陣凍小説を時系列順に読む


  変わりゆく代えられないもの


 海を臨む丘の上に、どう贔屓目に見ても立派とは言い難い小さな十字架が立っていた。木を組んで作られただけの簡単なそれは、雨風に晒され続けたために朽ちかけている。その正面に、片膝を折ってしゃがみ込んでいる影が1つ。静かに眼を閉ざしたその姿は、祈りを捧げているかのように見えた。いや、おそらく本当に祈りの最中なのだろう。どんなに簡素な物しかなくとも、そこは確かに墓前なのだから。
 やがてその瞼がゆっくりと開かれる。早朝の空を思わせる透き通るような蒼い瞳は、微かに悲しみの色を帯びていた。
 色素の薄い唇が、極短い言葉を紡ぐ。それはおそらく、そこに眠る者の名であろう。が、その声は、波と風の音に紛れ、響かずに消えた。僅かな間の後、さらに何か言葉を続けようと開いた唇は、しかし不意に向きを変えた風に気付いて動きをとめた。
 どこからともなく、名は知らない植物の綿毛が飛んできた。それを追うように仰いだ視線が、頭上で太陽の光を遮っている影を捉える。眩しさに眼を細めながら、彼は立ち上がった。
「陣?」
 距離があるために、その声はやはり届かなかった。しかし空に浮かぶ影は、風と一緒にゆっくりと地面に降りた。
「凍矢、見ぃーっけ、だべ」
 朱い髪を風に遊ばせながら、陣は白い歯を見せて微笑む。
「見付かったか」
 凍矢はやれやれと溜め息を吐いた。
「よくここだと分かったな?」
「他に思い付かなかっただ。……丁度今頃だったし……」
 陣は視界の隅にある十字架を一瞥した。
「凍矢1人でずりぃだ。画魔んとこくんなら、オレも一緒に来たかっただ」
 子供のように口を尖らせて言うと、凍矢は苦笑するように言った。
「そうだな。どうせ追って来られるなら、最初から一緒に来れば良かった」
「大体、どーやってここまで来ただ?」
 ここは四方を海に囲まれた島だ。彼等がこの島を離れたあの日から、この場所を訪れる者は既に皆無に限りなく等しくなっている。行き来するための乗り物を確保するのは容易ではないはずだ。凍矢は陣とは違って空は飛べない。まさか海を凍らせて渡って来たのではなどと陣が思っていると――。
「幽助の霊界獸を借りてきた。たぶん今はその辺で休んでいると思うが」
 肩越しに背中に広がる森に視線を向ける。おそらくそちらの方に霊界獣を待たせてあるのだろうが、すぐ見える場所には見当たらないようだ。散歩でもしているのだろうか。そう言えば、あの霊界獣の卵はこの島で孵化したのだった。もしかしたら、生まれた地を懐かしがってでもいるのかも知れない。
「後で探しに行かないとな」
「オレに言ってくれれば連れて来てやったのに……」
 凍矢を抱えて飛ぶことくらい、妖力を消費する内にも入らない。そのことは、凍矢もとっくに承知のはずだ。
「ああ」
 凍矢は「でも」と言葉を続けた。
「……どんな顔をするか分からなかった。『ここ』に来て……」
 陣は僅かに首を傾げた。
「それって、泣いちゃうかもってことだか?」
「ヒトが折角婉曲した言い方をしているのに」
 凍矢は呆れたように溜め息を吐き、陣の眼を軽く睨んだ。しかし、否定はしなかった。そしてそんな顔を、陣には見せたくなかったと言うことなのだろう。
「ふーん? 画魔になら見せてもいーんだ?」
 陣は面白くなさそうに呟いた。だがその大きくはない声は、凍矢の耳には届いていなかったようだ。
「何か言ったか?」
「なんでもないだっ」
 ぶんぶんと首を振る陣に、凍矢は不思議そうな顔をしている。
「とにかくっ、抜け駆け狡いだっ」
「分かった。もうしない」
 凍矢が溜め息を吐くように微笑んだのを確認してから、陣はかつての友が眠る墓へと向き直った。
 しばしの沈黙が流れる。凍矢の胸中は分からぬが、おそらく今までにあったことの報告でもしているのだろう。陣も、この2年余りのことを思い返し始めた。まずは出発点とも言うべき、この島での戦い。
(オレ達、大会には負けたけど、自由になったんだぞ)
 魔界の姿は、彼等が魔忍であった頃とは既に違っている。新しい統治者を得た魔界には、最早魔忍の力を必要とする者はいない。
(解散だって。びっくりだべ? でもそうなるまでは大変だっただぞ)
 毎日のように裏切り者を連れ戻そうと――或いは始末しようと――する追っ手との戦いが続いた。
(それから蔵馬に言われて修行して、また魔界に行って……)
 陣は返事のない友に向かって、心の中で話し掛け続けた。
(オレも凍矢も、前よりずっと強くなったの分かるだか? 修行はすんげーきつかったけど、こんだけ妖力上がったんだから、文句言えねーだな。そう言えば、吏将と爆のヤロには全然会ってないだ。多分魔界に戻ってっと思うけど。あいつらはきっと、トーナメントには出なかったんだべな。ってゆーか、1回反乱起こしてっから、出さしてもらえねーだな。今何してんだべな? あいつらも自由になってるはずだべ? こっちには来てないだか?)
 どれだけ語り掛けてみたところで、返事があるはずもない。
 陣の心の中に、雲が日差しを遮ったかのように影が差す。
(……抜け出したりしないで、ずっと待ってたら自由になれたんだべか……?)
 答えの代わりに、風の音だけが通り過ぎた。
(掟破って人間界に来たりしないで、幽助達が魔界変えるの待ってたら……、あのまま2年くらい我慢してたら、やっぱり魔忍は解散してたべか?)
 もしそうなのだとしたら、彼等の行動は起こしても起こさなくても同じであったと言うことになる。つまり、何の意味もなかったのだ、と。画魔の死も――。
(オモテの世界になんか出てかないで、じっと待ってた方が良かっただか? そしたら、画魔は死なないで済んだべか? それに……)
 陣は隣に立つ凍矢の横顔に視線を向けた。ゆっくりと瞬きを繰り返す凍矢の眼は、やや伏せられており、愁いの色を湛えていた。
(凍矢にこんな悲しそうな顔、させないで済んだんだべか……)
 当然のように、返事はない。
「わっかんねぇなぁ……」
 陣は声に出して呟いた。「何がだ?」と聞かれるかと思ったが、凍矢はそうはしなかった。逆に頷き、「そうだな」と言った。恐らく、陣が考えているのと、同じようなことを思っているのだろう。
 この島を離れた時は、振り返る暇もなく、まさに追われるように――それでも陣と凍矢の2人掛りで画魔の墓だけはなんとか作って――この場所を去った。何を得て、何を失ったのかを考える余裕は彼等にはなかった。が、今なら分かる――気がする――。得た物は大きく、2度と手放したくないと思う程だ。しかし、失った物もまた……。永遠の喪失がもたらしたものは、決して消えることのない闇となって心の奥底に居座り続けるだろう。忘れたつもりでいても、時にそれは自ら閉ざされた戸を叩く。
 陣は再び凍矢の顔を見た。凍矢はそれに気付いていないらしく、視線は相変わらず墓標へと向いている。愁いを帯びたその横顔は、長い付き合いでもう見慣れたつもりの陣でもどきりとする程美しかった。しかし、そんな顔をさせているのは、自分ではなく画魔だ。そう思った瞬間、陣はいてもたってもいられぬような衝動に駆られた。
「……凍矢っ、行こっ」
「はっ?」
 陣は凍矢の手を取り、半ば強引にその場から離れさせた。
「おい、陣っ? どこに行くつもりだっ」
 尋ねられてから初めてはっと我に返る。勿論行かなければならない場所などない。とにかくあの場から――画魔の墓前から――離れたかった。いや、凍矢を引き離したかった。
「……折角久し振りに来たんだから、他んところも見に行くべっ」
 努めて明るく振る舞いつつも、心の中では全く別な声が響いている。
(ああ、もうオレってばサイテーだ……)
 顔を見られぬように俯きながら凍矢の手を引いて、陣は大会の会場であった円形闘技場へ向かった。準決勝以降の試合が行われた会場は爆破されてしまったが、それ以前の試合が行われたもう1つの会場はそのままだ。島にある他の建物と同様に、既に使う者を失ったそれは、取り壊されることすらなく、ただ静かに朽ち果てていくのを待っている。
「なんかだだっぴれぇ」
 陣は選手が使用するための出入口だった場所から会場内を見回した。かつてそこにあった円形のリングは、決勝戦の際に移動させられたために、今は露出した地面と若干破損した観客席のみが残っている。その客席にも、当然ながら今は誰もいない。
「すっかり空っぽになっちまっただな」
「兵どもが夢のあと……だな」
「何それ?」
「松尾芭蕉」
「ん? 何?」
「おくのほそ道……、人間界の書物にでてくる詩の一部だ」
「ふーん?」
「少しは本も読んだらどうだ?」
「えー、めんどい」
 凍矢は半ば呆れたように溜め息を吐いて笑った。 
「『もう』2年も経っただな。あっと言う間だったべ」
「そうか? オレは『まだ2年』と言う感じだな」
「そっかぁ? だって色々あって忙しかったべ?」
 凍矢は頷いた。
「だからこそ、あれだけのことがあったのにまだそれだけしか経っていないのかと思ってな」
「あー、うん。それもあるかも知んないだな」
 陣は会場内を飛び回り、壊れている箇所があれば「ここは幽助が霊丸でぶっ壊した」「こっちはオレがやった」などと言いながら見て廻った。
「あはっ。なんか懐かしー。けど、やっぱしちょっと悔しいだなー。結局まだ幽助ともっぺん戦えてないし」
 陣は「なあ凍矢?」と振り返った。しかし、凍矢の視線はこちらへは向いていなかった。代わりに凍矢は、しゃがみ込んで片手で地面に触れていた。そこは、試合中に画魔の遺体が一時的に置かれていた場所である。その場所にかつての仲間の温もりが残されていやしないかと探るように、凍矢の手は地面を撫でた。
「……凍矢」
 陣は風を操って凍矢のそばに降り立った。
「2年か……」
 凍矢は、顔は上げないまま、ぽつりと呟いた。
「それだけあれば、変わるものだな。ここも、オレ達も……」
 「でも」と頭を振った。
「画魔は変わらないままだ。もう変わらない。ずっと……」
「凍矢……」
 おそらく今、凍矢は本当は1人になりたいと思っているのだろう。だが、陣はそうはさせたくなかった。
(だって、オレがいなかったら、凍矢は1人で泣くだか?)
 そうはさせたくなかった。
 凍矢にとって、画魔はどのような存在だったのだろうか。少なからず慕っていたのは間違いない。しかしそれがどの類の感情であったのかは、陣の眼には分からない。陣にも凍矢にも、更には画魔にもきょうだいはいなかったために断言は出来ないが、「兄のように」と言うのが近い気がした。ただの「仲間」だと言うのとは――「どう」と聞かれても分からないが――違っているように思えた。
(画魔は頭いいし、冷静だし、なんか頼れる感じだっただもんな)
 では、自分はどうなのだろうか。凍矢にとっての陣は――。
(オレは画魔みたいに賢くないし、無鉄砲だし、時々無茶やってよく怒られてるし……)
 何もかもが正反対に思えた。
(オレじゃあ画魔にはなれない……?)
 画魔の前なら、凍矢は己の感情のままに泣き崩れ、また画魔は、そんな凍矢に肩を貸し支えてやることが出来たのだろうか。
(……オレじゃあ、駄目……なんだべか……)
 凍矢は地面から手を離し、立ち上がった。それでも尚視線は同じ場所へと向けられている。
 気が付くと陣は、凍矢の手首を掴んでいた。少しだけ驚いたような顔が、漸く陣の方を向く。
「……陣? どうした?」
「凍矢。凍矢は……」
「どうした?」
「凍矢は、画魔のこと……好き……だっただか?」
 凍矢の顔がぱっと赤くなる。
(……そっか)
 凍矢はまだ何も答えてはいない。それでも陣は、もうそれを聞く必要はないと思った。知らず知らずの内に、陣の手は凍矢の手を放していた。
 僅かな沈黙を経て、凍矢は漸く口を開いた。
「……分からない」
 陣は、それが嘘だとは思わなかった。
(でもホントでもない)
「画魔がいた頃は、好きだとか嫌いだとか、そういった感情は分からなかった。画魔はもう変わることはないから、それも分からないままだ……」
「そっか……」
(それでもきっと、凍矢は……)
 俯いた陣の顔を、どうかしたのか? と凍矢が覗き込む。
(オレは……)
「オレじゃあ……」
(……駄目?)
「オレは、画魔の代わりにはなれないだか?」
「……陣?」
 凍矢は僅かに驚いたように瞬きを繰り返した。やがてその顔が、ゆっくりと左右に振られる。
「駄目だ」
 凍矢はきっぱりと言った。
「そっか……。やっぱ……そーだよな……」
 陣は無理に笑おうとした。が、唇の端が僅かに引きつったようになっただけで、少しも笑顔は作れない。
 自分に画魔の代わりは出来ない。始めからわかっていたことではあった。が、それを凍矢の口からはっきりと告げられるのは、胸に見えない刃物を深々と突き立てられることのようにすら思えた。あんなこと、言わなければ良かったと思ってももう遅い。いや、それを言うなら、間違いはもっと前に起こっていた。あの時、自分のわがままが試合の順番を変えていなければ……。いなくなるのは、画魔ではなく自分だったかも知れないのに……。画魔の死は、自分に責任がある。100%ではないかも知れないが、0でもないことは確かだ。
(きっとオレ、本当は凍矢の近くにいちゃいけなかったんだ……)
 今からでも、凍矢の前から消えてしまいたい気分だった。それは至極簡単なことだ。ぱっと飛び去ってしまい、あとは戻らなければそれでいい。陣にはそれがすぐに出来る。いっそそうしてしまおうか……。
 しかし、次の凍矢の言葉が、陣の思考を遮り、引き止めた。
「お前が画魔の代わりになるのなら、陣の代わりには誰がなってくれるんだ?」
 凍矢の眼は、真っ直ぐに陣を見ていた。が、陣が見返すと、その視線がふいっと横へ逸れる。まるで照れているように。
「お前がいなくなるのでは、そっちの方が困る」
 それがどういう意味なのか、考える前に陣は凍矢に抱き付いていた。凍矢が「わっ」と小さく声を上げる。
「オレ、凍矢の傍にいてもいいだか?」
「なにをいまさら」
「オレのまんまでいいだか?」
「そう言っただろ」
 凍矢は両腕を陣の背中に廻し、耳元に唇を寄せ、囁くように言った。
「帰ろう」
 「うん」と頷いて、陣は凍矢を抱えたまま風を操り地面を離れ始めた。
(まだわかんないことの方が多いけど……)
 戻ることは出来ない。それだけは確かだ。ならば、進んで行くしかない。前へ。変わり続けながら。
(それも、出来るだけいい方に、だな)
 変わらないものの代わりにではなく、変わらないものの分まで。変われる自分のまま。
 少しずつ遠ざかっていく足元の風景に向かって、陣は声を張り上げた。
「またな! またくるからな!」


2010,03,22


霊界獣置いてきてまっせ。
2〜3年前に書こうとしてて途中でとまっていたものを書き上げました。
そしたら当時何を思って書いていたのかさっぱり覚えていませんよ。
終わり方を考えてなくて、無理矢理終わらせてしまった感じです。
画魔をかませ犬にしたかったわけではなかったとは思うのですが……。
たぶん最初から見切り発車だったんだと思います。
<利鳴>
お墓参り嫌いの自分としては始まり方が不安でしたが、
普通に読んでて良かったと思うのであった。
霊界獣は空気読んで席外してたんだよ、きっと(笑)
3年も前に書き始めた物だと最後どうなる事やらでしょうけど、
綺麗にまとまってて良いお話じゃないですか、と。
後、タイトル上手いな!と素直に感心。
<雪架>

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