陣凍小説を時系列順に読む


※捏造設定多目です。


  氷の檻


 魔界に到着するなり、「凍矢さんですね?」と声をかけられた。その声の主は若い男の姿をした妖怪だった。「誰だ」と尋ねるよりも先に、彼は「煙鬼様から伝言があります」と告げた。
「煙鬼から?」
「はい」
「煙鬼のとこなら、任務が終わったら報告に行くことになってっけど……」
 凍矢の隣にいる陣が、わずかに首を傾げるような仕草をした。彼はいつものように与えられた仕事をこなすため魔界へとやってきていた。凍矢はただの同行者だ――暇だったので――。その凍矢に、一体何の用だろうか。やはり仕事の指示なのだとしたら、陣の許に送られた指示書と一緒に、凍矢にもそれが届いていておかしくないはずだ。それがないということは、事前に知らせることが出来ぬほどの緊急の任務か。凍矢が偶然陣に同行して魔界まで来ていたから良いものの、そうでなかったらどうするつもりだったのだろうか。まあ、その“偶然”はしばしば発生しているのだが。
「ご案内します」
 男は丁寧に頭を下げた。
「煙鬼の居場所くらい分かっている」
「『案内するように』との指示です」
「?」
 よく分からないが、「つれて来い」とでも言われて、その通りにしようとしているのだろう。この男は、融通の利かないタイプの人物なのかも知れない。陣の仕事が終わったら報告のついでに寄ると言っても、おそらくは納得しないだろう。
「陣、すまない。オレはこちらを優先した方が良さそうだ」
「分かっただ。オレは自分の方済ませてくるだ」
「どこで落ち合う?」
「んーっと、じゃあ煙鬼の城の前」
「分かった」
 軽く手を振り、陣が飛んで行くのを見送った。風にかき消されて音は聞こえなかったが、陣は「頑張って」と唇を動かした。凍矢は微笑みで応えた。
 男について煙鬼の執務室を訪ねた。彼はやはり普段通りの場所にいて、案内の必要があるとは思えぬがと凍矢は首を斜めにする。魔界統一トーナメント以降、この広い大地の主となった煙鬼は、大量の書類を処理する手を一瞬だけ休め、凍矢の顔を見て微笑んだ。が、その表情には隠しきれない緊張の色が混在している。やはり“緊急の”用事らしい。それもおそらく、“厄介な”内容なのだろう。
「急ですまんな。お前さんがこっちにいて助かった」
 単純に戦力が必要なら、魔界にいくらでも適任者はいるはずだ――まさか全員出払っているということはあるまい――。あえて凍矢を名指しするのには、それなりの理由があるに違いない。
「どうせ暇だったんだ、かまわない。何があった?」
 煙鬼は「うむ」と頷いた。
「妙な物が見付かったらしくてな。すまんが調べてきて欲しいのだ。出来れば急ぎでな。おそらくお前さんが一番適任だ」
 簡単に説明する間にも、煙鬼は書類を捌く手を休めない。
「多忙そうだな」
「ご覧の通りだ。調査を専門に行うチームを作ってそこに全てを一任出来るようにしたいと思っているところだが、どうにも他の仕事が立て込んでいてな。設立前に任期が終わるかも知れんよ」
「続投すれば問題ないのでは?」
「そればっかりはトーナメント次第だの」
「謙虚だな」
 会話をしている間にも、煙鬼の眼の前には彼の認証待ちらしい書類が運ばれてきている。本当に忙しそうだ。
「分かった。行ってこよう。場所は?」
「おお、すまんな。助かる。部下に案内させよう。すまんが詳しい説明が出来るほどわしらも把握出来ておらんのだ。おそらく見てもらった方が早い」
 煙鬼の合図でやって来たのは、魔界の入り口で凍矢を待っていた男だった。なるほど、『案内する』とはここからのことを言っていたのかと納得する。
「こちらです」
 男は早速外に向かって歩き出した。
「先日、ある土地の調査を行っていた者達が奇妙な物を見付けたのです」
「奇妙な物?」
 鸚鵡返しに言うと、前を行く男は頷いた。
「正確には、『奇妙な物がありそうだが不用意な接近は危険であると判断して退いた』と。より正確に言うなら、むしろ近付くことが出来なかったようです。簡単な調査だけのつもりだったので、その時の顔触れがお世辞にも『強い』と言えるようなものではなく……」
 それだけで自分が選ばれたというのはやはり腑に落ちない。魔界には凍矢以上の強者が掃いて捨てるほどいる。例えば、今前を歩いているこの男も、外見は人間の若者のようにしか見えないが、かなり強い妖力をその肉体に宿していることが分かる。通常時でこれだけはっきり分かるのだから、いざ戦闘が始まればその強さは並大抵のものではないだろう。
「時間が惜しいので、ここからは走っても?」
「ああ、かまわない」
 走りながらでは会話がし辛いなと思ったが、男は無言で駆けた。事前に説明出来ることはほとんどないとは、本当のことだったようで、どうやら彼が持っている情報も今のでほとんど全てだったようだ。走っているから喋れないのではなく、喋れない――喋るべきことがない――から先を急ぐことを優先したというわけか。
 そのまま走った時間はどれほどだっただろうか。短くはない。が、妖怪である彼等に走り続けられないほどでもない。2人とも息を切らせてはいないし、疲労もしていない。だが凍矢は、不意に足をとめていた。冷気を感じる。周囲の気温が妙に低い。なぜ? と思って見廻した景色に、見覚えがあった。
「ここは……」
「気付きましたか」
 いつの間にか案内の男も足をとめ、凍矢の隣に立っていた。
「目的地はかつて『魔忍の里』と呼ばれていた地に程近い森です。“中”から見れば、『里の端』に位置すると思われます」
「なるほどな……」
 納得の言葉を口にしながらも、「土地勘を期待されているなら見当違いだ」と凍矢は思った。確かに彼は、『魔忍』と呼ばれる組織に属していた。が、生まれ育ったその地を自由に歩き廻ることは……いや、どんな自由であったとしても、与えられたことはなかった。それが魔忍だ。連れて行かれた先で「ここが以前と違っているのだ」と言われたとしても、元の状態を知らないのでは話にならない。『奇妙』かどうかの判断が、果たして自分に可能だろうか。他の連中の眼を盗んであちこち飛び廻っていた陣の方が適任だったのではないか……。だがその陣も含め、組織が所有する広い土地全てを把握している者は、誰一人としていなかったに違いない。
「こちらです」
 冷気の中に足を踏み入れるのを躊躇うように、男はゆっくりと歩き出した。「間もなくです」と告げられた数分後に、男は再び足をとめた。
「……これか」
 見上げた先には、自然に作られたとは到底思えぬ物体があった。それは、小さな住宅程度の大きさのドーム状の“なにか”だった。色は白。大きさから見て建設物なのかとも思ったが、出入り口らしき物は――少なくとも見える範囲には――ないようだ。半分地面に埋まった巨大なボール、今のところ、そう表現するのが一番的確だろうか。だがよく見ると、つるりとしたその表面が全て氷で覆われていることが分かった。いや、それ自体が氷で出来ているようだ。異様なまでの冷気を放ち、辺りの気温を下げ続けている物の正体はこれだったのかと納得する。周辺の植物は全て凍り付いている。注意深く見れば、眼を開けたまま氷の彫刻と化している低級妖怪や魔獣の姿まであった。ただの冷気ではない。強力な妖気と、瘴気を含んでいる。
 凍矢は、自分が呼ばれた理由を理解した。この寒さでは、他の者には無理だ。むしろ彼とて油断すれば……。
「煙鬼に伝えろ。半日以内にオレからの報告がなければ、その時はこの地域一帯を丸ごと焼き払えと」
「し、しかし……」
「黒龍波なら可能だろう。早く行け。長くここにいれば、足が凍り付いて動きたくても出来なくなるぞ。今の内に退いておけ」
 すでに案内役の男は寒さで歯をカチカチと鳴らしていた。彼は凍矢のような氷の妖怪ではない。この場に長く留まることすら危険だ。いや、耐性を持っていたとしても、この冷気は強力すぎる。自分以外に何人がこれ以上の接近が可能だろうかと、凍矢は面識のある同種の妖怪の顔触れを脳裏に浮かべた。
(かなりの、手練れでなければ……)
 そう、例えば――
 一瞬、何かが頭の中で光った。いや、その表現は正しくない。それは“光”から最も離れたものだ。闇が煌めいたとでも言おうか――大きく矛盾しているように感じるが――。同時に、それは声のようでもあった。外からではなく、自分自身の内側から呼び掛けるような声……。だがそれを聞いたと思ったのは本当にわずかな時間だけだった。今は自分の鼓動だけが痛いくらいに鳴っている。息が苦しい。
(なんだ、この感覚は……)
 おそらく、既存の言葉で一番近いものは『恐怖』だろう。鼓動は鳴り止まない警告音のように、間隔を変えずに音量だけがどんどん増していく。
「凍矢、さん?」
 呼ばれてはっと我に返った。振り向けば、案内役の男が訝しげな眼を向けていた。
「まだいたのか。唇が紫色になっているぞ。早く行け」
 少しの逡巡を見せながらも、男は頷き、踵を返した。どう頑張っても無理が通らぬことを悟ったのだろう。この魔界では、その判断を誤って命を落とす者がごまんといる。賢明な男は、「報告を待っています」と言い残し、冷たい空気の外へ出て行った。
 周囲に動くものはいなくなった。凍矢自身の他には、何も。寒すぎる場所に生きられるものは限りなく少ない。動物であろうと、植物であろうと。機械の類さえ、一定のラインを超えれば正常に機能しなくなるだろう。氷に閉ざされた世界は、死に近い場所だと言えよう。
(ではオレも、死人に近い存在なのだろうか)
 そんな考えと共に、体内から何かが湧き出てくるような感覚に襲われた。それを振り払うように、凍矢は頭を振った。余計なことは考えなくていい。何故そんな考えが浮かんだ?…… いや、原因究明も『余計なこと』だ。
 深く息を吸い、凍矢は“それ”に向かって静かに手を伸ばした。一歩近付く毎に触れる空気が温度を下げてゆく。その冷たさに、かすかに覚えがあった。だが『懐かしさ』と呼べるような温かいものではない。その逆だ。
 指先が触れた。冷たい。そう感じたのは一瞬のことだった。今は他の感覚に全てを奪われている。彼はそこに“生命”を感じた。“それ”は“生きて”いた。死に近いはずの存在が、意思を持っている。
(まずい)
 触れていた時間は1秒以下。それでも離れようとした時には遅かった。わずかな凹凸すらなかったそれの表面に、白い手が生えていた。手は凍矢の手首を掴み、そのまま彼を内部へ引きずり込んだ。
(呑み込まれる……!)
 一瞬視界が真っ白になる。同時に、頭の中が真っ黒になった。気付けば彼は“それ”の内側にいた。
 内部の景色も、外観同様白で埋め尽くされていた。地面と壁の境界すら分からないほどの白さは、そこが広いのか狭いのかの判断さえ奪っている。
 色を忘れたようなその空間に、細身で背の高いひとりの若い――少なくとも外見上はそう見える――男が立っていた。彼がこの空間を作り出した張本人であることを示すように、その肌も、その髪も、周囲と同じ透き通るような白色をしている。だが、真っ直ぐにこちらを見る瞳だけが、異様なほどに黒い。闇その物を濃縮したかのような黒さだ。凍矢はその男を知っていた。
 「馬鹿な」と口の中で呟く。すると、その否定の言葉を否定するように、男は凍矢の名を呼んだ。
「凍矢」
 抑揚のない声だった。凍矢はその声を知っている。それ以外を知らずにいた過去がある。
「し、しょう……?」
 男は唇にうっすらと笑みを浮かべていた。が、そこに感情らしきものは欠片ほども見受けられない。記憶の中に残る師と、寸分違わぬ姿だ。
「おいで。私の凍矢」
「あり、えない……」
 そう呟きながらも、凍矢は無意識の内に足を一歩踏み出そうとしている自分に気付いた。意思に反して、身体が無条件でその声に従おうとしている。駄目だ。凍矢は堪えるように両の拳を強く握った。
「違う。師匠であるはずが、ない」
「それは何故だ?」
「師匠は死んだ。こんな場所に……いや、どこにだっているはずがない」
「何故そう断言出来る?」
「それ、は……」
「誰かその亡骸を確認した者があったか?」
「そんな、はず、は……」
「凍矢」
「ちが、う……」
「私の凍矢」
「チガウ……」
 幼い頃の凍矢は、自分と師以外の存在を知らずに過ごしていた。他の使い手達は通常何人もの弟子を持ち、その中から一番優れた者を後継者として選ぶのだと知ったのもある程度成長してからだった。それまでは自分と同じような修行中の者が大勢いるなんてことは想像してみたことすらなかった。
 凍矢の全ては師のものだった。疑問を抱くことなく、ただ彼の指示に従って生きていた。同時に、彼を心の底から恐れていた。冷たい手。感情のない声と顔。嫌でも伝わってくる強大すぎる力は、気を抜けば呑み込まれてしまいそうですらあった。闇に等しき氷の化身。それが師だった。
 魔忍の者は通常、己の死期を悟り、その時が来る前に全ての奥義を弟子に引き継がせる。継承を行うことは、同時に死を受け入れる儀式でもあったのだ。凍矢に最後の試練を課した翌日、師はかねてから予定されていた単独任務に赴き、そのまま帰らなかった。任務が遂行されていることだけは後日の調査で確認された――強いて言うなら完了の報告だけが未完了だったことになるが――ため、おそらく力を使い果たすか、あるいは敵と刺し違えるかしてそのままどこかで絶命したのだろうと言われていた。当然のように、凍矢も師は没したものと思っていた。人目に付かぬ場所を最期の場として選んだのだろう、と。わざわざ遺体を探しに行くなんてことは、師の意思に背く行為だと考え、一度もそうしようと思ったことはなかった。いや、本当はただ怖かったのだ。師の亡骸を眼にすることが? あるいは、どれだけ探してもそれを見付けられなかった時のことが? 分からない。分からないまま、凍矢はそれを意識の奥底に仕舞い込み、鍵をかけた。
 眼の前の男はゆるゆると首を横へ振った。子供の過ちを優しく諭すような仕草だった。
「私はここでお前を待っていたのだよ、凍矢」
 対して、凍矢は激しく頭を振った。
「嘘だ! 生きていただなんて、そんなことはあるはずがない!」
 その言葉は、むしろそうであってくれとの祈りのようだった。握った拳がかすかに震えた。
「何故そう断言出来る? その根拠は?」
「師匠が生きていれば、当然のようにオレの動向を監視していたはずだ。直接ではなくとも、なんとかして情報を手に入れようとしただろう」
「それで?」
「オレが“外”に出て行くのを、師匠が黙って見ているはずがない」
 師の姿をした“それ”は、ふっと微笑んだ。それでもなお、そこに感情があるようには思えなかった。
「師匠は死んだ……はずだ。お前は師匠ではない。何者だ。目的を言え! なんのためにその姿でオレの前に現れた!?」
 だが、肌に触れる冷気は凍矢の記憶を忠実に再現したかのようだった。闇の氷を支配する師の力を、果たして紛い物に真似ることが出来るのだろうか。分からない。何も分からなくなってきている。正常な判断が出来ない。息が苦しい。……寒い。
「私はここにいる」
「違う……」
「全て夢だったのだよ。お前は夢を見ていた」
「違う!」
「自由になった夢を見ていたのだ」
「違うッ!!」
 凍矢は力の限り叫ぶように言い、右腕に氷の剣を生み出した。それを眼の前の男の喉許目掛けて突き出す。が、その先端は、どこへも触れることはなかった。男は身を退いてもいないし、防御もしていない。ましてや、反撃すらしなかった。にも関わらず、剣先は髪の毛ほどの隙間を残して男の皮膚に触れることが出来ない。凍矢は、それ以上腕を動かすことが出来なかった。強い力に縫いとめられているかのように。
「私が憎いか? 憎しみに駆られて私を殺すか?」
 男の声は閉ざされた空間にわずかに反響している。
「それも良いだろう。そうやって生きてゆくといい。その度にお前の闇は深くなる」
「ちがう……」
「私はお前の一部になろう。殺せ。そして眼を覚ますが良い。夢なんて忘れてしまえ」
「違う! 夢でなどあるものか! 亡くしたものも、手に入れたものも、全てオレの“現実”だ!」
 全てが夢だったなんて、信じられない。信じたくない。
(陣……)
 陣に会いたい。崩れそうになる時、いつも傍で支えてくれた存在に。あの日々が紛れもない現実だったと、教えてほしい。
(陣……、お前の声が聞きたい)
 どんな状況に立たされても、陣がいてくれればそれは凍矢の“現実”だった。受け入れることが出来た。これまでは。これからだって。
(陣、お前は……)
 幻なんかではない。自分の存在すら揺らいだとしても、彼だけは。こんな状況にあっても、鮮明に思い浮かべることが出来る。凍矢の名を呼ぶ陣の声を。
――凍矢。
(陣……)
――凍矢、一緒に行くべ!
 今も外で呼んでいるようにすら思える。今正に。凍矢が陣のことを思っているように、きっと陣も……。
(偽りなんかじゃない)
 陣と共に走り抜けてきた日々がまやかしなのだとしたら、おそらく、真実等どこにもありはしない。眼の前の男の存在の方が余程希薄だ。
 そう思った時、喉の奥に痞えていた何かがふっと融けたような錯覚があった。
「……そういう、ことか」
 今度こそ、頭の中で何かが光った。
「やはりお前は、師匠ではない」
 最初はそうであってくれと願っただけだった。だが、そう考えると不可解な点が全てなくなるのだ。
「聞こうか」
 “それ”の表情は相変わらず変化しない。
「師匠は、やはり死んでいる。オレに奥義を継承させ、姿を消した以上、そう考えるのが自然だ」
 死を悟ったのでなければ、そんなことをする必要はなかったはずだ。今思えば、凍矢が師に出会った時――凍矢にその記憶はほとんどなく、経緯は全くと言って良いほど分からぬが――には、すでに彼は自分の死期を予知していたのだろう。だから彼は、執拗なまでに凍矢に執着した。他人との接触を禁じ、完璧な後継者に育て上げようとした。自分に残された時間が多くはないと知っていたから。おそらく彼には、“それ”しかなかったのだ。彼もまた、魔忍の掟によってそうすることを強いられて生きてきたから。
「師匠はここを最期の場所に選んだ。これは……師匠が自ら作った“墓”だ」
 男は何も言わない。先を促すように黙っている。
「本人にそうするつもりがあったのかは分からない。だが、結果として、この“墓”は師匠の力をこの場に留めてしまった」
 凍り付いた草木のように、その魂はこの場所に捕らえられてしまったのだろう。これは、墓であると同時に、檻でもあった。
「おそらくそれ以降、この場所へ近付いた者はいなかったんだろう。魔忍の連中は用もなくこんな所まではやってこないし、外の連中は里へは近付かない。組織が解散され、煙鬼の調査の手が入るまで」
 その“魂”は、“独り”でこの地に……。
「そこへオレがやってきた」
 最初に『聞こえた』と感じた声は、この周囲に残された師の力に触れたことにより蘇った凍矢の記憶だった。残された“魂”が、それを感じ取った。
「お前は」
 凍矢は“それ”の眼をひたと見据えた。
「この場所に留まった残留思念とオレの記憶が生み出した、幻影だ」
 どこかで何かが軋むような音がした。
 “それ”はふっと息を吐いた。
「正解だ。流石私の凍矢だ」
「ふざけるな。オレは一度たりとも“お前”のものになったことなどない。お前は師匠ではない」
「では、もうひとつ問題を出そう」
 “それ”は右手を動かした。凍矢は警戒心を一層強める。が、“それ”は自分の胸に手をあてるような仕草をしただけだった。
「“私”は実在しない、ただの幻だ。では、そうと分かっていながら、何故お前は“私”を消すことが出来ない? お前が作り出したはずの影を、何故制御出来ないのだ?」
 凍矢は“それ”に剣を突き付けたままだった。あとほんのわずかの所で剣は“それ”に触れることなく、かと言って引くことも出来なかった。腕が……全身が、そのままの体勢で凍り付いてしまったかのようだ。
 ぎしっと、軋んだ音がどこからか再び聞こえた。いや、巨大な氷の塊に、亀裂が走った音だ。2度、3度と、今度は続けて聞こえた。発生源を探そうにも、凍矢は首どころか視線を動かすことすら出来ない。
「教えてやろう。お前は認めてしまっているのだよ。『師匠には勝てない』と。それがまやかしだろうとなんだろうと。お前は“私”が怖いのだ。今もまだ」
 鍵を掛けた記憶は、そのまま忘れ去ってしまったものと思っていた。しかし、逆に何にも触れることなく封じられていたそれは、朽ちることなくその姿を鮮明に残していた。大切にしまってあったのと同じようなことだ。ひと度錠を開ければ、今でも生々しい現実と寸分違わないものとなる。
 “それ”の言う通りだ。記憶の中だろうとなんだろうと、師と戦って勝てる予感は少しもしない。それだけ、彼の力は脅威だった。だが、
「そうさ」
 断続的に音が響いている。背後から、左右から、前方から、そして頭上からも、次々と。それはやがて溶接された鉄の箱を抉じ開けるように、ガンガンと打ち付けるような音に変わった。時折、そこに声が混ざっているように聞こえる。はっきりと聞き取ることは出来ない。外で発せられているらしいそれは、分厚い氷の壁に阻まれ、くぐもった音としてしか届いていない。それでも凍矢には、それが何と言っているのかが分かった気がした。
「お前の言う通りだ。オレは弱い」
 凍矢はゆっくりと息をした。体内に入り込んでくる空気が、わずかに変化してきていることを感じた。
「未だに何も出来やしない。……ひとりの力では」
 一際大きな音が鳴った。凍矢がその場を見上げていれば、天井部分に大きな亀裂が生じているのが見えただろう。そこから、外の光が真っ直ぐに降りてきている。今まで暗いのか明るいのかも分からなかった空間に、かすかな風が流れ込んできた。
 凍矢の身体はもう凍り付いて等いなかった。温かい風に融かされたように、自由を取り戻していた。彼は剣を水平に構えた。何を考えるでもなく、自然とそう動いていた。迷いは、ない。
「オレは良い弟子ではなかった」
 師の姿をした“それ”は微動だにしない。
「オレは“貴方”の教えと望みを悉く裏切った。他人との関わりを持ったことも、外の世界に興味を抱いたことも、闇を拒んだことも、全て」
 周囲の壁が崩れ始めていた。呪縛にも似た“なにか”が、打ち破られようとしている。外から、声が聞こえた。
――凍矢!
 温かい声だ。
「それでもオレは、“貴方”の最後の弟子だ」
 凍矢は剣を構えたまま、“それ”の胸に飛び込んでゆくように地面を蹴った。ふたつの身体が重なる。
「だから、この役目はオレのものだ」
 胸の中心に深々と突き刺さった剣を引き抜こうともしないまま崩れ落ちそうになる“それ”の身体を、凍矢は肩で支えた。が、重さはほとんど感じない。まるで、ヒトの形をした抜け殻だ。
 凍矢の全ては師のものだった。同時に、師もまた、己の全てを凍矢に託したのだろう。お互いに、それしかなかった。だが凍矢は、“それ以外”を望んだ。おそらく、どちらが間違っているという問題ではない。正解はヒトの数だけあるのだろう。たまたま、彼と師のそれが同じ形をしてはいなかった。それだけのことだ。
「オレは“貴方”を恨んではいない」
 自分に課せられた定めや、魔忍の掟には確かに反発した。だがそれを作ったのは師ではない。むしろ、彼もそれに縛られて動くことが出来ずにいた。恨むどころか、今では哀れにすら思う。
「師匠」
 凍矢は“それ”の肩に腕を廻した。指先が触れた箇所から、“それ”は風に融けるように実体を失い始めた。
「眠って下さい。こんな閉ざされた場所ではなく、もっと明るくて、温かい場所で」
 出来るはずだ。と凍矢は思った。
「オレが手にすることが出来たんだ。きっと、貴方にだって……」
 凍矢の肩にしな垂れかかっていた身体がふわりと浮くように動いた。顔を上げると、すでに向こう側の景色が見えてしまうほどに透き通った白い手がゆっくりと動いていた。凍矢は、それが自分へと伸びてくるのを見ながら、危険は全く感じなかった。避けようとも、振り払おうともせず、見守るようにじっとしていた。
「私の凍矢」
 熱を持たぬ手が頬に触れた。いや、むしろ撫でた。
「大きくなったな」
 その声は空気を伝ってではなく、直接頭の中で響いたように感じた。そして不思議と、温かかった。師の姿は消えていた。
「……今のは……?」
 たった今消えてしまった幻影は、大部分が凍矢の記憶によって出来ていた。姿形だけではなく、声も、口調も、そして言葉も全て、“いかにも師匠が言いそうなこと”だった。実際に言われたことのある言葉も混ざっていたかも知れない。だが、今の最後の言葉だけは、天地がひっくり返ろうとも、師の口から出ることはなかったと断言出来る。では、凍矢の願望が見せたものだったとでも言うのだろうか。そんな言葉をかけて欲しいと、望んだことはなかったつもりだが、“在り得なさ過ぎて”、逆に聞いてみたいと無意識の内に思っていたのだろうか。それとも……。
「凍矢!」
 頭上から降ってきた声に顔を上げると、ちょうど天井の亀裂が広がり大きな穴になったところだった。立ち位置を変えて落ちてくる残骸を避けた凍矢の眼に、外の景色が飛び込んできた。薄暗いが、それは間違いなく空だ。そしてそこに浮かぶひとつの人影。
「陣」
 呼びかけると、彼は風を纏ってゆっくりと降りてきた。少し寒そうに両腕を擦っている。
「なんか変なとこだな。これって凍矢が作っただか?」
 周囲を見廻しながら問う陣に、凍矢は「違う」と首を振った。
「壊したのはお前か」
「んだ。だってどこにも入れそうなとこなかっただ。最初は全然近付けなかったけど、凍矢に聞こえたら中からなんとかしてくんねーかなーって思って呼んでたら、段々冷たいの収まってきて、そんでやっと近付けたけど、やっぱり入れねーし。けど、何度も殴ってたら、少しずつ壊れてきただ」
 「駄目だったか?」と尋ねるように首を傾げる陣に、凍矢は「問題ない」と返した。もう、不要だ。囚われていた魂はすでに旅立った。
「よくこの場所が分かったな」
「魔界の入り口んとこにいた男から無理矢理聞き出しただ」
 時間の感覚は完全に失っていたが、陣が自分の仕事を終わらせて駆けつけてきている以上、少なくとも数時間は経過していたらしい。
「無理矢理? 拷問でもしたか?」
「まあそれに近いことを」
「おい」
「ジョーダンは置いといて、ここなんだ? こんなとこでひとりで何してただ?」
「ひとり?」
 陣は”あれ”を見なかったようだ。ベストと言うべきタイミングで凍矢の名を呼んだのは、ではただの偶然か――漠然とした異変くらいは感じ取っていたのかも知れないが――。
「お前はいつもそうだ」
「へ?」
 意識しないまま、自分を助けてくれる。意図もしないで、望んでいるものを与えてくれる。そんな陣がいてくれたからこそ、
(オレはここに存在していられる)
 陣がいてくれて良かった。そうでなければ、きっと彼も師と同じ道を歩んでいただろう。「良かった」と思うと同時に、そんな存在に出会うことが出来なかった師が不憫に思えてならない。
「オレ、なんかしただか?」
 陣は不思議そうな顔をした。
「なんでもないよ」
 凍矢は微笑んでみせた。
「さあ、帰ろう。ここにいたら寒いだろう?」
 天井を失い、内部に閉じ込められていた冷気はどんどん外へ逃げていっている。“発生源”ももうない。残された氷の壁も、いずれ自然に融けるだろう。それでもまだ少し、凍矢以外の者には快適であるとは言い難い温度だ。
「仕事、もう終わっただか?」
「ああ。全部な。……なんだかスッキリした」
 師匠の死を確認出来たからだろうか。これでもう脅かされることはないと確信出来るから?
(少し、違う気がする)
 おそらく、凍矢も囚われていたのだ。あの“檻”に。
「行こう、陣」
「ん」
「早く煙鬼に報告しないと、消し炭にされるぞ」
「へ? なにそれ、こえぇ」


2015,12,18


だいぶ前に考えていた内容だったのですが、ちょっとオリジナル色が強すぎるかなぁと思って今まで書けずにいました。
でも、すでに他の話でオリジナルキャラまで作っちゃってるし、いきなりこれ読まされたら「はあ?」ってなるけど、
これまでに書いてきたものを読んで、ちょいちょい作ってきた捏造の設定を受け入れてくださった方なら、
「そーゆーのがあってもいいのかもね」と思っていただけるかも、今なら書けるかも知れない、と思い、挑戦してみました。
なによりも凍矢を散々過去引きずってるみたいにしてきたので、そろそろ決着付けさせてあげたくなった。
凍矢の師匠はもっと冷酷で、完全なダークサイドキャラにしたい気持ちもあったのですが、
気付いたらだいぶ軟弱になってた。
誰か完全真っ黒な師匠による凍矢調教物とかください(笑)。
さて、また最終回みたいになりましたが、全然やめる気ありませーん(笑)。
むしろすでに次書く気満々でございますッ!!
<利鳴>

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