ディエジョニ 全年齢


  反比例に似た関係


 騎乗者控え室から目当ての人物が出てきたのを見付け、ジョニィは駆け出しそうになった自分の足とその感情をなんとか押さえ込んだ。リードを持って現れた主人の姿に気付いた途端に尻尾を振って駆け寄ってくる犬のように思われたら、それは少し恥ずかしい。そんなことを思っていると、通路の向こう側から1人の男が歩いてきた。その男は、ジョニィが「もしかして」と思う間もなく、控え室のドアを閉めたばかりの人物に声をかけた。何を話しているのかは、ジョニィには聞こえなかったが、おそらくはレースの関係者なのだろうとその服装から分かった。
「やあDio。素晴らしいレースだったよ。初出場にして初勝利! 本当におめでとう!」
 読唇術の心得はないが、男のセリフはおそらくそんな内容だろう。対するディエゴ――通称Dio――の声も、やはりほとんど聞こえない。しかし彼が笑顔を返しているのははっきりと見えた。
 このまま2人が立ち話を続けるつもりなのだとしたらどうしようかと、ジョニィは少々居心地の悪さを感じた。1人で通路に突っ立って、聞こえもしない会話を立ち聞きしているのはあまりにも無作法で、不恰好だ。出直すべきか、それとも割って入るべきかと迷っていると、ふと、ディエゴの視線がこちらを向いた。一瞬、とっくに気付かれていたのだろうかとも思ったが、次のディエゴの表情を見て、その考えはすぐに撤回した。ジョニィの姿を見付けたディエゴは、ぱっと笑顔を作った。それ以前からすでににこやかな表情をしてはいたが、それは“他所向け”の顔でしかないことを、ジョニィは知っている。自分に向けられるそれとは、おそらく付き合いの浅い人間には判別出来ないであろうほどではあるが、わずかに違っているのだ。
 ディエゴはそれまで話していた男に一言二言何かを告げると、片手を軽く振り、小走りにジョニィの方へやってきた。手を振り返した男を見て、ジョニィは何故か優越感を覚えた。
「ジョニィ、どうしたんだ。こんなところで」
 少し驚きを混ぜた“他所向け”ではない笑顔を見上げながら、ジョニィは「うん」と頷いた。
「もちろん祝福の言葉を言いに来たのさ。勝利にはそれが必要だろ?」
 するとディエゴは、碧色の瞳を大きく開いた。
「もしかして、応援に来てくれてたのか? 本当に?」
「そんな、たまたまだよ。たまたま近くへ行く用事があったから」
 慌ててそう言いながら、ジョニィは速さを増した自分の心音を聞いていた。
「デビュー戦で優勝だなんて、本当にすごいよ。完璧な走りだった」
 同じ内容の言葉を、すでに多くの人間――喩えば、さっきの通りすがりの男――にも言われているのだろうなと思いながらも、ジョニィは自分が思ったことを素直に伝えた。ディエゴは、「ありがとう。本当に嬉しいよ」と返した。
「でも、きっとみんな、本心ではそう思っていないんだろうな」
 ぽつりと呟いたディエゴの表情が、わずかに曇った。
「Dio……?」
「君も聞いてるだろう? 優勝候補だった騎手が、突然の体調不良で出場を辞退したんだ」
「ああ……。そう言えば……」
「彼が出ていたら、ぽっと出のルーキーなんかが一着になっていたはずはない。みんなそう思ってるさ」
「そんなことない!」
 ジョニィは自分の口から出た声の大きさに、思わず驚いていた。「むきになっている」。そのことが容易に自覚出来た。むきになってでも、『そんなこと』は誰にも――ディエゴ自身にも――言わせたくなかった。理由は分からない。ただ、子供の頃から大切にしている思い出の品を真っ向から否定されているような、そんな気持ちになった。
「あれは君の実力だった。他の誰がいたって関係ない」
 強い口調に圧倒されたのか、ディエゴはただ瞬きを繰り返している。だがその表情は、やがて溶けるように崩れた。代わりに現れたのは、穏やかな微笑みだ。
「ありがとう」
 その声に、ジョニィは自分の体温の上昇を感じた。
「君がそう言ってくれると、自信が出てくるよ」
 にっこりと笑われると、ジョニィは視線を地面に向けることしか出来なくなってしまった。顔を上げれば、その頬が赤味を帯びていることがばれてしまうに違いない。慌てて次の言葉を探していると、ありがたいことに、会話を不自然に途切れさせることなく続けてくれたのはディエゴの方だった。
「それにしても、君は余裕なんだな」
「?」
「君だってもう間もなくデビュー戦だろう? そんな時に他人の応援をしているなんて。いずれ競い合うことになるんだぜ、ぼくと君は」
「それは、そうだけど……」
 数日遅れのジョニィのデビュー戦は、すでに数日後に迫っている。ディエゴの言うように、こんなところで遊んでいる暇はないのが本当なのかも知れない。だがジョニィは、幼馴染の走りを、どうしても見たくて仕方がなかったのだ。
「それとも、敵情視察のつもりかな?」
 ジョニィの顔を覗き込みながら、ディエゴは悪戯っぽく笑ってみせた。
「ち、違うよっ! そんなんじゃあないっ!」
 ジョニィが慌てる様子がおかしかったらしく、ディエゴはくつくつと笑っている。「もうっ、怒るよ!」と言いながら、ジョニィは拳を振り上げる真似をした。
「分かった分かった。謝る。冗談だよ」
 そんな会話をしていると、2人の笑い声を遮るように、女の声が聞こえてきた。
「あの、ディエゴ・ブランドーさんですよねぇ?」
 ジョニィが振り向くと、そこには彼等よりも2〜3歳上と思われる3人の女がいた。3人とも、派手になりすぎないように、しかし彼女達にとっては最上級のおしゃれをしてきたのだろうということが分かる服装をしていた。レース会場に着飾って来て何がしたいんだと、ジョニィは眉を顰めたが、3人がそれに気付いた様子はない。というよりも、最初からジョニィの存在自体、気に留めてすらいないようだ。そしてジョニィの疑問はすぐに解消された。女達はディエゴの名を呼びながら、馴れ馴れしく駆け寄ってきた。
「あたし達、前からあなたのファンなんですぅ!」
 媚びていることを隠そうともしない口調に、ジョニィは「嘘だ」と内心舌を出した。ディエゴの走りが一般に知られたのはつい先程――数時間前――のことだ。この女達がそれ以前から彼のことを知っていたはずがない。そんな下らない嘘を吐いてディエゴの気を引こうとしていることが見え見えだ。
「そう。それはありがとう」
 そう応えたディエゴは、相変わらずの笑顔である。しかしそれは本当の――本心の――彼ではないのだ。あんた達はそのことを知ってすらいないんだぞ。と、ジョニィは声を荒らげたくなった。
 3人の女は代わる代わる耳障りな声できゃあきゃあと騒ぎ立てた。「ファン」を自称する相手を無碍にするわけにもいかないのだろう。ディエゴは彼女達を追い払おうとはしない。いよいよジョニィが苛立ち始めたタイミングで、1人の男が近付いてくるのが見えた。先程の男とは違う人物のようだが、彼もまた、レースの関係者であるらしかった。
「ディエゴ、今帰りかい? 悪いんだけど、少しだけ打ち合わせをしたいんだが、いいかな?」
「OK。今行くよ」
 ディエゴはそう応えると、3人の女と、そしてジョニィに向かって手を振った。打ち合わせとなれば、ジョニィとて勝手について行くわけにはいかない。喩え彼が数日後にはディエゴと同じ立場の人間になっているとしてもだ。
 まだ何か言いたいことがあったはずなのにと、ジョニィは下唇を噛んだ。実際に何を言いたかったのかは分からない。だが、もっと2人で話をしていたかった。内容はどうでもいい。他愛ないお喋りで良かった。ディエゴと一緒にいたかったのだ。
「ジョニィ!」
 踵を返しかけたディエゴは、ふと思い付いたようにその足をとめた。“自称”ディエゴのファン達は、初めてジョニィの存在に気付いたようで、1人だけ名指しで呼ばれた彼のことを、露骨に睨み付けてきた。
「君も頑張れよ。応援には行けないけど、健闘を祈ってるよ」
 激励の言葉をかけられた。そのこと自体は素直に嬉しかった。だが、同時に軽い落胆をも覚えた。
「……なんかあるの、その日……」
「ああ、スポンサーと約束があるんだ。次に会う時はコース上でになるかもな」
 もう1度「じゃあ」と手を上げて、ディエゴはさっさと行ってしまった。その時の笑顔が、“他所向け”のそれなのか、それとも素の彼のものなのか、ジョニィは判別することが出来なかった。そんなことは、彼と親しくなってから初めてのことだった。
 ディエゴの姿が消えていった通路の角の向こうから、再び女の悲鳴に似た声が響いてきた。先程の3人組みとは違う――彼女達はすでに反対方向の出口へ向かって歩いて行った後だ――。「ファンなんです」、「かっこよかったです」、「応援してます」。そんな声がに混ざって、ディエゴが「ありがとう」と応えるのが聞こえた。
「ありがとう。本当に嬉しいよ」
 まだ耳に残っていたその響きが思い出させる笑顔は、誰に向けられたものか……。あるいは、最初から1つしか存在していなかったのだろうか。
 ジョニィは、やり場のない苛立ちを抱えたまま、拳を強く握った。
 悔しい。
 何故かは分からないまま、そう思った。


2014,01,24


ここまではっきりとジョニィがディエゴに対して好意を持っている話は初めて書いたと思います。
ジョニィは最初はディエゴのことが好きだったのにちゃんと相手にしてもらえなくてイライラ。
後に父親がディエゴと自分を比較するようになり+ディエゴに全然勝てなくてもっとイライラ。
やがてディエゴのことが嫌いになる。
一方ディエゴはほいほいついてくるやつには興味がなくて、最初は適当にしか相手をしていなかったんだけど、ジョニィが自分のことを嫌い始めて、
逆に相手に対して興味を抱く(逆らうやつを無理矢理従わせる方が好き)。
ディエゴ、ジョニィにちょっかいかける。→ジョニィ、ディエゴを益々嫌いになる。→ディエゴ、嫌がられれば嫌がられる程構いたくなる。
以下無限ループ。
という妄想です。
<利鳴>

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