陣凍小説を時系列順に読む


※はじめに
 この作品は他の作品と同じ時系列であるとすると2人の関係性等に矛盾が生じるため、他とのつながりはない全くの別ものとして読んでください。


  永遠にキミとふたりで


 広い部屋にいくつも並ぶベッドで寝かされているのは、どうやら試合で負傷した選手達だけではないようだった。中には観戦中に巻き添えを食らった客もいるらしく、辺りには痛みを訴える呻き声と、手当てに追われる看護係の足音が騒々しく響いていた。
 眼を覚ました凍矢は、起き上がって周囲を見廻した。その騒がしさの中に、見慣れた姿が2つ足りない。1つはもう2度と戻ってはこない。その現実は、今は考えずに頭の隅に追いやることにした。もう1つは……。
(じっとしていられないやつだからな……、外の空気でも吸いに行ったか?)
 凍矢はベッドから抜け出し、医務室を出た。1歩外に出ると、薄暗い廊下は部屋の中と打って変わって静かだった。出口がどこにあるのかは分からないが、行った先が間違っていれば戻ってくれば良い。凍矢は適当に歩き出した。まだ塞がり切っていない傷は多少痛んだが、動けないほどではなかった。一応傷に障らないようにと、静かにゆっくり歩く。
 やがて、どこからかかすかな人の声が聞こえてきた。まだ距離があるようで、何を言っているかまでは聞き取れない。しかし凍矢は、その声の主が誰であるのかはっかりと分かった。間違えるはずがないと断言しても良いほどの自信がある。
 無意識の内に、歩調が早くなっていた。声は少しずつ近くなってくる。おそらくこの先の角を曲がった奥だ。そう思った時、聞こえて来る声が1人分ではないことに気が付いた。普通に考えれば、独り言を言っているのでもない限り、それが会話であって、相手がいることはおかしくも何ともない。しかし、その相手の声に、凍矢は心当たりがなかった。
(……誰だ?)
 角を曲がった先に、その答えはあった。
「じ……」
 名を呼びかけた凍矢の足が、ぴたりととまる。
 まだこちらには気付いていないらしく、背を向けてはいるが、そこにいたのはやはり陣だった。そしてその正面には、長い赤髪の女がいた。見覚えはあった。先の試合で、浦飯チームに対して魔性使いチームのオーナーが仕掛けた罠に協力していた女だ。罠はオーナーが勝手に仕組んだことで、人選も彼が行ったのだろう。彼女と凍矢達は直接の面識はなかったが、名は確か、結界師瑠架。試合時の看護婦の扮装は相手を欺くためのものかと思っていたが、実際に選手達の手当てもしているらしく、今は再び白衣を身に着けていた。
 陣の話し相手が彼女であることは間違いないだろう。会話の内容までは凍矢には聞こえないが、彼女の表情ははっきりと見えた。瑠架は、どこか熱っぽさを持った視線を、陣へ向けていた。真面目な顔をしたり、時折微笑んだりする瑠架に対して、陣がどうのような表情を返しているのかは全く分からなかった。
 瑠架の手が陣の腕に触れた。傷の具合でも診ているのだろうか、何かを説明するような声が僅かに聞こえた。
「もうへーきだって」
「でも……」
 再度「平気だから」と言って陣が歩き出した。凍矢は咄嗟に踵を返し、通路の陰に身を隠した。なぜそんなことをしたのかは、自分でも分からない。だが、何かが刺さるような痛みを感じた。試合で受けた傷とは違う、もっと胸の奥深くに。
 やがて瑠架が歩いてきた。凍矢には何の注意も示さず、彼女はそのまま擦れ違って行った。陣は逆方向へ行ったようだ。2人がいなくなってからも、凍矢はしばらくその場に立ち尽くしていた。胸に刺さった見えない棘は抜けぬまま……。

 気が付くと、水平線の向こうに太陽がその姿を消し始めていた。もう東の空は暗くなりかけている。いつの間にそんなに時間が経ったのか、それまでの時間、一体どこで何をしていたのか、凍矢は全く自覚がなかった。
 医務室に戻るべきか、それともホテルへ戻るべきか、わずかに悩んだ。付きっ切りの看病が必要な負傷ではない。しばらくは大人しくしていなければならないだろうが、それなら場所はどこでも構わないはずだ。灯りも落とされぬ人口密度の高い医務室では、熟睡することは難しいだろう。容態が急変する者がいれば、当然辺りは騒がしくなり、こちらは休むどころではなくなってしまう。
(戻るか……)
 ゆっくり歩いて行くと、ホテルに辿り着く頃には、陽は沈み切っていた。
 フロントに預けてあったルームキーは、すでに同室の誰かが引き取っていった後だった。部屋へ行くと、ドアを開けたのは陣だった。
「おっかえりー」
「ただいま」
 笑顔で出迎えた陣の横を通り過ぎ、凍矢はベッドに腰掛けた。その後を陣の視線がついてくる。
「どこ行ってただ? 医務室にいなかったからこっち戻ってっかと思ったのに、いねぇし。心配しただ」
 陣はあの後直接部屋へ帰ったのではなく、一度医務室に戻っていたらしい。
「そうか。悪かった。……吏将と爆拳は?」
「医務室。まだ動けねぇって」
「そうか」
「凍矢は? もう平気だか?」
 陣は隣のベッドに座り、心配そうな眼を向けてきた。
「無理をしなければどうということはない」
「そっか」
 陣が「良かった」と微笑んだが、凍矢はその笑顔から眼を逸らした。
「……凍矢?」
 しかし凍矢は、向けられた訝しげな眼には気付かなかったフリをした。
「お前こそ……」
「ん?」
「お前こそ、引きとめられたんじゃあないか?」
「へ?」
 発している言葉自体は特にこの場に全くそぐわないということはない。しかし、凍矢の表情は普段と比べると明らかに険しかった。唇の端が不自然に歪んでいる。その理由が分からずに、陣は首を傾げた。
「……うん。もうちょっと大人しくしてた方がいいって言われただ。でも、それならどこにいたって同じだべ?」
 陣は身を乗り出して凍矢の顔を覗き込んだ。
「なあ、なんか怒ってる?」
「別に」
 それは、あまりにも即答だったために、かえって不自然な返事だった。
「オレ、なんかした?」
 凍矢はやはり「別に」と答えた。今度は逆に間が開き過ぎたかも知れない。だが、今のは嘘ではない。少なくとも、陣は何もしていない。そんなことくらいは分かっているつもりだった。しかし、理屈では分かっていても、どうにも出来ないことというのは確かに存在するのだ。
「……さっき」
「ん?」
 頭の中で声がする。「今ならまだ留まれる」。しかし凍矢はその声に耳を貸さず、続けた。
「瑠架と話していだろう」
「……ん? ああ、そういえばそんな名前だっただな。うん。外出ようとしたら話しかけてきただ。見てただか? どこにいた? もうちょっと医務室にいた方がいいって言われたけど、あそこ消毒臭いし、ヒトいっぱいでなんか落ち付かねーし」
 おそらく、本当にそれだけの会話だったのだろう。しかし、陣が全く気付いていないとしても、瑠架が陣に向けていた眼差しにそれ以上のものが含まれていたことは間違いない。それは凍矢の眼からも明らかで、気付いていないのは当の陣だけだろう。だが、仮に彼女と陣の間に何かがあったとしても、自分はそれを咎められるような立場ではない。自分は、“ただの”、“仲間”でしかないのだから……。
 凍矢は再び顔を背けた。
「凍矢?」
「何でもない……」
「嘘だべ」
 凍矢が逸らした視線を追うように、陣は彼の正面に廻った。
「なあ、オレがなんかしたなら謝りたい。だからちゃんと言ってほしいだ」
「……本当に……、何でもないんだ。少し……混乱してるだけで……」
 すると陣は躊躇ったように尋ねてきた。
「……画魔のことだか?」
 凍矢は一瞬虚を突かれたような顔をした。ほんのわずかな時間とはいえ――そして出来ることなら少しの間でも忘れていたいと思ったとはいえ――、たった数時間前に永遠の離別を迎えたばかりの仲間のことが、完全に――本当に――頭の中から消えていたのだ。そのことに気付いて、画魔に対する申し訳なさを覚えた。だが同時に、それほどまでに“他のこと”が頭の中を占めているのだということも自覚した。画魔には申し訳なくはあった。だが……。
(今は……)
 今胸の中にある気持ちは、抑え切れそうにない。
「凍矢、やっぱりそうだか?」
「……それは、違う」
「じゃあ?」
(……言えない)
 言ってしまえば、確実に何かが変わってしまうだろう。それが良い方へ変わるのか、それとも悪い方へ変わるのかは分からない。しかし、変化が訪れ、今までにあったものが別なものになってしまうのは間違いない。
(だから、言えない……)
 言えばどのような反応が待っているにしろ、もう元のようには戻れない。全て壊してしまうくらいなら、今のままでいる方が良い。
 凍矢は軽く頭を振り、立ち上がった。そのままドアに向かうと、陣の視線が追いかけてくるのを感じた。
「少し、外で頭を冷やしてくる」
「オレも行くっ」
「1人にさせてくれないのか?」
「だって……」
 その時、凍矢は初めて気付いた。今日の自分は、陣の眼には大概おかしく映っていることだろう。だが、陣の様子もまた、いつもとは違っていた。長い付き合いでなければ気付かないであろうほどわずかではあったが、どこか落ち着きのないような視線が、行き先を探して彷徨っている。
「陣?」
 いつもなら、様子の違う仲間に気付かない等ということはなかっただろう。何かがあって、それを自分に気付いてほしくて、何度もそのサインを送ってきていたかも知れないのに、全く気付けずにいたのだとしたら……。先程の画魔のこともそうだ。見えていなければならないことが、少しずつ見えなくなってきている。
(オレはどうしてしまったというんだ……)
 理由は分かっている。1つのことで頭が一杯になり、他のことが見えなくなっているのだ。このままでは自分さえ見失いかねない。
(やはり、こんな思いは断ち切るべきだ……!)
 しかし、せっかく自身に言い聞かせるように出した結論は、たった一言で打ち砕かれた。
 陣は意を決したような眼をした。そして、言った。
「今、……2人っ切りなんだぞ?」
「……!」
 凍矢は、自分の顔が瞬時にして赤くなるのを感じた。
 吏将と爆拳は今夜は戻らない。もう1人、画魔はもういない。ここしばらくの間、ずっと5人で行動していた彼等だったが、今はその半数にも満たない人数しかこの場にいない。
 「何を馬鹿なことを」と、強引に冗談にしてしまうのを許さないような強い視線に繋ぎとめられ、凍矢は眼を逸らすことすら出来ない。
「凍矢、……オレっ」
 陣の声は、心臓の鼓動が煩くて聞き取り難かった。自分が真っ直ぐ立っているのか分からなくなるような、眩暈にも似た感覚に襲われる。陣は、何を言おうとしている……? その答えは、さほど時間を開けずに示された。
「オレ……、凍矢のこと、好きだ」
 陣は日頃から、「好きだ」という言葉を比較的簡単に口にしていた。おそらく陣にとっては、嫌いではないものは皆「好き」なのだろう。だが、今の陣の表情は、これまでにその言葉を使った時とは違う。真剣そのものだ。さらに、
「冗談とか、仲間としてとかじゃなくて」
 逃げ道をあらかじめ塞いでおくように言葉を先取りされた。もう有耶無耶にして逃れる術はない。
「たぶん、ガキん頃からずっと好きだった。でも、今度の大会で、自分で思ってたよりももっとずっと凍矢のこと好きなんだって分かっただ。あの時……、凍矢がいなくなったらって思ったら、怖かった……」
 凍矢は敗北が確定した時に、自ら自分を「殺せ」と言った。対戦相手であった蔵馬はそうはしなかったが、死の覚悟をはっきりと示したその言葉は、陣に恐怖を与えたようだった。
「爆拳が、蔵馬のこと殴ろうとした時、幽助達、撃とうとしたべ? オレもたぶん、同じだった。もし、蔵馬が留め差そうとしてたら、きっとじっとしてらんなかっただ。凄い……、怖かった……」
 その時の恐怖を思い出したのだろうか、陣は片手で顔を覆いながら、頭を振った。
「そんで分かっただ。オレ、凍矢が好きだ。いなくなってほしくねぇ」
 陣の言葉を全て呑み込むのには、少々の時を要した。その間に、空色の瞳に映る困惑したような自分の顔が、少しずつ迫ってきていた。気が付くと、すぐ眼の前まで陣の顔は近付いてきている。
「オレ達は負けちまったし、たぶんもう魔界にも帰れねぇけど、オレは凍矢と一緒にいたいだ」
 結論を告げるような陣の言葉に、凍矢は相変わらずその場に立ち尽くしている他なかった。
(どうしてお前は……)
 陣は辛抱強く凍矢の言葉を待っている。
(ヒトが言いたくても言えないことを、そんなにも簡単に……)

 いつからだろう。出来ることなら常に陣のそばにいたいと思うようになったのは……。陣に想いを寄せる者がいると分かっただけで、言い知れぬ不安を抱くようになったのは……。陣の笑顔の先に、自分以外の誰かがいることが、堪らなく嫌になったのは……。いつから――
(オレの心の氷は融けてしまったんだろう……)
 いくら考えても分からなかった。が、――願うわけではないが――もう戻れはしないのだということだけははっきりと分かった。全ての感情を厚い氷の壁の中に封じ、周囲の者を拒んでいた過去には……。おそらくその氷を融かしてしまったのは……。
「……なんか、言ってくんないだか?」
 照れたように頬を掻きながら、陣が言った。
 何の返事もしないということは出来ないだろう。しかし、わずかに開いた凍矢の唇は、言葉を見付けられずに再び黙した。
「そ……だよな。……いきなり、困るだな、普通……」
 張り詰めた空気を振り払うように、陣は頭を振った。
「ごめん、困らせたいわけじゃねぇのに……」
 陣はベッドサイドに置いてあったルームキーを掴むと、凍矢の横を擦り抜けて、ドアへ向かった。
「オレの方が頭冷やしてきた方がいいみてーだべ。部屋の鍵持ってくから、凍矢先寝てていいだ。今日はゆっくり休んだ方がいいべ?」
 捲くし立てるように言い、さっさと踵を返し、ドアノブに手を伸ばした。が、それを掴もうとした正にその瞬間、反対の手が強く引かれた。
「わっ?」
 陣は振り返り、自分の腕を眼で辿っていった。その先には、白い腕が続いている。誰のものかは、言うまでもない。
「……凍矢?」
 俯いた凍矢の顔は、陣には見えていない。
 わずかに震えた凍矢の声が発せられるまで、短い沈黙が辺りを支配した。やがて凍矢の口から出た言葉は――。
「……オレ……は……」
 陣は、部屋の空調の音にさえ掻き消されてしまいそうな声を聞き逃すまいと、全神経を凍矢の言葉へと集中させているようだった。音を立てぬよう、息さえ殺して。
 困惑の色を残したままの凍矢の視線が上げられる。
「オレは……、オレ……だって……っ」
 陣の手から滑り落ちた鍵が乾いた音を響かせた。

 躊躇うように震える手が両肩に触れてきた。かと思うと、陣の顔が鼻面を合わせるように寄ってくる。凍矢は覚悟を決めたように、眼を閉じた。わずかな間を開けて、温かい感触が唇に触れる。
 自分の中で生まれたのか、それとも陣の手――あるいは唇――から伝わってきたものなのか分からない熱が、全身を駆け巡る。やがて、ぬるりとした感触が唇の間を滑った。逃れようという意思があったわけではないが、反射的にかすかに捩らせた身体を抑え付けるように、陣の手に力が込められる。ただでさえ呼吸を封じられているというのに、体格に差がある所為で首が真上を向くような体勢になるのが苦しい。歯列をなぞるように動いた舌が引き抜かれ、わずかに離れた唇から、自分でも無意識の内に声が漏れた。
「ん、んぅ……」
 一瞬、陣の手がぴくりと震えた。そしてそのまま動きをとめる。
「……?」
 凍矢がおそるおそる眼を開けてみようとすると、直後に、陣の腕がその身体を強引に抱き寄せた。
「わっ!?」
 陣はそのまま無言で凍矢を抱え上げ、少々乱暴にベッドに放り投げた。
 体勢を直す前に、陣が上から覆い被さってくる。1人用ベッドが軋んで嫌な音を立てた。
 首筋を、熱い吐息が掠める。そのまま濡れた感触が触れ――
「ちょっ、ちょっと待ったッ!!」
「!?」
 凍矢は両手で陣の身体を押し戻した。
「いっ、今更っ……!?」
 拒まれたと思ったのだろう。陣は眉を顰めて抗議しようとした。
「あ、や、そうじゃなくてっ、そのっ……、外から見えるところにはっ……」
 一瞬、何を言われているのか理解出来ないというように、陣は首を傾げる。が、すぐに人から見えるような箇所に痕を付けられるのが嫌なのだと理解したようだ。
「細けぇなぁ……」
「細かくない」
「オレは気にしねぇのに」
「オレはする」
 陣は思わずくすくすと笑った。
「分かった。じゃ、見えないとこにする」
 今度は、脇腹の辺りに手が触れてきた。そのままシャツをたくし上げようとするのを、凍矢は咄嗟に抑え込もうとした。しかし、要望通りにしてやったのだから今度は認めないというように、陣は凍矢の両腕をベッドへ抑え付けた。自身の両手も塞がってしまったが、鼻先を使って器用にシャツを上へずらしてゆく。露になった白い肌には、まだ消え切らぬ傷跡があった。陣はそれに触れぬよう注意を払いながら、肋骨が浮き出た肌に口付けをした。舌先が這うように移動し、胸部の突起に触れると、凍矢は身を反らせた。
「凍矢」
 皮膚に直接染み込んでゆくかのような陣の声に、凍矢は体内を何かが駆け巡ったように思った。
「大好き」
 凍矢は眼を瞑ると、主導権を自ら完全に手放した。

 眼が覚めると、すぐ間近、本当の至近距離で、陣とまともに眼が合った。彼は「おはよう」と言いながらにっこりと微笑んだ。
「……おは、よぅ……」
 取り敢えず挨拶を返しはしたが、掠れた声が出ると同時に、意識を飛ばす前の自分の霰もない姿を思い出し、凍矢は頬を赤らめた。そんな心境を全て承知した上で微笑んでいるかのような陣の視線から逃れようと、毛布を掴んで眼許まで引き上げた。
「今更隠れたって」
「煩い」
 凍矢はまだ気怠さの残る重い身体を動かして、陣から顔を背けた。
 身体のあちこちが痛む。もしかしたら腹の傷も若干開いているかも知れない。しかしそれを確認するために動くのでさえも激しく億劫で、結局放っておくことにした。
 外はすでに夜が明けようとしているらしい。窓の向こうの闇は限りなく薄まってきており、間もなく鳥達も活動を始めるだろう。再び眠りに呑まれていこうとしている頭で、凍矢はぼんやりとそんなことを考えた。
 このまま眠ってしまいたい……。しかしその欲求は、背中から伸びてきた1本の腕によって妨げられた。鍛え上げられた太い腕が腰の辺りに廻される。
「おい」
 折角呼吸も体温も正常に戻ったのにと上げた不満の声は、やはりわずかに掠れていた。そういえば咽喉も痛む。明らかに声の上げすぎが原因だ。
 凍矢がその腕を払おうとすると、陣ののんびりとした声がすぐ真後ろで言った。
「ダイジョブ。オレだって疲れただ。もうヤんない。ぎゅうってするだけ」
 仕方のないやつだなと溜め息を吐く凍矢の顔は、決して嫌そうではなかった。それが見えていない陣は、やや不安そうな声で尋ねてきた。
「怒っただか?」
「なぜ?」
「無茶させすぎたかなぁって……」
 答える代わりに、陣のもう片方の手を引っ張り、背中を向けたままでその腕を枕にした。しばらくすると陣は、凍矢の身体を抱え込むように後頭部に顔を埋めてきた。背中から静かな鼓動が伝わってくる。規則正しいその音を聞いていると、再び眠気がやってきた。
 本当はシャワーくらいは浴びたい。でも眠い。いいか、どうせもう試合もないんだ……。全部後廻しにしてしまおう。部屋の片付けも。吏将や爆拳が戻ってきたら居留守を使おう。そう決めて、凍矢は瞼を閉じた。しかしまたもや安眠妨害の声が言う。
「凍矢」
「……ん?」
「腕痺れた」
 頭の下にある陣の腕を見ると、確かに血液の流れが妨げられて指先が白くなっていた。
「無理だ。動けない。加減しなかったお前が悪い」
「うわっ、意地悪いっ」
 凍矢はくすくすと笑った。それでも力尽くで振り払われる前に頭を動かして解放してやると、痺れた腕を伸ばすためか、陣は凍矢の胴に廻していた腕も解いて、姿勢を変えた。身体が離れると、凍矢は俯せになって顔だけを陣の方へ向けた。
 不意に、あることを思い出した。それを伝えるまでは、眠ってしまうわけにはいかない。
「陣」
「んにゃ?」
 やはり陣も疲れているのだろう。半分寝呆けたような声が返ってくる。そう言えば先に眼を覚ましていたようだが、いつから起きていたのだろうか。まさか寝ていないということはないだろうが、無理して凍矢が起きるのを待っていたのかも知れない。
「あの結界師……」
 唐突だったためか、陣は一瞬誰のことだか分からないというような顔をした。思い出して「うん」と答えるまでにやや時間がかかった。
「たぶん、お前のことを見ている」
 今度は意味が分からないというように瞬きを繰り返した。
「……オレに気があるってことだか?」
「そう」
「ふーん」
 陣は手をぶらぶらと振りながら、興味なさそうに相槌を打った。
「ふーんってお前……。他人事みたいに……」
「だって本人になんか言われたわけじゃねーもん。関係ないだ」
「じゃあ彼女がそう伝えてきたら?」
「やっぱり関係ないだ」
 陣は悩む風でもなく即答した。
「オレは凍矢が好きだもん。他のやつとかかんけーねーべ。誰かがオレのこと好きって言ってきてもそう言ってやんだ」
「それはやめてくれ」
 凍矢が眉を顰めて言うと、陣は少し笑った。
「あ、そー言えば」
「?」
「オレ、凍矢の返事、ちゃんとは聞いてないだ」
 凍矢は顔を赤らめた。
「そんな今更……」
 しかし陣の眼は真剣だった。
「だって聞いてねーもん」
「お前が最後まで聞こうとしなかったんだろう」
「じゃあもっかい聞く。オレは凍矢のこと好きだべ。凍矢は?」
 凍矢はわずかに視線を逸らした。
「……今ここにこうしていることはその返事にはならないか?」
「……なるかも知んない。でも、言ってほしいだ」
 陣が待っているのは、否定しないことによって肯定の意を示すような態度ではなく、はっきりとした一言だった。
(少し、意外だな……)
 陣がそんなことに拘るとは思っていなかった。普段の陣は、もっと単純で、楽観的で、根拠だとか確実さなんてものは気にしない……、そんなイメージしかなかった。今まで、戦いの場以外でこんなにも真剣な顔を見せたことがあっただろうか。
(それだけ……)
 自分は『想われている』ということなのだろうか。そう思うと、何だか胸の奥がくすぐったかった。
 凍矢がなかなか返事をしなかった所為だろう、陣は起き上がって凍矢の肩を揺すった。
「凍矢、寝ちゃ駄目だべぇ」
「起きてる、まだ」
 だが眠気に呑まれて意識を手放すのは時間の問題だろう。これ以上返事を先延ばしにすることは、おそらく出来ない。
「オレのこと好きだか?」
 陣は痺れを切らしたように尋ねてきた。
「…………うん」
「へ?」
「……好きだ」
 いつもならこんな恥ずかしい台詞が簡単に口から出てくるはずがない。なのに今は不思議と照れ臭さを感じなかった。眠気の所為で感覚が鈍くなっているのかも知れない。陣の声も半分しか頭に届いていないような気さえする。陣も、まさかそんなにあっさりとした言葉が返ってくるとは思っていなかったらしく、まだ信じられないというような顔をしている。しかし、地面に雨水が染み込んでゆくように徐々にその言葉が全身に浸透すると、慌てたような顔をした。
「とっ、凍矢っ。もっかいっ! もっかい言ってけろっ?」
「やだ」
 凍矢は毛布を引っ張って頭まで被った。
「意地悪しないでえぇぇっ」
 半ば泣くようにしがみ付いてくる陣に、凍矢は堪え切れずにくっと笑い出した。
「その内な」
「その内って?」
「さあ?」
「ずるいぃ〜」
「……うん」
「寝ちゃ駄目っ」
「……うん……」
「なぁってばぁ〜っ」
「……その内はその内だ」
「凍矢ぁ〜っ」
 凍矢はもう一度笑った。
「もう大会には負けたし、魔界にも帰れないけど、いてくれるんだろう? 一緒に……」
 先程陣が言った言葉を返してやる。この言葉を聞いたのがたった数時間前であるということが信じられない程、今はとても穏やかな気持ちだった。
(やっぱり、疲れているらしい……)
 闇の中で生まれ育った自分が、こんなに変わるだなんてことは、以前では考えることも出来なかった。
(お前の所為だ。全部……)
 この疲労感も、この言いようのない温かい気持ちも……。陣は凍矢が今まで知らなかったものを与えてくれる。おそらく、これから先も。
「だから、聞くチャンスはまだいくらでもあるさ……」
 凍矢は布団を被ったままだったので見えはしなかったが、身体の上に重いものが乗ってきた。陣が抱き付いてきたらしい。
「重い」
「凍矢」
「うん?」
「好きだべ」
「……さっきも聞いた」
「それでも好きだ」
「……うん」
「好き」
「ああ」
「好き」
「うん……」
「好き」
「ん……」
「好き」
「……しつこいぞ」
「ずっと言ってたら凍矢もつられて言わねーかなって」
「オレは鸚鵡か」
「好き」
「お前なぁ……」
「好き好き好き好きぃ〜」
「うーるーさーいー」
 そんな遣り取りはしばらく続いたが、やがて陣の声は小さくなり、静かになった。凍矢が布団から顔を出してみると、陣はその場で静かな寝息を立て始めていた。
(ヒトを抱き枕にして……)
 凍矢は溜め息を吐いた。
 陣は、もう声こそ出してはいないが、まだその口は小さく動いており、先程の言葉を繰り返し言っているように見えた。
「……あぁ、もう分かったっ」
 半ばやけくそのように吐き捨てた。
(オレは、甘いな……)
 もう一度溜め息を吐いて、凍矢は陣の胸に頭を預けながら、呟くように言った。
「……オレも好きだよ」
 陣の寝顔が、くすぐったそうに笑顔になる。
(オレは自分が寝掛けている時か相手が寝ている時にしか言えないのか……)
 今は、確かにそうかも知れない。だが、
(少し、待っててほしい。きっと……)
 時間はかかっても、変わってみせるから。
「これからもまだ、言うチャンスはあるよな?」
 陣の微笑んだような寝顔を見ながら、いつしか凍矢も眠りに落ちていった。


2012,04,04


別所で公開していたものを移動させてきました。
すでにアップしているネタと食い違いが生じるので躊躇っていたのですが、まあ別にいっかー! と公開に踏み切りました。
エロスシーンは思い切ってほとんどカットです。
それでも意外と長くなった気がします。
タイトル思い付かなかったので某アイドルの曲の一部からお借りしました。
<利鳴>

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