桜前線北上中


 読みかけの本に知らない言葉が出て来た。大体の雰囲気でそのまま読んでしまっても良いのだが、なんとなくそれもすっきりしない。分からない事を分からないままにしておくのは良くないな。と、深春は腰を上げた。が、すぐに辞書は大学に置いてきてしまっていることを思い出した。講義の合間の空き時間でレポートを片付けてしまおうと思い、神代教授の研究室で使ったそれは、そのまま忘れてきてしまったのだ。いつでも取りに行けるからと放っておいたまま、大学は春休みを迎えてしまったのだ。
 仕方ない、京介に借りるかと、彼の部屋へ向かった。
「きょーすけー」
 しかし部屋の中から返事はない。
「?」
 首を傾げながら、「入るぞ」と一応断って戸を開けた。
 京介はちゃんと部屋にいた。机に広げられた本に、顔を押し付けるような姿勢でこちらに背を向けて座っていた。余程熱中して読んでいるのかと思えばそうではない。居眠りをしているのだ。
(春眠暁を覚えず――ってか?)
 そう言えばここ数日でだいぶ春の暖かさを感じられるようになってきた。と言っても、京介がこんな様子なのはどんな季節でも珍しくもなく見られるものなのだが。
「おーい、京介ー」
 駄目で元々というつもりで声をかけると、予想外にも返事があった。
「――なに」
 やはり眠いのか、かなりぼんやりとした声ではあったが。
「辞書貸してくれないか。置いてきちまってるんだ」
「そこ……」
 京介は上半身だけを捻って後ろにある本棚を指差した。それを見て深春は思わず目を丸くした。目的の物は、本棚の中段程にすぐに見付けた。が、その本棚には指を差し入れる余裕もない程ぎっしりと本が詰まっていたのだ。
「こんなんで本取り出せるのかよ」
 しかし深春が振り返った先で、京介は再びうとうととし始めている。
 やれやれと溜め息をついて、深春は本棚に手をかけた。まずは僅かに飛び出ている本を引っ張り出して隙間を作ることにした。が、その1冊を引き抜こうとすると、なんと本棚全体が傾いてきた。
「どえええええええぇッ!?」
 可笑しな声と一緒に、本が床に落ちる音が響く。
 なんとか棚がそのまま倒れてくるのだけは支えられたが、お陰で上から降ってきた分厚いハードカバーの本が頭に直撃するのからは逃げられなかった。
「うぐぐ……」
「何を騒いでいるんだ」
 後ろから冷たい声が飛んできた。やっと目を覚ましたらしい京介は、長い前髪の下から冷ややかな視線を送っている。
「部屋と家具を壊さないでくれよ。後から神代さんに苦情を言われるのは僕なんだから」
「お前なぁ……っ」
 だったらこの本の量をなんとかしろと文句を言おうとした時、廊下の向こうで電話の呼び出し音が鳴った。京介はぱっと立ち上がり、深春の方を指差して、
「片付けておいてくれよ。元通りに」
 と言うとさっさと行ってしまった。
 京介のその言葉には、明らかに「本を棚にしまっておけ」という意味以上の「元の並び順に」というニュアンスが含まれていた。蒼じゃあるまいし、元通りになんてできるかよ。そう思いながらも、深春はやれやれと手近にあった本を1冊拾い上げた。
 不意に、視界の隅で何か小さな白い紙切れのような物がひらひらと舞った。
「?」
 足元に落ちたそれは、薄ピンク色の花弁だった。色褪せてはいるが、それは桜に違いない。
「なんでこんなところに?」
 今年の桜はまだ咲いていない。
 たった今持ち上げた本をぱらぱらと捲ってみた。すると、まだ花弁が張り付いたままのページを見付けた。ふと思い付いてその本の発行年月日を見てみると、ほぼ1年前の日付になっていた。
 京介は去年の今頃、桜が舞い散る中でこの本を読んでいて、今日のように転寝でもしたのだろうか。花見の席で読書――ということも、京介ならやりかねない。どちらとも京介らしいと言えばらしい。
 深春は床に落ちた花弁をそっと拾い上げた。
 花弁をページの上に置いたままでは読書はし辛いだろうから、普通なら落ちてきた花弁は払い落とされてしまうだろう。それがこうして挟まったままになっていたということは、京介が意図的に残した物であるのかも知れない。「桜か、風流だな」なんて言いながら京介がとっておいたのかも知れないそれを、どうして俺が捨てることなんてできるんだ。と笑いながら、深春は花弁を再び本に挟んだ。
 京介は去年のこの花弁のことを覚えているのだろうかと微笑んでいると、電話を終えたらしい京介が戻ってきた。
「少しも捗ってないみたいだけど?」
 皮肉っぽく言う。
 確かに、本はまだ1冊も棚に戻されていない。
「俺は蒼猫じゃないんだからな。元の配置なんてわかんねーよ」
「使えないな……」
 意地悪く笑って、京介は本を拾い始めた。その視線が、深春の手の中にある本に止まった。
「その本がどうかした?」
「あ、いや。なんでも」
 その本を棚に戻しながら、今年の桜が咲いたらその花弁を去年の桜の次のページに挟んでおいてやろうか等と考えた。京介はどのくらいでそれを見付けるだろうか。そんなことを思っていると、ちょっとした悪戯を思い付いたようで、自然と表情が緩むのが分かった。
「何をにやにやしてるんだ」
「いやぁ、なんでも〜?」
 首を振りながら、最後の1冊を本棚へ押し込んだ。
「なあ、桜が咲いたら花見しようぜ」
「別にいいけど……」
「よし、決まりだ。あ、読書は禁止な」
「は?」
 京介は訝しげな表情をしたが、すぐに「あっ」と何かに気付いたような顔をした。
(お? 思い出したか?)
 しかし、
「本……、辞書使いたかったんじゃなかったのかい?」
「へ?」
 京介が指差す先には隙間なく埋められた本棚――中段程にぴったり埋め込まれた辞書。
「思いっきり棚に戻してるけど」
「ああ゛っ!?」

 何はともあれ、今年の春も着実に深まっていく。
 桜前線只今北上中。


2006,04,19


東京の桜っていつ頃咲くんでしょうか?
北海道は余裕で5月の連休入ってからとかなので、まだ桜ネタは早いかなぁと思ってしまうのですが、
世間一般から見たら充分過ぎる程遅いんでしょうか?
きっと桜前線なんてとっくに通過してしまっているのでしょうね……。
ところで深春が読んでたのは何の本で、花弁が挟まってたのは何の本で、電話はどこからだったんだろう……。
(何も考えてない)
ちなみにこれはまだみんなで神代教授の家に住んでいた頃の設定で。
というようなことはやっぱり書かなきゃ分からないですかね?
<利鳴>
おぉー…何て可愛い話。使えないとか言っちゃう京介可愛い。←?
地元は桜の気配なんて1ミクロンも見せない4月19日ですけど、
本州の方じゃ既に満開も過ぎてる頃なんですよね。
毎回同じ様なコメントになって申し訳無いんですが、
此の小説の見所が背景画像になってしまいそうで不安です。
本当、素材サイトにしてしまいますか?
凄いよ、本当凄いよ。
話同様暖かい気持ちになれる画像で胸がときめきます。
<雪架>

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