにいるようだった。視線を返すことは拒んでいる。それだけははっきりと分かった。
「毛布、ここに置くから」
 フーゴは応接用のスペースにあるソファの背凭れに毛布をかけた。「え?」と首を傾げているらしいナランチャには眼を向けないようにしながら、もう1枚のタオルもその上に置いた。
「備品の毛布だから、汚さないように。ちゃんと拭いてから使え」
「え、ええっと……、あの……?」
「濡れた服をずっと着ていたいなら、好きにしたらいい」
 意図せず掃き捨てるような口調になっていた。いらついている。しかし、何に?
 フーゴは今度は台所に向かった。普段はせいぜいお茶をいれる程度のことでしか使わないスペースだが、その気になればちょっとした調理くらいは出来るような道具は置いてあった。棚を漁っていると、どこかからもらったらしい赤ワイン――高価な物ではなく、どこにでも売っているような物だ――を見付けた。それを、少し迷ってからグラスではなく小さめの手鍋に注いだ。そこへ砂糖と、普段は気が向いた時にお茶に入れる用の――しかし実際にはあまり使ったことのない――シナモンとオレンジピールを加えた。本当は他にもいくつかスパイスの類があると良いのだが、ない物はどうにもならない。すっぱりと諦めることにする。鍋を火にかけ、しばらくするとワインとシナモン、そしてオレンジの香りが室内に広がった。それらを使っているのだから、当然と言えば当然だ。他の匂いがする方がおかしい。沸騰する前に火をとめ、出来上がった飲み物を2つのカップに分けて入れた。両方の手に1つずつ持ってナランチャの元へ戻ると、彼は肩に毛布を羽織って、先程の位置に立ったまま、居心地が悪そうにしていた。脱いだ服は水気を絞って椅子の背にでもかけておくように言うと、黙ってそれに従い、洗面所へと向かった。
 フーゴはカップを1つ、応接用のローテーブルに置き、もう1つは立ったまま自分の口許へ運んだ。火にかけたことによってアルコールはだいぶ飛んでいるが、それでも充分身体は温まりそうだ。そんなことを思っていると、戻ってきたナランチャに尋ねられた。
「それ、何?」
 先程の怯え切った声は、いくらかましになっていた。
「ホットワイン。絶対に高いワインでやるなよ。勿体無い」
 そう言いながらフーゴは場所を譲るようにテーブルから離れた。
「座れば」
「うん……」
 ナランチャは躊躇いながらもソファへと移動した。両膝を身体に寄せて、毛布の隙間から出した両手でカップを包み込むような格好で座る。フーゴはその横方向の少し離れた場所に立った。
 ナランチャがカップに口を付けると、その横顔は毛布に埋もれるようにほとんど見えなくなった。まだ濡れている黒い頭と、白い爪先だけがそこにある。
「で? 何をしていた」
 しばらく待ち、温かい液体を啜る音がやんだ頃を見計らってフーゴは尋ねた。が、沈黙以外は何も返ってこなかった。
「答えろ。質問してるんだぜ」
「……散歩」
「雨の中を? 傘も差さずに? 真夜中に? 君は馬鹿なの? そんなのを信じるくらい、ぼくを馬鹿だと思っているの?」
 ナランチャは口の中で何か反論したようだったが、フーゴの耳はそれを声として認識しなかった。
「自覚がないようだけど」
 フーゴは赤い液体の中を泳ぐオレンジの皮に眼を向けながら、口調を強めた。
「もし君がどこかで何か問題を起こした場合、その責任が問われるのは組織なんだぜ。自分1人の問題じゃあない。組織に入るって言うのは、そういうことだ」
 それでも躊躇うような素振りを見せるナランチャに、フーゴは幾度目かの溜め息を吐いた。カップの中の液体が揺れる。「少々卑怯かな」と思いながら、彼はここにはいない人物の名を口にした。
「ブチャラティに迷惑をかけたいの?」
 ナランチャはびくりと肩を跳ねさせた。その弾みで毛布が落ちたことも気にせず、「違う」と喚くように言った。ソファから立ち上がろうとした彼に背を向けて、フーゴは空になった――空にした――カップを台所に置きに行った。再び戻ると、ナランチャは元の体勢でソファの上にいた。手の中にあったカップは、まだわずかに湯気を立てたままテーブルに置かれていた。彼の口は言葉を発しようとして小さく動いているのだが、しかし何と言って良いのか分からず、結局何の音も出せずにいる。何度もそんな様子を繰り返していた。
「何が怖いの?」
 これだけ聞いてやって、それでも答えないつもりなら、もうこれ以上質問するのはやめよう。そこまで一方的に親切にしてやる必要はない。そう思いながら、フーゴは最後のつもりで尋ねた。あるいは彼が答えないのは、質問の形が彼の望むそれと違っているのか――自覚はしていないのかも知れないが、少なからず望んではいるはずだ。そうでなければ、人に会えば尋ねられるに決まっているのに、その可能性がわずかにとは言え高まる部屋の外に出て行ったりはしないだろう――とも思ったが、最後の質問は、ナランチャの中の何かに決定的な一打を与えたらしかった。
「眼が覚めて……」
 ひどく小さな声は、声の主が俯いている所為で尚更聞き取り辛かった。しかも、わずかに震えている。
「夜中に、眼が覚めて、1人で部屋にいると、もしかしたら全部夢だったんじゃあないかって思って……」
「全部?」
 ナランチャは頷き、そのまま膝の上で組んだ腕の中に顔を隠してしまった。
「全部。……フーゴに会って、ブチャラティのところにつれて行ってもらったのも、全部。本当は、『こんな人達に助けてもらえたらいいのに』って思ったオレが、勝手に夢を見ていただけだったらって……」
 そう思ったら、怖くて独りで部屋にいることなんて出来なかった。それは、見た目よりもずっと幼い彼の本音だったのだろう。そのことを思い出しただけでも、こうして震えをとめられない程に。
「ここに来たって誰もいなかったら意味がないことくらい分からなかった?」
 この時間にフーゴが通りかかったのは、全くの偶然だったのだから。本当ならそうなっていたのだろう。では、朝までああしているつもりだったのだろうか。実際に、そうなっていたこともあったのかも知れない。他の誰よりも早くやってきて、鍵を開けてもらえるのを彼が待っていた。そんな朝がなかっただろうか。その時はやけに早いなと思っていたが、そうではなく、前の夜からずっとそこにいたのだとしたら……。そう言えば、彼が昼間から眠そうに眼を擦っている姿を見たこともある気がする。彼が不安に駆られて部屋を飛び出したのは、これが初めてのことではないのだろうか。
 ナランチャは俯いたまま答えない。分かってはいても、不安を抑えることが出来なかったということなのだろう。
 すっかり怯えたナランチャの眼。フーゴは、それをどこかで見たことがあると思った。怯えながらも、されるがままに足を引き摺って歩く。そんな様子を。
「ああ。そうか」
「え?」
「いや、なんでもない」
 頭を振ったフーゴが思い浮かべていたのは、薄暗い路地裏と、1人の少年の姿だった。初めてナランチャと会った時――彼を見付けた時――。そう言えば、あの時もフーゴは偶然そこを通り過ぎようとしていたのだ。
「寝ろ」
 フーゴが命じると、ナランチャはやっと顔を上げた。
「え……、ここで?」
「その格好じゃあ帰れないだろ。いくらもう人通りがほとんどなくても。朝には服も少しは乾いてるだろうから、一度帰って着替えてくればいい」
 フーゴは書類を入れてある棚から私物の本――自室に置くスペースがなくて事務所に持ち込んでいる――を取り、机へと移動した。ナランチャの視線がその動きを追ってきている。
「眼が覚めた時に、誰かいれば平気なんでしょう?」
 質問される前に答えて椅子に座った。ナランチャは大きな眼をより一層大きく開いている。
「明かりを付けたままでも寝られる?」
「えっ? う、うん。平気……だと思うけど……」
「ベネ」
「って、フーゴは寝ないのかよっ?」
「1日くらい寝なくても、どうってことはない」
「でも……」
「眠くなったら寝るから」
「う、うん……」
 渋々といった表情がぴったりな表情で、それでもナランチャはソファに横になった。肩まで引き上げた毛布の中で膝を曲げ、猫の仔のように身体を丸めている。もう、震えてはいないようだ。
「次からは」
「え?」
「夜中に徘徊するんじゃあなくて、最初からぼくの部屋に来い。その方が手っ取り早い」
 言いながらフーゴは、本のページを捲った。
「…………泊まりに行ってもいいってこと……?」
「そのつもりで言ったけど、そうは聞こえなかった?」
「で、でもっ……」
「でも?」
「それじゃあフーゴは迷惑なんじゃあ……」
「君の面倒を見るように言われている。さっきも言ったけど、フラフラ出歩かれて、何か仕出かされる方が迷惑だ」
「けど……」
「……ブチャラティもきっとそう言う」
 さっきはその名を、ナランチャへ多少のダメージを与えるつもりで使ったが、今度のそれは、どちらかと言えば自爆だった。何故かフーゴはそんなことを思った。
 ナランチャは何も言わなかった。しかし、黙ったまま頷いた。
 それからしばらく、本のページを捲る音と、窓を叩く雨の音だけが室内に響いた。ナランチャは眠ってしまったわけではなく、その視線がずっとこちらを向いていることにフーゴは気付いていた。何か言いたいことがあるような眼だ。しかし、フーゴはあえて何も気付いていない振りをした。しばらくすると、諦めたように息を吐く音が聞こえた。
「フーゴ」
「なに」
 彼は本から眼を離すことなく応じた。
 聞こえてきた声は、毛布に遮られて少し聞き取り辛かった。
「ありがとう」
 フーゴは視線を上げずに応えた。
「おやすみ」


2014,02,07


今まで、ナランチャは自分の部屋に帰らないで仲間の所に泊まっていくことが多いと言う設定をさらっと何度か使ってきたのですが、
そうなった経緯はちゃんと書いてないなと思ったのが今回のお話。
まだはっきりした好意を持つ前って感じを目指して、意図的にフーゴを敬語じゃあなくしてみました。
ホットワインはイタリア語にしようかとも思ったのですが、分かり易く和製英語のままにしました。
っていうかイタリアでの名称がよく分からなかった。
っていうかイタリアでもこんな飲み方ってするのかな?
よく知らないのですが、でもなんか美味しそうだなーと思って。
でもわたしはアルコール駄目なので、きっと実際に飲んだらやめときゃ良かったって思うと思います。
<利鳴>

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