フーナラ 全年齢


  Priorita'


「ナランチャッ!」
 その声は、事務所のドアを大きく開け放って外へ飛び出ていった背中を追いかけはしたが、しかしそれを引き止めることは出来なかった。音を立てて閉まったドアの向こうに、ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。
「またか」
「まただな」
 小さな声で言い合ったのはブチャラティとアバッキオで、その向かい側の椅子に腰掛けたミスタも無言で頷いた。
 その日も、フーゴとナランチャは2人掛りで応接スペースを占領していた。広げられているのは教科書や問題集、ノートの類で、どれも小学校の低学年向けの物である。もう何分も前から、薄い罫線が引かれただけのシンプルなそのノートに、新たな文字は書き込まれていなかった。それどころか、ナランチャは既にペンをその手に持ってすらいない。
「さっき教えたでしょう?」
 フーゴが苛立った声で言う。
「聞いてなかったんですか?」
 言葉こそ丁寧ではあるが、その口調には明らかに怒りが混ざり始めている。元々フーゴの沸点はかなり低い。少し離れたテーブルでそれぞれの仕事や暇つぶしをしていた仲間達は、その後の展開を薄々ではあるが予想し始めていた。
「いやぁ、聞いてはいたんだけどさぁ」
 周囲が緊張し始めるのにも気付かず、ナランチャは気の抜けた声で応える。
「じゃあもう忘れたわけだ?」
「うーん?」
 首を傾げてみても、当然答えが浮かんでくるわけではない。そんな様子を見て、フーゴの機嫌は益々悪くなる。
「お前な、自分から勉強見てくれって言ったんだぞっ? 本当にやる気あるのかっ?」
「へぇ、そうなのか」
 フーゴの神経を逆撫でしないように小さな声で、ミスタがブチャラティに尋ねるでもなく言った。
「オレてっきりブチャラティに言われて嫌々やってんのかと思ってたぜ」
「いや、オレはそんなことは強制しない。……そうか、ミスタはその時まだいなかったか」
「本当にナランチャが言い出したのか? 『勉強したい』って?」
 「信じられない」と言うように、ミスタは顔を歪ませた。
「それは確かだぞ。オレもその場で聞いてた」
「へぇ。ぶったまげたなぁ」
「なのに、だ」
 ブチャラティは手に持っていたペン先をミスタの背後へ向けた。その先には言うまでもなく、フーゴとナランチャの姿がある。
「ああ……。そりゃあフーゴも腹立てるわな。ホントにやる気あるのか?」
「一応な。フーゴがやめようとすると次の日には謝りに行っているようだしな」
「集中力の問題か」
「1日に長くは続けられないらしいな」
「はぁ……。あいつも大変だなぁ」
 フーゴはこれまでかなり努力してきていた。できるだけ分かりやすく説明し、丁寧に教えてきたつもりだった。すぐに別のところへ意識を向けてしまうナランチャの性格を配慮して、かならず一定時間毎に短い休憩をとらせ、自らお茶までいれてやった。それでもナランチャは隙在らば予定よりも早く切り上げさせようとたくらんでいるらしく、彼の勉強の予定はもう1週間分も遅れている。
 そしてこの日もとうとう――
「な、今日はここまでっ」
 一方的に宣言すると、ナランチャはさっさと外へ飛び出していってしまったのだ。ナランチャが落とした消しゴムを拾ってやろうとしてフーゴがテーブルの下へ身を屈めた隙をついて。応接セットとフーゴの頭の上を一気に飛び越えて、そのまま走り去った手際の良さはいっそ見事とでも言おうか。顔を上げたフーゴが慌てて呼び止めてももう遅かった。返事の代わりに響いたドアの音が、ぎりぎり残っていたフーゴの理性を削り落とす。
「ミスタッ!」
 突然フーゴが怒鳴るようにミスタの名を呼ぶ。
「えっ、オレッ!?」
 何故怒りの矛先を自分に向けられなければならないのか。ミスタが理不尽な思いで他の2名に眼を向けると、ブチャラティは手元の資料にペンを走らせ、それ以外は何も見えないし、何も聞こえないというような顔をしている。アバッキオは普段と比べると不自然な程大きく広げた新聞で顔を隠してしまっているし、その向こうに僅かに見える頭にはヘッドホンがかかっている。早い話が2人ともとっくに回避行動を取り終えてしまっていたのだ。この中ではフーゴとの付き合いが一番浅いミスタだけが一歩出遅れてしまったらしい。
(すまんな)
(ま、頑張れ)
 ブチャラティもアバッキオも、ちらりと目線だけでそんなことを言ってくる。
(じょ、じょーだんじゃねぇ!)
 八つ当たり以外の何ものでもない。
「ミスタ!」
 もう一度フーゴの声が飛んでくる。どうやら諦めるしかなさそうだ。
「……なんだよ」
「つきあえ」
 年下に命令されるなんて情けないと思わないでもないが、残念ながらこの世界ではフーゴの方が先輩だ。ミスタは渋々立ち上がった。
「わかったよ、しょーがねえなぁ……。どこ行くって?」
「買い物」
 宣言すると、フーゴはもうドアへ向かって歩き出している。
「買い物でストレス発散させようってのかよ」
「馬鹿、そんなことするか」
「フーゴ」
 ブチャラティが呼ぶと、フーゴは流石に足をとめて振り返った。
「今日はもうそのまま帰るのか?」
「そうですね。たぶん。そうします」
「わかった。ナランチャが戻ってきたらそう言っておく」
 その言葉に、フーゴの表情が一瞬だけぴくりと引きつったように動いた。これからストレス解消に無理矢理付き合わされる運命となってしまったミスタにしてみれば、危うい発言はできるだけ避けてほしいところだったが、ブチャラティは平然としている。
「自分から出てったんですよ。今日はもう戻ってこないと思いますけど」
「そうか?」
 次の瞬間、ミスタは我が眼を疑った。なんとブチャラティは、僅かにではあるが微笑んでいたのだ。
「フーゴ」
「はい」
「そろそろ気付かないか?」
「何が……」
「勉強が好きでもないナランチャがわざわざお前のところに来て教えてくれって言う理由に、だ」
 フーゴは露骨に訝しげな顔をした。
「本当に勉強がしたいなら、もう少し辛抱するだろう。あの様子を見てると、それが目的ではないように思えるな」
「じゃあなんだって言うんです? ただ何も考えてないだけでしょう? それとも、ぼくの仕事を邪魔するのが目的だとでも言うんですか?」
「そうは言っていないさ」
 わけがわからない。と、フーゴは首を振った。頭の良いフーゴだが、どうも人間関係についてはいまいち経験不足らしい。本来ならば幼少期から少しずつ学んでくるべきそれらを、本人の意思とは無関係に飛び越えさせられてきたのだから無理もないことかも知れない。ナランチャは『フーゴに勉強を教えてほしい』と言う。その目的が『勉強』にないのだとすれば、残るは『フーゴ』のみだ。
(あいつ、たぶんフーゴにかまってほしいんだよな)
 ナランチャ本人が明確に自覚した上での行動なのかどうかは別として、恐らく『勉強』は口実なのだろう。まだ付き合いの浅いミスタでさえそんなことには気付いている。IQ152の天才少年は、自分へ向けられる好意に関してはどうにも鈍いようだ。頭が良いからこそ、方程式に当てはまらないものは理解しがたいのかも知れない。
「引き止めて悪かったな。もう行っていいぞ」
 まだ釈然としない表情をしていたフーゴだったが、ブチャラティを問い詰めたところでそれ以上何が聞けそうなものでもない。諦めたように踵を返すと、ミスタをつれて外へ出て行った。

「んで、買い物って、何買うんだ?」
 フーゴの機嫌を損ねないようにとは思いつつも、何も聞かされずあちこち連れ廻されてはたまらない。とりあえずスーパーに入って行く斜め前の背中に、ミスタは問いかけた。
「普通に、食事の材料です」
「なんだ、本当に普通だな。おめー、料理の趣味なんてあったのか」
「別に趣味って程じゃあないです。料理中は余計なこと考えなくて済むでしょ」
 なるほどそういうものかと頷いて、ミスタはフーゴが押し付けてきた買い物籠を受け取った。その籠に次々と材料が入れられていくが、それで何が出来上がるのかはミスタには分からない。それでもなにやら複雑なものに挑もうとしているのだろうとの想像は付いた。
「よく面倒臭くないな」
 感心するというよりも半分呆れるような思いだが、『余計な事を考えない』のが目的なら、おそらくそのくらいの方が良いのだろう。
「ところでよぉ、フーゴ」
「なんですか。煩いなぁ」
「荷物持ち手伝ってやってんだからよぉ、当然オレの口に入る分もあるんだろうな?」
 フーゴはぴたりと動きをとめ、ミスタの方を少しだけ睨むと、小さく舌打ちをして、手に持っていた缶詰を2つに増やして籠へ放り込んだ。
 買い物をしている内に、フーゴの機嫌は『良くなった』とは言い難いが、少しずつおさまってきてはいるようだった。それでもミスタが声をかけると不機嫌そうな声が返ってくる。返事があるだけまだ良いと思うべきだろうか。
「あ、フーゴっ、こっちにしようぜっ」
 フーゴが伸ばしかけた手を遮るように、ミスタが棚から商品を取り上げる。しかし一度は籠に入ったそれを、フーゴは元の位置に戻した。
「勝手に籠に入れるな!」
「なんでだよ、いーじゃねーか。どーせそれ入れるんだろ? だったら、こっちのにしようぜ」
「駄目です」
「なんでよ」
「それは辛いから」
 フーゴは同じメーカーの『辛口』と書かれていないものを手に取った。籠に入れるともう次の場所を目指して歩き始めている。
「ん? お前辛いの駄目だっけ?」
「いいえ? 別にそんなことないですよ?」
 フーゴはさらりと答えた。
「でも今『辛いから駄目だ』って言ったよな?」
「……」
 フーゴは足をとめ、籠の中身と棚にある先ほどミスタが手に取った物とを見比べた。
「ええ……。言いました……ね」
 「自分でもどうしてそんなことを言ったのが分からない」。フーゴはそんな顔をしている。
「今日はなんとなく辛いものの気分じゃあないと言うか……。たぶん、そんな感じ……なんだと思います」
 そう言いながらも、もう一度その商品を交換するかどうか迷っているようだ。結局それはせずにその場を離れたが、その後もしばらくフーゴは首を傾げていた。

 普段あまり口にしないような、ちょっと珍しい野菜や、カラフルな果物を始めとする両手分の買い物袋の中身をテーブルの上に広げ、ミスタは椅子に座って頬杖を付いた。フーゴは買ってきた物をどれから片付けていくかということを考えているらしい。その背中に向かって、ミスタは言った。
「なあ」
「はい?」
「そろそろ気付かねーか?」
「は?」
 フーゴは眉を顰めながらミスタの方を振り返った。
「その台詞を聞くのは今日2回目ですが」
「だな」
 再びフーゴの声は不機嫌そうになっている。しかしミスタはかまわずに続けた。
「見てみろよ。お前が買ってきたもの」
 訝しげに、それでも言われた通りに、フーゴはテーブルの上に眼を向けた。
「これがなんだって言うんです」
「これって全部お前が好きなものか? 違わないか?」
 そう言った途端、フーゴの表情がぱっと変わった。驚いたような、だが同時に納得したような顔だった。声は出ていないが、口が「あっ」と言うように開いている。
「気付いたか? あいつ声でかいし、何度もおんなじこと言うからな。なんでオレまであいつの好き嫌い覚えなきゃなんねーんだかなぁ」
 「辛い物は嫌い」「肉や魚よりも野菜や果物が好き」。それらは全部、フーゴの好みではない。
「……」
「無意識の内にあいつが好きなもんばっかり買ってただろ」
 フーゴからは肯定の言葉も否定の言葉もなかった。だが、まだぽかんとしているその顔が、決して事実に反することを言われたわけではないことを証明している。そんな風にしていると、フーゴもやっと年齢相応に見えてくる。
「たぶん、ブチャラティがした質問の答えも同じだと思うぜ?」
「え……」
 ミスタは椅子から立ち上がった。
「呼んでやれよ。早くしないと、あいつ晩飯済ませちまうぜ」
 それだけ言ってミスタがフーゴの部屋を後にした時、フーゴの顔が赤く染まっていたのは、おそらく窓から差し込む夕陽の所為だけではないだろう。


2010,11,06


フーナラを更新しなければいけないという使命感にかられた!!(笑)
で、フーナラを書こうと思ったのになんでかミスタの出番がいっぱいになっちゃいました。
ってゆーかナランチャの出番が少ない!
下手したらブチャラティとかアバッキオよりもさらに少ないんじゃあないでしょうか。
フーナラ小説なのにぃー。
<利鳴>
当人同士の絡みは少ないのに、どの2人がラブラブしいのかよく判る。
利鳴ちゃんの描写(というか、寧ろ運び方)が上手いのに嫉妬だわ。
ミスタさんはどっちかが好きなのか。だとしたら何と報われないんだ、まで妄想してしまった…(笑)
フー×ナラというよりフー→←ナラってヤツなのでしょう。
知らないジャンルの筈なの変な所まで考察してしまう…!
<雪架>

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