二つの望み


 「ラウル」と呼ばれて振り向くと、思った以上に近い距離にイオアンの碧緑の瞳があった。咄嗟に焦点を合わせられないその距離にうろたえながらも、ラウルは「はい」と返事をした。身体毎振り向きながら、さりげなく会話に適した距離を取ったことは、幸いにもイオアンには気付かれなったようだ。
 イオアンのその表情は、何かを思案するように――それでいて何かを躊躇うように――険しい。
「イオアン? どうかなさいましたか?」
 名を呼んだ切り、何も言い出そうとしない主に、ラウルは首を傾げた。言葉を捜すように、イオアンの眼は彷徨っている。続いて、色素の薄い唇が、震えるようにわずかに動いた。ラウルはそこから出てくる声を待った。が、その状況はしばし続き、彼からの命は一言も与えられなかった。
「イオアン?」
 覗き込んだ白すぎる顔は、痛みをこらえているように見えなくもない。まさかどこか身体の具合が悪いのでは……。
「どうされたのですか? お身体の具合が宜しくないのでしたら……」
「違う」
「しかし……」
「そうではない。そういった心配は無用だ」
「では……?」
 “緊張している”。そうだ、その言葉が一番的確に当て嵌まりそうだ。イオアンは今、強い緊張状態にある。苦しそうですらある。では何が原因で……? その真剣な表情は、彼に血を求められた時のそれと、いくらか似ているように思えた。ラウルは知らず知らずの内に息を潜めていた。イオアンの心理状況が、いつの間にか感染してしまったようだ。
「イオアン、誰か人を呼んで参りましょうか? やはりお顔色が良くないように思います」
「いらぬ」
「でも……」
「黙っていろ」
 強い口調で言われて、ラウルは思わず小さく跳ねた。それに気付いたイオアンは、慌てたように言い換えた。
「少しの間で良い。黙ってくれ」
「……はい」
 そう返事をした時点ですでに命令を破っていることになるのだが、そんなことを気にかけている余裕は、イオアンにはないようだ。
 そのまま、ずいぶん長いこと待たされていたような気がする。ようやく意を決したように、イオアンは顔を上げた。その視線は、何に阻まれることもなく、ラウルの眼へと突き刺さった。
「ラウル」
 イオアンが一歩近付いてきた。先程空けた距離は、再び縮まった。
「は、はいっ」
 思わず上ずった声に、イオアンの表情がわずかに歪んだように見えた。それでも彼は、ついに溜め込んでいたような言葉を吐き出した。
「我は」
「はい」
「……汝を抱きたい」
 何を言われたのか理解するのに時間を要した。ラウルはただ、両の眼を大きく開けて――ついでに口もわずかにだか開いている――、驚きを隠すことなく、イオアンの瞳から視線を逸らせずにいた。
 唐突に投げ付けられたその言葉が何を意味するかは、いくらラウルが“そのようなこと”に疎いと言っても、もちろんただの抱擁を望まれているのではないと、充分理解出来た。そして教会の教えがその身に染み付いている彼は、“それ”が「いけないことだ」という認識を持っている。子を作る目的以外での交わりを、教会では強く禁じている。司祭様は“それ”を根本から封じようとすらしていたではないか――そうか、司祭様が案じていたのは“そういうこと”だったのかと、今更気付いた――。だが、今のラウルはすでに“教会の養い子のラウル”ではない。彼が従うのは、人間達の神でも、それを信仰するための教会でもない。
 イオアンの表情から、緊張の色は消えていない。だが今は、更にそこへ不安が混ざり始めている。今度は彼がラウルの返答をじっと待つ番だ。不安に瞳を震わせている姿は、どこか幼く、か弱く見えた。愛らしくすら思えるその様に、ラウルは無意識の内に頬を緩めていたらしい。イオアンの顔が、今度こそ不愉快そうに歪んだ。
「あ、す、すみませんっ。あの、嗤うつもりでは決して……」
 慌てて弁解しても、イオアンはむすっとしたままこちらを睨んでいる。それがまた子供のようで微笑ましいなんてことは、口が裂けても言えはしない。
「若君に対して無礼な態度を……。本当に、なんとお詫びすれば良いか……」
 頭を低くしたラウルに、イオアンは刺々しい口調で「もう良い」と吐き捨てるように言った。
「もう、そのことは良い。それよりも、他の者の眼がない場所では、そのような呼び方はするなと言ったはずだ」
「はい。申し訳ありません。イオアン」
 ラウルは頭を下げたまま、こっそり笑った。イオアンの反応があまりにも予想通りだったので。
 「はあ」と溜め息を吐くのが聞こえた。
「……そんな話がしたいのではないのだ」
「はい」
「ラウル。……汝は…………」
 ラウルは胸に手をあて、今一度深々と頭を下げた。
「貴方が望まれるのでしたら、喜んで」
 きっぱりと言った。イオアンの顔は見えない。いや、見たくなかったのかも知れない。こんな場合でなくとも、その美しすぎる姿は、直視するのに勇気に似た力を要する。
 ラウルは、その口調程は毅然としてはいられなかった。顔が熱い。心臓は痛いくらいに鳴っている。手が震えている。自分の爪先を見詰めるように視線を下げたまま、それ等が収まるのを待ったが、鼓動は早さを増していく一方だ。
「……ラウル」
 ようやく沈黙を破ったイオアンの声に、ラウルは失望の響きを感じ取った。「何故」と咄嗟に上げ――てしまっ――た眼が捕らえたのは、先程以上に不安に満ちた、ともすれば泣き出してしまいそうな瞳だった。
「イオアン……?」
 ラウルが咄嗟に伸ばした手は、振り払われることはなかった。しかしイオアンは、ラウルの視線を避けるように顔を背けている。ラウルが彼の肩に触れると、その仕草はより顕著なものへと変わった。
「我は……」
 最初に言葉を躊躇っていた時よりも、更に消え入りそうな声で、イオアンは言った。
「汝に、命令したいのではない」
 ラウルは瞬きを繰返した。
「ラウル。我等の立場は分かっている。だが、我は『命令だから』と汝に嫌々従ってもらいたいのではない」
 ようやく正面に向き直った瞳は、泪で潤んでいた。そしてそれはすぐに伏せられてしまった。
「そんなものが欲しいのではない」
 震えた声は、辛うじてラウルの耳に届いた。
「イオアン……」
 ラウルは、小さく微笑むように息を吐いた。
「僭越ながら、イオアン。貴方は私の言葉を、途中までしかお聞きにならなかったようです」
 俯いていたイオアンが、訝しげに顔を上げた。
「私が何とお応えしたか、覚えておいでですか?」
「……我が、望むのであれば……と」
「ええ」
 ラウルはゆっくりと頷いてみせた。
「その後に、『喜んで』、と」
 イオアンが眼を見開くと、長い睫毛が小さな雫をはじいた。
「イオアン、貴方に望まれることが、私の望みなのです」
 教会の教えは、それを必要とする者には紛れもない唯一の真実なのだろう。だがラウルには、それを遥かに上回る絶対とも呼ぶべき存在がある。
「私の全ては、貴方のものです」
 鼻面を合わせるように、イオアンの顔が近付いてきた。ラウルは眼を閉じた。程なくして、唇に柔らかい感触が押し当てられた。いつの間にか、二本の腕に抱きすくめられていた。
「ラウル」
 離れた唇に、代わりのように声が触れた。
「汝を抱きたい」
 ラウルは先程と同じ言葉を、ゆっくりと返した。
「はい。喜んで」


2015,03,05


この2人、接吻まではさらっと公式で済ませているところが恐ろしい(笑)。
本当はもう少し先(性的な意味で)まで書きたかったのですが、やめどころが分からなくなりそうだったので直前までになってしまいました。
誰か、初めて同士で結局上手くいかないイオラウを見かねたハイドリヒあたりが“手伝ってくれる”R18小説(もしくは漫画)くださいっ!(笑)
<利鳴>

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