One Day


 −morning−

 多くの場合、死々若丸の1日は鈴木の声から始まる。
「おーい。起きろー」
 声を掛けられる前からすでに目覚め掛けている場合もあるが、死々若丸が自分から起きて活動し始めることはほとんどない。わざと布団に潜り込んで、再度呼び掛けられるまで待つこともある。
「しーしーわーかーぁ」
 うんざりしたような鈴木の声が、先程よりも近い所から聞こえてくる。いつまでも起きてこない死々若丸に痺れを切らして、部屋までやってきたらしい。
「毎朝毎朝……。おいっ、起きろっ」
「煩い」
「起こしてやっているのにその態度はないだろう」
 そうは言いつつも、こんなやり取りはほとんど毎日のことで、朝の挨拶代わりになってしまっているのが現状だ。
「ほらっ、起きろっ」
 死々若丸がようやく布団から這い出てきたのを確認すると、鈴木は忙しく台所に向かってゆく。2人が人間界で共に住むようになってから、家事はほとんど全て鈴木がこなしている。基本的に手先が器用な鈴木は、少しも手を貸そうとしない死々若丸に文句を言いつつも、なんだかんだで嫌ではなさそうな様子だ。本気で文句を言われれば、死々若丸とて少しは考えただろうが、そうではないのでやはり何もしない。一見不平等に見えないでもないが、これはこれである意味バランスが取れていると言っても良いだろう。
 身支度等を済ませて死々若丸が部屋から出てくる頃には、すでに食事の用意が整っている。死々若丸が食卓に着くのを待って、2人の朝食が始まる。
「鈴木」
「ん?」
 鈴木は顔を上げた。死々若丸は野菜を摘んだ箸を鈴木の鼻先に突き付けている。
「お前が食ってなんともなかったら食してやろう」
 つまりは毒味をしろと言うのだ。鈴木は深く溜め息を吐いた。
「お前なぁ、毎度毎度……。昨日の食事に何か問題があったか?」
「いや」
「じゃあ一昨日は?」
「何も」
「だったら、いい加減にオレを信用したらどうなんだ」
 鈴木は、周囲から『怪しげな道具や薬を作り出しては仲間を実験台にする危険人物』であると認識されている。共同生活を始めてからも、死々若丸はほぼ毎日この調子だ。
「オレが作る食事が気に入らないなら、少しは自分で作ったらどうだ?」
「そもそもオレ達は妖怪だぞ。年単位で食事を取らなかったからといって、どうなるわけでもない」
「そんなに作りたくないか……」
 鈴木は呆れた顔をしている。
「オレ達の仕事を忘れたのか?」
 2人は何も、ただのほほんと人間界で生活しているわけではない。
「霊界が張った結界がなくなってから、人間界への移住を希望する者が増えてきている。だが、それら全てがいきなり押し寄せては、混乱が起きるのは必至だ」
 そこで魔界は、何人かを試験的に人間界に住まわせることとした。かつて幻海が所有していた土地を利用し、今も何人かの妖怪が生活している。まずは人間に近過ぎない場所から、問題が起こらなければ徐々に人間の生活に近付けてゆく。必要な物は、すでに人間界生活の長い蔵馬を通して支給されることになっているが、やがては人間のように自ら欲する物を手に入れる術を会得しなければならない。これも、魔界統一トーナメントに敗れた者の勤めなのだ。
「人間界のことを学び、実際に体験するのもオレ達に与えられた役目だ」
「分かっている」
「なら、文句は言わぬことだ」
 いつの間にか食卓の上に置いていた箸を取り直し、鈴木は食事に戻った。
 確かに――意外にもと言うべきか――、人間界にやって来てから、鈴木は比較的大人しい。部屋にこもって何やら怪しげな物を作っていることがないでもないが、ここ最近、仲間が実験台にされたと言う話は聞いていない。
(……怒ったか?)
 死々若丸は、流石に少々言い過ぎたのではないかと考えていた。何か言うべきかと思考を巡らせたが、結局黙ったまま食事に手を付けた。
 やがて、2人はほぼ同時に箸を置いた。かと思うと、顔を上げた鈴木が突然声を上げる。
「ああっ、お前はまたッ」
 死々若丸の皿を指差す。
「なんだ」
「残すな、ニンジンをッ!!」
 しかし死々若丸はツンと顔を背けた。
「死々若ッ、めっ! 好き嫌いするな!!」
 言い返すこともせず、死々若丸は相変わらず視線を向けようともしない。初めから何を言われようとも、自身の意志は変えるつもりがないとでも言うように。
「カッコ良く意地張ってるつもりか!? 言っておくが、やってることはたかがニンジンの好き嫌いだからなッ!」
「煩い。そこまで言うなら貴様が食え」
 言うや否や、死々若丸は自分の皿に残っていたニンジンを素手で掴み、食卓の上に身を乗り出し、それを鈴木の口に突っ込んだ。
「んぐっ!?」
 さらに何か言おうとしていたらしい鈴木は、完全に意表を突かれた。気の毒なことに、入り所が悪かったらしく、激しく噎せ込んだ。
「ッ……ぐっ……、がっ、はっ!! っ……、死々若ぁッ!」
 この後、しばらく鈴木の説教が続くのだが、それもこの日に限ったことではなく、やはりほぼ日常的に繰り広げられる光景なのだ。そしてほとんど毎回、全く相手にしようとしない死々若丸の態度に、鈴木が折れて朝食は終了する。
「明日は絶対食わせてやるからなっ!」
 どうやら明日の朝食のメニューは決まったらしい。

 −daylight−

 鈴木は基本的に、日中は部屋にこもって道具作りに勤しんでいる。気が付くと日が暮れていて、一食抜いていた等ということも珍しくない――つまりそんな場合でも死々若丸が代わりに台所に立つことはない――。鈴木がそうしている間、死々若丸は至って暇である。時々わざと邪魔をしに部屋に乱入することもあるが、それ以外の時は特にすることもない。修行の時間に当てても良いのだが、相手がいた方が効率が良い。
「出掛けてくる」
 今日の鈴木は一段と熱中しているようで、聞いているのかいないのか分からないような生返事だけがあった。
 死々若丸は陣と凍矢のもとを訪ねることにした。彼等は、死々若丸達と同様に、人間界に住んでいる。住まいも然程離れていない。
 2人の住まいの近くまで行くと、ちょうど陣が手持ち無沙汰に屋根の傍を浮遊しているのが見えた。
「おい」
 下から声を掛けると、陣は「あっ」と声を上げた。風を操って地面へ降りてくる。
「遊びに来ただか?」
 陣は足を組んで空中に浮いたまま、牙のような八重歯を見せて笑った。
「暇潰しにきた」
「とーやぁーっ。死々若来たぁー!」
 陣が家の中に向かって叫ぶと、凍矢も玄関先に出て来た。
「そういう時はとりあえず上がってもらって、お茶でも勧めるものだぞ、陣」
 凍矢はやれやれと苦笑を浮かべながら、取り敢えず入って来いと手招きをした。
「あっ、オラがお茶入れるー」
 言うや否や、陣は台所へと飛んで行く。凍矢の声がそれを追う。
「食器割るなよ。あと、家の中で飛ぶな」
 遠くで「はーい」と返事がする。
「……子供かあいつは……」
「100パーセント否定するのは難しそうだ。……今日は鈴木は?」
「部屋にこもって怪しげな物を作っている」
「げ。危険な物じゃあないだろうな」
「オレが知るか」
 いざとなったらやはり自分が鈴木をとめなければならないのかと思うと、知らず知らずの内に溜め息が出る。
 やがて、お盆を持った陣が戻って来た。
「お茶入っただ〜」
「ゆっくり運べ。またひっくり返すぞ」
 数日前に火傷したんだ、と凍矢が言う。
「だいじょーぶだべっ。今日は冷たい麦茶にしただっ」
「だからといってひっくり返していいということにはならんぞ。ピースするな。両手で持て」
 なんとか無事に運ばれてきたグラスに口を付けながら、お互いの近況報告が始まる。と言っても、以前顔を会わせてから然程時間は経ってもいなければ、重大な出来事も起こっていない。やがてこれといった話題もなくなる。そこで、そもそも手合わせ願おうと思ってやって来たことを思い出した。そのことを言うと、陣が嬉々として立ち上がった。
「うっしゃ! やるべ! オラが行くだかっ? 凍矢行くかっ?」
「オレはこれを片付けるから、お前が相手してやれ」
 凍矢は空になったコップを指した。
「わかった!」
「外行ってやってくれな」
 死々若丸は、この2人の会話はどこまでも賑やかだなと思いながら、陣に続いて外に出た。
 家からはやや離れた開けた場所へ着くと、この辺りでいいなと陣が周囲を見廻した。適当な距離を取って向かい合う。
「いっくだぞー」
「こい」
 強い風が巻き起こり、陣の身体が宙に浮く。
 死々若丸は腰の魔哭鳴斬剣に手を掛け、姿勢をやや低くして構えた。
 先に仕掛けたのは陣だった。腕に竜巻を纏わせ、低空飛行で突っ込んでくる。
 陣が操る風は、ただの風ではない。妖気を帯びたそれは、死々若丸の剣が呼び寄せる本来ならば風等の影響を受けない怨霊までをも吹き飛ばす。遠距離攻撃はほとんど無効化されると言って良い。死々若丸が勝利するには、接近戦に挑むしかない。それも、長引けば不利だ。
 死々若丸は地面を蹴り、大きく跳躍し、陣の突撃を回避した。そのままくるりと宙返りをする。一瞬、青年の姿が消え、代わりに小さな鬼のような妖怪が現れる。死々若丸のもう1つの姿だ。この姿では、リーチもコンパスも極端に短くなる上に、剣も小さな針のように変化してしまう。代わりに飛行が可能になるが、それも陣の飛翔術と比べると、高度も速度も極端に劣る。
「もう降参だかぁ?」
 陣が笑う。
「まさか」
 そのまま空中戦を展開するが、死々若丸は回避するばかりで、やはり反撃には出られない。一方的な攻防がしばし続く。
「そろそろ決着させるだぞぉ」
 陣が両の拳に竜巻を纏う。
 と、次の瞬間、
「あっ」
 陣の後方を指差しながら、死々若丸が声を上げた。
「あんな所に凍矢と九浄がっ」
「なにぃぃッ!?」
 陣は勢いよく振り返った。次の一瞬で、それまでやや離れた所にあった死々若丸の気配が、彼の真後ろに移動した。
「!?」
 死々若丸の静かな声が告げる。
「嘘だ。愚か者め」
 その声はすでに小鬼の時のものではなかった。
 騙されたと気付いてももう遅い。陣は振り返る間もなく、垂直に振り下ろされた剣が後頭部へ強かに衝撃を与えるのを感じた。
「ッ…………!!」
「安心しろ。峰打ちだ」
「うぅーっ、変な色の星見えたぁー! 騙し討ちなんて卑怯だべっ!」
「戯け。あんな手に掛かるお前が悪い」
「だっ、だってよりによって凍矢と九……」
「オレがどうかしたか?」
 不意に投げ掛けられた声に振り向けば、先程死々若丸が嘘で指差した辺りに、今度は本当に凍矢がいた。もちろん九浄の姿なんかはない。
「凍矢ぁっ! 死々若ってばひどいんだべぇっ!」
 陣は風を使って一気に飛んで行き、そのまま凍矢に飛び付いた。
「わっ」
 しがみ付かれ、凍矢は危うくバランスを崩し掛けるが、なんとか転倒だけは踏み留まったようだ。
「なんだ、負けたのか?」
「だって……」
「ふんっ。引っ掛かる方が悪い」
「う〜っ。絶対タンコブになってるだぁ」
「冷やすか?」
 凍矢は微弱な冷気を纏った手の平を陣の頭に伸ばした。凍矢の手を頭に置いたまま、陣は死々若丸を睨み付けた。
「死々若ッ! もっぺん、今度は正々堂々と勝負するだッ!」
 だが死々若丸は首を横に振った。
「いや……、帰る」
 さっさと宣言すると、再び小鬼の姿になった。
「えーっ!? 勝ち逃げするだかぁー!?」
「アタリだ」
 まだ不満の声を上げている陣を無視し、死々若丸は家路へと向かった。
「急用でも出来たか?」
「そんなところだ」
 死々若丸の気分屋は今に始まったことではないとでも思っているのか、凍矢は「またな」とだけ言って、それ以上追求はしてこなかった。だが本当のところは――
 木々に遮られて見えなくなる前に、死々若丸は一度だけ2人の姿を振り返った。凍矢が陣の打撲の様子を診ているらしく、2人の姿はほぼ重なって見えた。人目も気にせずくっ付いているその様子が、若干羨ましく思えただなんてことは――
(絶対に言わん。と言うかありえん)

 −night−

 山の向こう側に太陽が消えていくのを悲しみ、泪するように、夕方から雨が降り出した。それは時間が経つに連れて、激しさを増していった。
「本格的に降ってきたな」
 夕食の後片付けの手をとめ、窓の外に眼を向けながら鈴木が呟く。
「日中に降らなくて良かったな。出掛けていたんだろう?」
「陣と凍矢の所に」
 死々若丸が「相変わらずだった」と言うと、鈴木はくすりと笑った。
 いよいよ本格的にやることがないらしく、死々若丸は退屈を通り越して少々不機嫌そうだ。
「少し早いが、風呂に入ってもう寝たらどうだ?」
 確かに時間的には早い。しかし、遅くまで起きていてもやるべきことはない。少し考えるような素振りを見せてから、死々若丸は立ち上がった。
「入る」
「それとも一緒に入るかぁー? なーんて……」
 同じ不機嫌でも死々若丸の場合は、黙っているよりも少々辛辣な言葉を吐いているくらいの方が健康的なのだ。鈴木は時折、このようにわざとからかうような台詞を口にする。しかし、
「いいぞ」
「…………へっ!?」
 100パーセント冗談のつもりだったのに、思わぬ言葉を返され、鈴木は虚を突かれたような顔をした。
「ほ、ホントにっ?」
「ああ」
 答えると同時に死々若丸は小鬼の姿に変身――と呼ぶのが正しいのかどうかは不明だが――した。
「よしっ。行くぞ」
「ああ……、そっちな……」
 死々若丸は時折、このようにして鈴木をからかい返すのだ。
「先行くぞっ」
 そう言って駆けて行く死々若丸の後に、鈴木はやや肩を落としながら続いた。
 どこから持って来たのか、死々若丸はビニールのアヒルの人形なんぞを持ち込んで、さらには鈴木の不意を突いてお湯を引っ掛ける等しながら楽しそうにしている。
「大人しく入ってろ」
 すると死々若丸は「べぇ」っと舌を出した。
「お前その姿になると人格も変わるよな……」
「そっかぁ?」
「うん」
 即答する鈴木に、死々若丸は訝しげに首を傾げた。不思議なことに、あまり自覚はないらしい。

 −midnight−

 入浴後、少し早めに布団に入った死々若丸は、夜中に眼を覚ました。理由はすぐに分かった。カーテンを閉め忘れた窓から、眩いばかりの月光が入り込んで来ている。それがちょうど布団の上に――日溜まりに対して月溜まりとでも呼ぶべきか――光の塊を落としている。いつの間にか、雨は上がったらしい。
 死々若丸が寝ている場所からは、手を伸ばしてもカーテンを引くことは出来ない。今は小さい方の姿でいるが、仮に青年の方の姿であったとしても、やはり窓までは距離がある。仕方なく起き上がって窓へ近付く。窓枠にぴょんと飛び乗り、カーテンに手を掛けながら何気なく外に眼をやって、思わずその手をとめた。
 雨に洗われて澄んだ空気の向こうに、大きな満月が見えた。それを『美しい』と表現する以外の術を、死々若丸は知らない。が、そんな台詞は自分よりも言い出しそうな者がいるので、敢えて頭の隅に追いやることにした。
 気が付くと死々若丸は、窓を開けて外に出ていた。着地と同時に青年の姿になる。小さい方の姿では、滞空しながらでなくては月を眺めることが出来ない。死々若丸は、静かに立ち止まってその姿を見たいと思った。
 しばらく白い月を黙って見ていた。話し掛ける相手がいないのだから、『黙って見る』のは当然のことだなと思った直後に、背後から声を掛けられた。
「お迎えでも待っているのか、かぐや姫?」
 いつからそうしていたのだろうか。死々若丸の隣の部屋の窓から、鈴木が身を乗り出していた。
「そんな台詞を吐いてよく恥ずかしくないな」
「ちっとも」
 呆れた顔をする死々若丸とは対照的に、鈴木は得意気に笑みを浮かべている。
「凡人には出来ないことを難なくこなすのがオレの凄いところだ」
 顎の下に手を当てたわざとらしいポーズを取りながら言う。
「確かに、自己陶酔し切って臭い台詞を吐くなんて、まともなやつなら出来ないな」
 死々若丸は、冷たい視線をもう一度投げ掛けてから、「そう言えば」と尋ねてみた。
「お前はいつもこんな時間まで起きているのか?」
「いつもということはないさ。ちょっと調べ物をな」
「明日にすれば良いのに」
「たまにはいつもと違う時間に活動してみると、珍しいものが見られることがあるからな」
「珍しいもの?」
「見たいか? 玄関側に廻れ」
 まだ「見る」とも言っていないのに、鈴木はさっさと顔を引っ込め、部屋を出て行ってしまったようだ。仕方なく死々若丸も言われた通りに外を廻って玄関へ向かった。玄関は、今居た場所からだとちょうど反対側に位置する。
「早く来いー」
 先に外に出たらしい鈴木の声が飛んで来る。
 死々若丸が追い付くと、鈴木は空を指差した。
「あれだ」
 最初は、鈴木が何を言いたいのか分からなかった。が、一瞬遅れて、空にうっすらと白っぽい光の筋のようなものが走っているのに気が付いた。
「見えたか?」
「何だあれは」
「ゲッコウ」
 その音を聞いて、まず思い浮かべたのは『月光』という字だった。だが、月は2人が見上げている背中側にある。
 そんな死々若丸の思考を読んだかのように、鈴木は続ける。
「月の虹と書いて、ゲッコウと読む」
「『月虹』……」
 鸚鵡返しにその名前を呟いてみる。
「原理は昼間の虹と同じだ。ただし、太陽と比べると月の光は弱い。弱い光だと色は認識し辛くなる。大体は白っぽく見えるだけだな」
 鈴木は、「昼間の虹と比べると、見られる可能性はずっと低い」と付け足した。
 死々若丸は小さく「ふぅん」と呟いた。
「感想は?」
 尋ねられ、「別に」と答えてから付け足すように言った。
「あまり虹らしくない」
 虹の特徴として先ず思い浮かぶのは、その色合いであろう。夜空に現れる虹は、それが薄れてしまうのだからそう思うのも無理はない。
「それでも虹には違いない。なんだって複数の姿を持っているのさ」
 鈴木は「お前だってそうだろう?」と笑った。
(それを言うなら……)
 鈴木もその例に漏れない。物理的に、姿形が1つではないという意味ではなく。人間界での生活を始めてから、そう思わせるようなことが何度もあった。子供のように何かに熱中してみせたり、ヒトを小馬鹿にするような態度を取ってきたかと思えば、急に真面目な顔をしてみたり……。
「おい、そろそろ入るぞ」
 そう言って踵を返しかけた鈴木は、死々若丸の足元に眼をやって、声を上げた。
「あッ、お前裸足ッ!」
 部屋の窓から出たのだから、仕方ないと言えば仕方ない。
「雨上がりなのに! 今水持ってくるからそこにいろ! 絶対入って来るなよ!!」
 バタバタと家の中に入って行く足音を聞きながら、死々若丸は再度空を見上げた。
(姿形が違っても、その根本は変わらない……)
 ならば、鈴木の変わらぬ根本とは、一体何なのだろうか。妖気の性質すらも自在に操り変化させる鈴木は、本性がどこにあるのか分からない。
 やがて水を張ったタライとタオルを持って、鈴木が戻ってきた。「ほら」と手を出され、それに掴まりながら足を水に浸した。
「……お前は、どこにいる……?」
「は?」
 聞こえなくても良いというつもりの呟きを、しかし鈴木は聞き逃さなかったらしい。
「どこって……分からないか?」
「…………分からない」
 すると鈴木は、突然死々若丸の腕を引き寄せた。
「!?」
 バランスを崩した死々若丸の身体は、鈴木の胸の中に倒れ込んだ。鈴木の肩に掴まって自身の身体を支えなおし、何をするのかと文句を浴びせてやろうとしたところで、割り込むように鈴木が口を開いた。
「どうだ? いたか?」
 死々若丸は、若干驚いたように瞬きを繰り返した。
「いない者には、触れられないだろう?」
 鈴木は片手を広げて前へ出してきた。自分の手の平よりも一回り程大きいその手に、やや躊躇うようにゆっくりと触れてみる。
「な? いただろ」
 紛れもなく、『ここ』に。死々若丸の傍らに。
 重ねられた手を握り、鈴木は微笑んだ。
「……それ……は…………」
「ん?」
「それは……、いつでも?」
 例えば、離れていたとしても――。
 言葉の意味を考えるようにやや間を空けてから、鈴木はくすっと笑った。
「やっぱりたまにはおかしな時間に活動してみるものだな」
「?」
「珍しいものが見られた」
 それは明らかに死々若丸の言動のことを指していた。
 鈴木の空いている方の手が、ややムッとした顔をしている死々若丸の頭をポンと叩いた。
「お前が嫌だと言ってもな」
「……それは嫌だ」
 そう言うと、やはり鈴木は笑った。つられたように、死々若丸も多少ぎこちないまでも表情を緩ませる。
「さ、そろそろ寝ろ。もう結構遅いぞ。そうでなくても毎朝なかなか起きないんだから……」
 使い終わったタライとタオルを片付けながら、鈴木が言う。
「それとも、一緒に寝るかぁー? なんてな」
 冗談めいた笑顔で言う鈴木を一瞥し、死々若丸は「ふんっ」と顔を背けた。そして小さく呟くように言った。
「……いいぞ」
 数時間前と同じ台詞を言う死々若丸は、しかし今度はその姿を変える気配を見せない。
「え……本当に?」
 死々若丸の返事はない。代わりに、長い髪の毛がさらりと揺れた。どうやら、頷いたらしい。
「今日は本当に珍しいな。熱でもあるか?」
「じゃあやめる」
「あああっ、分かったっ。分かったから、もう言わないっ」
 鈴木はまだ持ったままだったタオルを洗面所に放り込みながら、さっさと部屋へ向かって行く死々若丸の後を追った。
 いつしか、月が作り出した儚げな白い虹は消えていた。だが、死々若丸はもう信じることが出来る。決して消えはしないものも、確かにあるのだ、と。

 −next one day−

 翌日の朝は、死々若丸の悲鳴にも等しい声で始まった。
「すーずーきぃぃぃぃっ!!」
 先に起きて行動を開始していた鈴木は、廊下から顔を覗かせた。
「なんだ。朝から騒がしいぞ」
 死々若丸は予告もなしに鈴木の胸倉を掴み上げた。
「おー、近いぞー」
「貴様ッ、これがなんだか説明してもらおうか!?」
「説明するまでもないと思うが。見たまんまだ」
「いいから言え! なんだ『これ』はッ!?」
 死々若丸は自分の頭のやや上を指差した。そこにあるのは――
「ウサギの耳だ」
 鈴木はきっぱりと答えた。そのあまりにも堂々とした態度に、死々若丸は眩暈にも似た何かを覚えた。そんなことを知ってか知らずか、鈴木の表情は至って涼しい。
 大きなその耳は、作り物等ではなく、間違いなく直に頭から生えていた。ちょうど、死々若丸が理性を失った時――早い話が『キレた』時――に角が生える位置に、同じような大きさで。
「いやぁ、予想以上に似合ってるな。流石オレが作った薬だ」
「いつッ!?」
 死々若丸の言葉は、全く文法に則っていなかったが、鈴木には通じたらしい。
「昨日の夕食に混ぜた」
「――ッ」
 死々若丸は怒りのあまり、声を出すことすら出来なくなっていた。
 鈴木はなおも続ける。
「お前があまりにもニンジンを食べないもんでな。ニンジンと言ったら、やっぱりウサギだろ」
 いけしゃあしゃあと言ってのける。
「ところが、だ。昨夜調べてみたらウサギにはニンジンやらない方がいいらしいぞ。腹を壊すらしい。意外だろ」
 死々若丸は再度鈴木の胸倉を強く引いた。
「さっさと元に戻せッ」
「大丈夫だ。似合ってるぞ」
 「可愛い可愛い」等と言いながら、鈴木は死々若丸の頭を撫でた。
「――ッ!!」
「お前ウサ若丸に改名したらどうだ?」
「もう一度だけ言う。も・ど・せッ」
 死々若丸は魔哭鳴斬剣に手を掛けた。怒り以外の感情が全く見られない眼に睨まれても、鈴木はけろりとしている。それどころか――
「そんなことより、ウサギは寂しいと死ぬと言われる所以を知っているか?」
 全く反省する気配のない鈴木の言葉に、死々若丸はついに『キレた』。
「こ・ろ・すッ!!」
 死々若丸が抜いた剣をひらりとかわして、鈴木は笑いながら廊下を駆け出した。
「あはははははは。元に戻して欲しかったらオレを捕まえることだなっ」
「まぁぁぁてぇぇぇぇッ!!!」
 鈴木の笑い声と、死々若丸の追う声が朝の山中に木霊する。2人の新しい1日は、少しばかり賑やかに、始まったばかりである。


2011,06,25


タイトルは「某日」と訳していただけると幸いですが、真のタイトルは「鈴木さんちのとある1日」です(笑)。
以前別所にて公開していた鈴若小説を、少しだけ手直しして持ってきました。
昔書いた文章って、読み返すとなんか今と違う気がします。
なんか視点とか主語がめためたな気がします。
あと何故か我が家では死々若はニンジン嫌いに違いないと思われています。なんでだろう。
<利鳴>

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