ディエジョニ 全年齢


  優しさに少し似ていたかも知れない


 外に出ると、どこも欠けていない完全なる円形の月が明るかった。手にした灯りは不要だっただろうかと、ディエゴは思案する。しかし今更それを置きに戻るのも面倒だ。それに、馬舎の中まではこの月光はあまり入ってこないに違いない。彼はそのまま歩き出した。
 日中、ほんの僅かな異変ではあったが、体調が優れない馬がいることにディエゴは気付いていた。寝ずの番が必要な程ではないかも知れないが、楽観視していて見ていない間に何かがあった時の方が遥かに面倒だ。
(もっとも、今はそれどころではないかも知れないけどな)
 ディエゴはここ数日の雇い主の眼を思い出していた。その内側で命の焔が燃えているとは到底信じられないような、何も見ていない暗い瞳。あれこそが、人が『絶望』と名付けて呼ぶものの姿なのだろう。初めて眼にした絶望の形に、しかしディエゴは真逆の『希望』を見た。かつて母は、一度もあんな眼を見せたことはなかった。どんな時でも、死の瞬間でさえも。彼女は絶望の内に死んでいったのではない。息子という希望を残していったのだ。自分には、それに応える義務がある。ディエゴはそう考えていた。そのためには、どんな小さな切欠をも見逃してはならない。どれ程小さくあろうとも、それは希望の欠片だ。それを掴めるかどうかは、他でもない、自分自身が決めることだ。
(オレは必ず上り詰めてみせる。どこまでも!)
 やがて辿り着いた馬舎の中は、外からでも静まり返っていることが分かった。体調を崩しかけていた馬も、今はぐっすりと眠っているのだろう。少し様子を見るだけで、自分のベッドへ戻ってしまおうか、そんなことを考えながら、馬舎の中に足を一歩踏み入れた時だった。ディエゴは僅かな異変に気付いた。
「誰だッ!?」
 灯りを向けた先には、小さな影が怯えるようにうずくまっていた。その影は、人の形をしている。それも、ディエゴとさほど変わらない、子供の姿の。それが誰のものであるのかは、すぐに分かった。
「これはこれは」
 眩しそうに手で光を遮ろうとしている影から灯りを外してやると、縋るような蒼い眼がこちらを向いていた。
「誰かと思えばジョナサン坊ちゃまじゃあありませんか」
 ディエゴは唇に嫌味ったらしい笑みを貼り付けながら、漸うしく頭を下げた。
「こんな深夜に一体何を? ここは貴方様のようなお方がいらっしゃる場所ではありませんよ」
「お願い、追い出さないで」
 雇い主の息子は、既にその眼を泪で濡らしていた。
(おいおい、ここで泣くなよ)
 おそらく自分と1つか2つしか違わないであろう年齢の少年に対して、「これだからガキは嫌いなんだ」とディエゴは口には出さずに思った。既に自分1人で生きる術を見付けながらここまでやってきたディエゴと比べれば、親の庇護下で悠々と生きている彼の姿は、間違いなくただの子供にしか見えなかった。加えて怯えたような表情が、余計に彼を幼く見せていた。
「ぼくは家にいちゃあいけないんだ」
 うんざりした溜め息を吐いたディエゴに気付くことなく、少年は膝を抱えながら言った。
「父さんはぼくのことは好きじゃあないんだ。兄さんじゃあなくて、ぼくがいなくなれば良かった……」
 雇い主の息子であるニコラス・ジョースターが死亡した時、ディエゴはそのすぐ傍にいた。死の直前と直後のニコラスを見ている。そのニコラスと、弟のジョナサンはこうしてみると少しも似ていなかった。少なくとも兄の方はこんなにいじけた態度ではなかった。この世界中で自分1人が不幸を背負っているとでも言いたげな眼、それが特にディエゴには気に入らなかった。
 ディエゴは小さく舌打ちをした。
「そこにいたいなら勝手にすればいい。だが、朝までには自分のベッドに戻っていろよ。君がいないなんて騒ぎになったら、ぼくが何を言われるか分かったもんじゃあない」
 そう宣言し、ディエゴはさっさとここへ来た目的を果たしてしまうことにした。灯りを翳しながら、眠っている馬の様子を順番に見て廻った。その間耳に届くのは、自分の足音と、馬達の呼吸の音と、子供のすすり泣く声だけだ。
「あのな、そこにいたいんだったら、いつまでもメソメソしてるんじゃあない。鬱陶しくてかなわない」
 ディエゴは灯りをジョナサンに向けた。それから逃れるように、彼は顔を背ける。
「大体、家出のつもりなのか? 自分の親の持ち物である馬舎まで? 君の『覚悟』はその程度か」
 ふんっと鼻を鳴らしながら言うと、ジョナサンは「だって父さんが」と口ごもるように言った。
「そうやって惨めったらしくしていれば誰かが助けてくれるとでも思っているのか? 甘い考えは捨てるんだな。いつでも君を庇ってくれる優しい兄さんはもういないんだぜ」
 ジョナサンは再び俯いた。
「父親の言うことなんか放っておけばいいんだ。どうせその内みっともなく泪を流しながら『私が間違っていた』とか言うに決まってるんだぜ」
「……本当にそう思う?」
「ああ」
 ディエゴは口から出任せを言った。本当は、どうとも思っていなかった。どうでも良かった。
 急にジョナサンが黙り込んだ。どうかしたのかと思い、視線をそちらへ向けると、彼は大きな眼でディエゴの方を見ていた。そして、
「ありがとう」
 袖で泪を拭い、なんとか笑おうと努力したらしく僅かに口の端を歪ませて言った。ディエゴの言葉を励ましのそれとして受け取ったらしい。「別にそんなつもりじゃあない」と今更言ってもなんだか弁解めいて聞こえるだけで、説得力がない。わざわざ説得してやる気も起きないので、ディエゴは何も言わずに作業に戻った。

 これと言った問題は見付からず、しばらくの間番を続けてはいたがこれからも何かが起こりそうな気配は少しもない。あとほんの1〜2時間で夜は明けようとしている。ディエゴは、自分のベッドへ戻ることにした。
 馬舎を出て行こうとした時、いつの間にかジョナサンが地面に座ったまま眠ってしまっていることに気付いた。
「おい、そのまま寝るんじゃあない。部屋へ戻れ。約束しただろ」
 ジョナサンは抗議するような唸り声を上げた。
「んん……」
「おいっ! ジョナサン!!」
「ん……」
 ジョナサンはやっと立ち上がり、屋敷に向かってフラフラと歩き出した。その足取りは、見るからに危なげで、ディエゴはやれやれと溜め息を吐いた。
「ほら、しっかり歩けよ」
 仕方なくジョナサンの手を掴んで馬舎を出た。外は相変わらず月が出ていて、屋敷の前までの道は昼間のそれとさほど変わらない程明るかった。その中を、ディエゴはジョナサンの手を引いて黙って歩いた。
「……ディエゴ、ありがとう」
 半分眠っているようなジョナサンの口調に苛立つように、ディエゴは言った。
「Dioでいい」
「……ん?」
「Dio。みんなそう呼ぶ」
 そんな言葉を言ったことに、誰よりも自分自身が一番驚いていたが、後ろを歩くジョナサンにだけはそれを悟られたくはないと思った。その理由は分からないまま。
 ジョナサンの返事はなかった。まさか歩きながら眠ってしまったのかと思って振り向くと、彼は大きな眼をしっかりと開いて――とても眠っているようには見えない――、しかも先程とは違ってはっきりと微笑んでいた。
「ぼくのことはジョニィって呼んで」
 何が楽しいのか、その笑顔は馬舎で見せた顔とはまるで違っていた。
「分かった、ジョニィな。じゃあジョニィ、もう部屋へ戻るんだ。1人で帰れるな?」
「……うん」
 ジョナサン――いや、ジョニィは、少し戸惑うように、それでも小さく頷いた。それを見てディエゴは彼の手を離した。もう自分はこれ以上先へは行かないぞと意思表示をするように両足をぴったりとそろえて立ち止まると、ジョニィはやっと1人で歩き出した。途中で、一度だけ振り返った。
「ディエ……、あ、Dio……?」
「なんだい」
「……また来てもいい?」
 幼児か小動物のように首を傾げた。
「ぼくはいつでもここにいる訳じゃあないぜ」
「じゃあ、君がいる時に」
 どうやってそれを知るつもりなのかと思ったが、「好きにすればいい」とだけ答えた。するとジョニィは、もう一度微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、またね」

「あの時はあんなに可愛かったのにな。……なぁ、ジョニィ?」
「何の話だよ」
 ジョニィは自分の馬にブラシをかけていたが、手をとめてディエゴを睨んだ。
「昔のことを思い出していた」
「へぇ、それって、走馬灯ってやつじゃあないの。君、もうすぐ死ぬんじゃあない?」
「ジョニィ、お前は本当に可愛げがないな」
 ディエゴはやれやれと溜め息を吐きながらも笑った。
「気安く呼ばないでくれない」
「しかも自分で言ったことを忘れてしまったらしいな」
「だから何の話……。ああ、もういい。さっさとどっか行ってくれない?」
 投げ捨てるように言うと、ジョニィはそれっきりこちらを見ようともしなかった。わざとらしく馬に向かって「早くジャイロ戻ってこないかな。ねぇ、スロー・ダンサー?」等と話し掛けている。
 そんな様子を見ながら「やっぱり可愛くない」と繰り返すディエゴが漸く立ち去ったのは、それからだいぶ経ってからのこととなる。


2011,09,10


ジョニィってディエゴのこと嫌ってるっぽいわりには愛称で呼んでるし呼ばれても文句言ったりしないなぁと思って。
<利鳴>

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