ジャイジョニ 全年齢


  君と行く世界一周の旅


 施錠の確認を終えて振り向くと、ジョニィはベッドの上で大きな地図を広げていた。明日のルートでも――もう何度も確認しているにも関わらずしつこく――見ているのだろうと思いながら、ジャイロは部屋の照明のスイッチに手を伸ばした。
「消していいか?」
「うん」
 そう返しながらも、ジョニィは顔を上げない。その眼は両手で持った地図の上へ向いたままだ。ジャイロが明かりを落としてしまっても、ベッドサイドにある小さな電気スタンドのお陰で辺りが真っ暗になってしまうことはなかった。が、地図を読むのに最適な明るさであるとは言い難い。「視力落ちるぞ」と言いながら、ジャイロはジョニィの横を通って自分のベッドへと向かった。
「熱心に何見てる?」
 通り過ぎる時、視界の隅に入った地図に、何か違和感があった。そう思ってジャイロは、数歩後ろ向きに歩いて戻る。それが覗き込める場所に立つと、違和感の正体が分かった。レースのルートが記されているのだろうとばかり思ったそれは、もっと広い範囲を描いた、世界地図だった。いつの間にそんな物を手に入れたのだろう。レース用の地図と比べるとサイズ自体は一回り以上大きいが、それでも記された範囲が広すぎて、縮尺はもっとずっと小さくなっている。細かい地形は省略されてしまっているようだ。アメリカ大陸も、こうしてしまうと随分小さい。その中にあるはずのこれまで通過してきた道や町は、どんなに細いペンを使っても描き記せないに違いない。
「お前そんな地図で走る気か? アメリカ横断通り越して、世界一周するつもりかよ」
「まさか」
 電気スタンドの明かりに照らされてオレンジ色になっている顔は、“微笑んだ”と言うには変化に乏しく、多少“表情が緩んだ”程度だった。それでもジョニィが随分とリラックスしていることが分かる。百パーセントとは言えないが安全な場所――なにしろホテル毎爆破されそうになったこともある――で夜を越えられるのは、この過酷なレースの中でかなりありがたいことだ。交代で寝ずの番を務める必要もなく、数日振りに2人揃って安眠出来そうだ。その時間を、世界一周旅行だなんてリアリティの乏しい空想で削ってしまうのはいただけない。そんなことを考えていたジャイロの口からは、大きな欠伸が出た。
「イタリアを探してた」
 その声はまだ欠伸が止まっていないタイミングで発せられたために、ジャイロはリアクションを取るのが一瞬遅れた。
「ん、なんだって?」
「自分の国の名前も忘れた?」
「ばーか」
 そもそも自分はイタリア人ではなくネアポリス人だ。そう返しながら、ジャイロは身を乗り出し、人差し指で地図上の一箇所を指した。
「ここ」
「もう知ってる」
 では探し物はすでに見付かっていたというわけだ。
「ご感想は?」
 地図を見ただけ――それも国の形のシルエットのような世界地図――で感想も何もあるか。そう返されることを予想したジャイロは、しかし予想外の笑い声を聞いた。
「変な形」
「お前の“変”の基準が分かんねーよ。国の形なんて、どれも歪だろ」
「だいぶ小さいんだね。イタリア横断レースだったらすぐに終わりそう」
「大陸と半島を比べるなよ」
「冬は寒いの? 雪は降る?」
「いや、結構珍しい方だな。絶対降らないってこともないけどな」
 言葉の終わりに再び欠伸が混ざった。「もう寝るぞ」と宣言するように言って、ジャイロは自分のベッドに入った。ジョニィはまだ、同じ場所へ視線を落としたままだ。そんなに面白いかと尋ねようとすると、彼は小さく唇を開いた。
「こんな遠くから来たんだ……」
 ぽつりとつぶやくように言った声は、ジャイロに聞かせるためのものというよりも、独り言に近いようだった。蒼い瞳はその国の形に向けられているが、どこか違う景色を見ているようでもある。
 そう、ジャイロは遠く離れた国からやってきた。そして、そこへ帰っていく。このレースが終わったら、次の“やるべきこと”を目指すために。
 何か声をかけようとした。しかしジャイロの意識は強烈な眠気に呑み込まれようとしていた。海で泳ぐ人間が波間から時折顔を出して呼吸をするように、感覚は眠りと覚醒の間を沈んでは浮かび、浮かんでは沈む。そして次第次第に潜水の時間の方が長くなってゆく。ジャイロはいつの間にか自分の目蓋が降りていることに気付いた。気付いて早々に、そのことが意識の中から抜け出て、遠くへ消えてゆく。駄目だ、眠すぎる。
「そんなに気になるならお前も行くか、ネアポリスに」
 そう口にしたつもりだった。が、それを実際に言ったのか、それとも夢の中で言ったのか、ジャイロには判別出来なかった。しかも英語を使わないとジョニィには伝わらないのに、今のセリフは祖国の言葉になってはいなかったか――ごく簡単な単語や会話文だけなら暇潰しに教えたものもなくはなかったが、長いセリフはおそらく通じない――。それも“気がする”というレベル。はっきりしたことは何も分からないほど、彼の意識の大部分はすでに眠りの中に入り込んでいる。
 だから、きっと“それ”も気の所為――あるいは何かを聞き間違えただけ――だ。ジョニィが「うん」と答えたのが聞こえたように思ったのは。

 明け方、ジャイロは夢を見た。無事にニューヨークに辿り着き、そのまま船に乗って祖国へと帰る夢だ。家族への挨拶もそこそこに、レースで優勝したことを称える人々の声に耳を傾けることもせず、彼はまたすぐにヴァルキリーの背に乗って旅に出た。目指すはレースの始まりの地、サンディエゴ。帰ってくるために使ったルートを遡ることはしない。進行方向は逆だ。そのまま真っ直ぐ進んで行く。つまり、世界一周の旅になる。その道中、彼はいくつかの“音”を聞いていた。ひとつはヴァルキリーが奏でる蹄のリズム。それに重なる良く似た音がもうひとつ。時折馬の嘶きが2頭分。そしてひとりの少年の声。
 それらは、朝陽に覚醒を促されるまで、優しくジャイロの全身を包んでいた。


2016,09,23


そんな並行世界もあると信じています。
<利鳴>

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