陣凍小説を時系列順に読む


  約束の指


 鳥が飛んでいた。白い鳥だ。鳴き声は聞こえない。あまり羽を上下することなく、両腕を水平に伸ばすように飛んでいる。なんという名の鳥だろうか。彼等はそれを知らない。いや、鳥の名に限らず、こちらの世界に存在する物の多くが、2人にとっては未知である。
 海の向こうに消えてゆくその影を、見るともなしに見送って、先に口を開いたのは陣だった。
「んで、これからどうするだ?」
 見下ろした先にある凍矢の顔は、まだ島の外側へと向いていた。空を見ているのか、海を見ているのか――あるいはそのどちらでもないのか――、周囲の蒼と同じ色をした眼は、ゆっくりと瞬きをしていた。
「そうだな……」
 凍矢は溜め息を吐くように応えた。
「とりあえず、ここを移動するべきだろうな」
 2人がいるのは、暗黒武術会が行われた島の東端に位置する崖の上だ。大会が終わって、この島に留まっているのはおそらく彼等だけだろう。しかし、それは間もなく変わる。2人を連れ戻すべく、魔界からの追っ手が現れるまでは、そう長くはかかるまい。この島の周囲には、他にもいくつかの無人島がある。そこへ移動すれば、少なくとも数時間は追っ手との遭遇を先延ばしに出来るはずだ。そうやって時間を稼ぎながら、今後取るべき行動について考えなければならない。
「他の島に移るだか?」
「ああ。……その方法については、お前に頼り切るしかないが……」
「任せとくだ!」
 凍矢が少し表情を歪めたのとは反対に、陣は自信たっぷりに自分の胸を叩いてみせた。彼の飛翔術は、元々は自分1人が風を纏って行うものであり、実を言うと他人を抱えた状態でどれだけの距離――あるいは時間――を飛んでいられるのかは試したことがない。それを検証するためにも、やはり時間が必要なのだが、近くの島へ移るだけで良いのなら、まず問題はないと断言出来るはずだ。その程度の力は間違いなくある。凍矢の表情がやや硬いのは、陣の自信を根拠なきものとして不安に思っているのか、それとも、自身には出来ることが何もないのを気にしているのか……。それでも、陣が八重歯を見せて笑うと、凍矢の表情もいくらかは緩んだようだった。
 陣は準備運動をするように両腕を頭上へ伸ばした。
「方向は?」
「お前に任せる」
 どちらへ飛んでも一定の距離のところに小さな島は点在しているはずだと教えられ、では先程の鳥を追ってみようと陣は決めた。
「よし、行けるだ」
 凍矢も頷き、陣の傍へとよってきた。その身体を抱え上げ、陣はゆっくりと地面を離れた。自分1人で飛ぶ時とは微妙に異なるコントロールで、そのまま少しずつ高度を上げてゆく。
 凍矢の腕がしっかりと自分の肩に廻されているのを確認すると、陣は海の方へ向かって移動を始めた。途中、凍矢が身体を捻って後方へと眼をやった。名残惜しいとでも言うべきか、離れ難いと言いたげな眼だ。だが、それが向けられているのがその“場所”ではないことを、陣は知っている。「もう少し留まるか」と聞くべきか否か悩んでいる内に、凍矢は前方へ視線を戻した。何か言うかと待っていたが、その唇は閉ざされたままだった。
 やがて見えてきた小さな島に、2人は上陸した。陣は本当はもっと飛べると主張したが、今日はもう休もうと言われて素直に従った。凍矢のその言葉は、半分は陣を気遣ってのものだろうが、もう半分は彼自身の疲労――それも、精神的な――が理由に違いない。先程島を振り返った眼を思い出しながら、陣はそう思った。
 小さなその島の大半は森で覆われていた。簡単に周囲を見廻っている間に、空はどんどん暗くなっていった。日暮の所為だけではない。今にも雨が降り出しそうな、分厚い雲が空間に蓋をするように広がっている。水滴が落ちてくるよりも先に、それを凌げそうな小さな洞窟を見付けられたのは幸いだった。
「交代で見張ろう。陣、先に休め」
 先に休むのと後に休むのとでは、どちらの方が――凍矢が――ゆっくり休めるだろうかと考えている間に、凍矢はもう洞窟の外へと向かっていた。
「見張りって、外でするだか?」
 陣は慌ててその背中に尋ねた。
「中まで入ってこられては、見張りの意味がないからな」
 凍矢の言うことはもっともだ。だが陣は、彼が少しでも自分から離れた場所にいるということが、ひどく不安だった。
 空よりも暗く曇った陣の顔を見て、凍矢は訝しげな表情をした。それを「訝しんだ」と判断出来る者は、彼と付き合いの長い陣の他には多くはいない。
「どうした陣。オレが見張り役では不足か?」
「そうじゃねぇけど……」
 戦力面での心配は少しもしていない。それでも、凍矢の姿が見えないことが恐ろしく思えた。少しの間眼を瞑ることさえ。
「凍矢……、どこも、行かねーよな?」
 空を飛べない凍矢が、この島を離れることは容易ではない。そんなことは陣も承知している。だが、先程の遠くを見詰めるような眼は陣を無性に不安にさせた。離れれば、そのまま凍矢はどこかに行ってしまうのではないかと、そんなありもしない空想に、心を揺さぶられずにはいられなかった。彼を抱えて空の上にいる時は良い。間違いなく自分の腕がその身体に触れている間は、己の力で彼をその場に留めておくことが出来る。だが今は……。それが凍矢の意思であるか否かに関わらず、彼がそのまま離れて行ってしまうのではないかという不安は、2人の間にある距離に比例するように大きくなってゆく。今の陣にとって、確かなものは凍矢の存在だけだ――他は全て捨ててしまった――。だがそれも、少しのことで幻に変わってしまいかねないことなのだと、陣の頭の中で誰かが囁いている。
 陣がそれ以上何も言えずにいると、凍矢はゆっくりと頷いた。陣の胸中を察したのか、それとももっと単純に、独りにされるのが心細いのだと思われたのか、いずれにせよ、彼は陣の傍に歩み寄ってきた。
「陣、手を出せ」
「手?」
 首を傾けながらも、陣は右手を差し出した。その中指に、凍矢の白い手が触れる。少し冷たい。
 「何を」と尋ねようとした時には、すでに凍矢の手は離れていた。だが、触れられた指の付け根の冷たい感触は消えていなかった。その箇所に眼をやると、透明な氷が指を1周して小さな輪を作っていた。
「これ……?」
「オレの妖術で作った指輪だ。オレから一定以上離れると融ける。オレの身に何かあった時にも。それが融けずに残っていることは、オレが近くにいることの証明だ」
 妖術で作られたその氷は、不思議と冷たすぎるということはなかった。眼を向けずともその存在を感じられる程度には冷たいが、人体の温度を奪ったり、凍傷を作るような力はないようだ。冷たくない氷。そんな物が作れるのかと聞くと、凍矢は「そこにあるじゃないか」と言って陣の手を指差した。
「説明してやってもいいが、理解出来るか? そもそも物体の凝固点は」
「ストップ」
 陣が手の平を突き出しながら言うと、凍矢は少し笑った。
 凍矢は呪氷使い――氷のスペシャリスト――だから、そういう難しい術も使えるのだろうと納得することにして、陣は再び自分の指に眼を向けた。
「受信機のような物だ。オレの妖気を受けて今の状態を保っている。だから、オレの力が著しく低下するか、妖気が届かぬ程離れた時には形状を維持していられなくなる。融ける時はセーブしていた冷気を一気に開放させるから、眠っていても飛び起きる程冷たくなるぞ」
 自分に何かあれば、指輪がそれを知らせてくれる。だから何も心配せずに休め。凍矢がそう言うと、陣は大きく頷いた。そして、やはり凍矢はすごいと思った。
「もう大丈夫だな?」
「うん。あ、ちょっと待ってけろ」
「どうした?」
「これ、他の指にするのって出来っだか?」
「他?」
「んだ。あ、でも、融ける時になんまら冷たくなるんだっけか」
「オレの意思で解除する場合は大丈夫だ。そうか、利き手にあるのでは邪魔か?」
 凍矢が再び触れると、指輪は風に溶けるように消えてしまった。陣の指に、濡れた跡は残っていなかった。
「どの指にする?」
 凍矢に尋ねられ、陣は右手の人差し指を、左手の薬指に向けた。
「この指がいいだ」
 凍矢は少し首を傾げた。
「昔、師匠か誰かが言ってたんだ。人間界では、いっちばん大事な指輪は、この指にするんだって」
 何故なのかは、その話をした人物――師だったか兄弟子だったか――も知らないのだと言っていた。そもそもどうしてそんなことを聞かされたのかすら覚えていない。あるいは凍矢がその由来を知ってはいないだろうかと思ったが、彼も初耳であるらしかった。ずっと魔界の深部で生活していた彼等が人間界の風習に疎いのは無理もない。何故そうするのかは分からないままでも、そうすることが“特別”なのだと分かっているなら、陣にはそれで充分だった。そして、その位置に相応しい――『一番大事』な――物は、これなのだと信じて疑わなかった。
 「そんなに特別な物でもない」等と小さく言いながら、凍矢の顔は少し照れているようであった。彼は再び術を使い、陣の指に新たに指輪を作った。触れていた手が離れようとした時、陣は逆にそれを捕まえていた。ほぼ同時に妖力を使い、小さな風を起こした。それは極小さなつむじ風となり、凍矢の白い指の上を滑った。陣が氷の輪をはめているのと同じ指だ。それは、一種の指切りのようなものだった。普通、指切りは小指でするものだが。
「ちゃんと休んでおけよ」
「でも、もし爆睡してて指輪が融けてんのに気付かなかったらどうするだ?」
「絶対に起きる。断言する。賭けてもいい。生半可な冷たさだと思うな。なんなら、一度試しておくか?」
 陣が冗談を言ったのを、凍矢はちゃんと察してくれたらしい。にやりと笑い、冗談で返してくれた。陣はぶんぶんと首を横へ振った。
「やめとくだ」
「賢明だ」
 凍矢の手がするりと陣の手から抜け出た。それを追って捕まえたい気持ちを、陣はもう抑えることが出来た。
 軽く手を上げて、凍矢は外へと出て行った。「行ってくる」と告げた声の反響がやむと、洞窟の中は静けさで満ちた。
 地面に腰を下ろし、陣は息を吐いた。心の中で「大丈夫」と呟く。
 外はすっかり陽が落ちたらしい。明かりのない洞窟の中では、自分の左手の薬指にあるはずの輪はほとんど見えなかった。だが、優しい冷たさがその存在を知らせてくれていた。もう一方の手でそれに触れながら、陣は静かに眼を閉じた。


2014,10,08


魔界統一トーナメント後設定で書いたネタがもう事実婚みたいな状態なので、その前の時間設定で指輪の交換もさせてみた!(笑)
俗に言うあれだ。もうお前等結婚しろ。
<利鳴>

【戻】


inserted by FC2 system