ジャイジョニ 全年齢


  SALT


 かすかな物音に、コーヒーカップに手を伸ばしかけていたジャイロは振り返った。ぱちぱちと断続的に鳴る焚き火の音とは違う、衣擦れのそれは、おそらくジョニィが寝返りでもうったのだろうと彼に思わせた。だが視線を向けると、それは事実とは異なっていた。ジョニィは上体を起こしていた。「まだ交代の時間じゃあないぜ」と声をかけようとしたジャイロは、ジョニィの頬で焚き火の明かりを反射している液体に気付いてその言葉をどこかへなくしてしまった。
「……ジョニィ?」
 ジョニィは、まだ半分眠ったままであるかのように、何もない空間をぼんやりと眺めている。しかし、その両眼からは透明な水滴がとめどなく流れ出ている。
「ジョニィ、どうした。おいっ」
 近付いて行って肩を掴み、小さく揺さ振ると、濡れた睫毛に縁取られた眼が、ようやくジャイロの方へと向いた。わずかな間を置いて、ジョニィはゆっくりと首を左右に振った。それが「どうした」に対する返答なのだろう。「分からない」。ジョニィ自身にも、その泪の理由は不明であるようだ。その存在を確認するように、眼を擦って濡れた自分の手を見詰めている。
「夢でも見たか?」
 ジャイロがそう尋ねると、ジョニィはわずかに首を傾げた。「いまいちピンとこない」。そんな顔だ。「そうかも」とようやく声に出して返してきたが、数秒後にはそれを「分からない」と改めた。
 過酷な旅の中で蓄積されていった不安や疲労が溢れ出て液体へと形を変えたのだろうか。それとも、やはり悪い夢でも見たのか……。どちらにしても、本人はそれを全く自覚していないらしい。苦痛も、悲しみも、憤怒も、それ以外の全ての感情も浮かべずにただ泪を流しているだけの横顔は、いつもの彼よりも無防備で、どこか幼く見えた。そして焚き火に照らされたそれは、夜空で瞬く星々のように美しかった。ジャイロは、「大丈夫か?」と尋ねる以外に、出来ることを何一つ見付けられなかった。
「うん。平気。……たぶん。なんでもない」
 そもそも眼球とは常に泪で覆われ、保護されているものだ。泪が出ないで眼が乾いてしまうよりは、出た方がずっと良い。ジョニィはその程度にしか思っていないような顔をしている。だが、ジャイロにはそうは思えなかった。ただ眼を保護する目的しか持たない液体が、こんなにも――軽い苦しさを覚える程に――美しいはずがあるだろうか。ジャイロは、ほとんど意識しないままに、その液体を唇で啜っていた。
 ジョニィは動かない。時間がとまってしまったかのようだ。と思ったのはほんの数秒のことで、「今のなに」と、いつも通り抑揚の乏しい声が言った。ジャイロは、とっさに返す言葉をまだ用意していなかった。
「えーっと、ほら、あれだ」
「どれだ」
 身体が勝手に動いたのだと言っても、おそらく納得してはくれないだろう。
「……ほら。びっくりさせたら、とまるかと思って」
 ジョニィの表情は普段から少々読み取り難い。彼が何を考えているのか分からないことは、実は然程珍しくはない。が、とりあえず今眼の前にあるその顔は、怒っているわけではないようだ。レース開始から今日に至るまでの時間で、ジャイロはそれだけは間違えることなく判断出来るようになっていた。
 ジョニィは、半ば呆れたように息を吐いた。
「それでとまるのはしゃっくりじゃあなかったっけ?」
 だが再度ジョニィが拭った頬に、新たな泪は流れていなかった。咄嗟に思い付いたデマカセは、強ち間違いでもなかったということになるのだろうか。
「まあ、いいや」
 呟くようにそう言ったジョニィの唇は、心なしか微笑んでいるように見えた……ような気がしないでもなかった。
「寝るか?」
「交代の時間は?」
「まだ」
「じゃあ寝る」
 ジョニィが再び横になったので、ジャイロも焚き火の傍へと戻った。地面に腰を降ろしたのとほぼ同時に、飲みかけのコーヒーのことを思い出した。カップを手に取りながらジョニィの方へ眼をやったが、見えたのは彼の後頭部だけだった。それを眺めながら、カップの中の黒い液体で、唇に残ったわずかな塩の味を喉の奥へと流し込んだ。


2015,02,14


久々にしゃっくりがとまらなくなって苦しかったのでという理由になってんだかなってないんだか分からない(たぶんなってない)理由で書きました。
しゃっくりって、1度出ると変にクセになっちゃうこととかあって嫌ですよね。
<利鳴>

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