name


 眼が覚めると、薬師寺香澄がこちらを見ていた。なんでこいつがここに? なんて疑問は浮かんでこない。だってここは、薬師寺の部屋なんだから。
 まだぼんやりとしたまま起き上がると、頭に鈍い痛みが走った。俺は思わずこめかみの辺りを手で押さえた。
「大丈夫?」
 薬師寺が俺の顔を覗き込みながら尋ねる。
「少し」
 『“少し”大丈夫』なのか、それとも『“少し”大丈夫ではない』のか、自分でも分からないまま、俺はゆっくりと息を吐いた。頭が重い。
「二日酔いだね」
 “少し”呆れたような口調で薬師寺が言う。
「覚えてる?」
「……少し」
 同じ答えを返しながら、正直に言うと、記憶はかなりあやふやだ。昨夜は……そう、確か3人で鍋を囲んでいたはずだ。俺と薬師寺と、それから同じ高校に通っていて――同じクラスだったこともある――坂本広尾だ。話――“言い合い”とも言えるかも知れない――をしている内に、坂本が酔いつぶれて、それでええっと……。
 脳みそがもたもたとしか働かないのはまだ完全に眼が覚めていないからなのか、アルコールが残っている所為なのか……。そういえば、坂本のやつ、あの後どうしたんだ?――ほらまた思考が全然違うところに飛んでいった――
 無意識の内に、俺の眼はその姿を探そうと動いていたらしい。薬師寺は俺の頭の中を読んだみたいに、「まだ寝てるよ」と言って自分の唇に人差し指を当てた。静かに、起こすなと言いたいのだろう。言われなくても、わざわざ起こしてやるつもりなんて、俺には最初からない。あいつの今日の予定なんて知ったこっちゃあないし、知っていたところで親切にしてやる気も起きない。って言うか、あいつ泊まっていったのか。図々しいやつだ。まあ俺もだけど。
「結構飲んでたもんね。ヒロも、カゲリも」
 「ああ」とも「うう」ともつかない唸り声を返し……たと思った直後に、俺の思考は一時的に完全に停止した。頭の中は真っ白だ。呼吸や心臓さえも止まっていたかも知れない。脳の機能がとまれば、それもまあ仕方のないことだろう。
「どうしたの?」
 薬師寺が言う。
「い、今っ、おおおおお前ッ!!」
「へ?」
 動くことを思い出したように心臓が一気に跳ね上がり、それと一緒に、体温も急上昇した。集中治療室で医療機器に繋がれている入院患者だったら、看護師が「容態が急変しました」と大騒ぎをするレベルの変化だったに違いない。「ご家族を呼んできてください」。
「今ッ、な、名前でっ……」
「名前?」
 『薬師寺』と『結城君』。それが俺達の呼び方だったはずだ。最初に会った時からずっと。なのに今、こいつは俺を何て呼んだ!? 確かに俺の名前は翳だぜ!? でもそれじゃあ結城君はどこに行っちゃったんだよ!? 薬師寺と一緒に高校生活を――2年間だけだったが――送っていた結城君はどうしたんだよ!?
 立ってもいないのに立ち眩みがした。人はそれを眩暈と呼ぶんだろうな。駄目だ。まだ頭がまともに動いていない。アルコールの力こえぇ。
「水持ってこようか」
「……頼む」
 俺、もしかしてまだ寝てるのかな。夢を見ているのかな。なんて思っている間に、薬師寺はガラスのコップに水を汲んできてくれた。それを受け取り、一気に飲み干そうとしたら少し咽た。
「で、名前がなに?」
 俺が落ち着くのを待って、薬師寺が尋ねた。……つもりなのだろう。でも俺は、ちっとも落ち着いてなんかいなかった。相変わらず心臓の音は煩く響いている。
「お前、なんで俺のことっ、その……、名前で……」
 やっとの思いで尋ねた。
「だって、カゲリが言ったんじゃない」
 やっぱりいなくなってしまったみたいだ、『結城君』は。
「な、名前で呼べって!?」
「んー、それに類する言葉を、かな」
「まじで?」
 昨夜の俺、一体何を言ったんだ!?
「覚えてないのぉ?」
 薬師寺は明らかに面白がっている顔で言った。にやりと笑って、いかにも性格が悪い。
「ちなみにぼくは『薬師寺』じゃなくて、『カズミ』だからね」
「はぁ!?」
「そういう取り決めになったんだよ、昨夜。本当に覚えてないの?」
 大変だ。俺の知らない間に、『結城君』だけじゃなくて、『薬師寺』までいなくなってしまっている。一夜にして2人の男が消えてしまうなんて。これは一大事だ。消失の謎を解く鍵は俺の記憶の中にあるに違いなのに、なんてことだ。俺はそれをも失っている。ああ、また脳みそがおかしなことを考えている。ついこの間までミステリ紛いの出来事に巻き込まれていた所為だ。果たしてこれは現実逃避か?
 落ち着いてもう1度ちゃんと思い返してみる――努力をする――。昨日は、3人で鍋を……ってそこからか。まあいいや。3人とは俺と、こいつと、坂本のことで、そう言えばこいつは坂本をヒロと呼んでいたっけな。坂本はこいつをカズミと名前で呼び捨てに……。
「……あ」
「何か思い出した?」
 言ったかも知れない。
 そうだ。呼び方のことで、坂本のことを例に挙げて、どうこう……。酔っ払った勢いで。具体的な言葉は相変わらず思い出せないが、でも確かに言った。……気がする。この期に及んであいまいだ。俺、もしかして、すごく恥ずかしいことを口走ったんじゃないか!?
「お酒はほどほどにしないとね」
 薬師寺香澄はくすくすと笑った。俺の醜態を思い出したかのように。
「ぼく、食事の準備してくるね。もう少し寝ててもいいよ」
「おい、ちょっ、薬師寺っ!」
「『薬師寺』じゃなくて、『カズミ』。でしょ」
「いや、だからあの……」
 『だから』なんなのかって? そんなことは俺にも分からない。考えて出た言葉じゃない。そもそも考えなんてまともに出来ていない。
 不意に、隣室から物音が聞こえてきた。かと思うと、ドアが開いて、頭をがしがしと掻きながら1人の男が入ってきた。
「なに朝っぱらから騒いでんだよ。うっせーなーもー」
 あ、坂本だ。そういえばいたんだった。
「漫才の練習なら外行ってやってくれよな」
「誰が夫婦漫才だッ!」
「え、言ってないけど」
「『朝っぱらから』って、言っておくけど2人とも、もうすぐ昼だよ。ぼくが作ろうとしてるの、昼ごはんだからね? あとここぼくのうちなんだけど」
「そもそも、なんでお前がいるんだよっ!」
「はぁ!? またその話か! それはこっちのセリフだっつーの! 俺はカズミに話がッ」
「俺だって薬師寺にッ」
「ぶー。薬師寺じゃありませーん。カズミでーす。もう、ちゃんと呼ばないと、返事しないよ?」
「だから、その話はちょっと待てってば!」
 もうなにがなんだか分からない。今どういう状況だ? 坂本が全部悪いことにしていいですか?
「とにかく、2人とももう少し静かにしててよね。ご近所に迷惑だよ」
 坂本はふんと顔を背けた。反抗的な態度だ。ガキかお前は。
「あーあ。やっぱり部外者になんて話すんじゃあなかったぜ!」
「勝手に言ってろガキが。そんなとこよりやくし……」
 キッチンへ姿を消そうとしていた薬師寺香澄は、ぎろりとこちらを睨んだ。不覚にも、俺は完全にうろたえてしまった。いつもはふわふわとしている童顔のどこに、そんな冷酷な顔を隠していたんだよお前。どこで習得してきた。師匠は誰だ。
「あ……。やく……い、いや、その………………カズミ……」
「なあに? カゲリ」
 ころりと表情が変わった。さっきまでの冷たい眼差しはどこにもない。今は百パーセントの笑顔だ。眩しい。これはいかん。完敗です。
「…………て、……手伝おうか」
 俺には、それだけ言うのが精一杯だった。
「ありがと。でも大丈夫。休んでて、カゲリ」
 そんなことを言われても、一度はとまった心臓が今度はフル稼働していてちっとも休めそうにない。さっきも「まだ寝てていい」と言われたが、こんなに心臓がうるさいのでは、1秒だって眠れる気がしない。
 ふと視線を下げると、坂本が俺が使っていた毛布の上で丸くなって寝ていた。体勢だけ見れば猫のようだと言えなくもないが、ちっとも可愛くなんてない。のん気な顔で寝やがって。
 俺は坂本の下敷きになっている毛布をむしり取り、頭から被った。『穴があったら入りたい』。俺の心境は、まさにそんな状態だったのだが、マンションの一室に人が入れる程の穴があるはずもないから、その代わりに。


2015,08,10


今日という日にこうして無事に建築探偵ネタをアップ出来たことを嬉しく思います。
10年もサイト続けてこられたのはサイトを見に来てくださっている方と相方のお陰です。
本当にありがとうございます!
この話はセンティメンタル・ブルーの後、眼とついでに酔いも覚めてからのカゲリを妄想して書きましたが、だいぶ暴走してしまいました。
ちょっとはしゃぎすぎたなと思いつつも、あわあわしているカゲリが大好きです。
<利鳴>

【戻】


inserted by FC2 system