ジャイジョニ 全年齢


  右斜め25度×2


 その日はちょっと久しぶりに、野宿からも、辛うじて雨風が防げる程度の空き家からも逃れることに成功して、ぼく達の眼の前には眩しいくらいに白いシーツが敷かれたベッドが存在していた。バスルームにはお湯の出るシャワーもある。それでいて、部屋の中には無駄に煌びやかな装飾品の類はない。100点満点。文句なしって感じだ。
 数日ぶりに汗や砂や埃を洗い流して、まともな食事をして、馬達の手入れもちゃんとして、久々のベッドが柔らかすぎて逆に落ち着かないなんて言いながら、ぼく達はいつものように今日1日の反省を終え、今はどうでもいいような話題に花を咲かせていた。
「おう、ジョニィ。もういっぺん言ってみろよ?」
「いいよ。マウンテン・ティムの帽子は確かに変だと思うけどさ、君の帽子だって結構変だって、そう言ったの」
「なんだとぅッ」
「なんなのその穴あき?」
「お前の帽子だって人のこと言えるか! なにその穴あき!?」
「そういえばDioの帽子も変だ」
「ああ、名前書いてあるやつな!」
「それからリボンまで付いてる!」
 それぞれのベッドに座って向かい合いながら、そんな馬鹿みたいな会話をする。その次の話題はジャイロが考えた変なギャグ。ジャイロはいつも唐突に話題を変えるんだ。そのことに、ぼくはもうだいぶ慣れてきていた。そしてまたすぐに話題が変えられる。
「お前さぁ、キスする時ってどっちに首傾ける?」
 ジャイロのギャグがつまらなかったことも手伝ってか、少し眠くなってきた頭に、なんだか突拍子もないセリフが飛び込んできた気がして、ぼくは思わず変な顔をしていた。
「なんだって?」
「ちゃんと人の話聞いてろよ。だから、キスする時、『右』と『左』どっちに首曲げるよ?」
 ジャイロは荷物の中から“クマちゃん”を取り出して、それに口付けるような仕草をした。その“クマ”なら顔の凹凸が人間よりも少ないしサイズだって小さいから、真っ直ぐだって出来そうなものだったけど。
「『右』? 『左』?」
 そう言って左右に首を傾げてみせた。
「そんなの普通一々意識してやる? って言うか……」
 ぼくはちらりと自分の脚に眼を向けた。
「そんなことする相手なんていないよ。脚が『こう』なってからはずっとね」
 天才ジョッキーだなんて呼ばれていた頃は、勝手に女の子が集まってきた。その内の何人かとはキスをしたりそれ以上の関係になったりもしたけど、それが『恋』と呼んでいいものだったのかと聞かれると、違うような気がする。『愛』だとか『恋』だとか、そんな言葉が持つ美しさや純粋さは、ぼくには欠片程も存在しなかったから。だから脚が『こう』なって、それまで周りにいた子達があっと言う間にいなくなっていっても、そう言った意味ではぼくは傷付きはしなかった。『失う』ような『恋』は初めからなかった。
 ジャイロは時々ぼくの脚のことを忘れているに違いない――そうじゃあなかったら「走れ」なんて言わないだろう――。彼はバツが悪そうな顔で視線をそらせて、小さな声で「悪い」と言った。少しの間、沈黙が続く。
「まあ、いいや」
 ぼくはふっと息を吐いた。
「で、なんなのそれ? 『右』か『左』かだっけ? 心理テストかなんか? それとも、ジャイロの国のナンパの仕方でも教えてくれるの? 『そこの木と比べて頭悪そうと思ったら声をかけろ』とか?」
 言ってもどうしようもないことを言って場の空気を悪くした反省とお詫びの意味を込めて、ぼくはあくまでも軽い口調でジャイロに尋ねた。するとジャイロは、少しだけほっとしたように表情を緩めた。
「いや、調査したやつがいるらしいんだがな、70%の人間が『右』に傾けるんだってよ。だから『右』に傾けてするのが『自然』っつーか、『正しい』んだとよ」
「なにそれ。『正しい』って。マニュアルがあるわけじゃああるまいし」
 そもそもそんなことを調査しようだなんて、おかしなことを考える人がいたもんだ。その人は、恋人とキスをしようとしてよっぽど酷い失敗でもしたことがあるんだろうか。
「でも70%は多いな」
「だろ?」
「なんだろう。利き腕の関係とかかな。でもサウスポーの比率ともまた違うし」
 確かサウスポーは全人口の10%弱だと聞いたことがある。
「しかも、『右』派の人間は自分からは簡単に頭の向きを変えないらしい」
「どういうこと?」
「『右』と『左』がキスしようとすると、ぶつかるよな。その場合、相手に合わせるのは『左』の方らしい。で、結果的に2人とも『右』におさまる」
 言いながらジャイロは首を右に傾け、今度は本当に“クマちゃん”にキスをした。
「ふうん」
 ぼくはどうだったかなと考える。そういうことをする相手がいた時のことを思い出そうとする。が、そんなことを意識してやったことはないし、今改めて意識してみようとすると、どちらに傾けても自然ではないような気がして、うまくいかない。どちらの足で踏み切ってジャンプするかを考えようとしたら、どちらの脚も出なくなってしまったような、そんな気持ちだ。その例えも、今のぼくには当てはめられないのだけれど、一般的に通じそうな例としては、そう遠くないと思う。
「それ、貸して」
 手を伸ばすとジャイロは渋々と言った感じではあったが、“クマちゃん”を軽く投げてよこした。でもやっぱりこれじゃあ『自然』とは言い難いよな……。口付ける真似をしてみようとしたけど、結局『右』なんだか『左』なんだか、かえって分からなくなった気分だった。
「よく分からない。ジャイロはどっち?」
「『右』かなぁーって感じかな。意識しないでやることって、意識すると出来なくなる」
「うん。そうだよね」
 どうやらその話はそこでおしまいになったらしい。途中でぼくが余計なことを言ったからか、あまり盛り上がりきらずに終わった。
「それにしても君、なんだってこんな薄汚れたぬいぐるみなんて持ってるの?」
 しかもそれに真顔でキスまで出来るなんて。
「成人男性が持つもんじゃあないよねー」
 さっきのお詫びに、今度はめいっぱいくだらない空気を作ってやろう。まるっきり馬鹿にしたような表情と口調で言ってやると、ジャイロもそれにのってきた。
「うっせーな、ほっとけよ。オレのクマちゃんを返せッ」
 ジャイロが手を伸ばす。ぼくは“クマちゃん”を持ったまま自分の手を左右に振って、奪い返そうとするジャイロの手を掻い潜った。それをジャイロが追いかける。
「ほらほら、こっちー」
「こらっ、てめー! 返せってば! 乱暴にするんじゃねぇ!」
 その“クマ”は、だいぶ古い物なのか、既にあちこちぼろぼろになりかけている。確かに、現時点で無傷とは言えないような代物ではあるが、あまり乱暴に扱っては決定的に壊れてしまいそうだ。
「分かった。返すよ、ほら。悪かったって」
 ぼくはそれをジャイロに差し出した――と、見せかけて、最後にもう1回。ぱっと手を上げると、猫じゃらしに飛び付く猫の仔みたいに、ジャイロはそれを追ってきた。そんなことをしなくても、どうせぼくが逃げ廻れる範囲は極僅かだって知っている筈なのに。
「返せっ!」
 高々と上げた手首を掴まれた。そのままバランスを崩して後ろに倒れる。勢いが止まらなかったジャイロも一緒に倒れる。もつれ合うみたいに。ぼく達は揃って「うわ」と小さく声を上げた。
 白いシーツの上で背中が弾んだ。もう少しベッドの上の方に座っていたら、淵に頭をぶつけていたかも知れないなと思った。ジャイロは咄嗟に手をついて自分の身体を支えたらしく、ぼくは下敷きにはされずに済んだ。もっとも、脚の方まではどうなっているのか分からないのだけれども。とりあえずジャイロの身体はこちらのベッドの上へ乗り上げているようだ。
 顔を上げようとすると、思ったよりもずっと近い場所にジャイロの頭があった。ぼくは彼の顔を真下から見上げている。その眼に自分の顔が映っているのが分かるくらいに近い。ぼくの視界に、ジャイロ以外のものが入り込む余地はなかった。きっとジャイロも同じだっただろう。
 ジャイロの“クマ”は既にぼくの手から抜け落ちて、――この体勢じゃあ見えないけど――床に転がっていた。しかしジャイロはそれを拾いに行かなかった。ぼく達は視線を合わせたまま、時間が止まったみたいに固まっていた。そのまま僅かな沈黙があって、
「ジョニィ」
 聞こえてきたジャイロの声は小さかった。沈黙を破るのを躊躇うみたいに。それでも耳よりも脳味噌に直接届くような至近距離で聞こえたそれに、ぼくは少しだけ肩を竦めた。
「キスしてもいいか?」
 何を言い出すんだこの男は。こんな、ベッドの上で、って言うか、こんな体勢で、こんな距離で。もう至近距離なんてもんじゃあない。零距離射撃もいいところだ。一斉射撃で目標の殲滅を確認。掛かった時間はほんの数秒。なんてことしてくれるんだあんた。そういえば、どうしてぼく達は極自然に同じ部屋に泊まっているんだろう。野宿の時は仕方ないとしても、偶のちゃんとした場所で休める時くらい、独りでゆっくりしたいとジャイロは思わなかったんだろうか。どうして彼はフロントで「ツイン」なんて言ったんだ? まあ、ぼくもそれに対して何も言わなかったわけだけども。今更「いいか」だって? したってしなくたって、もう同じようなものだろ。どちらにしても、絶対変な空気になるぜ。
 ぼくが返事もせず、首も――縦にも横にも――振らずに――正確には『振れずに』――いると、ジャイロはより小さな声で言った。
「嫌ならしない」
 ぼくは黙って眼を瞑り、それをジャイロがどう解釈するのかに任せようとした。我ながらずるい考えだ。
 少しの間があって、ジャイロはそれを『拒絶』とは見なかったらしい。ジャイロの体重が移動して、ぼくの身体はベッドに沈み込む。柔らかい感触が一瞬だけ唇に降りてきて、小さな音を立てた。と、思ったら、次の瞬間にはもうジャイロの唇は彼の身体毎離れていた。触れたか触れてないかの本当にぎりぎりの口付け。なに、今の。それだけ? さっき“クマ”にしてたやつの方が、まだキスらしいじゃあないか。ぼくは思わず眉間に皺を寄せていた。
 そっと眼を開けると、ジャイロの顔はまだそこにあった。何か言おうとして――何を言おうとしたのかは、自分でも分からない――口を開いた途端に、今度はさっきよりも強く――と言うよりも荒々しく――その唇を塞がれた。今のは完全に不意打ち。ちょっと悔しい。
「んんぅ……」
 最初のキスはやっぱりキスなんかじゃあなかったなと思うくらいにギャップのある、長く、深い口付けの隙間から、ぼくはくぐもった声を出すしか出来ずにいた。段々苦しくなってくる。
 彼は最初からこうしたくて、あんな話をしたんだろうか。いや、“クマ”を取ったのはぼくの方だ。そこまでジャイロが予想出来たはずがない。じゃ、あんな話の後だから、偶々そういう体勢になってしまった時にそのままキスしてみようかと思ったんだろうか。それとも、「そんなことする相手がいない」と言ったぼくを哀れんだんだろうか。ちょっと慰めてやろうかってつもりで? 自分だって、いないくせに。いないよな? いたら、こんないつ帰れるのか――無事に帰れるのかどうかさえ――分からないレースに参加するなんて、その人を置いてきてこんなところでぼくみたいな――よりによって半身不随の――やつ組み敷いてるなんて、普通しないよな? それともその人は「待ってる」とでも言った? きっとその女――それともぼくにこんなことをしているくらいだから、男だったりして――、今頃他の誰かと腰振ってるぜ。そのことで文句言う資格は君にはないよな。だって、今なにしてると思ってるんだ?
 そんな意地の悪い考えも、呼吸と一緒にどんどん奪われていくように、ぼくの頭の中は真っ白になっていく。気が付くとぼくは、手を伸ばしてジャイロの広い背中に抱き付いていた。キスも、されてるんだかしてるんだか、よく分からないような感じ。
 やっと唇が離れて、ぼくはジャイロの顔を見上げた。
「あのさ」
「なに」
「ぼく、ここまでしか出来ないんだけど」
 ジャイロは首を傾げた。ほら、また忘れている。
「ぼくの脚は動かないんだ。って言うか、腰から下全部」
 今、また忘れてただろ? 全然動かないんだぜ?
「だから、ここまでしか出来ない」
 ジャイロは意味を考えるようにぱちぱちと瞬きをした。
「オレ、そこまでしたいって言ったか?」
「言ってない」
「だよな。別にいいぜ、ここまでで」
 『いいぜ』って……。
「いいの? ……出来なくても」
「いいって。キスは出来るだろ。今しただろ。あと抱き締めるのも。これも今やってるな。それだけあれば充分。嫌じゃあないよな? さっき嫌だって言わなかったし。嫌だったらとっくに殴ってるよな?」
 それだけで充分って……。
「きっと今だけだ。そんなこと言うのは」
「違うって。信用ねーな。お前、恋愛は全部下半身と直結してるとでも思ってるの?」
「キスだけで幸せだなんて言う女の子はいなかった」
「今まで変な女ばっかり寄ってきてただけだろ」
「じゃあ、いいの?」
「何度も言わせるな」
「……手とか口とか使えばなんとかなるかもだけど」
「いいって」
「きっとその内やっぱり嫌だって言い出すよ」
「お前本当にしつこい。じゃあオレがそんなこと言い出すまでには、脚治しておけよ」
「……それ、治ったら『やろう』って意味?」
「そう聞こえた? むしろ治ったらやりたいのはお前なんじゃあねーの?」
「そんなことない」
「そうじゃあなかったら自分から『手とか口とか』なんて言わないぜ。普通」
「……いいの? 祖国で待ってる人」
「誰それ」
 まるで撃ち合いみたいな会話。ぼくは思わず笑い出してしまった。つられたようにジャイロも笑う。その後で、どちらからというわけでもなく、もう1度キスをした。
「『右』だったよ」
 ジャイロにしがみ付いたまま、ぼくは言った。
「ん?」
「今、キスした時。それからさっきも。君、『右』に傾けてた」
 ジャイロはまた瞬きを繰り返した。
「そっか。無意識だった」
 きっとジャイロのこんなことを明確に知ってるのは、ぼくだけなんだろうな。そう考えると、なんだかくすぐったかった。


2011,01,14


『キスは右に傾けてする人が多い』という記事を眼にして、2秒後にジャイジョニに変換していた利鳴です。
他のカップリングでも使えそうなネタではありましたが、真っ先にジャイジョニが浮かんできたのです。
最初はもうちょっと暗くというか、重くというか、そんな感じになってたんですが、そういうのはもう書いた気がしたので途中で路線変更しました。
ジョニィは遊び慣れてはいるけど、本当のちゃんとした恋愛はまだまだ初心者な感じで。
逆になかなか手出してこないジャイロをわざとおちょくって遊んでるくらいのジョニィも好きですが。天然キャラもいいと思う。
そしてジャイロは意外と紳士的でも、ヤる気満々でもどっちでも好きです。
ぶっちゃけジャイジョニならなんでも好きなのかも知れません(笑)。
タイトルの『25度』は、傾ける方向を調査するのに使われたマネキンの首が左右に5〜25度の範囲で動くものだったそうなので、その数字です。
2人とも同じだけ傾けたらその2倍だなぁと思ってこうなりました。
<利鳴>

【戻】


inserted by FC2 system