帰る場所


「急で悪いんだが、明日ちょっと頼まれてくれないか」
 食卓の上が片付いたタイミングを見計らって口を開いたのは、この家の主、神代宗だった。その視線は同居人である桜井京介へと向いている。
「『明日』……ですか」
 京介は壁にかけられている時計に眼を向けた。あと数時間で日付が変わろうとしている。
「本当に急ですね」
「いやいや、明日になった途端に。って話じゃないんだ。実は知り合いの親戚が」
「赤の他人ですね」
「あの、ぼく、向こうに行ってた方がいいですか?」
 2人の会話を遮って、もう1人の同居人、蒼は遠慮するような表情を見せた。神代の口調は軽く、深刻な話を始めようとしているようには感じなかった。それでも、食後のコーヒーをいれる手を止め、席を外すべきだろうかと考えているようだ。
「大した話じゃないんだ。知り合いの知り合いの従兄弟が、建物の調査を頼みたいと言ってきているだけのことなんだ。大した価値がないなら、潰して駐車場にでもしようと考えてるらしい」
「さっきより遠くなってますね」
 やれやれとため息を吐きながら、京介は相変わらず長い前髪をかき上げた。
「今の僕は家政夫ですよ? 学者でも、研究者でもない」
「あ、でも家政婦が探偵役のミステリだってあるじゃない」
 その場にいることを許された蒼が、横からひょっこりと顔を出して言った。京介は咎めるように少しだけ睨んだが、その程度で怯む蒼ではない。それどころか、ピンク色の舌をぺろりと出して、コーヒーをいれる作業に戻っていった。
「建築史もかじったことがないようなド素人よりは、充分専門家だろ。相続した建物の価値を知りたいんだってよ」
「それなら、きちんとしたところに依頼を出した方がいいと思いますけどね」
「縁もゆかりもない人間が勝手に出入りするのが嫌だと言ってるらしい」
「いつ僕との縁やゆかりが出来たって言うんですか」
「オレもそう言ったんだがな、先輩に頼まれて断り切れなくてよ」
 「強引な年寄りは困るぜ」などと言いながら、神代は笑っている。少しも『困った』顔などしていない。
(……怪しい)
 何か企んでいる。京介は直感的にそう思った。先程蒼に向けた視線よりもやや強く睨み付けたが、神代は涼しい顔をしている。なんとかしてその胸中を読み取ることは出来ぬかと思案していた京介の頭は、しかし差し出されたコーヒーカップから立ち上る香りに妨害されてしまった。
「その人、困ってるんでしょう? 京介、引き受けてあげようよ。ぼくも手伝うから」
 まるで自分のことであるかのように『困った』顔の蒼と、彼がいれたコーヒーに、京介は弱い。恐らく神代は、そこまで計算した上で、蒼に出て行く必要はないと言ったのだろう。
 京介は溜め息を吐いた。以前の彼なら、露骨な舌打ちまでしていたかも知れない。
「蒼は明日は……」
「休みだよ」
「決まりだな」
 神代はにやりと笑った。

 本当の価値も分からない人間の手によって無惨にも破壊される建物を救いたい。少しでもその為の力になれるなら……。そう自分を説得し、蒼とともに京介が出かけて行ったその日の夜、前日のシチュエーションをなぞるように、彼は仕事から帰って来たばかりの神代を睨み付けた。
「神代さん」
「おう、帰ってたか。ご苦労だったな」
「謀りましたね?」
 その問い掛けに対し、神代は笑みを返してきた。
「よく分かったな。いやぁ、お前がまだボケてなくて安心したぜ」
「順番を破らないで下さい。年齢は神代さんの方が上です」
「若年性ナントヤラってな」
「設計士の名前も、工事に関わった業者も、余す事なくあの建物の書斎に残されていた資料に記録されていました。まあ、その資料を掘り起こすのに2人がかりで半日かかりましたが。何等かの価値があるのかどうか真剣に調べたいと思ったのなら、書斎の片付けをするだけで簡単にその材料を手に入れられる状態だったということです。その程度すらしていない段階で、僕に仕事をさせた理由はなんです」
「その鋭い頭脳で、当ててみな」
 京介は呆れた顔で息を吐き、視線を2階へと続く階段に向けた。
「……蒼ですか」
 神代は無言で、しかし満足そうに頷いた。
 京介は、依頼を受けた建物の書斎で、机の上のみならず床にまで積み上げられた本の山を漁りながら蒼が言った言葉を思い出していた。
「なんか、こういうの久しぶりだね」
 その建物は、外から眺めただけで住居として以上の価値は望めないであろうことがすぐに分かった。それでも一応その根拠となる物を求めて書斎へと足を運んだのだったが、その乱雑に詰まれた書籍の量に、京介は依頼を引き受けたことを後悔し始めていた。だが蒼は、笑ったのだ。「久しぶりだね」と言って。その表情は、彼等がいくつかの建築物と――そして多くの人と――関わることが多かった頃の、あどけない少年のもののように輝いていた。
「なんか嬉しいな。京介が帰ってきて、またこうやって一緒に調べ物出来たりするのって」
 「調査って言うより、大掃除だけどね」と続けた蒼の笑顔を見て、無意識の内に京介も表情を緩めた。そして気付いたのだった。「これか」と。
「どうだった、蒼の様子は」
 尋ねてきた神代に、「楽しそうでした」と答えると、それが彼の功績だと認めることになるように思え、京介は「息抜きにはなったようです」とだけ返した。
「お前がいない間、あいつがどんな風に思ってたか、知らないだろう」
 その言葉は形だけなら疑問文の体を成していたが、苦笑交じりの表情は、断言しているようだった。
「……少なくとも、ふさぎ込んだりはしていなかったと思いますけど」
「ああ。だがな、間違いなくお前に会いたがってたぜ」
「……」
「だから今日のことは『蒼のため』が半分」
「半分?」
 京介は眉を顰めた。
「お前はどうだった。久々に蒼と2人で過ごせて、それに少しでも調査の真似事が出来てよ」
「それは……」
 口を開きかけた京介の言葉を遮るように、2人の頭上からぱたぱたと足音が降ってきた。かと思うと、明日の準備があるからと言って2階に行っていた蒼が、階段の上からひょっこりと顔を覗かせた。
「あ、先生、お帰りなさい! もうっ、京介ったら、先生が帰って来たんなら教えてよ。先生、ぼく達、お土産買ってきたんですよ。ね、京介」
 スキップをするような足取りで台所へ向かった後姿を見ながら、京介はぽつりと呟くように神代の質問に答えた。
「あんなの、『調査』なんて呼べません。次はもっとまともな依頼を持ってきてください」
 神代はくすりと笑った。
「もう1つの質問の答えはどうした?」
 からかうように聞かれ、京介は前髪の下から思い切り睨み付けた。


2014,08,10


京介がいなくなって帰ってきてわりとすぐくらいのつもりで書いたのですが、
神代宅の増改築とか3人の同居のタイミングとかが分からないので、
まあその辺は適当にスルーしてください。
リターンズの設定は一度書いてみたかったので、書けて良かったです。
<利鳴>

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