新しい絆


「それではよろしく頼んだよ」
 そう言い残して去って行った門野の車を見送ると、神代は改めて隣に立つ少年の姿を見た。少年は、初めて会った時よりも、少し髪が長いように思えた。それ以上に、身長がだいぶ高くなっていた。これは数年の内に追い越されてしまうだろうなと思いながら、彼は口を開いた。
「改まって言うのもなんだが、よろしくな。ア――」
 「アレク」と、少年の名を呼ぼうとした彼の眼の前に、白い手の平が向けられた。それの意味するところは、間違いなく制止だ。
「僕の名前は、桜井京介です」
 強い口調に、神代は気圧されるように「ああ」と頷いた。
「そうだった。悪い」
「気を付けてください」
 そう告げた声は、実に刺々しいものだった。これから見知らぬ土地での生活を始めることに対する不安がそうさせているのであれば、まだ良いと言えるが、おそらくそれだけではないだろう。まるで出会ったばかりの頃の彼に戻ってしまったかのようだ。もう少しばかりは打ち解けていたと思ったのだがと、短く溜め息を吐きながら、神代は今度こそと右手を差し出した。
「じゃあ京介。よろしくな」
 少年はその手を見詰めた後、わずかに躊躇いを見せつつも右手を返してきた。
「よろしくお願いします。……ご迷惑をおかけして済みませんが」
「なに言ってやがる。ガキがそんな言葉使うもんじゃねーぜ」
 努めて明るい口調で言った神代に、俯いた少年の表情はほとんど見えない。長く伸びた前髪が邪魔をしているのだと気付く。まるで、人と視線を合わせることを避けているようだ。
 神代がわずかな血の繋がりもない少年を引き取って共に暮らすことになったのは、彼本人の意思を無視されてのことではない。むしろ彼は、彼自身のその口で、「俺が面倒を見てやる」と宣言までしていた。その決意は、こうして実際に少年が彼の自宅へとやってきた今も少しも揺らいではいない。もちろん困難はあるだろう。義父と打ち解けることが出来ないまま過ごした子供の頃を忘れてしまったわけではない。赤の他人とひとつ屋根の下でやっていける根拠があるのかと問われれば、そんなものはないと答えざるを得ない。だが逃げるつもりもなかった。この少年に手を差し伸べることが出来るのは、少なくとも今この場所には自分しかいないのだ。覚悟はもう決まっている。障害はひとつずつ取り除いていくしかあるまい。
 神代は、それが出来ると信じていた。短い時間ではあったが、言葉を交わしたあの洋館の中で、間違いなく彼との間には一種の絆を作ることが出来た。それさえあれば、と。しかし――
「僕が桜井京介ではないことが周囲に知られれば、もうここにいることは出来なくなります。あなたや、門野さんにも迷惑がかかる。だから」
「分かってる。もう言わねーよ。お前は桜井京介だ」
「はい」
 彼を『アレク』と呼んだのは、かつては彼の母、ソフィアひとりだけだったと聞かされていた。神代がその名を口にすることを許されたと聞いて、彼の妹のモイラは、眼を丸くして驚いてまでいた。故に、その名は彼との絆の証であるようにすら思えた。特別な名で呼ぶことを許された自分は、特別な存在なのだ、と。しかしそれは今、彼本人によって封印されてしまった。もうその名を口にすることは許されない。いや、彼の口調からすると、意識の中に留めておくことすら許さないとすら言われそうだ。事情が事情なだけに、子供のようにごねてみせるわけにもいかない。受け入れるしかないその事実に、これからの生活の拠り所をひとつ失ったような気分だ。
(いやいや、これしきのことで!)
 自らを奮い立たせるように、神代は鼻息を荒くした。
「よし、京介。今日からここがお前の家だ。遠慮することはないぞ。鍵も渡しておくからな。入学の手続きは門野のじいさんに任せてあるから、その内連絡がくるだろう。それまでに、少しこの辺りの道を覚えておくといいかもな。それから、なにか必要な物があったら言うんだぞ」
 『京介』という呼び方に、まだ少しの違和感を感じつつ、神代は家の中へと足を向けた。その背中に、京介の声が届く。
「ありがとうございます。神代さん」
 階段を踏み外したような小さな衝撃に、神代は足を止めた。早い話が、ずっこけそうになった。振り返ると京介が首を傾げている。
「なんだよその呼び方は」
「はい?」
 京介は訝しげな表情をしている。
「……僕が知らない間に、苗字が変わっていましたか?」
「そうじゃねぇ。だってお前、前は……」
 アレク――いや、以前の京介は、神代のことを『ソウ』と呼んでいた。『ソウ』と『アレク』。それが2人の名だったのだ。
「僕とあなたは、高校生と大学の講師です。しかも僕は居候。お互いの立場を考えれば、名前で呼び捨てにするのは、外国でならともかく、ここでは相応しくないと思いますが」
「それは……」
 正論だ。京介が生まれ育ち、そして神代と出会ったあの洋館は、今眼の前にある純和風の家屋と比べるまでもなく、すでにそこが日本ではないかのような雰囲気の空間だった。神代の海外生活の経験も手伝って、少年を異国の響きの名で呼ぶことはなんの違和感もなく受け入れることが出来た。だが確かに、2人の今の立場とその場所を考えると、あの時と同じではいられない。高校生が大人を呼び捨てていると周囲が知れば、なんて生意気な子供だろうと、京介の印象が悪くなりかねない。そして神代がそれを許しているとなれば、別の――もっと悪い――誤解が生まれそうだ。
「俺は『神代さん』でお前は『京介』か」
「はい。なにか問題が?」
「いや……」
 神代は深い溜め息を吐いた。それを京介が不思議そうな眼で見ている。またひとつ、「奪われた」、そんな風に思えた。かつての続きのように交友を深めていければ……。そう考えていたのに、『ソウ』と『アレク』は、いなくなってしまったのか……。
「しつこいようですが、くれぐれもあの名前は」
「分かってるよ。もう使わない」
「ええ。今後二度と」
「ああ」
「墓場まで持って行くつもりでいてください」
 随分と重いことを言う。神代は、『ソウ』と『アレク』が暗い墓穴で眠りについている姿を脳裏に描いた。
「僕達2人だけの秘密です」
 一瞬なにを聞いたのか理解するのが遅れた。体勢を崩しながらもなんとか変化球を受け止めた。神代の心境は、そんな状況に似ていた。ボールがミットに当たる音さえ聞いた気がした。思わず見詰め返した京介の表情は、あくまでも真剣だった。
 『2人だけの秘密』。その妙にくすぐったい響きは、今2人の間に新たな絆を生み出した。『ソウ』と『アレク』は、消えたのではなく、その形を変え、今もここに。新しい『秘密』という名の『絆』を持って。そんな考えが浮かんできて、神代は自然と唇を綻ばせた。
「分かった。約束する」
「よろしくお願いします」
 神代の言葉を信用したのか、京介はようやく――わずかにだが――表情を緩めた。
「さ、中に入ろう。お前の部屋に案内するぜ。京介」
 先に玄関に入った神代のあとに、やや躊躇うような足音が続いた。戸をくぐった京介は、そこから見える廊下や天井を眺めているようだ。靴を脱いだ神代は、京介の気が済むまで――あるいは決心が付くまで、だろうか――その場で待つことにした。
 やがて、
「いい家ですね」
 ぽつりと呟くような声が言った。
「そうか? 建物に興味があるのか?」
「少し」
「そりゃあいい。好きなだけ見てくれて構わないぞ。もっと奥もな」
 遠慮するような、迷うような、そんなかすかな色を見せたまま、それでも京介はその足を1歩先へと踏み入れた。小さく開いた口から、息を吸い込む音がした。桜色の唇が、言葉を紡ぐための形を作ろうとした。そこから出てこようとしている言葉は、おそらく……。それを遮るように、神代は言った。
「おかえり」
 弾かれたように、京介の視線が上げられた。前髪の隙間から驚きの形に開かれた眼が見えた。それは、わずかに幼さを残していた。出会ったばかりのあの時のアレクが、ちょっとこちらの様子を伺うために、桜井京介の中から覗いていた。そんな風に、神代は思った。
「言っただろ。ここはお前の家だ。だから『お邪魔します』は正しくない。そうだろ?」
 今正に言おうとしていたのだろう言葉を取り上げられた京介は、瞬きを繰り返している。そして視線をわずかに泳がせた後――
「……ただい、ま」
 小さな声だった。しかし神代の耳には確かに聞こえた。少し照れたような眼が、髪の毛の下からこちらを見ていた。
 神代は微笑み、先程と同じ言葉を返した。
「おかえり、京介」


2013,08,10


深春は苗字に君付けから名前呼び捨てに昇格したのに神代さんはその逆でなんかかわいソウだなぁと思ったのでした。
そして、仕方ないと思いつつ神代さんがちょっとがっかりしていたら可愛いなぁと思います。
<利鳴>

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