ジャイジョニ 全年齢


  羽のはえた幻


 寝転がって真っ直ぐに見上げた空は眩しかった。その光源たる太陽は直接視界に入ってはいなかったが、それでも。真っ青な空には真っ白な雲がいくつか浮かんでいた。ふわふわと漂いながら輝いているそれの1つに向かって、ジョニィは指を伸ばした。
「あの雲」
「くも?」
 鸚鵡返しにもう1つの声が言う。ジョニィが視線を移動させると、長い髪とマントがふわりと靡くのが見えた。表情はほとんど伺えない。ジョニィの言葉に誘導されて、その顔は上を向いている。
「あれか」
 見上げたまま発せられた声は、そのまま青空に吸い込まれていったようで、ジョニィの耳にはいつもより小さくしか聞こえなかった。
「あれがどうした?」
 「うん」と頷いてから、ジョニィは再度空に浮かぶ白い雲へと眼をやった。
「馬の形に似てる」
「うま?」
「ほら、見えない? あっちが頭で、そっちが尻尾。前足が少し高くなってて……」
「ああ、なるほど?」
 そう返ってきた声は、しかし“納得”し切っている風ではなかった。
「ちょっと鬣の辺りの形がウマくねーな。騎手がいるようにも見えねーし。洗濯物が引っかかってるみたいだぜ」
「細かいなぁ。あ、じゃあねぇ、あれは羽」
「はね?」
「そう。天馬なの」
「ペガサスか」
 ジョニィは眼を閉じ、愛馬の姿を思い浮かべた。ここ数ヶ月の間、毎日その毛並みに触れてきた彼は、それを鮮明に脳裏に描くことが出来た。その身体のどこに翼があれば、一番バランスが良いだろうかと考える。首の付け根、胴体の真ん中、それとも意外ともっと下の方か。どうイメージしてみても、そこへ馬具を着けるのは難しそうだ。いや、馬具がなかったとしても、翼が邪魔にならずにその背に跨るのは容易ではないだろう。おそらく、天馬は人を乗せては走らない――あるいは飛ばない――のだ。それとも、脚を折り畳むように馬上に引き上げ、下半身を使わないあの――脚が動かないジョニィがずっとそうしていた――乗り方なら、それも可能だろうか。
(意外と落ちずにいられたもんなぁ。でもあれで空を飛ばれたら、流石に怖いだろうな)
 初めて馬の背に乗せられた時のことを、ジョニィは覚えていない。おそらくそれは、記憶していなくとも仕方ないくらい幼い頃のことだったのだろう。物心が付いた頃には、すでに馬と触れ合うのが彼の日常だった。兄のニコラスもそうだった。兄弟にとって、馬の存在はごく当たり前のものだった。それでも、初めてその巨体とも言える生き物を見せられた時くらいは怖がって泣いたりしたのだろうか。覚えていないが、もしそれを乗り越えて今こうしているのだとしたら、案外、天馬に乗ることだって出来るようになるかも知れない。恐怖を克服し、自由に空を飛べたら、きっと気持ちがいいだろう。特にこんな、天気の良い日は。
(でも君の故郷まで飛んで行くのはちょっと無理だな。流石に大西洋を休憩なしでは飛べそうにないもの)
 間にもっと陸地があればなと思いながら、ジョニィは少し笑った。
「ねえジャイロ」
 ジョニィは仰向けに寝転がったまま両眼を開いた。帽子の鍔が作る影の中から、2つの眼がこちらを向く。
「レース中は、ずっと脚が動くようになったらって、思ってた」
 それだけ――『だけ』だと思っていた――を希望に、彼は馬を走らせ続けた。だが、
「今は……、脚なんて動かなくても、羽があったら良かったのにって思ってる。そしたら、君のところまで飛んで行けるのに」
「ジョニィ」
 少し怒ったような声が彼の名を呼んだ。いや、明確に“怒った”というよりは、わがままを言う子供を宥めようとする口調に近い。呆れたような溜め息が混ざっているあれだ。
「分かってる。そんな“奇跡”は起こらなかった」
「必要ないってことだろうな」
 ジョニィは微笑んでみせた……つもりだった。上手く出来たかどうかは、少し自信がない。もう何年も、心の底から素直に笑ったことなんてないような気がする。顔の筋肉はすっかり強張ってしまっているかも知れない。それでも、その顔を伏せてしまうことはしなかった。今のジョニィには、堂々と顔を上げていることが出来る。
「馬鹿なことは考えてないよ。君が“ゼロ”に立たせてくれたんだもの。ちゃんと歩くよ。君に追い付くまで」
 ジャイロは、結局いつもジョニィを待っていてくれた。「先に行け」と言った時でさえ、彼を置いていくことはしなかった。だから今度も、きっとジャイロは待っている。置いていかれたのではない。少し先に行っているだけだ。
「だから、待ってて。今度も。ぼくが追い付けるまで」
 風と波の音に混ざって、声がした。なんと返してきたのかは聞き取れなかった。しかし、その響きはとても優しいものであったように感じた。
 ジョニィは再び眼を閉じた。日差しが暖かい。さっきまで吹いていたはずの冷たい風は、いつの間にかやんでいた。このまま眠ってしまえそうだ。それとも、もうすでに、眠りの中にいたのだろうか。
(きっとそうだ)
 心地良い眠気に包まれながら、ジョニィはそう思った。
(だって、夢の中でもないと、君がこんなところにいるはずがない)
 ジャイロはもっと先に行ったところでジョニィを待ってくれているはずなのだから。
 不意に、顔に“何か”が触れた。軽くて、柔らかくて、ふわふわしている。辛うじて空気を動かせる程度の“何か”。眠気に抗い、ジョニィは眼を開けた。視界の大半が白い“何か”に覆われていた。上体を起こし、指先でつまんだそれは、白い羽だった。白い鳥の羽。どこから現れたのだろうか。上空を含めた周囲には、人も鳥も、ついでに馬も、何もいなかった。風もやんだままだ。
 少し首を傾げてから、ジョニィはその羽をカバンの中にしまい、再び仰向けになった。彼の頭上には、まだあの天馬の形をした雲が静かに浮かんでいた。


2014,09,09


また夢オチか!!
あるいはオバケ。
<利鳴>

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