Voyager


 深く、そして長い溜め息に、その場にいた全員の視線が同じ方向へと向いた。しかしそれに応える眼は見えない。どこを見ているのかも分からない2つの眼球は、長く伸びた前髪の下に完全に隠れてしまっている。
「どおしちゃったの? 溜め息なんて吐いちゃって」
 「幸せが逃げるよー」と言いながら槙野が顔を覗き込んだ溜め息の主、谷田は、ようやく8つの眼が自分に注目していることに気付いたらしい。彼は慌てたように周囲を見渡した――ようなのだが、それは例の前髪の所為で他人の眼にははっきりとは見えない――。
「あ……、べ、別に……、溜め息なんて……」
「吐いてたぜ」
「思いっ切りな」
 唐津と沼田が口をそろえてそう言うと、谷田は俯くように視線を下げてしまった――らしい――。
「なんか今日はやけに大人しいじゃねーか。どうかしたか?」
 普段から賑やか過ぎる――もっと簡単に言えば煩い――沼田と比較すると、谷田はどちらかと言えば静かで大人しい性格に分類されるだろう。長い前髪に表情を隠されている所為もあって――むしろそれが一番大きいかも知れない――、付き合いの浅い者では彼の感情を読み取ることはなかなかどうして困難である。しかし、普段それをあまり意識されていないのは、彼の“左手”の存在があるためだろうか。
 彼の左手には、“自称”宇宙人のケレエレスがいる。正確にはケレエレスという名のマペットを介して宇宙人が喋っているということになるらしい。つまり谷田は、チャネリングと呼ばれる能力の持ち主であるのだが、それがただの腹話術ではないことを証明するのは少々難しそうだ。何度か腹話術では説明の付かない状況に遭遇したことがあり、また、自身、あるいは身近にいる人物がやはり特殊な能力を持っている彼等4人――先程口を開いた槙野、唐津、沼田、そして彼等のリーダーである佐々木――はそうではないが、ほとんどの人間は谷田のことを「マペットとお話しする変人」として認識していることだろう。
 マペットの持ち主である谷田と違って、人形と同じ名を名乗る宇宙人はお喋りで賑やかな性格をしているらしい。さらに――控えめに言って――少々口が悪く、唐津や沼田と言い合いをしていることも珍しくはない。そんな彼が、今日に限ってはその布で出来た口から、一言も言葉を発していない。谷田が妙に――いつも以上に――大人しいように思えたのは、どうやら彼自身の所為ではなく、ケレエレスが黙っている所為だと、仲間達は気付いた。
「実は……」
 谷田は溜め息を混じらせ、少々躊躇うように口を開いた。彼の左手は定位置――彼の顔の近く――にあるが、それが彼の意思と無関係に動き出す気配はない。
「ケレエレス、どうかしちゃったの?」
 槙野の問いに、谷田は長く間を開けてから答えた。
「いないみたいなんです。……昨夜からずっと……。呼んでも応えなくて……」
 今度は驚いたような眼が彼に向けられた。
「どーゆーことだよ。いないって……。おい、ウチュージン、なんか言えよ」
 唐津がマペットのほっぺを両側へひっぱっても、いつもなら即座に飛んでくるはずの「なにしやがる、離せハゲ!」という暴言が聞こえてくることはなかった。それどころか、普段は不思議と谷田の手から抜けることのない人形は、あっさりと唐津の手に渡り、重力にまかせて両手をぶらんと垂れ下がらせている。
「どうなってんだ? おい、返事しろ!」
「その状態だったら、どっちみち喋れないんじゃない?」
 谷田の手に戻ってからも、ケレエレスはただのマペットにしか見えなかった。ただの、ちょっと目玉が飛び出たデザインの人形だ。
「昨日帰った頃から急に喋らなくなって……。最初は、もう寝ちゃったのかと思ってたんですけど、今朝になってもずっと……」
 谷田の語尾は幾度目かの溜め息に変わった。
 いつもなら、「元々お前の腹話術じゃねーのかよ」などと茶化してやるところなのだが、谷田の落胆している様子を見ると、今はそれをすべき時ではないことは明白だった。普段は勝手に動き、勝手に喋り出す異星人のことを、谷田がどう思っているのかはっきり聞いたことはなかったが、こうして溜め息ばかり吐いているところを見ると、少なくとも急にいなくなってしまって良いと思える存在ではなかったようだ。幼い頃に両親と妹を亡くしている彼にとって、ケレエレスは残された唯一の家族のようなものなのかも知れない。
「急に何も言わずにいなくなるなんて……。どうして……っ」
「通信障害……なんて可能性はどう?」
 泣き出しそうな声を上げた谷田に、いつもの堂々とした口調で言ったのは、それまでパソコンのキーボードを叩いていた佐々木だった。
「通信障害……って、あの、ネットとかの?」
「そう。2、3日前からこの辺りで多発してるらしいの」
 彼女はパソコンの画面に表示させた地図を指差しながら言った。どうやら、その地図の赤く塗られたエリアで、通信機器の不調が頻繁に起こっているらしい。
「そうか、どーりで最近メールも着信もないと思ったら!」
「それは沼っちにメールも電話もしてくるような友達がいないだけじゃあないの?」
「んだとぉ!?」
「佐々木のパソコンは普通にネットに繋がってんのか?」
「一般人には知られてない別の回線があるのよ」
 槙野と沼田のやり取りを聞き流し、唐津の疑問の声もさらりと流した佐々木は、谷田の方へと視線を戻した。
「宇宙からの通信も、何等かの理由で妨害を受けている。っていうのは、考えられない?」
「なるほど、声が途中でとまっちまってるんだな」
「じゃあ、どうすれば……」
「あいつ、すげー知識を持った宇宙人なんだろ? 向こうでも解決策探してるんじゃねーか?」
「この通信障害は、今やってる基地局の大規模なメンテの影響じゃないかって話も出てるわ。明日の昼には通常運転に戻ると言われているけど」
 佐々木はメガネの位置を直しながら微笑んだ。
「彼が何も言わずにいなくなった……と考えるのは、明日の昼以降でも遅くはないんじゃない?」
 佐々木が「一応何か情報がないか調べてみるわ」と続けると、谷田はわずかにではあるが安堵したような様子を見せた。だが、まだいつもの調子を取り戻したと言うには程遠いようだ。
「案外、ただのあいつの気紛れだったりしてな」
「ちょっと独りになりたかった、とか?」
「そうそう。谷田も前向きに考えてみたらどーだ? 煩いウチュージンから解放されて、1人でやりたいこととか行きたい場所とかないのかよ」
「独りで……?」
「例えばナンパしに行くとか……。そー言えばお前ヌく時はあの人形どーしてんだ? もしかして人形にヤってもらってんのかぁ? それでお前の部屋ってロクな本ないのか。そーかそーか」
「なっ……ば、バカなこと言わないで下さいよッ」
 にやにやと笑いながら近付いてくるサングラスから逃げるように、谷田はぱっと立ち上がった。その手から、ほとんど何の抵抗もなく、宇宙人のマペットが奪い取られた。
「あ……」
「ほら、ケレエレスは今日はここで留守番させておいて、どっか遊びにでも行ってこいよ」
 唐津は「な?」と促した。すると、あまり気乗りしない様子で、それでも一応は頷いて、谷田は部屋の外へと重たそうに足を動かしていった。

 本屋に行ってみた。コンビニにも寄ってみた。外に出るならついでにと佐々木に頼まれたインスタントコーヒーを買いに、安売りをしているスーパーにも入ってみた。しかし谷田の気分は一向に晴れない。いつもあるマペットの感触の代わりに、『違和感』そのものが左手にまとわり付いているように感じる。買い物袋を何度持ち替えてみても、それはなくならなかった。他よりも陽に焼けていない白い左手が、なんだか自分のものではないようにすら思えた。
 ビラ配りの着ぐるみを眼にした時、もう限界だと頭の中で叫び声がした。かと思うと、彼は走り出していた。そのまま大学内にある彼等の事務所に駆け込む。宇宙人のマペットは、机の隅におかれていた。いや、寝かされているのだろうか。布団の代わりのように、タオル地のハンカチがかけられている。槙野の物だろうか。それをそっと除けて、谷田はマペットを左手にはめた。
「ケレエレス……」
 返事はない。
 長く息を吐いてから顔を上げると、佐々木以外の3人の姿がないことに気付いた。
「あれ……みんなは?」
「槙野ちゃんはバイト、唐津君達は仕事よ」
「じゃあ僕も――」
 慌てて出て行こうとすると、佐々木は首を振った。
「さっき、もうすぐ終わりそうだって連絡があったから、もう戻ってくると思うわ」
「そう……ですか……。すみません……、役に立てなくて……」
 佐々木がパソコンの画面から顔を上げると、メガネの奥の眼がきらりと光った。
「あら、どうして?」
「え、だって……、僕は、佐々木さんや慧ちゃんみたいな特技も持ってないし、唐津さんや沼田さんみたいな能力もないし……」
 自分で言っていて余計に自信を喪失したのだろう。谷田はがっくりと肩を落としている。
「宇宙の情報にアクセス出来るなんて、充分に価値があると思うけど? あなたにしか出来ないことだわ」
「今は、それすら出来ないんです……」
 喋らないマペットの中で、強く握った拳が震えていた。
「まあ、今日1日くらいは休んでいてもいいんじゃない?」
 谷田は納得しきっていない様子で、それでも小さく頷いた。
「なんか、珍しいですね。佐々木さんがそんな……なんて言うか、優しいこと言うなんて」
「悪かったわね」
 佐々木はむっとした表情を作ってみせると、ノートパソコンを閉じて立ち上がった。
「本当は留守番を頼みたいの。ちょっと出かけてくるから」
「あ、はい、分かりました」
「もうすぐ唐津君達も戻ってくるとは思うけど、よろしくね」
 軽く手を上げて出て行った佐々木を見送ると、谷田はソファに腰を下ろした。
「……ケレエレス」
 呼んでみたが、相変わらずだった。揺すってみても、念じてみても、彼の左手にあるのはただのぬいぐるみだ。そのことを確認して、溜め息を吐く。もう何度同じことを繰り返しただろう。
 閉ざされたドアに眼をやった。唐津達はまだ戻ってこない。そのドアから出て行った佐々木の顔を思い出す。人使いが荒いところもあるが、決して悪い人間ではないあの笑顔を思い浮かべながら、谷田は思った。「独りなりたい」。自分は、そんな顔をしているように見られたのだろうか。
「独りに……」
 そう思う人間がいることは、理解出来る。余計な干渉をされたくない時は、谷田にもある。だがケレエレスはいつだって別だった。『独りになりたい時』の『独り』は、自分と、ケレエレスのことを指していた。いつでも一緒にいた。憎まれ口を叩いても、それでも離れたいと思ったことはなかった。『独り』になってしまいそうな時でも、彼は傍にいてくれた。『独り』の苦しみに押しつぶされそうになっても、彼だけはそこにいてくれた。「なにしょぼくれた顔してんだよ。よし、オレ様が宇宙漫才のとっておきのネタを聞かせてやるぜ!」。そんな言葉をかけてくれた。正直、その漫才が面白いの否かは分からなかったが。
「ケレエレス……。どうして応えてくれないんだよ……」
 今こそ、「なさけないやつだぜ」と笑い飛ばして欲しいのに。
 独りになってしまった。それが、唐津達が帰ってくるまでの一時だとしても、谷田が独りになってしまったのは、『あの時』以来かも知れない。暗い森の中の、さらに暗い車の中。傍には誰もいない。あるのは、少し前まで家族だった“もの”だけ。
「勝手に独りにするなよ。なぁ、ケレエレス、起きろってば」
 あの時は、このマペットを使って同じ言葉を動かない妹に向って言い続けていた。あの時同様、応える声はない。
「ねぇ、起きろって」
 不意に、自分はまだあの車の中にいるのではないかと思った。あれから何年も経ったというのは排気ガスの中で朦朧とした意識が見せた夢でしかないのではないだろうか。本当の自分は、今もまだあの森に――

「おーい、起きろって!」
 谷田ははっと眼を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。眼の前には唐津の顔があった。
「……あ。唐津さん……」
「お前1人か? 佐々木のやつどこ行った?」
「用事があるからって、出かけました」
 谷田は右腕で眼を擦りながら答えた。佐々木が出て行ってから、どれくらい時間が経っているのか、彼にはさっぱり分からなかった。唐津がまだ宅配用のジャンパーを着たままなところを見ると、「もうすぐ帰ってくるらしい」という佐々木の言葉に偽りがないのであればという前提でだが、それほど長い時間は経っていないとみて良いだろう。
「あれ? 沼田さんは?」
 部屋の中にいるのは唐津1人だった。一緒にいたはずの沼田の姿は見当たらない。
「槙野探しに行ってる。ケータイ通じなくてよぉ。例の通信障害とやらの所為かね。佐々木ならなんとか出来ねーかと思ったんだけどなー」
 そこまで一気に喋った唐津は、谷田の顔に視線を向けたかと思うと、ふっと笑った。
「なにしょぼくれた顔してんだよ」
「え?」
 唐津のその声は、記憶の中の音声とぴったり重なった。かつてケレエレスがかけてくれた言葉と。
「心配しなくても、その内ひょっこり戻ってくるって。元気出せよ」
 唐津の手は谷田の頭へと伸びた。黒い髪を優しく撫でる感触に、『クライアント』はいつもこんな手に触れられているのかと思った。その直後だった。唐津の手は、突然振り払われていた。
「……え?」
 唐津は自分の手を叩いた谷田の手に眼を向け、少し驚いたような顔をしている。谷田もまた、長い前髪の下で呆気に取られた表情を浮かべていた。唐津が「なんで?」と尋ねるように首を傾げる。
「いや、今のは僕じゃなく……」
 2人の間に割り込むように現れたのは、飛び出た目玉にモップのような頭の、ぬいぐるみだった。
「よおよお、オレ様のいない間に、こいつに手ェ出そうったてそうはいかねーぞ」
「ケレエレス!」
「しけたツラしてんなー。ほんと、オレ様がいないとしょーがねーんだからよー」
「おいなんだよ手ぇ出すって。人聞きの悪い。おい聞けよコラ」
 唐津が何か言っているのを遮るように、谷田は突然戻ってきた自称宇宙人を自分の左手毎抱き締めた。
「良かった……」
 ケレエレスはしばらくの間何か言っていたようだったが、全てもごもごとくぐもった音にしかならなかった。そしてそれも、谷田の安堵したような――それでいて少し震えている――声を聞いた後は静かになった。
 やれやれと溜め息を吐いた唐津が部屋を出て行こうとすると、ちょうど外からそのドアが開かれ、佐々木と槙野、そして槙野を探しに行っていたという沼田が現れた。
「お? 唐津、どっか行くのか」
「あ、いや別に……」
「じゃあさっさと仕事に取り掛かりましょう。ちょうど『6人目』も戻ってきたところみたいだしね」
「6人目?」
 沼田の大きな身体の陰から顔を覗かせた槙野に、ケレエレスは「よう!」と手を上げた。それを見て、槙野と沼田は谷田の元へと駆け寄ってきた。
「ケレエレス、戻ってきたの?」
「でもよぉ、基地局の工事はまだ終わってないはずじゃあ……」
「あ、そういえばそうですね。何があったのかくらい説明しろよ」
 ケレエレスは「やれやれしょーがねーな」と言いながら頭を振るような仕草をしてみせた。なかなか器用なマペットだ。
「オレ様が地球の基地局の影響なんて受けるもんか。実はピガ星人の侵略船の影響で、サンベベト通信センターが暴走しちまったんだ。そこで仕方なくメッポル星を経由してこいつと交信しようと試みたんだがなんとこれが――」
「あー、オレもういいわ」
「あたしも」
 早々についていくことを放棄した地球人に、ケレエレスは「ちゃんと聞け」と怒鳴り散らした。正真正銘、いつものケレエレスだ。
「これだから地球人は遅れてるんだ。そもそもだな――」
 ケレエレスの言葉は急に中断した。谷田が再びそのぬいぐるみの身体を抱き締めていた。
「なんでもいいよ、もう」
 ケレエレスに生身の肉体があったら、虚を突かれたような顔をしていたのかも知れない。
「……お、おう。まあ、どーせお前等には高度すぎて理解出来ないだろうからな――」
「なんでもいい。お前がいるなら」
 髪の毛の下に隠れた表情は、おそらく下から見上げたケレエレスには見えていたのだろう。そして、ぬいぐるみの微笑みが、きっと谷田には見えていたに違いない。
「おかえり」
「おう。帰ってきてやったぜ」
「じゃあ、ひと段落着いたところでいいかしら? 『仕事』に取り掛かるわよ。あまり『クライアント』を待たせるわけにもいかないしね」
「おお! そうだったそうだった! さっき帰りに見付けてきたんだ! もう交渉も済んでるぜ! ただこのまんま持ち運ぶってのはちょっとなって状態で」
「じゃ、あたしの出番ね。任せといて」
「今度のはちょっとややこしそうなんだ。フルメンバーで行くぜ。谷田! おめー等も準備しとけよ!」
「はいっ」
 『仕事』の準備に取り掛かろうと駆け出した谷田の髪の毛がふわりと靡いた。そこには、見紛うことのない笑顔があった。


2013,05,28


ケレ谷田っていいと思うんです!!
とか思って書いていたのに一部唐谷っぽくなってしまいました。
あれだ。谷田はみんなに可愛がられてれば良いと思うよ!!
タイトルはばんぷの曲から。
<利鳴>

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