陣凍小説を時系列順に読む


  局地的異常気象


 「あまりにも天候が悪いようなら無理に帰って来るなよ」と言った声は、おそらく陣の耳には入っていなかったのだろう。凍矢は立ち上がりながらそう思った。ということは、「うん、分かっただ」と返ってきた明るい声も、聞き間違いだったということか。そうでもなければ、勢い良く開け放たれた玄関の戸の音と、叩き付けるような激しい雨音、そして“楽しそう”と表現してしまって良いほどに弾んだ「ただいま」の声、その3つが、ほぼ同時に聞こえてきたことの説明が付かない。
 部屋を出た凍矢は、廊下の先に予想通りの人物を見た。朱い髪も、白い服も、余すところなくずぶ濡れになりながら、それでも真夏の太陽にも劣らぬような眩しい笑顔を向ける陣の姿。凍矢がやれやれと溜め息を吐きながら近付いて行こうとすると、陣も三和土から廊下へと上がって来ようとした。
「とまれ。妖怪水浸し」
「えー?」
「タオルを取ってくる。そこにいろ」
 「はーい」と子供のような返事がした。彼が魔界からの呼び出しを受けて出かけて行く時にもその声は聞こえたはずなのだが、それはさっき幻聴だったのだと結論付けたばかりだ。乾いたタオルを持って戻ると、今度の言い付けは聞こえていたようで、陣は大人しく先程と同じ場所にいた。
「雨の中を無理に帰って来なくても、どこかでやむのを待っていたら良かったのに」
 手渡したタオルで、陣は肩と腕を拭き始めた。が、そうしている傍から、髪から垂れた水滴がその箇所を新たに濡らしている。今一度息を吐いて、凍矢はもう1枚のタオルを朱い頭に被せた。
「いくらお前でも風邪を引くぞ」
 両手を伸ばして少々乱暴に髪を拭いてやると、あっと言う間に水気を吸ったタオルの下で、陣は笑った。
「このくらい、なんともねーだ」
「タオルを2枚、余分に使うハメになった。ただでさえ雨続きで洗い物が乾かないというのに」
「それはごめん」
 陣は「でも」と続けて、笑顔を“にっこり”から“にやり”に変えた。嫌な予感に身を引くよりも一瞬早く、凍矢の身体は陣に抱き寄せられていた。びしゃりと不快な水音が鳴る。
「凍矢に早く会いたかったからぁ」
 上機嫌な口調で言うと、抱き締める腕により力が加わった。妖怪水浸しの2匹目はこうして誕生した。そう、彼等は吸血鬼のような感染型の妖怪なのだ。
「陣……」
 眉間に皺を寄せて睨んでも、陣は表情を変えない。凍矢が諦めの顔になる方が早かった。
「たった3日留守にしていただけだろう」
「んだ。3日“も”」
 ふうと吐いた息に笑い声が重なる。こんなことなら、自分も魔界へついて行けば良かったと思っても、もう遅い。今後は陣に与えられた仕事の内容が自分には手出し出来ないような物だったとしても、途中までは一緒に行くことにした方が、後々手間がなさそうだ。幸いにも、魔界には仲間と呼べる者が数人いる。そこで時間を潰しながら陣を待つことは、不可能ではないだろう。
 陣の腕から逃れ出ると、水を吸って服の色が変化していた。少し冷たい。凍矢は幾度目かの溜め息を吐く。
「洗い物が増えた。どうしてくれる」
「脱げばいいだ。むしろ脱ごう」
「お前は酔っ払いか。酎の所にでも寄ってきたか」
「そんなことしてないだ。早く凍矢に会いたかったって、さっき言ったべ?」
「じゃあ素面でこれか。逆に性質が悪い」
「凍矢、濡れた服着てたら風邪引くだ」
「誰の所為だ。と言うか、オレは体温が下がったくらいで風邪なんて引かない」
「あ、そうだ、風呂入ろう! 一緒に入るだ!」
「あー、もうッ」
 お世辞にも快適とは言い難いこの季節、この地域にいて、どうしてこの男はこうも明るくいられるのだろうと、凍矢は首を傾けずにはいられない。梅雨前線はこの男の周囲だけを避けながら動いているのだろうか。そしてすでに、そこだけ夏がきていると? そんな馬鹿なと首を振る。それなら、彼が歩いた後に雨雲の通過跡に似たいくつもの小さな水溜りが出来てる――結局きちんと拭かないまま入ってきている――のはおかしい。
「とーうやぁ、そんなとこに突っ立ってたら、ホントに風邪引くだぞぉ?」
「仮に引いたとしたら、お前の所為だ。百パーセント」
 凍矢は陣の背中に濡れたタオルを投げ付けた。そうしながら、いつの間にか自分の表情も緩んでいることには気付いていない。妖怪晴れ男。彼もまた、感染型の妖怪なのかも知れない。


2016,06,25


梅雨の季節のつもりで書いたんですが、梅雨っていつからいつまでですかね?
今年はまだ? もう終わった?
そんなこともよう知らんわたしは北海道民。
雨は嫌いですが陣凍は大好きです。
<利鳴>

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